(十七)
サンプル数は、研究開始から一年で予定より早く千例近くになった。しかもこのサンプルは、参加者本人はもちろん佐伯やクリニックの他のメンバーにも伝えられることがないまま、顕也のみが知る二重盲検になっていた。実は、クーポン券を持ってクリニックを受診した参加者はもっと多かったのであるが、顕也の方で勝手に除外基準を設けていた。まずは、あまり美人ではないサンプルが混ざってしまうと検証の精度が落ちてしまうと考えたのである。それは、よりピュアなサンプルを集めてちゃんとした結果を見届けたいという強い思いに端を発するまったくの独善であった。研究手法として計画書に盛り込まれていないだけで、研究参加者が受ける恩恵は研究対象から除外されても同じなので倫理的な問題はなく、この研究の結果を確かなものにするためには必須な操作であると信じて疑わなかったのでる。他にも、クリニック初診時の問診表に、過去の美容外科手術の有無、日本人でない祖先の有無、かかったことのある病気、服用している薬などを書いてもらうのであるが、顔の手術を受けことがあったり海外にルーツがあったりする場合はもちろん、精神科疾患の既往、向精神薬の服用のある参加者も、申告の不確かさを理由に研究対象から除外した。つまり、顕也の独断でこれぞ研究対象と言える美人だけを抜粋しても余りあるくらいの数の夜の女たちがクリニックに押し寄せたということであった。
いや、そればかりではなかった。ママの面倒見が良過ぎるばかりに、人間関係がうまくいかなかったり精神的な問題を抱えていたりして他の店では働けなさそうな女の子を多く雇っている店が少なくなかったのである。だから、そんなお人好しとも言えるママの性格を考えれば、この研究に協力してくれようとするのも、従業員の健康を気にかけるのも当然だった。困っている人を放っておけないとでもいうのであろうか。最初から顕也の訪問を怪しむことなく受け容れてくれるばかりでなく、研究の主旨をすぐに理解してお店の垣根を越えてあちこち当たってくれたりするママが少なからずいたのである。逆に言えば、それはママの経営戦略なのかもしれなかった。男は自信に満ち溢れる女になど大して興味はない。大抵はちょっと不幸そうな女が気になって自分こそ彼女を幸せにできるのではないかと妄想するのであって、生きていくことが少し辛そうな女の子に男の相手をさせればそれはそれで店としてやっていけるのであろう。もちろん表向きにはそんな気配は微塵も感じさせず、あくまでもただ感じのよい面倒見のよいママだった。
ただ、残念ながら、そういうママの店には選抜部隊が有意に少なかった。紹介してもらえるのはありがたかったが、正直に言えば研究にエントリーできる女の子は半分にも満たなかった。エントリーには人目を引く立ち居振る舞いや身体的なスタイルバランスは一切考慮していない。知性やプロポーションが欠落していてもただ目鼻立ちがくっきり大きく整っていればそれで良かったのであるが、どういうわけかそんなママたちから紹介されてクリニックにやってくる女の子は研究対象から除外せざるをえないケースが多かったのである。これは単に目鼻立ちの問題ということもあれば、どうやら精神科疾患の加療歴がありそうだから除外せざるをえないということも少なくなかった。ママの独断とはいえ紹介されてクリニックにやってくる女の子ならルックスとしてはそこそこ恵まれているはずであるから、そうでない多数の女の子たちの心に渦巻く不安や葛藤を想像すると、実はママが然程お人好しでもないと思えたり、院長の洞察力にあらためて感服したりもする。
クリニックにやってくるそんな女の子たちは、顕也にしてみれば空振りであったが、実際には顕也の方で勝手に研究にエントリーしないだけであるから大した労力ではなかった。クリニックとしても、何人かはそのまま自費で二回目以降のレーザー治療を受け続けるわけなので、決して損はしていない。この研究に下らない私情は要らない。機械的に取るものは取って捨てるものは捨てるだけである。つまり、協力的なママが色々考えてくれてこの子ならと送り込んでくれた女の子を片っ端から研究対象としては切り捨てても余りあるくらいに、サンプルは十分に足りていた。どんな女の子がどんな背景でクリニックにやって来るのか自ら知ることは、むしろこの研究にはバイアスでしかなかった。沙菜もまた、そんなママのところから紹介されて躊躇なく除外したホステスの一人だった。
沙菜は、問診票にパニック障害という精神疾患を自己申告していた。抗不安薬も服用していたので、その時点でエントリーから外れた。ルックス的にも研究の主旨から少し外れていた。やや小柄でスラリとしたプロポーションを含めて全体的なバランスを見ればふつうに美人であることは間違いないのであるが、目鼻立ちとしてとくに目が大きいわけでも鼻が高いわけでもなくバランスが良いだけであった。パニック障害のためか表情に乏しいので顔立ちにマッチした控えめな上品さがあり、男性からのウケは悪くないのであろう。
顕也が一瞬興味をそそられたのは、その問診票であった。(祖父母や従兄妹くらいまでのご親族に生まれつきの病気の方がいらっしゃれば教えてください)という自由記載欄に、「こうがいれつ、顔面のきけい」と記されていたのである。この欄には親族の誰がそうなのか詳しく書いてくれる女の子もいたが、沙菜の場合は均整のない消極的な文字でポツリとただ疾患名だけ書かれていた。同一人物が口蓋裂と顔面先天異常を合併しているのか、違う二人がそれぞれ口蓋裂と顔面先天異常なのか、それすらもわからない。本来の研究の主旨からすればそこは詳しく聞くべきであったが、彼女の雰囲気が明らかにそれを拒んでいた。ママへの義理なのか、研究に参加することに対する不満はなさそうであるが、できるだけクリニックに長居したくないという強い意志を感じ取ることができたのである。彼女のどこにも隙はなかった。変に詮索して忙しい診療の合間に彼女と揉めても何もいいことはない。とにかくこの研究は、ひたすらピュアなサンプルを一例でも多く集めることに徹すればよいだけである。エントリーされるサンプルならともかく、除外されるサンプルの提供者に無駄な時間をかけるわけにはいかなかった。ただ、どういうわけか、肩に掛けたバッグの紐を両手で握って少し上の方に顔を向けて視線を遠くに遣ったまま最後まで斜に構えた沙菜の姿が、強く印象に残った。
この時の顕也に、ただの研究対象である彼女たちを思いやる優しさも謙虚さもあるはずはなかった。何しろサンプルは十分足りていたし、以前にも増して仕事が多忙を極めていた。顕也はまさに波に乗っていた。何かに憑かれたように、寝る間を惜しんで仕事と研究のサンプル集めに没頭していた。その甲斐あって、久しぶりに佐伯の方から研究所に来るように言われた顕也は、そこで予想以上の結果を告げられることになった。
「実は今、この研究所では村沢の研究が一番ホットだ。まだ予備解析を手伝ってくれた数人しか知らないことだけど、正直全員その結果に驚いている。」
いつもの雑然とした研究室のデスクの前で、ニコニコしながら佐伯が言った。気味が悪いくらい上機嫌だった。
「結論から言うとこの研究は続ける価値がある。非常に面白い。ロバートには恐れ入ったよ。結果が質の悪い冗談でなければね。」
「この前サンプルを持って来た時に言ってたやつだろ? 結果が空振りなら研究は中止するとかって。もう結果が出たのか?」
「そうさ。これを見てくれ。びっくりだ。」
佐伯がそう言ってパソコンの画面をカチャカチャと操作して一枚のドットグラフを開いた。赤い点々が沢山集まって所々外れて飛び出した点々が山を作り、タイトルにNo.1とだけ書かれている。
「ナンバーワンは、スライド一枚目という意味じゃない。そう、これは村沢の集めたサンプル千百七例すべてさ。」
佐伯はそう言いながら次のスライドにページを送る。
「こっちの黒い点々が中国の口唇口蓋裂患者群のものだ。こういうのをマンハッタンプロットって言うんだ。下から飛び出た点々の山が高層ビル群みたいに見えるだろ。この口唇口蓋裂患者群のものを、さっき見せた村沢の集めたナイトクラブナンバーワン群のものと重ね合わせると・・・こうだ。」
次に示されたスライドには、赤と黒の点々が重なり合っていた。それにどういう意味があるのか一見さっぱりわからず、きょとんとする顕也に佐伯が解説を続ける。
「黒の口唇口蓋裂群は先天異常だから、いくつもある責任遺伝子のところに山ができてる。いくつもあるからまさにマンハッタンだな。じゃあ一応健康であるはずの赤いナイトクラブナンバーワン群にそんな山がないかっていうと、あるでしょ。数が少なくて山とは言えないけど外れてプロットされた赤い点々が所々。実はこれは普通のことだ。健康な人たちのサンプルをたくさん集めて同じマンハッタンプロットを作ってもこんな感じさ。なぜかというと、そういう遺伝子異常を持っていても発現せずに本人も知らないまま何も症状なく一生を終える人が大勢いるからだ。だから、確かに村沢の集めたサンプルは健康な一般人だと言える。ただし、ここでは省略してるけど、ナイトクラブナンバーワン群のプロットは、健康な一般人のマンハッタンプロットとも微妙にちゃんとずれがあることも突き止めている。」
その説明を聞きながら、所々飛び出した赤の点々のいくつかが黒い山に重なっていることに、顕也の方から先に気が付く。素人目に見てもその十個ほどの赤い点々と黒い山の重なりに胸が踊った。確信の興奮をわざと抑えて顕也が画面を指さして言う。
「この重なりってことだな。」
「そう、その重なりだ。」
二人は、画面を見たままお互いニヤリと笑っているのを確認すると、どちらからともなく両手を挙げて思い切りハイタッチをした。その後の佐伯の補足の説明を、顕也はあまり覚えていない。何でもその重なりは二千例くらいでほぼ確実に統計学的に有意差があると言えるらしいこと、それは佐伯の予想の十倍以上の強い相関があることになるということ、さらにあと二か所くらいに関係性の怪しい遺伝子がありそうだから予定どおり三千例集めればまず有名な雑誌のアクセプトを狙えるらしいことなど。ネイチャーだとかニューイングランドジャーナルだとか言ってたかもしれない。論文のレベルこそ顕也には興味がなく、佐伯博士の説明が終わらないうちに、絶妙なタイミングで顕也の携帯電話が鳴る。
「もしもし村沢です。」
この頃、女の子からのお誘いの連絡がすっかり減った顕也は、仕事中でなければなるべく電話に出るようにしていた。研究の参加者や紹介してくれたママから度々問い合わせがあったからである。電話は何となく覚えのあるママからだった。
「今、うちの子が睡眠薬みたいなのをたくさん飲んで救急車で運ばれちゃったのよ。先生の研究で最近クリニックの方に行ってもらった子なんだけど、こっちだって仕事中だし、どうしようか困っちゃって。身寄りがないのよ。うちの子はそんな子ばっかりで珍しくないし、誰も行かなくてもいいんだけど、もしお時間あったら先生のクリニックに近い病院だから仕事帰りに様子見て来てもらえないかな、と思ってお電話差し上げたんです。」
世話焼きのママが従業員である女の子に最大限の敬意を払っていることが、顕也にはよくわかった。大抵の店だとこんな時は理由のわからない無断欠勤になるだけである。救急車で運ばれたことがタイムリーにママに伝わっている事実だけでママの人情が滲み出ている。こんなママの力になってあげられなければ、研究の価値は半減してしまう。ちょっと病院に顔を出して話を聞いて来るぐらいは大した労力ではない。予備解析の結果が上々であったことに気分を良くしたこともあって、ついそんな温情を実行に移すことに抵抗はなかった。




