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(二十二)

 当然、顕也は彩乃の手術を最優先した。今からでも遅くないと最善の手術方法を様々に考えた。しかし、調べれば調べるほど、唇よりも鼻の非対称の修正術のことが多く議論されていることを知った。成書や報告が多いということは、定型の手術方法が存在せずに思ったような結果を出せなくて困っている形成外科医、がく顔面がんめん外科医が多い難しい領域であることを意味している。結局、口唇裂こうしんれつの鼻の二次修正術は、自分が手を付けてはいけない領域だということを思い知らされただけだった。

 やはり唇の修正術だけを、少し盛り上がっている部分のボリュームを減らして唇の対称性を整える手術だけをやることにしよう。やり過ぎて取り返しが付かない状態になるよりは、最小限のことをやって少し改善したけど不十分な結果の方がまだいい。そのうち自分がもっと良い手技を身に付けていくかもしれないし、信頼できる経験豊富な先生に出会ってお任せできる日が来るかもしれない。とにかく今は、変な背伸びをせずに自分の不勉強を受け入れて確実にできることだけをやろう。そういう自分の思いと経験不足をすべて正直に彩乃に伝えるしかない。きっと彩乃はうんと言ってくれる。

 一方、気になっていた沙菜にもすぐに店に会いに行った。彼女には、協力してもらった研究の意味について、もう少しだけ丁寧ていねいに説明する義務があった。そして、精神的な不調を押して研究に参加するためにクリニックに来てくれた相手に対してあまりにぞんざいな態度だったことを、研究代表者として正式に謝罪するべきであった。とくに、彼女はくっきりした目鼻立ちではないことを理由の一つに被検者ひけんじゃとしては除外されている。さらに、亡くなった実子じっし口唇裂こうしんれつではなく口蓋裂こうがいれつ、それもトリーチャーコリンズ症候群に合併する口蓋裂こうがいれつであったことも、研究の核心からは微妙にずれていた。しかし、彼女の身に起こったことこそが、まぎれもなく研究想起の問題そのものであった。臨床で扱う顔面先天異常は口唇裂こうしんれつだけではないし、口蓋裂こうがいれつほどの頻度ではなくてもトリーチャーコリンズ症候群は口唇裂こうしんれつも合併しやすいからである。そんな境界領域とも言える彼女に焦点を合わせなければ、この研究は研究者以外の誰の役にも立たない研究のための研究として一気に価値が下がってしまう。彼女のような被検者ひけんじゃの尊厳が守られること、それはこの研究を今後誰かが発展させてくれるための最低限の筋道すじみちであった。

 沙菜は、お店に行って指名するとすぐに顕也の席に来てくれた。均整のとれた顔立ちでこん色のサテンのロングドレスを細身にまとう彼女は、確かにこの店のナンバーワンを張る堂々とはかなげな貫録があった。沙菜が、テーブルのわきに立ったまま、下腹部の前に組んだ手からスラリと伸び上がるひじ華奢きゃしゃな体の両側にくの字に突き出して顕也に頭を下げる。

「その節はありがとうございました。」

「いやいや、こちらこそ。お菓子のお礼を言わなきゃと思ってね。」

「お菓子? 失礼します。」

 沙菜が顕也の隣に座ってグラスに酒をそそぐ。思えば、沙菜とちゃんと話すのはこれがほとんど初めてである。

「そう。渋い和菓子。クリニックに持ってきてくれたやつ。」

「・・・」

「わざわざありがとう。何もしてないのに物だけいただいて、申し訳なかったね。」

「いえ、夜中に病院に来ていただいたと、ママから聞きました。」

「それはそうだけど・・・」

 顕也の前に、慣れた手付きでスッと水割りが差し出される。沙菜の表情は硬かった。話が弾むとは思えない。

「私もいただいていいかしら?」

「どうぞどうぞ。」

 顕也自身も決して饒舌じょうぜつな客ではない。沙菜のグラスが運ばれてくるまでの間、しばらく沈黙が続く。それは沙菜特有の状況だった。基本的に夜の店は彼女たちの仕事場である。客が言葉にまれば話を振るのが仕事である。そんなお店で長い沈黙などまずない。ただ、顕也自身はそんな沈黙を気まずいと思うほど、もう若くなかった。話したくなければ話さない、考えごとをしたければ黙って考えていればいい、という振る舞い方を知っていた。自身が身構みがまえずに相手からもそんな振る舞いを引き出すという、ゆったりとした間合いの取り方を、むしろ好むようになっていた。それは、過去の話を避けたい、聞かれても最低限しか答えたくない顕也が自然と身に付けたコミュニケーション術だった。顕也が沙菜に同じような臭いをぎ取っていたのは言うまでもない。だから、仕事熱心でない沙菜は、期待どおりとまでは言わないまでも、想像とかけ離れているということはなかった。

 沙菜が、運ばれてきたグラスを手に取って営業を続ける。

「かんぱーい。いただきます。」

 沙菜がグラスに口を付けると、顕也も追いかけるように水割りを半分だけ飲む。とりあえず言うべきことは言おう。ちゃんと礼を言わせてもらおう。まず、自分は客ではなく研究の責任者なのだ。沙菜はお店の女の子ではなく研究の協力者なのだ。顕也はかたくそう誓ってお店に来ていた。

「今日は、大事なことを伝えに来た。」

「大事なこと?」

「そう。大事なこと。」

「なあに?」

「研究のこと。」

「・・・」

「採血を協力してもらった、あの研究。お陰様で、いい結果が出たんだ。ご協力ありがとう。それが言いたくて。」

 本当に話したいことはその続きなのであるが、やはり前置きなしでいきなり話すことはできない。研究に参加した沙菜なら、研究内容やその結果は突拍子もない切り口ではないであろう。

 しかし、沙菜の反応はまるっきり拒否的であった。よかったね、と言ったきり、露骨に他のテーブルの方にそむけた目が泳いでいる。興味がないのではなく、聞きたくないということのようであった。完全に出鼻をくじかれた顕也は、さすがに少し動揺した。

「まっ、どうでもいいか。協力してもらって初めて出せた結果だからね。お礼を言わずにはいられなくて・・・」

 顕也がそう付け加えても、沙菜は横を向いたままフフッと笑っただけだった。

「お邪魔したね。また来ていい?」

 店に十分もいただろうか? 沙菜は目も合わせずに、どうぞと言い捨てて席を立った。三度もお菓子を持って来させておいて今日まで直接礼の言葉もなかったのだから、怒るのも無理はなかった。何度かお店に通って時間をかけて話すしかないのであろう。顕也は、いさぎよくその状況を受け止めてお店を後にした。


 問題は研究だった。自分が研究から手を引くことと、クリニックとしてこの研究から撤退することは、どう考えても別の問題であった。この研究でクリニックがやっていることは採血だけなので、すでに構築された検体採取のノウハウをそのまま継続することは然程さほど難しくない。後輩の誰かがそのまま研究センター長を引きいでくれるなら、クリニックとしては研究を継続することになるであろう。ただ、現状程度の検体提供のマネジメントを顕也自身で続けることが難しいかというと、まったくそうではなかった。それどころか、研究センター長とは名ばかりで、恥ずかしくなるくらいたいした労力ではなかった。顔面形態計測や収集エリア拡大となると手が回らなくなる可能性はあるが、以前の自分ならそれもいとわずにやったであろう。今のまま、それこそ研究費で専属の助手をやとうから現状を維持してほしいと言われてしまえば断りようがないのである。 

 どうやって佐伯に研究を降りたいと伝えればよいのだろうか? 最近では、佐伯がこの研究にける気持ちが、顕也の理解を越えていた。癌の研究は研究費をたくさんもらえるが、世間一般の人々をあっと驚かせるような結果を出すことは難しい分野なのだという愚痴ぐちを何度か聞いていた。さては、ロバートに一泡ひとあわ吹かせてやろうと目論もくろんでいるのかもしれない。根っからの研究者なのであろうが、完全に顕也の理解は越えている。案の定、佐伯は三次元形態計測装置の購入が保留になったことをとても残念がった。困った学友だった。

「いやあ、仕方ないよ。安い装置じゃないから。個人で買えるような値段じゃないことはわかってる。無理を言って済まない。研究費で何とかできないか、聞いてみるよ。」

 いつも検体を届けるついでにやっている二人だけのミーティングで、佐伯はそう言った。佐伯のすごいところは、それでもまったくあきらめる気がないことだった。高額のため交渉決裂というストーリーが勝手に出来上がってしまっていることもすごかった。顕也にとって装置の価格はどうでもよい。どこまでもポジティブで雰囲気を読まない佐伯の研究に対する前のめりな姿勢こそが一番の問題なのである。ただ、無理に押し付けない交渉術はさすがであった。ついつい妥協点を探ることに協力してもよさそうな気になってしまう。

「こっちこそ申し訳ない。レーザーみたいに手技費用を請求できる装置じゃないと、クリニックで買ってもらうことはなかなか難しくてね。」

 そうは言ってみるが、顕也は装置の話をしたいわけではなかった。是非ぜひとも研究を辞退したいのである。そんな顕也の気持ちを何となく察する能力が佐伯に備わっているくらいなら、そもそもこの研究はなかったということは嫌というほどわかっている。

「まっ、あせらなくていいか。他の研究施設がすぐに同じことをできるとは思えないからね。村沢がいる限り大丈夫。ふつうに考えたら夜の街で美貌の選別なんて正気しょうき沙汰さたじゃない。平然とそんなことをやってのけられるのはどう考えても世界中に村沢しかいないよ。間違いなくトップランナーさ。とりあえず現状維持でも十分。装置はまた考えよう。」

 佐伯は、あっさりと現状維持を受け入れた。すぐに自身が研究をやめる話を切り出すことは、どうやら難しそうだった。クリニックの方で自分の代わりを務めてくれる者をとりあえず探してそのまま引きいでもらうのが良いのかもしれない。この調子だと、検体サンプルさえ手に入れば、佐伯としては困らないはずである。自分よりもこの研究に強く興味を示す者が出てくれば、規模を拡大できるチャンスもある。きっと自分がダラダラと続けるよりは、佐伯にとっても悪い話ではない。幸い、すでに少し手伝ってもらっている後輩たちの中に心当たりはあった。穏便おんびんに済ませることが何よりだった。

 その翌日、再び沙菜のお店に行った。指名された沙菜が冷やかに酒をぐ。他の客からも声がかかっているのか、落ち着きがない。もう来ないで、と顔に書いてある。

「ちゃんと話をするにはどうすればいい?」

 沙菜が耳を疑うというような表情を浮かべて聞き返す。

「話せばいいんじゃない?」

「どうして研究に協力してくれたのか、知りたい。」

「・・・」

「どうしてクリニックに来てくれたのか、知りたい。」

「・・・理由なんかない。ママにすすめられたから。それだけ。」

「そりゃそうだ。変なこと聞いてごめん。」

「・・・」

 沙菜はまた横を向いたままフフッと笑っただけで、顕也の方を向いてくれなかった。嫌われていることは明らかだった。やはり、もう来ない方がよさそうだった。

「最後に言っていいかな?」

「・・・」

「あの研究は、あなたのため、あなたのような人のことを考えてやって来た。研究結果であなたの日常が何も変わらないことは、十分理解している。それでも、その気持ちにうそはない。信じてほしい。もうちょっとくわしく話すと・・・」

「もういい。」

 沙菜が横を向いたまま、顕也の話をさえぎった。

「向こうに行っていい?」

 沙菜が振り返ることなく席を立つ。どうやら顕也の話が沙菜に届くことはなさそうだった。

 仰々(ぎょうぎょう)しく研究者としての自身の立場を正当化することに何の意味もないことなど、この時の顕也にわかるはずもなかった。あの研究が身近な該当者にとって無用であることに気付きつつも、課題名からは想像もできない非常に大きな研究費の額面と、研究者たちが崇拝する英語の紙面の影響は、計り知れなかった。顕也は、まだまだ一種の麻痺状態から抜け出せていなかったのである。俗に胡散うさん臭いと思われがちな美容外科医という職業柄、説明を一つ間違えばクリニックの宣伝だったり資金提供を受けたメーカーに都合の良いデータを取ったりするための研究ではないかと誤解されやすいことも、顕也をいっそうかたくなにしていた。ピュアなデータにこだわるあまり、妥協なく主観を排除してきた研究者としてのプライドも、変に邪魔をしていた。大切な研究に主観や私情をはさむことは、何としても避けてきたのである。もうその必要をなくそうとしているというのに、習性とは不思議なものであった。医者でも研究者でもなく一人の人として沙菜のことが気になるという、まずはそのシンプルな気持ちを伝えるところから入るなどという考えにはまったく及ばない。お店に出向く大義名分としては、せめてもらったお菓子のお礼だけを伝えるところから入る方が幾分いくぶんましだったかもしれない。そんな考えがちょっと頭をよぎったのは、三日もってからであった。

 それは、彩乃に対しても同じだった。自分でも気付かないまま、顕也はずっと孤独だった。戦っている自覚すらない孤独が、二人を勝手に顕也の理解者にした。自身のやってきたことを認めて欲しくて、人知れず燃やし続けた信念を受け入れて欲しくて、ついつい冒頭から自分のことだけを色々話し過ぎた。今こそと信じて先走った、不慣れな自己主張が裏目に出ていた。二人にとっては完全に現実離れした研究を、一歩も引くことなく完全に自分目線で伝えてしまったのである。ただ、顕也がそんな失態を即座に後悔に置き換えられるくらいしなやかな感性をまだ維持できていたなら、そもそも二人が研究の内容に関心を示してくれないことに対してすれ違いを感じることはなかったであろう。いさぎよくはゆずらない自己中心的な不寛容とでもいうべき感性の成熟は、確実に顕也の心にも忍び寄っていた。顕也が自身をかえりみることはなかった。自身の内側の何かを変えようなどという考えには至らない。変わりたくないからこそ研究をやめたかった。守りたいからこそ沙菜と彩乃にだけはその真意をわかってほしかった。それがエゴだったかもしれない、二人の孤独に手を差し伸べていたつもりでいたのが実は孤独なのは自分の方だったかもしれない、そううっすら予感した時はすでに遅かった。

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