(二十一)
ところが、淡い期待に反して、その日を境に地味なお菓子が届くことはなくなった。当然のように連絡もなかった。時々沙菜のことが気になっても、それを打ち消すように、顕也は元どおり仕事と研究に打ち込んだ。とくに研究は、銀座に留まらず都内を広くサンプル収集することになり、クリニックにやって来る被検者候補の数が倍増していた。お店回りは後輩の美容外科医に協力してもらって、顕也自身は被検者の選別と記録、サンプルの受け渡しなどに専念した。
また、ロバートが興味を示していた顔面形態計測について、佐伯も強い興味を示すようになっていた。あの論文掲載以降、三次元形態計測装置をクリニックに設置すべきというのが佐伯の主張になった。佐伯が熱心に探し出してはせっせと顕也に紹介する形態計測装置に関連する論文は、確かに興味深かった。自分でも論文を漁ると、顔面形態を計測する報告は半世紀以上前からたくさんあったが、まだまだ三次元計測装置を用いた報告はなかった。さらに、美人についてこの形態計測装置で計測した報告はほとんどなく、意外にも美人と非美人で計測値を比較する報告はまったく見当たらなかった。佐伯が言うには、美人群と非美人群で計測値の差を示した上で、この二群の遺伝学的な差を見出すことができれば、顔面のどの部位の形態形成に関与する遺伝子が美人と口唇口蓋裂の発症に関与している可能性があると結論できるらしい。さらに、その遺伝子をノックアウトして動物実験で実証できれば、科学誌の最高峰であるサイエンスへの掲載も夢ではないと言い切っている。
正直なところ、装置は大した額ではなかった。五百万円ちょっとの装置は、顕也が個人で購入してもよかった。マイカーを買うか装置を買うか、どちらかを迫られれば迷わず装置を購入するであろう。しかし、この研究は顕也の中ではすでに決着していた。美人と口唇口蓋裂は遺伝学的に関係がありそう、そんな緩い結論で十分だった。詳細は今後誰か興味のある者がゆっくり解き明かせばよいのであって、結論を急ぐ必要性がわからない。そもそも、装置はクリニックで患者さんに使用しても手技料を請求できず、関係するスタッフにただ働きを強いることになってしまう。何より、美人群はともかく非美人群の被検者をまた一から何千人と勧誘、選別してその装置で記録をとり続けると思うと、明らかに自分のキャパシティを超えていた。ただ、佐伯には大きな借りがあった。できるだけ協力したいという思いはある。
その日は、外来が終わる頃に三次元計測装置の業者に来てもらっていた。研究費で人を雇ってもよいから何とかしてほしい、という佐伯の強い願いに押されて、購入する方向で話が進んでいたのである。約束の時間にはまだ少し早いが、業者が診察室の裏の器材置場でデモ器のセッティングを始めている。装置の導入が売り上げに直結しないことを一番よくわかっているのは業者の方なのに、大した熱意であった。研究の熱が冷めつつある顕也には、その働きぶりが申し訳なく思えた。最後の患者さんの診察が終わって業者さんに声をかけようとした時、受付の女の子が診察室にやってきた。
「村沢先生。また先生に会いたそうな方が来られてますよ。」
女の子の露骨な含み笑いに、カルテを書きながら顕也が答える。
「はいはい。仕方ないなあ。今日は会ってやるか。何度も追い返しちゃってるからね。」
わざと面倒臭そうに対応しているが、内心はちょっと嬉しい。
「それが・・・会えなくてもいいからこれだけ渡して下さい、って。以前、先生から預かった物だって。」
女の子が、はいっと顕也の目の前に差し出したのは、小さなテディベアがぶら下がったネックレスだった。沙菜だとばかり思っていた顕也には完全な不意打ちだった。テディベアに釘付けになった顕也の動きが一瞬止まる。トップの小さなテディベアが振り子のように二回ほど行ったり来たりするほんの一秒が、顕也には数時間くらいの長さに感じる。
あれから何年たったのだろうか? 確かに美希を愛していたあの頃。それは昨日のことのようにも遥か昔のことのようにも感じる。あれ以来、忘れたいのか忘れたくないのかもわからないまま、大して旨くもない酒を頼りに何とかやってきたが、今自分がここにいるのは間違いなくあの日々があったからだ。これから聞く装置の説明も眼の前で揺れるテディベアもその延長に過ぎない。そのすべてを見届けて根底から理解してくれるであろう世界でただ一人の存在、彩乃が今すぐそこに来ている。
「その子、まだいる?」
平静を装って顕也が尋ねる。
「いると思います。入ってもらいますか?」
過去を語らず浮いた話もない顕也に何か面白いことが始まりそうな期待感から、受付の女の子が妙に協力的である。しかし、そんなことはどうでもよい。
「今すぐ呼んで来てきてもらえますか?」
受付の女の子が彩乃を呼び止めて診察室に連れてくるまでの間、顕也は今日までの年月を指折り数えた。あれからもう十年経っていた。
成長した彩乃はところどころ母によく似ていた。顔立ちにも面影があるが、背格好や仕草、声が美希そっくりだった。何より、言葉にしなくても強い意思を隠すことのできない表情豊かな眼差しは、美希そのものだった。とはいえ、内面はどこにでもいる女子大生である。
「すみません。突然来ちゃって。」
診察室の入口付近に立ったまま恥ずかしそうにペコリとお辞儀をする彩乃に、顕也も立ち上がって彩乃が座れるように患者用の椅子を移動させる。
「お久しぶり。よく来てくれたね。ありがとう。」
「すぐ帰りますので。お仕事中にすみません。」
彩乃はそう言って立ったまま座ろうとしなかった。大切なことほどなかなか口に出さない頑固な性格は全然変わっていないのだと懐かしくなる。そんな彩乃が意を決して十年ぶりに会いに来たのだから、どう考えても何かあるに違いなかった。どちらかと言えばヒントはいつもわかりやすかったことを昨日のように思い出すと、デスクの上のネックレスをつまみ上げて椅子越しに彩乃に差し出す。
「これ、返すも何もないよ。あげたんだもん。幼い造りだからもう使えないかもしれないけど。」
彩乃がコクリと頷く。
「それもあるし・・・。子ども・・・娘さん、いたらあげてほしいな、って。」
「娘? 娘って、じっ、じっ、自分の?」
顕也がネックレスと逆の手で自分を指さして笑う。彩乃がちょっと伏し目がちにモジモジしながらまたコクリと頷く。
「ワハハハハハ。そうか、そうだよね。とっくにそんな歳だもんなあ。大丈夫。まだ結婚してないよ。ご心配ありがとう。」
笑い飛ばしつつも、顕也はあれからの歳月を回想していた。おそらく彩乃にとって自分は、とっくにどこかで新しい家族と幸せに暮らしていることを想像させるくらいの立場の人物だったのであろう。しかし、現実は彩乃の想像とは正反対である。この二人を忘れるどころか、今でも二人がすべて、二人を中心に日常が回っていると言ってもよかった。顕也としては、彩乃の方こそあれ以来人生が一変して片時も母を忘れることなく今を迎えているに違いないことは、容易に想像できた。
「バカ言っちゃいけない。結婚なんて、できるはずがない。ずっと二人のこと、想い続けて来た。あれからずっと、今でも・・・」
「・・・」
彩乃は俯いたままだった。
「久しぶりに会えて、ほんとは晩御飯でもご馳走したいところなんだけど、今日はこれからまだ医療用器械の業者さんの説明会があるんだ。何の器械か、それだけ、今、ぜひ話したいけどいいかな?」
彩乃が少し顔を上げて困った表情で呟く。
「あたし、ずっと会わなくていいかな、って思ってた。でも・・・」
「でも?」
「会ってよかった。覚えててくれて、やっぱりうれしい。」
「覚えてるも何もない。自分にとっては、今でもお母さんと彩乃ちゃんがすべてなんだ。この後説明を受ける器械は、二人に出逢わなければ必要がなかった。業者さんが今日ここに来ることはなかったんだ。はい、これ。」
そう言って顕也がネックレスといっしょに彩乃の手を取って握らせたのは、論文の別刷りとインタビューの記事が掲載されたメーカーの社内誌だった。
「読んでもらうとわかるよ。この論文や雑誌は、お母さんと彩乃ちゃんのことが書いてある。彩乃ちゃんは生まれつき口唇裂で何度か手術を受けたと思うんだけど、それはお母さんみたいな美人が持つ遺伝子の影響による可能性があるという内容なんだ。器械は、その美人遺伝子を持つ人の顔立ちの特徴を分析するための特殊な撮影装置さ。簡単に言うとそんな感じ。」
彩乃は紙片とネックレスを握ったままじっと黙って俯いていた。研究の説明に、彩乃が興味を示す素振りはなかった。それどころか、何か他の考え事をしているように見える。やはり研究の話は難しいのであろうか? 顕也は、時間がないとはいえ一方的にこちらの話を繰り出した自分の無神経さに嫌気が差した。
「あの・・・」
彩乃が言いにくそうに言葉を発する。そして、少しだけ顔を上げてちょっと上目遣いで顕也の方を見た。その顔は何も聞かなかったような顔付きだった。明らかにネックレスと研究以外の用件を切り出したい表情である。
顕也は、また救われたと思った。久しぶりに味わう感覚だった。気遣いとも意識させないままに自分の馬鹿さ加減を絶妙にかわし続けてくれた、あの彩乃が顕在なのだと気付く。
「あたし、もひとつ渡したいものがあるんです。はい、これ。」
彩乃が紙片とネックレスを仕舞い込んだバッグから取り出したのは、折り目正しいハガキ大の厚手の封筒だった。封はされていない。
「開けていい?」
「うん。」
照れ臭そうに彩乃が見守る封筒の中身は、果たして結婚披露宴の招待状であった。驚いたが、それぐらいのことがなければわざわざ自分を探して十年ぶりに会いには来ないだろうと納得する。聞けば、高校卒業まで祖父と暮らし、今は美大の三年生で寮生活、交際していたサークルの先輩が今年卒業して来年は自分も就職活動で忙しくなるから年内に結婚することにしたという。彼氏は今、クリニックの外で待っているらしい。
「おめでとう。立派になってて安心したよ。お母さんも喜んでるだろうな、きっと・・・。自分は・・・自分は、十年間、なーんにもやってあげられなかった。ごめんね。」
頭を下げる顕也に、彩乃は黙って首を横に振る。彩乃が自分に対してどんな感情で過ごして来たのか、顕也には知る由もない。責められることはあっても、感謝されることは何一つないことだけは明白である。降って湧いたような研究とはいえ、それを償いたい一心でやってきた。そんな思いはどうやら彩乃に伝わっていない。謝ってはみたものの、彩乃にしてみれば、自分はそもそも謝られるよう立場でもないということなのかしれない。赤の他人に自分のことを思い続けてくれたと言われて、返す言葉に困っているのかもしれない。
それとも、あれ以来彩乃は自分よりもずっと逞しく前向きにやって来たということなのであろうか? 少なからずそういう一面があったことは覚えている。自分が想像するよりも母の死を重く受け止めることなくごく普通に成長したということが、あってもいいのかもしれない。顕也が頭をそっと上げると、彩乃がまっすぐこっちを見て、にかっと笑った。それはやはり、屈託ない普通の女子大生の笑顔である。そればかりか、その笑みは微妙に企みを含んでいた。
「実はやってほしいことがあったりするんです。あたしはあんまり乗り気じゃないんだけど、彼氏が、『一回相談したら?』って言ってくれて、ここまで付いて来てくれたんです。」
顕也は、すぐにピンと来た。これが十年ぶりに訪ねてきた一番の理由であることをすぐに見抜いて身構える。最初から切り出せないような相談を、受ける側が得をするような相談事は世の中に存在しない。心配を一気に通り越して、さては二人で金の無心に来たかという邪推が頭を過る。確かに自分にはそれくらいしかできないのだから、言い分によってはそれも快く受け入れるべきなのかもしれない。そもそも経済支援を申し出てもよい立場を放棄していたのである。披露宴の費用くらいならお安い御用であった。
「何だろう? 今からでも力になれるなら、そんなうれしいことはない。」
顕也にそう言われた彩乃は、黙って人差し指を口の前に立てた。邪推も手伝って、それを誰にも聞かれたくないから内緒にしてほしいというサインだと勘違いした顕也は、少し彩乃に近付いて小声で尋ねる。
「どれ、くらい・・・必要、かな? もうちょっと早く言ってくれれば・・・」
ピント外れな顕也の言葉に、彩乃が優しく微笑む。そしてもう一度人差し指を顕也に見せる。
「これ。」
顕也がその人差し指の先をじっと見る。その先には彩乃の上唇が見えた。
「これ、って? ・・・!」
まさかとは思ったが、そのまさかだった。彩乃がここに来た理由、人差し指の意図は、結婚式の前に口唇裂の二次修正術の相談だったのだ。自分はなんという大馬鹿者であろう。美容外科には結婚式の前に様々な施術を希望する女性が多く受診するが、傷痕が落ち着くまで時間がかかるので、あまりにも直前過ぎると顔の手術は勧められない。さらに、成人の口唇裂の二次修正術は簡単ではなく、生後間もなく行われる初回の口唇形成術を執刀してきた形成外科医でなければ成人の二次修正術には手を付けるべきではないという暗黙の了解が存在するような分野であった。二人の式は四か月後。確かに彩乃は今すぐ二次修正術を受ければ傷跡は化粧で隠せる程度まで落ち着くであろう。相談するタイミングといい外科医といい、何と的確で賢明な判断であろうか。それを見抜くどころか、若い二人に一瞬でも偏見の眼差しを向けてしまったのである。動揺を隠せずにしどろもどろになってうなだれる顕也を、彩乃がいつかのように優しく笑い飛ばす。
「フフフ。笑っちゃいけないけど、何だかおっかしい。あたしがちっちゃい時に、こども病院で看護師の丸山さんに怒られてた時と、何にも変わってないんだもん。そもそも、あたしの主治医だったってこと、忘れてません?」
「ごっ、ごめんね。すっかり忘れてた。確かに、始まりはそこだったね。アハハ。」
何とか取り繕ってはみるが、顕也には次の不安が待っていた。初回の口唇形成術ならともかく、鼻も含めた口唇裂の二次修正術となると、何度か見たことはあったが執刀したことがなかったのである。それは内容を見て知っているだけの、自ら迂闊に手を出せない複雑な手術だった。彩乃がそんな事情を知るはずがない。しかし、診察もせずにできないと言うにはさすがに気が引けた。ろくに診ないで断わればそれこそ彩乃の言うとおり、まだ幼かった彩乃の診察もせずにナースステーションでどうこう言って丸山さんに怒られた時と、何も変わらない。
「ちょっと、診せてもらっていい?」
彩乃が半歩前に出て、顕也の方に少し顎を出す。顕也が身を屈めて下から覗き込んだり少し触ったりしながら、その鼻と唇をチェックする。
「どこが気になる?」
そう言いながら、顕也はただ一つのことを祈っていた。
(お願いだから、鼻が気になるって言わないで!)
顕也の心配をよそに、彩乃が首を傾げて絞り出すように言う。
「うーん。どこって?」
「ここがこうなってるのが気に入らないからこうなったらいいな、って思うところ、ある?」
「正直あんまり気にならないかな。彼氏はいい機会だからやってもらえって言うんだけど、手術受けるの、あたしだしー。」
「そりゃそうだ。」
その場でほっと胸をなで下ろしそうになっている顕也の気持ちなど、彩乃にわかるはずもない。
「あたしの方こそ教えてほしいな。どうしたらいいか。ここをこうしたらよくなる、って教えてくれたら、手術、考える。」
彩乃が言っていることは、ある意味、すごくハードルが高かった。口唇口蓋裂を専門にしている形成外科医であれば、おそらく彩乃の鼻は、最低でも軟骨の変形を修正して鼻先を少しツンと尖らせるために鼻中隔あるいは耳介軟骨移植による鼻尖延長術くらいはやるであろう。希望によっては肋軟骨を移植して鼻翼基部の陥凹部を盛り上げて、さらに対称性を追求するのかもしれない。ただ、彩乃がこちらに任せるという以上、それをやるかやらないかはあくまでも術者の技量次第であった。つまり、こちらでハードルを下げればよいのである。
「傷痕自体はあんまり目立ってなくて、赤い唇の傷痕のところがちょっと盛り上がってるから、そこを少し切除すれば対称性は少しよくなるかな。鼻は・・・鼻は耳や胸から軟骨を採取しなきゃいけなくて、体の他のところに傷を付けてまで修正しなきゃいけないくらいの非対称があるかと言われると、ちょっと微妙かなあ。もっと強い非対称があれば他のところに傷を付けても仕方ないかな、とは思うけど。」
それは、あまりにも不甲斐ない逃げ口実であった。本人がよくわからないのをいいことに、専門的な言葉を並べて自分の技量の届く範囲に誘導しているだけであった。彩乃はうんうんと納得している。
「じゃあ、唇だけ、お願いしちゃおっかなあ。突然おしかけて来て診察までしてもらって、本当にすみません・・・あたし、このとおり大丈夫だから。もちろん患者として手術は頼りにしてます。」
彩乃は本当に立派だった。常識的で素直で穏やかだった。さては顕也の言い訳を何となく察しているのかもしれなかったが、それをまったく表に出すことはなかった。母親譲りなのであろう。育ちの良い者には滅多に備わることのない、あるがままを潔く柔軟に受け入れるという諦めに似た寛容と慎ましい大らかさが、彼女の魅力を根底から押し上げていた。母子家庭で育ってその母を十才ちょっとで失った過去など微塵も感じさせない。
その彩乃に比べて自分はどうであろうか? 迷いに迷ってようやく酒場から抜け出したと思ったら、過去に執着して内向きな研究に突き進んだ。その研究の本質的な問題を抱える被検者の一人の女性には、まともに話しすら聞いてあげられずに何の役にも立っていない。彩乃こそがこの研究結果を喜んでくれるはずだったのに、どうやらその思いは滑稽な独善だった。それどころか、彩乃が今もっとも必要としている二次修正術をこちらから気付いてあげることもできなければ、その手術を行うための適切な技術が今の自分に備わっているとも到底言えない。十年間、一体自分は何をしていたのだろう。
顕也は、何とか平静を装って、二週間後に彩乃の口唇修正術を組んだ。このまま術前検査の採血をして帰るように指示された彩乃は、何度も頭を下げて診察室を出て行った。その後ろ姿を見守りつつ、そっと診察室の扉を閉めて振り返る。ふと気付くと、診察室とその裏の器材置場のスペースを仕切るカーテンの隙間から、業者の顔が覗いている。
「先生、また今度にされますか?」
業者が来ていたことをすっかり忘れていた。約束の時間をかなり過ぎていたが、とても装置の説明を聞く気にはなれない。
「そうしてもらえますか? ・・・すみません。もうちょっとやらなければならないことができてしまいました。」
それは、嘘かもしれなかった。顕也にその場ですぐにやるべき仕事などなかった。しかし、自分がやるべきことはもう研究ではないと感じる漠然とした気持ちは真実であった。いや、むしろ大切なことを見失いそうになっていることに気付いて漏れ出た言葉としては、まったくの真実に違いなかった。奥で片付けをする業者のわざとらしい舌打ちなどどうでもよい。顕也は天を仰いで唇を噛み締める。
(彩乃、済まなかった。)
その時、外で診察室から出てきた彩乃に話しかける美希の声が、顕也の耳にはっきり聞こえていた。
「彩乃、ありがとねっ。」




