(二十)
「大したもんですねー。先生がこんな方面に才能があるなんて思わなかったなあ。ねえ、福富先生。」
院長が、昼休みに福富と顕也を院長室に呼び出して、インターネットのニュース記事を指さし嬉しそうに茶化した。自然・科学のニュースの一覧に、「大発見! 美人遺伝子が存在か⁈」という大げさなタイトルが見える。福富が画面のニュースを覗き込んで付け加える。
「ほんとにそうですよね。だって研究センターを立ち上げてからまだ一年ちょっとですよ。もちろん私は密かに村沢先生が抜群に優秀なことを知ってましたが、こいつは想像をはるかに超えて来ましたねー。いやー、参った。」
院長室のソファーで両隣からそうやって褒めちぎられた顕也は、ただ恥ずかしかった。自分はネオン街からサンプルを集めただけである。論文なんて、査読者のコメントどころか、今となっても本文にほとんど目を通していない。読んでもわからない自信すらある。優秀であるはずがない。顕也は何と答えてよいかわからず、とりあえず院長と福富の順に軽く頭を下げた。
「あっ、ありがとうございます。先生方のご協力のお陰です。」
ボソボソとそれだけ言って、またパソコンの画面をジッと見つめる。
「あんまりうれしそうじゃないけど、その謙虚さがあるからこの結果なんだろうなあ。ねえ、福富先生。」
院長が福富に言う。
「ほんとに。こういうのは鬼の首でも取ったように振る舞うやつもいますからね。村沢先生はそこが違うんです。なーに、こんなにめでたいことはないですから、私がひとつ祝宴でも企画しておきましょう。院長先生も、ぜひたまには参加してください。」
こんな時の福富はいつも本当に楽しそうであった。祝う内容に複雑な思いはあるが、福富が楽しんでくれるなら悪い飲み会ではない。
その時、コンコンとドアをノックする音がして、返事も待たずに受付の女の子が院長室に入って来た。院長室とは言ってもそこは従業員の休憩室のような空間だったので、みんないつも勝手に出入りしてお茶を飲んだり雑談したりしていた。女の子は、いつものようにそこに置いておけばみんなで食べるだろうと、患者さんから預かったお礼の菓子折りを運んできたのである。
「村沢先生、ニュース見ましたよ。おめでとうございます。」
女の子は元気いっぱいそう言って、菓子折りを三つほどテーブルの上にドサッと置いた。
「あっ、これ今さっき、村沢先生にって言って置いていかれた方から。」
女の子が積み上げられた菓子折りの一番上の小さな熨斗付きの箱を指さす。熨斗を目にした顕也がさっとそれを剥ぎ取る。そこには、小さな字で遠慮がちに、(内野沙菜)と書かれている。中から出てきたのは、この手のお礼としては一際小さな地味な羊羹だった。
「もう帰っちゃいましたか?」
顕也が顔色を変えずに事務的に尋ねる。
「帰さない方がよかったですか?」
顕也の微妙な反応を察知した女の子が聞き返す。
「診察はないとおっしゃってたんで、先生に声をかけてみましょうかって聞いたんですが、今日は帰りますって言ってさっさと帰っちゃいました・・・すみませんでした。」
黙って羊羹を見つめる顕也に違和感を持ったのは、彼女だけではなかった。ニヤニヤしながら福富が女の子に聞く。
「ははー。さては村沢先生。ついにこのニュースよりも気になることが出て来たと見た。どうも他人事のような反応だと思ったら。ところでどんな人だったの?」
「それはもう美人さんで。私はお似合いだと思いました。」
顕也が、勝手に話を膨らませる福富と女の子をキョロキョロと交互に見る。
「やめてください。そんなんじゃないですから。」
しかし、必死に弁解する顕也がちょっと赤面するのを、今度は院長が見逃さない。
「確かに。こいつは祝宴が必要そうですな。ワッハッハッハ。」
「ちょっと待って下さい。ほんとに全然そんなんじゃないんです。ただちょっと・・・」
説明に困る顕也が発する言葉を三人がじっと待つ。この三人にどう説明していいのだろうか。話が長いし、言ったところで伝わるはずもない。
「ただちょっと、自分に初心を思い出させてくれた人なんです。もちろん彼女は研究の被検者なんですが、研究が波に乗って傲慢になった自分に、研究の原点みたいなことを気付かせてくれた人物、そんなところです。」
嘘はつかずに大真面目に答える。当然三人にはさっぱりわからず返事に困っている。日頃から、顕也にネオン街以外のプライベートが見えないことを気にかけていた福富は、少しがっかりして語気を強めた。
「これだからなあ、村沢先生は。何やってんだか。別にいいんだぜ。毎日毎日大勢の美人に会わなきゃならない研究をやってるんだから、そのうちの一人や二人、いや十人くらい、もってけ泥棒とはこのことだ。筋が通っててほんとに偉いとは思うんだけど、俺は心配してる。」
半ば説教地味た福富の熱い言葉には優しさがあった。自分でも何となくそう感じていながら過去に縛られて一歩も踏み出せずにいる状況を、考え直せと言ってくれているのである。信頼する部活の先輩からアドバイスを貰う部員のように、顕也の背筋が伸びる。酒の席に消極的な院長は、そこまで福富と顕也の関係を理解していない。
「まあまあ、福富先生。これだけの仕事をする人だから。村沢先生には村沢先生のお考えがあるんですよ。」
院長がいつものようにニコニコしながら遠回りに福富を窘めると、ノリのいい事務の女の子がクスクスと笑い始める。
「先生たち、おっかしいですね。コントみたい。妄想ばっかりして、中学生じゃないんですから。ずばり、私が言っちゃっていいですか?」
三人は、息もピッタリ、同時に振り向いて自信満々に胸を張る女の子に注目する。確かに三人の顔は、まるで大人びた恋愛論を語り始めた同級生の女子を囲む男子中学生のようであった。
「あのですね、先生方。まずはこのお礼の品をちゃんと見てください。これだけで十分です。」
女の子が羊羹を指さす。四人で分けても一口ずつのサイズである。
「この方は、間違いなく村沢先生のことが気になってます。私にはわかります。私も女子ですから。気にならなければ診察もないのにこんな物わざわざ持って来ないですよ。ずばり、村沢先生次第です。あっ、お菓子、ちょっと、いっただきまーす。」
女の子はそう言い残して、仕事に戻るからとテーブルの上に散らばった個装の洋菓子を気の向くままにひょいひょいと拾い上げて持ち去っていった。
残された三人はもう一度羊羹を見る。なぜこの貧相な羊羹を見てそう思うのだかさっぱりわからない。直接沙菜に会った彼女が沙菜の態度からそう言うならともかく、この羊羹がすべてを物語っているというのである。まったく意味不明であった。院長がふざけて哲学者のような顔付きで腕組みをして言う。
「いやー、この年になっても女性というのは謎だらけですな。この難題は美人研究の第一人者の村沢先生の研究成果に期待するとしましょう。アッハッハ。」
院長の適当なコメントに、福富が神妙な顔付きで、確かに確かに、と肯いている。顕也も負けじと力拳を見せて、お任せください、と返す。
本当にいい職場だった。居心地のいい場所だった。ずっとここにいたいと思えた。このままここで仕事と研究に邁進することに何の不満もないどころか、今の自分の立場を羨ましいと思ってくれる形成外科医や美容外科医はたくさんいるに違いない。本意だったかどうか自分でもわからないが、今となっては自分がこの分野で仕事のスキルも研究の足跡もそれなりのものを残したと自負している。上昇志向がある者ならこのまま突き進むのが当然であろう。自分は恵まれていると感謝してすべてを受け容れるべきだと感じる。
午後の外来が迫り、院長と福富の話題が業務のことに切り替わる。顕也は、受付の女の子を真似て何個かお菓子を拾い上げると、そっとその場を離れる。拾い上げたお菓子の中には、ここに置いておくと書類や他の菓子に埋もれて誰も見向きしなくなるであろう、どこまでも地味な羊羹があった。
受付の女の子が言ったとおりなのかどうか、半月ほどして沙菜は同じような菓子を持ってクリニックにやって来た。しかし、顕也が手術中であることを告げると、またさっさと帰ってしまったと言う。菓子には相変わらず熨斗が付いているだけで、連絡先や手紙などは添えられていなかった。
申し訳ないと思って、カルテはもちろん、もう一度あの問診票まで引っ張り出して連絡先をチェックすると、電話番号は記載されておらず住所もお店の住所になっていた。ママに電話して連絡先を聞き出そうとしたが、番号が変わってしまったのか、電話が繋がらない。受付の女の子に今度来たら連絡先を聞くように伝えて変な勘繰りを入れられるのも癪に障った。
時間を作って一度お店に出向こうと思っていたら、論文のことであちこちから問い合わせが来たり、佐伯とサンプル収集拡大の打ち合わせをしたり、茂子さんにお祝いの食事に誘われたりして、あっという間に一か月が過ぎた。そしてとうとう、沙菜がまた同じようなお菓子をもって来た。今度は、忙しそうなので渡してもらうだけでかまいません、と言ってすぐに帰ってしまったという。かえって目立ってしまっているような気がしなくはない必要以上に年寄り臭い質素な豆菓子を顕也に手渡す時に、受付の女の子が微妙な含み笑いを見せる。何ともばつが悪かった。ここまでくると一刻も早く直接沙菜に会って話す必要があった。
翌日、さっそく顕也はお店に出向いた。お店はちょっと忙しそうだった。ママは顕也のことをよく覚えていて、その場ですぐに沙菜に電話をかけてくれる。というのも、この日、沙菜は出勤していなかった。ママはお店の入口付近に立ったまま顕也の目の前で対応したので、電話のやり取りの内容が顕也にも何となくわかった。ママが沙菜に特別気を使う様子はなく、ごく普通のお店のママと従業員の女の子の会話のように聞こえた。沙菜が少し気だるそうに今日は駄目とママに伝えている気配を感じ取れる。どうやら沙菜は今この辺にはいないようであった。ママは、サービスするから少し飲んでいけばと一つだけ空いたカンウター席を勧めてくれたが、忙しそうで申し訳ない上にそういう気分にはなれず、すぐに店を出る。
こうして店に出向いたものの、安心できる要素は、沙菜が以前と変わりなく普通に仕事をしているという事実だけであった。彼女が被検者として最初にクリニックに現れて以降、静かに騒ついていた顕也の心は、むしろまた騒つきを増した。ママの口振りでは、今、沙菜は自宅にいない。天涯孤独の沙菜が夜更けに仕事でもなく留守にして、お店にちょっと顔を出せるような場所にはいないという事実は何を意味するのか? そこに想像は必要ない。沙菜にもプライベートはある。彼女が普通に生きていれば周囲の男はまず放ってはおかないであろう。ホステスである以前に沙菜は美人なのである。あるいは、少しだけ想像力を働かせるとすれば、今、彼女は仕事中なのかもしれない。いや、仕事と割り切った仕事であることを願う気持ちがどこかにある。露骨に金品目当ての催促でもない限り、反対の立場をあるがままに受け入れてきた顕也には、その状況が手に取るようにわかる。せめて沙菜がそんな仕事にうんざりしていてくれれば、と勝手な妄想が一人歩きする。
結局、また酒と仕事に戻ることになるのであろう。冷静に考えれば、まともに話しすらしたことがない相手に少しでも気を奪われるなど、どうかしている。研究が一区切り付いた心の隙にすっと入り込んできた、単純な好意だけではない複雑な感情が、顕也の心を再び知らない街の路地裏のような場所に誘い込む。ここは通り過ぎて行くのを待つしかないのであろう。どうせ、酒を頼りにどっちでもいいから何となく行ったり来たりしているうちに、やがて何だったのか思い出せなくなる。またそれを繰り返すことになるのであろう。自分は医科学研究所で同じような臨床医から一目置かれる研究者なのだ。銀座のクリニックで半年待ちの患者が出るほど腕の立つ美容外科医なのだ。些細な感情に振り回されてこんな所で足踏みしている場合ではない。それに、こうして店にやって来たのだから、沙菜の気持ちを無視したわけではないという意思は伝わっている。ママに連絡先を渡すように頼んでおいたし、何か言いたいことでもあれば直接電話をくれるであろう。逆に連絡がなければお互いにそれまでの相手、沙菜にしてみれば少しだけプライベートを見せることになった客の一人、顕也にしてみれば少しだけバックグラウンドに興味を持った被検者の一人、それだけのことである。




