(四)
その週の水曜日、顕也は約束どおり例のプレパラートの画像データを部長室に届けた。午後に大学の研究室で撮影したばかりの組織切片の画像データを持って再びこども病院に戻って来たのは、午後八時過ぎであった。
後藤は、良くも悪くも筋を通そうとする真面目な人物だった。そのために部下のプライベートな時間の多くが奪われていたが、そもそも仕事とプライベートの境界がもっともはっきりしていないのが後藤であった。週末でも部長室で仕事をしていることが多く、部長室の壁には学会や講演で着るスーツが所狭しと吊り下げられていた。書類の山の隙間に鎮座するパソコンに手渡されたデータをコピーしながら、後藤が顕也に尋ねた。
「村沢先生、病棟の丸山さんってわかる?」
「わかりますよ。怖くてちゃんと話したことないですけど。」
「はっはっは。そうだね。彼女、気が強いからな。僕は彼女と同期入職だから、昔からよく知っててこんなのくれたんだけど、都合悪いから代わりに顔出してくれないかな。」
パソコンの画面を見つめたままの後藤が顕也に差し出したのは、手書きで宛名が書かれた封筒だった。顕也は、意外な接点に少し驚きながら、すでに開封された封筒から二つ折りになった装飾付きの厚紙を取り出した。果たしてそれは、結婚式の二次会の招待状であった。
「結婚式の二次会ですか。」
「ああ、そうだよ。」
「誰のですか?」
「誰って、丸山さんに決まってるだろうが。」
「ええっ!」
顕也は心底驚いて、もう一度招待状を見た。確かに丸山さんの結婚式の二次会の招待状である。しかも今週末だ。
「二次会だから絶対出席ってこともないんだけど、形成外科から誰も出席しないってわけにもいかないから。彼女には連絡しておくよ。明日の朝、電報も打ってきてよ。会費と電報代は自分が出すから、よろしくね。」
常識的には今頼んで三日後の週末の会に出席しろとは何と酷い話だと思いつつも、顕也はそれほど嫌な感じはしなかった。一見仕事一筋の後藤が職場の仲間に義理を立てようとするのが可笑しくて、妙な親近感が込み上げて来る。
「大丈夫です。行かせていただきます。」
あの丸山さんが一体どんな男性と結婚するんだか、面白半分興味もあった。病棟の若い看護師さんたちも来るだろうから、居心地の悪い席ではないような気もする。
「データ、ご苦労さん。これはこれで使えそうだ。またよろしくね。」
後藤がデータのオリジナルを顕也に手渡して言った。
「僕もこんなデータを入局一年目から扱いたかったよ。ちょっと羨ましいな。」
それはお世辞でも何でもなく、本心のように聞こえた。臨床中心でひた走ってきた後藤が少しの研究費で細々と研究を始めたのは、まだ数年前である。免疫染色すら自分でやったことがない、と開き直って周囲に洩らしていたことを思い出す。ないものねだりなのだろうか? 先天異常をもって生まれてきた子供たちに多彩な手術を施して感謝される立場の他に何を望むのだろうか? 後藤の言葉に嘘はないとしても、顕也の臨床や手術への思いを無視していることは疑いようがなく、あまり労いの言葉にはなっていなかった。
「ありがとうございます。」
顕也は心にもない謝辞を発して部長室を後にした。
丸山さんの結婚式の二次会は、横浜の繁華街を流れる川に面した老舗のイタリアンレストランで行われた。この辺りは日本屈指のウォーターフロントとして開発されつつある海側の地域と違って古くからの雑居ビルがひしめき合い、護岸がコンクリートで固められたドブのような川には提灯を付けた屋形船や油塗れの作業船が無秩序に係留されている。
少し遅れて到着した顕也は、小奇麗にしていてもどこか場末感漂うお店の外に二人だけでいる新郎新婦といきなり鉢合わせた。どうやら参加者はすでにお店の中で着席していて、新郎新婦はナレーターの合図とともに入場するのを待っているといった様子である。
「村沢先生、ありがとう。狭いところでごめんね。」
ドレス姿の丸山さんが顕也に言う。
「おめでとうございます。」
顕也は、クリスマスの飾りが付いた会の案内のイーゼルを挟んで立つお相手の男性にも気遣いながら二人に頭を下げた。至って普通の男性で、とくに特徴はない。三十代半ば、会社員といったところであろうか。恐らく丸山さんよりも少し若い。丸山さんは職場ではただのお局看護師さんだが客観的に見れば目鼻立ちがハッキリしていてドレスがよく似合っているのに対して、新郎の見栄えは決していいとは言えない。
肩の露出するドレスが寒いのか、丸山さんは少し背中を丸めながら顕也にいつもの調子で話し始める。
「村沢先生は今入ると目立っちゃうから、私たちの後にしてね。」
「はい、大丈夫です。」
顕也も彼女に調子を合わせるように職場と同じ口調になる。
「何でこんな狭い店なんでしょうか?」
「斬新でしょ? 新しいところはよくわからないし、学生時代から通ってるお店なんだけど、前に主人を連れてきたらすごく気に行っちゃって、二次会もここで、ってことになったのよ。学生時代が何年前かなんて、聞いちゃ駄目よ。村沢先生、いつも一言多いから。」
そのご主人がお店の中を覗いて頷いている。新郎新婦入場の時間らしい。お店のドアが開かれて外に漏れる拍手の音が急に大きくなり、丸山さんのすらりと長い腕がご主人の手に引かれて二人が中に入っていく。
「今日はうるさいこと言われないから楽しんでね。」
彼女はドアが閉まる間際にちょっと振り向いて顕也をからかった。ドレス姿でいつものように辛口の話を振る彼女は、顕也が想像していたよりもずっと幸せそうに見えた。
顕也が店内に入ったのは、それから十分ほどしてからだった。狭いので入口付近の通路に立ったまま店内を見回す。地味な外観に反して、薄暗い店内は落ち着きのある凝った造りになっていた。操舵輪が掛けられた壁には古い錨がもたれかかり、天井でレトロなファンがゆっくり回転する。ちょうど参加者のほとんどがカウンターに並べられた食べ物を取るために立ち上がっていた。人の少なくなった十卓ほどあるテーブル席の向こうに、川に面したテラス席が見える。寒いので外のテラスに出ている参加者は四、五人だった。
「あっ、村沢先生。一人で来たんですか?」
病棟の新人看護師の小谷さんが、顕也に気付いて声をかけてきた。
「やあ、小谷さん。素敵なお店だね。」
「そうですね。さすが丸山さん。料理もすっごいおいしそうですよ。」
小谷さんは、今取ってきた食べ物を盛り付けた皿を見せてそう言い残すと、心臓外科の若い先生がいるテーブルの方にそれを持って行ってその輪に加わった。
しかし、顕也はそんな料理やお酒などどうでも良かった。新郎側の友人であろうか? 煙草を吸うためにテラスに出ていた二人の男性が店内に戻って来るときに開いたドアの向こうに一人の女性を見つけた顕也は、その容姿に釘付けになった。ドアが閉まった後もドアの窓から上半身だけはっきりその姿が見えた。原色の緑のサテンドレスで川岸の柵に手をかけて後ろ向きに立つ女性は、両隣に立つ男性たちと会話するために時々横を向いたが、その姿は顕也にとってあまりにも刺激的で、遅れて来た顕也に気付いて声をかけて来た何人かの知人に向き直ることができなかった。まるで席替えで好意を寄せる女子が隣の席に来た時の男子小学生のように、胸が高鳴るのがわかった。
それは、確かに見覚えのある横顔だった。その美し過ぎる横顔もまたすぐに顕也に気付いて、まだ話したそうな両隣の男たちを優雅に振り切って店内に入って来た。彩乃の母親であった。
「村沢先生、ご無沙汰です。お陰様で彩乃は調子いいよ。」
すでにお酒が入っているからであろう。いつもあんなにクールだった彼女が、軽くて人懐っこい口調である。
「そうですか。それは良かったです。」
顕也は、記憶にある彩乃の母親とのギャップを感じながらも、女優はだしの美しさのためにまだ彼女を直視することができない。
「何でここに?」
顕也が素直に質問をぶつける。
「さあ、何でかな?」
悪戯っぽく微笑む彼女は、参加者の大半が店内で大変な美女と話す顕也に注目し始めていることに気付いて、カウンターにお酒を取りに行った。その華奢な手がワイングラスを二つ取り、振り返ってその一つを顕也に手渡す。
「まずは、お二人に乾杯しましょ。」
顕也は、彼女といっしょにカウンター前の中央のテーブルに座っている丸山さんとご主人に向かってグラスを差し出した。
「おめでとうございます。」
彩乃の母親が、四人の乾杯を仕切る。
「何で彩乃ちゃんのお母さんがここにいるんですか?」
彩乃の母親の誘導に従うように、顕也が丸山さんに尋ねる。
「ミキッチは、古い友達みたいなものかな。」
「ミキ? 古い友達? こないだの入院前から元々知り合いだったんですか?」
「そういうことになるわね。彩乃ちゃんは、生まれてすぐに色々あったのよ。その相談役みたいなものだったんだけど、ミキッチは患者さんとかそんなんじゃなくて、何かと連絡を取り合うような間柄だったことは確かね。好きな人は好きだから、最初から患者さんっていう先入観はなかったわ。」
丸山さんがそこまで言った時、彩乃の母親の横顔がほんの一瞬彩乃を叱る時とも違う険しい顔付きになるのを、顕也は見逃さなかった。
「丸さん、それ以上はやめておいて。今日みたいなおめでたい日にする話じゃないわ。」
また少し悪戯っぽく微笑んで丸山さんにそう言うと、周りの視線がすべて彼女に集まる。暗い過去をさらりと笑い飛ばすかのように丸山さんのおしゃべりを制する彼女の立ち居振る舞いからだけでも、彼女が顕也の想像を遥かに超えた人生を送って来たことが窺い知れる。彩乃が両親の離婚のために母子家庭であることは、カルテの記載から顕也も知っていた。どうやら彩乃が生まれてすぐに離婚したようであるが、これが生後三カ月の彩乃の口唇形成術の入院時期と重なって、丸山さんがその相談相手になっていたということのようであった。
目のやり場にも困るような美女との会話に盛り上がる新婦と、きょとんと横に座っているご主人の対比が、この場に相応しくない光景であることを察した彩乃の母親が顕也に言う。
「また外に行かない? この会であたしの知ってる人、先生と丸さんだけだし。」
「そうですね。」
「それにあたし、先生ともう少し話したいと思ってたの。ほんとよ。」
今度は顕也がワイングラスを二つ取って、先に外に向かって歩き出した彩乃の母親の後ろを付いて行く。この美人は自分に何を求めているのだろうか? 素直に自分に好感を持ってくれていると解釈してよいのだろうか? 歩くたびに揺れる腰元が嫌でも男の本能を刺激する。
しかし、この日は顕也が少し期待したドラマティックな展開は皆無であった。酔っているとはいえ、テーブルを挟んで話す彼女は居酒屋の飲み会で悪ふざけする質の悪い部活の先輩とまったく同じノリだった。まずは何だその敬語はと窘められ、気になるお相手には名前ぐらい聞けと説教をされた。さらに悪いことに、お酒が強過ぎる彼女とは対照的にお酒の進まない顕也に、露骨に不満をぶちまけた。顕也は自分が相当に酔っぱらっているのがわかったが、その顕也から見る彼女はいつまで経っても冷静で、浴びるようにお酒を飲みながら顕也のありもしない貧弱な過去を意地悪く詮索し続けた。最後はお互いの呼び方に拘った。
「美希と呼べって言ってんだろ。」
「美希さん・・・」
「さん、じゃねえよ。彼女とか名前で呼んだことあんだろうが。」
「彼女だったら呼ぶかもしれないです。」
「だから敬語はやめろっつってんだよ。」
「美・・・希。」
「おー、できるじゃん。彼女になってやろっか?」
「ぜ、ぜ、ぜひお願いします。」
「何言ってんだ。十年早いぞ、顕也。」
後半の一時間は、ほぼこのやり取りだけで終わったような記憶があった。美希の勢いにただ圧倒される一方で、お酒も酷い言葉使いもその美貌すらも何かのカムフラージュのように思える不思議な魅力を放っていることは変わりなかった。




