(十八)
顕也が白金の研究所からタクシーで向かった病院は、銀座の職場のそばにあった。よく知られた院内にチャペルのあるミッション系の総合病院だった。研修病院として研修医からも人気のある病院なので、深夜でも学生と区別のつかない術衣姿の若い医者が通用口を度々出入りしている独特の活気が懐かしかった。こんなちゃんとした病院はどちらかとも言わずお堅いに違いないから面会を断られたらママに一報入れてさっさと帰ろうと思っていたら、事情を聞いた眼鏡の中堅看護師が薄暗い待ち合いに出てきて馬鹿丁寧に話を詳しく聞かせてほしいと言ってきた。
その空回りすれすれの妙な熱意に申し訳なく思った顕也は、いつもお店回りで使っているクリニックの名刺を差し出して事情をすべて説明した。看護師はバインダーにその名刺を挟んで、顕也から聞き出した話を律儀に研究の内容まで書き取っている。カタカナで、(ビューティージーン?)と書かれたメモを覗き見して少し恥ずかしくなる。
「じゃあ、顔見知りの方ではないんですね?」
看護師が顕也の顔色を窺いながら聞く。
「そういうことです。ママが自分のクリニックに来た子だと言ってたから、厳密に言えば被験者として一度は会ったことがある女性です。覚えてないだろうけど。」
「覚えてない? 被験者の方って、そんな大勢いらっしゃるんですか?」
「まあね。一年で千五百人くらい。」
「千五百人⁈」
看護師がほーっと驚きながら、それは確かに覚えてないわねと感心している。顕也は、さっき研究室で佐伯に見せてもらった無機的な赤い点々と黒い点々の重なりを思い出していた。もちろん治療中の彼女がどの赤い点だったのかは誰も知らない。
「今日は帰ったほうが良さそうですよね。何かあれば名刺の連絡先に連絡いただいてかまいません。ママにも伝えておきますので。」
病院側の事情も十分心得ている顕也としては、スタッフに気を遣ったつもりだった。身寄りのない患者だから手を抜くなんてことはないとしても、親族にいちいちお伺いを立てずに済む分、スタッフの肩の力が抜けるのは確かである。治療方針決定までのタイムラグが少なくてスタッフのフットワークが良くなるのは、患者にとって決して悪いことではない。ところが、この病院はちょっと違った。眼鏡の看護師の信条が並外れて立派だったのかもしれない。
「もう少し待っていただけないでしょうか? ご面会していただいて担当医とお話できるように手配します。身寄りがなくてもこんな形でお医者さんに寄り添ってもらえるなら、そんなに心強いことはありませんから。それほどお待たせしないと思います。」
ここまでくるとその真っ直ぐな使命感に応えないわけにもいかず、顕也は待つことにした。とはいえ、この感じは面会までとなればそれなりに待つであろう。睡眠薬の過剰服用は病院で対処すれば命に関わるリスクはほとんどないことも十分心得ている。待つと言ってしまった以上待つしかないのであるが、もはや誰の何に対する使命なのかよくわからない。ママに安心してもらうために形だけ病状の説明は聞くとしても面会は要らないんだけどなあと思いつつ、顕也は、興味本位で誰もいない一階の広い待ち合いをフラフラと歩き始めた。エスカレーターを囲んで一、二階は吹き抜けになっているので、名前を呼ばれたら聞こえるだろうと停止したエスカレーターを上って二階も歩いてみる。そこにチャペルがあった。
顕也は、物珍しさにチャペルの前で立ち止まった。前置きの看護師の効果もあって何とも不思議な雰囲気だった。病院の中、それも外来に挟まれて建物の中心に確保された空間としては初めて見る光景だった。深夜でも祈りを捧げる患者や家族がいるのだろうか? 薄らと灯りがついて入口のドアが少し開いている。中に入るのは気が引けたが、ガラス窓から整然と並ぶ木製のベンチの向こうに祭壇やステンドグラスがよく見えた。立派なチャペルだった。野蛮人のごとく奇跡の回復を神頼みするよりも、病気や死をあるがままに受け入れる強い心を与えよという、文明を牽引してきた人々の豊かな発想が嫌でも伝わる。こんな自分にそう感じさせるのだから大したものだ、そういう立派さだった。
ほんの三秒くらい立ち止まってそんなことを考えたが、チャペルは吹き抜けから少し離れていて一階から呼ばれても聞こえないかもしれなかった。すぐに上ってきたエスカレーターに戻ろうとチャペルに背を向ける。すると、目の前の待合のソファーの上に一枚の紙切れがあった。置き忘れたのか読み捨てたのか、清掃の行き届いた待合に、ぽつりと一枚だけそのビラが放置されている。病院のチャペルの前で目を通すようなビラとは一体どんな内容なのか、ちょっとだけ気になって拾い上げる。
ビラは意外にも離島の医師募集案内であった。(医師募集 離れ小島の医師になる)という見出しだけチラッと見る。同じようなビラは、大学時代にも時々見かけた。大学入学間もない頃だったに違いない。見かけた一瞬は面白そうだと思った青臭い記憶がよみがえる。
そう、この息の詰まるような青臭さ、それこそがこの病院の特色なのだろう。深夜の若い医師たち、使命感溢れる看護師、外来の中心に構えるチャペル、そしてこの離島診療のビラ、この場所は今の自分には毒かもしれなかった。美容外科医などという職業を選択肢に入れようがなかった若い日々の心意気を、嫌でも思い出してしまう。自分は一体何がしたいのだろうか? どこに向かっているのだろうか? まずは美容外科の仕事。社会全体を大きく見渡せば、やってもやらなくてもいいような医療を繰り返しているのではないのか? 手術によって素敵になったと感じる笑顔こそ自分の独り善がりで、あんなものは手術以外の何かでいとも簡単に引き出せるのではないのか? その笑顔ですら多くはない。もっと必要とされる技術を必要とされる場所で発揮できる道が、他にあるのではないだろうか? そして研究。一体あの研究が今後誰かの役に立つことがあるのだろうか? ユニークなロバートと寛大な院長に助けてもらって佐伯と自分が突き止めた大変な発見? 佐伯は大変なことだと息巻いていた、あの赤い点々と黒い点々の重なり。それが一体何だというのだ? 少なくとも、その被験者が深夜に救命救急センターで集中治療を受けなければならないくらい大変な病状に陥っても、研究結果が何の役にも立っていないことは明らかである。この先もいつどこで誰があの研究結果に救われるというのか・・・
考えても仕方なかった。もう戻ることはできないのだ。何も考えずに駆け抜けるしかない。かつて偉大な科学者が言ってきたように、この研究は神への挑戦だった。しかもそれは自分から仕掛けたわけではない。信じて疑わなかった、愛する人との平穏な日々を、一瞬で粉々に打ち砕いて自分に挑みかかってきたのは神の方である。あの日から自分にはやりたいことなんて何もない。真っ向から度が過ぎる神の悪戯の相手をしてやっている、それだけだ。偶然敵地に迷い込んでしまった今は、とりあえず今日までじっくり考える時間を与えてくれなかった神に、そっと感謝しておくとしよう。
エスカレーターの方に歩き出すと、予想外に早く一階から自分の名前を呼ぶ声がする。こんな出来過ぎた病院を心地よく感じる患者も医療者も、きっと根本的には病気や死を馬鹿にしているに違いない。きれいな病院のきれいな待合に、こんなゴミ屑を放置しておくのは良くない。後でどこかに捨ててあげようと、顕也はそのビラを適当に折り畳んでポケットに突っ込んだ。
止まったエスカレーターを駆け下りる顕也を、さっきの看護師が下から見上げて待ち構えている。
「入れ違いになって申し訳ありません。先程お話を聞かせていただいている間、先に来られた職場の監督の方がご面会されておられました。村沢様が来て下さっていることをお伝えしたら、ぜひお礼をとおっしゃってます。まだ中にいらっしゃいますので、ごいっしょに面会されてください。ご本人様の状態も落ち着いています。」
どうやらママが先に面会に来ていたらしい。そうすると自分が来た意味はなくなったが、律儀に自分が来ていることをママに伝えてくれた看護師を立てないわけにはいかない。明日も仕事だからとすぐに帰るような含みをもたせた返事をしてはみるが、自分の声が小さいのか相手が聞く耳を持たないのか、先を歩く看護師にはどうやら届いていない。無駄な抵抗はやめて彼女について救命救急センターの初療室の一角に向かう。
ママは、ベッドサイドではなく足元側の通路にこちらを向いて立っていた。店から直接来たのであろう。カーディガンを羽織っていてもクラブのママだと誰もが認識できるサーモンピンクのドレス姿であったが、面白いことに病院の雰囲気にどこか馴染んでいて周囲の注目はまったくない。ママは人工呼吸器に繋がれて意識のない女の子を見舞うというよりも、そこでじっと顕也が来るのを待っていた様子だった。
「先生、ありがとうございます。夜中にこんなこと頼んじゃって、ほんとに申し訳ありませんでした。」
例によって深々とお辞儀をするママの礼を遮るように顕也が言う。
「とんでもないです。事情は伺ってます。ママも大変ですよね。」
「この子は今までも何回かこんなことがあってね。ちゃんと病院行きなさいって言ってきたんだけど、子どもは自分より大変だからってなかなか行こうとしなくて。」
「子ども?」
何のことか理解できない顕也に、看護師が説明を補足する。
「小さなお子さんがいらっしゃるらしいんです。詳しいことはわからないのですが、監督さんにお身内の方のことを聞いたら、その子がただ一人の身内だということらしいです。でもまだ小さくて連絡する必要はないんじゃないか、って。そうですよね?」
看護師がママに相槌を求める。
「そうなのよ。小さいのもあるんだけど、何かの病気があってずっと入院してるようなこと言ってましたねえ。」
「どちらの病院かわかりますか?」
看護師がここぞとばかり情報を聞き出そうとする。よく訓練されたプロの仕業である。
「確か、世田谷にある国立の子供病院って言ってたかな。あたしもよく知らないのよ。最近は子どものことでその病院に行くから休ませてほしいってことが多かったわ。その度に、あなたも病院にかかった方がいいわよ、子どものためにもぜひそうしてちょうだい、って言ってたのよ。そしたらほら、ちょうど先生が突然お店にやってきて、健診だと思ってもらっていいから来なさい、って言うじゃない? これはもう、ただ病院に行くきっかけになってくれたらいいかな、って。すがるように、真っ先にこの子に先生のとこに行かせたの。精神科ってなかなか行きにくいけど美容外科ならそんなに抵抗ないだろうし。いい先生が現れた、って思った次第でございます。それがこんなことになって、ほんとうにごめんなさい。」
行きにくいのは美容外科も精神科も同じようなものではないかと思ったが、実際に彼女はクリニックにやって来たのだから、そこまではママの思惑どおりだった。しかし、その後のこちらの対応がママの期待とはかけ離れている。選別のために顔を見たいのでほんの十秒ほど挨拶するだけで、ろくに会話すらしていない。健診は血液検査だけだ。
「いえいえ、こちらこそお役に立てなくて申し訳ありません。今日も自分が来ても意味がなかったみたいです。」
本心だった。さっきまで、佐伯の研究所で被験者たちの個々に抱える病気など知ったことではないとばかりに、赤い点々を眺めて歓喜していたのである。
「何をおっしゃってるのよ。気持ちだけで十分なんです、患者は。だって先生は専門外なのに、パッとここに駆け付けてくださったわけでしょう? この子にとってはどんなにありがたいことか・・・」
ママが女の子をじっと見る。従業員の女の子を家族のように受け入れているのであろう。
「あのね、先生。治らない病気があることを理解しない患者なんていませんのよ。気持ちがうれしいんです、気持ちが。」
ママの言葉を聞きながら、顕也もいっしょにベッドの上の女の子を見ていた。というよりも、まっすぐママの方を向いていられなかった。こんな彼女たちの気持ちにちゃんと向き合っているかと言えば、どう考えても、むしろあの研究は、この二人を裏切っている。ぐっと奥歯を噛んで罪悪感を押し殺す。そして今度は顕也がママに深々とお辞儀をする。
「頼りにしていただいてありがたいのですが、本当に申し訳ないくらい気持ちだけです。今日は失礼します。何かあればいつでも連絡して下さい。少しでもお力になれれば光栄です。」
本心ではなかった。今の自分を頼りにしてもらっても何も力になれないことなど自分が一番よくわかっている。できればこんな呼び出しは二度と受けたくない。今は目の前にある自分のできることを精一杯やるだけだ。資格があって多少理解できることと実際にそれができることはまったく違う。できないものはできないのだ。美容外科とあの研究を自分に与えたのは神だ。受けて立ち、粛々とこなす。それだけだ。神の意志に反して神の挑戦から逃げることを正当化してしまいかねない一連の感傷こそきっと神の仕掛けた罠に違いない。ここはまさに敵の陣地。逃げるが勝ちだった。
「お大事にされてください。」
そう言って二度と会うことも経過を知ることもないであろう女の子を形だけ気遣って、去り際にもう一度ベッドに向かって軽く礼をする。鎮静薬を投与されて人工呼吸の僅かな胸郭の動きしかない相手に、ただ研究の被験者としての貢献を感謝する。彼女に何の感情も湧かない。無責任に幸運を祈る必要などあるはずもない。ベッドサイドのネームプレートには、ひらがなで「うちのさな」と書かれている。これが本名なのであろう。なぜこの時、手書きで書かれた彼女の名前が目に焼き付いて離れなくなったのか、実はそれこそが神の仕組んだ罠だったのかもしれない。




