(十九)
彼女が抗不安薬の服用のために研究対象から除外された沙菜だと知ったのは、ずっと後だった。退院から半月ほどして、ママから退院の知らせを受けた時にふと調べてみたくなったのである。退院の知らせに続いて、電話口のママは、彼女はまだ元気がないがふつうに接していればいいのか、と聞いた。顕也は何も考えずにただ、ふつうでいいと思う、と冷ややかに返事をした。
それというのも、研究が新たな展開を迎えていたのである。佐伯の提案で、まずは一流誌でなくてもよいから研究結果を投稿しようということになり、顕也自身は、定性データとして被検者の典型的な顔写真を十例ほど提供してほしいと言われて奔走していた。また余計な呼び出しを食らっては堪ったものではない。第一、呼び出されても何もできない。しかし、どこか引っかかって彼女について探りを入れたのだった。
探りを入れるための心当たりはあった。彼女の実子に入院歴がある世田谷の国立子供病院のことはよく知っていた。実子に入院歴があるので、その母親も同じ子供病院に何らかの受診歴があってもおかしくはない。ひらがなではあるが彼女の実名はわかる。規則違反、いや、法律違反になってしまうのであるが、その病院のカルテを開くことのできるスタッフさえいれば、彼女の病歴と簡単なバックグラウンドくらいは調べることができたのである。
ちょうどその頃、まさにその国立子供病院から出向して研究所に出入りする若い小児科医がいた。顕也の研究が話題になっているのを聞きつけて、顕也のところに何度かサンプル収集の極意などを熱心に聞きに来ていたのである。彼は口唇口蓋裂よりもずっとマイナーな内科的な遺伝性疾患を研究対象にしていたが、小児の先天異常を扱うという点で同じ分野の顕也の研究にただならぬ興味を示していた。国際学会で日本に招かれたロバートの講演も聞いたことがあったという。真面目な彼が自分のような美容外科医に対等かそれ以上の敬意をもって研究のことを色々相談してくれるという状況は、決して気分の悪いものではなかった。
「僕が調べておきますよ。ここの研究で協力できることは何でもやりたいです。とくに僕と同じ小児の遺伝性疾患を扱う村沢先生の研究については、自分も研究グループの一員だと思ってます。お役に立てればうれしいです。必要なことがあったら何でもお任せください。」
彼は鼻息荒くそう言って、研究ノートの隅に顕也が教えた女性の名前をひらがなで書き記した。
果たして彼のもたらした情報は衝撃的であった。確かに彼女は入院した実子の母親としてその子供病院の遺伝科を受診していた。遺伝性疾患が見つかった子供の両親は、両親の遺伝子を調べるために遺伝科を受診することが多い。それは親自身の希望によることもあるし、研究対象にしたいという医師側の裁量で受診をお願いすることもある。彼女がどちらなのか知りようはないが、遺伝科という診療科の特性上、カルテには祖父母の代くらいまでの家族背景が詳しく聴取されているのである。それによると、彼女自身は福島県出身。母子家庭で二十才頃に母が病死、母方の祖父母はすでに他界、実父や実兄とは連絡が取れず、わかる範囲で本人を含めて親族に遺伝性疾患はない。カルテの病歴の隅には、彼女自身は母の墓石を建てたくて大学を中退、と付け加えられている。実子の病名は「トリーチャーコリンズ症候群」。その子の父である配偶者とも現在は連絡が取れず、実子の父方の家族背景についての記載はほぼない。出生直後に両親が離婚以上の情報としては、父が歯列矯正(小顎症だった?)、という一言だけであった。
小児科医の彼は、その実子の女児の病状についても詳しく調べてくれていた。トリーチャーコリンズ症候群の症状としては典型的であった。両側の耳介は欠損して外耳道は閉鎖、口蓋裂があり、著しい小顎症による呼吸障害のために生後一週間で気管切開を施行。二才過ぎまで施設と自宅を行き来しながら母と二人で生活。精神発達に大きな問題はなく、ごく簡単な手話でコミュニケーションができる程度まで順調に成長していた。気管切開があると言葉によるコミュニケーションが困難なだけでなく、保育園や学校の選択肢が極端に少なくなってしまうため、母が気管切開を早期に離脱するための下顎延長手術を受けることを強く希望し、この国立子供病院を受診。かなり特殊な小児の下顎延長術の症例を同施設が多く扱うことを調べて知ったのが、受診のきっかけのようだった。受診後まもなく母子二人で東京に転居したが、気管切開のトラブルによるものと考えられる心肺停止に陥り、蘇生はしたものの、ほぼ脳死状態のまま半年間この子供病院の集中治療室に入院、最近息を引き取ったという。三才だった。
壮絶な彼女の人生に、顕也は言葉を失った。あまりの壮絶さにそれを研究室で最初に聞いた時には、救命救急センターのベッドで人工呼吸器に繋がれた一人の睡眠薬過剰服用患者でしかない彼女の客観的な視覚的記憶と、そこに至るまでの遡る真実を繋ぎ合わせることができず、顕也の思考はしばらく完全に停止した。しかし、すぐに胸騒ぎがして深夜のクリニックに戻ってカルテを検索すると、やはり彼女の手書きの問診票が出てきた。予感は的中していた。「こうがいれつ、顔面のきけい」は、この亡くなった女児のことだったのだ。しかも、クリニックを受信したのはおそらくその子が亡くなって数週間後、いや、ひょっとすると亡くなった直後だったかもしれない。なんという傲慢、なんという侮辱であろうか。問診票の震える文字は明らかに絶望を発信していた。
一被検者である沙菜のバックグラウンドについて深入りしたことを、顕也は後悔していた。そもそも自分が知ったところでこの先の彼女の日常は何も変わりはしない。何もできなくても気持ちに救われるなどとママは言っていたが、何もできない方にこそ身勝手な痛みを伴うことを知った。
今回の出来事で、顕也はそこまで自分の心が強くないことを痛感した。クリニックの日常業務はともかく、研究のサンプル収集は明らかにペースダウンした。佐伯が絶賛してくれていた盲目的に結果に向かう根源不明の突破力は、一度大きく挫かれてしまった。以前に勧誘した被検者がまだまだクリニックにやってきたが、顔立ちと問診票をチェックするだけでほとんど会話もしない診察に少々ストレスを感じるようになった。数が十分足りているということもあって、勧誘のために夜の店を訪問することも中断してしまった。
しばらくぼんやりとクリニックの日常業務をやり過ごす日が続いた。そして、何もできないことはわかっているのに時々沙菜のことを思い出した。思い出したくないわけでも、仕事が手に付かなくなるわけでもなかった。無愛想な顕也の診察にも時々微笑み返してくれる新しい被検者を診る度に、この同じ場所でバッグの紐を両手で握りしめたまま無表情に遠くを見つめる沙菜を思い出していた。それでも日常業務が妨げられることはなかった。ただぼんやりと仕事をこなすようになった。弱くなってしまったのか、もともと備わっていたのか、考えもしなかった自身の意外な脆さを自嘲した。自身の人生が今までとは少し違う局面を迎えていることを漠然と意識した。
そんな顕也を再び少し研究へと向かわせたのは、他でもないママからの報告の電話だった。沙菜は退院後も店を辞めずにいるようだった。むしろ仕事ぶりは今までと変わりなく、ママが雇用者として改めて事情を聞いたら少し本音を聴けたことが嬉しかったのだという。そんな心温まる報告だった。
「あの子ね、これからも私のことを頼りにしていいか、って言ってくれたの。施設に預けたんだかなんだか知らないけど、子どもとしばらく離れ離れになるのが寂しかったみたいなのよ。でも、それでよかったんだって言ってて。お陰様で、以前よりちょっと明るくなったかな。ふだん自分からあんまり話してこない子だったから、そんなこと話してくれて頼りにしてるって言われてほんとにうれしくて。あたし、このお仕事しててよかったな、っ思ってね。あの子の前でいっしょに泣いちゃったわよ。先生だって辛いことがおありになるかもしれないけど、仲間を大事にして信じることを一生懸命やってちょうだい。それでさ、先生っ。一区切り付いたら、またお店にいらして下さい。先生だからこっちが忙しい時は追い返しますけど、暇だったらたっぷりご馳走しますわ。」
凛とした清々しい電話だった。仕事が終わった診察室でそれを聞いた顕也は静かに涙していた。ママは知らないけれども、きっと数か月前の沙菜は、ママや自分にはまったく考えが及ばないような心境で、この診察室で自分の診察を受けていたに違いない。沙菜が何を思ってここに来てくれたのかは誰にもわからない。無愛想な自分の診察に何を思ったのか、それこそ知る由もない。しかし、顕也には何となくわかった。願っても一向に覚めない夢、夢でも現実でもどちらでもかまわないという諦め、諦めさえも拒絶して景色が白黒になってしまう激しい錯覚、そんな心境は少しだけわかる気がした。誰とも分かち合うことができずに自分でもどうにもならない心の隙間を、ただ置いていかれないように走り続けて、考えてしまいそうになる時間をできるだけ考えずに埋め合わせていく、おそらく今の沙菜が意識せずともそうするしかない本能的な回避行動だけは、顕也にも痛いほどよく理解できた。
ママからのこの電話がなければ、顕也は研究のサンプル収集を再開できずにいたかもしれない。この経過報告はそれくらい精神的に顕也を救った。彼女は彼女でやっていくしかないし、実際にそうしている、という事実が顕也の心を落ち着かせた。やはり自分が沙菜の境遇をあれこれ思い遣ってもどうにもならないことなのだ。余計なお世話なのだ。誰もいなくなったクリニックの診察室で、顕也は何よりもまさに彼女の幸運を祈っていた。
一方で、佐伯の作文力は凄まじかった。顕也の方で被検者の顔写真を論文に掲載するために、あちこち連絡したり同意書にサインしてもらったりするのに一か月以上かかったであろうか。これに対して、顕也がそれら一式を揃えて佐伯に手渡すや否や、すぐに投稿して二週間くらいで論文がアクセプトされたという連絡が来た。驚くのはそれだけではない。プレスリリースの連絡先を筆頭著者である村沢顕也にしておいたからメディアの反応があったらよろしくという。要は、ニュースで取り上げるのにうってつけの内容としてメディアにアピールしておいたということであるが、顕也にしてみれば、研究者たち本人がそんな広報活動を行っていることすら知らなかった。そのスピード感と配慮は、一被検者への下らない感情移入に振り回されてしまったことを顕也に申し訳ないと思わせるには十分だった。
一行たりとも自分で書いたところはない論文とはいえ、筆頭著者として海外の雑誌に掲載されることは、決して気分の悪いものではなかった。名前を聞いたこともなければ、名前だけ聞いても何の雑誌なのか見当も付かない雑誌ではあったが、苦労して集めたサンプルが形になったことを素直に喜んだ。佐伯に感謝して、彼の望みどおりこのままサンプル収集を続けるべきだと思った。
ただ、ママの言葉を借りれば、あの赤い点々と黒い点々の重なりを見た瞬間から、顕也の心の中ではこの研究に一区切り付いていたのかもしれない。顕也は純粋に真実を知りたいだけだった。それが論文という形になって世の中に出回ることは、正直どうでもよかった。赤い点々と黒い点々の重なりが持つ意味も真実なら、赤い点々の一つ一つに隠されたストーリーもまた立派な真実であった。後に知らなければよかったと思うかどうかはさておき、その時々に真実を知りたい、確かめたいと思ったから、どちらもそれに向かって全力を尽くしただけのことであった。
ところが、そのたった一つの赤い点として誰にも取り上げられることなく闇に葬られようとしていたストーリーすらも、とても軽々しく誰かに伝えられるような内容ではなかった。それは、高らかに自らの発見を社会に発信する論文とは正反対の真実だった。美希を失って以降、それを茂子以外の誰にも話すことができなかった顕也としては、その一つのストーリーの方が美人遺伝子の存在よりも遥かに大きな意味を持つことを疑いようがなかった。誰にも伝えられないくらい大切なこと、守るために生きているのか生きるために守っているのかわからないくらい大切なことが、あの赤い点々のあちこちに散りばめられているのかもしれないと思うと、顕也がこの研究でこれ以上望むことは何もなかった。




