(十六)
「いいもんでしょ、花火。」
茂子がそう言って大さん橋のデッキの柵に寄りかかる。花火の後、上機嫌の茂子に誘われて、二人は大さん橋のデッキに上がって来た。
「いいもんです。」
顕也も柵に寄りかかって久しぶりに横浜の夜景を眺める。ベイブリッジに背を向けると、桜木町方面にランドマークタワーと観覧車が見えた。普段は恋人達に気後れして近寄れない屈指のデートスポットだから今日は狙い目だという茂子の言葉どおり、花火見物の帰り支度をする大勢の家族連れの中で子供たちが走り回っている。
「横浜にいたんだっけ?」
茂子が聞く。
「そうなんです。」
「置いてきたんでしょ、大事なもの。」
「ええ。」
「どんなひとだったの?」
「とてつもない美人でした。」
「そりゃそうでしょ。男の人が若いときに美人を連れて歩きたいと思うのは当たり前だもの。フラれたの?」
軽く話してくれればいいという配慮なのか、茂子がにこやかによくある失恋話を引き出そうとしている。
「そうだったかもしれません。でも、ちょっとふつうの美人じゃないんです。」
「どういうこと?」
「大学の前、横浜こども病院という小児専門の病院で働いていました。不謹慎な話ですが、自分が好きだった女性は、そこで口唇裂という疾患の手術を受けた子どもの母親です。初めて二人でデートしたのがあの観覧車の目の前にあるレストランでした。彼女はよく自分でバツイチの子連れで申し訳ないって言ってましたけど、そんなこと気にしたことはありません。プロポーズもしました。愛してました。でも終わった。それで大学を辞めて美容外科に転職したんです。」
子供たちの燥ぎ声に助けられて顕也が淡々と話す。茂子も夜景を眺めながら淡々と受け止める。花火見物の後もまだ停泊する数隻のクルーザーの上からは、賑やかな笑い声が聞こえる。
「それは確かに、横浜には居づらいのかもしれないわね。さっき美人の研究が何とかって言ってたけど、その彼女と何か関係あるの?」
「そこが大事なんです。口唇裂の手術をした娘さんと、その美人の母親の関係を、この自分がぶち壊したんです。どう考えても、自分がその二人の前に現れなかったら、きっと今も二人仲良く暮らしていたはずです。とにかくそれが辛くて苦しかった。今でも辛いです。精神的には昼は仕事に没頭して夜は酒でも飲んでいれば何とかなるんですが、この四月に突然その研究の話が降って湧いたんです。研究内容があまりも衝撃的でした。『美人は先天異常かもしれない。口唇裂と美人に関係する共通の遺伝子があるかもしれない。』海外の遺伝子研究の世界的権威がそう言うんです。まさにこの母娘だと思いました。迷いなんかなかった。すぐにこの研究に飛びつきました。この遺伝子の存在を証明できれば、自分が引き裂いてしまったこの母娘の関係を、もう一度少しでも近付けられる気がしたんです。やってみろと言われて断ることなんてできるはずがなかった。お願いしてでも自腹を切ってでもやってやる、そう決心しました。やらなければこの先もずっと心の整理がつかないままだと思ったんです。」
顕也の真剣な話に、茂子が少し態度を変える。
「それで最近元気がないように見えるってことか。大変そうだもんね、研究って。やるぞって思うようなものがあるんだったらあんまり心配要らないのかな。ありがとね。大事なこと教えてくれて。私は話を聞いてあげることくらいはできると思う。」
「こちらこそ、聞いてもらってありがとうございます。何だか話せてすっきりしました。でも実は、ほんとに相談したいのは、その研究で今ぶつかっている具体的な問題なんですよ。」
「研究の相談? 私に?」
「そうです。聞いてびっくりかとは思いますが、自分がやっていることは、ひたすら血液サンプルを集めるだけ、採血してるだけです。それも美人の血液サンプル。どこの美人たちか、もうわかるでしょう。」
顕也がそう言うと、夜景を見ていた茂子がはっと気付いて顕也の方に向き直る。
「まさか、飲み屋のお姉さんたち?」
「正解。」
「どこかの病院でやってるわけじゃないってこと?」
「そうなんですよ。店に訪問してやってます。そこが一番の問題で、自分は慣れた場所だから、一軒一軒訪問してママと相談して対象の美人ホステスを当たるんですが、それほど気前良くは採血させてくれないんです。地道にやっていればある程度はサンプルを集められるんですが、必要な数が全然足りなくて、予定よりも大幅に遅れてしまってます。思い付きでいいんです。突然夜のクラブに行ってお姉さんたちに採血させてもらえるいい方法って何かないですかね? 打率を高めるいいアイデア、思い付いたらぜひ教えてください。」
素人が考える範囲でも、およそ研究のイメージを大きく覆していたのであろう。顕也の前置きどおり、思いもよらない内容に、茂子はただ驚くばかりである。
「そんなことをやっているのね。こう言っちゃなんだけど、相当信念がないとできなそう。いかにも大変そうだもの。私が今すぐ思い付くことはないなあ。」
茂子は同情を示すだけで、美人遺伝子については興味がなさそうであった。あれだけブスネタで盛り上がるくらいだから研究内容にこそ食い付いてくれると思っていたのであるが、どうやら期待は外れた。
そろそろ家に帰るのであろう。後ろで燥いでいた数人の子供たちが、親に呼ばれて走り去っていく。辺りは景色に相応しい静けさを取り戻しつつあった。
「いま・・・そのお二人はいっしょじゃないの?」
茂子が夜景を見ながら恐る恐る聞く。やはり顕也が言葉を濁した恋愛談の結末の方が気になっていたのかもしれない。
「娘さんだけ生きています。祖父に引き取られて。交通事故でした。突然の。今でも夢の中の出来事みたいに感じます。」
顕也は空を見上げた。ほとんど星が見えないのは、港湾のナトリウム灯で独特のオレンジ色に染まる横浜の夜空のせいなのか、少し滲む涙のせいなのかよくわからない。
「自分がいなければあんなことにはならなかった。今更そんなこと言ってもどうしようもないことぐらいわかってるんです。だからこそこの研究をやりたい。どうしてもやり遂げたいんです。」
それは自分に言い聞かせた言葉だった。言い終わる時には夜空も夜景もしっかり見えていた。もう気持ちは吹っ切れている。やるしかない。それだけだ。
何もかも察した茂子は少しだけ沈黙のまま顕也といっしょに夜空を見上げていたが、ゆっくりと顕也の横に進み出て、柵を握る顕也の手に自分の手を重ねた。
「その研究、採血はできないけど、他のことでちょっとだけお手伝いさせて。そしたらたぶん、この研究はうまくいく。いや、きっとうまくいくわ。」
なぜか茂子は不思議な自信を漂わせていた。
「村沢先生。大変だったでしょう。その思いをじっと一人で孤独に守って来たんだもんね。二人でも大変なのに・・・」
「二人?」
一瞬、茂子が何を言っているのか顕也にはわからなかった。
「そう、私とヒロさん二人。二人で村沢先生の気持ちを大事にしたいから、何か力になりたいから、私たちの秘密も教えておくね。誰にも言っちゃダメよ。ヒロさんにも。私も今の話、誰にも言わない。」
そう言って、ワンピース姿の茂子はまるで小学生が鉄棒でもするかのように、柵の上にヒョイっと乗り出して手だけで体を持ち上げた。サンダルが片方、ゴロンと床に落ちる。
「あの子ね、ヒロさんの子じゃないのよ。」
茂子が夜景に向かってまっすぐ顎を突き出して、はっきり言い放つ。顕也は絶句した。あまりに驚いて言葉にならない。
「びっくりした? 離婚したとかじゃないのよ。不妊治療の末に精子提供を受けて生まれた子なの。もちろん、本人はそんなこと知らない。」
着地してサンダルを履きながら茂子が言う。
「それでも一度だけ、中学生の頃にあの子に突然言われたことがあるの。二人の前で。何でパパに似たところがないんだろうって。」
淡々と話していた茂子の言葉が少し感情的になっている。その表情が何度か見たあの母親の顔になっていることが、薄暗くても何となくわかった。
「私、何て答えていいかわからなかった。アドリブ利かないのよ。動揺を見せないことに精一杯で、頭の中が真っ白になって・・・でもその時、ヒロさん、平然とガハハって笑って迷わず答えたの。何て言ったと思う?」
茂子が誰にも話せなかった極めて言い難い内容を、今初めて自分に暴露していることは明らかだった。返事をするどころか、顕也が唯一できた配慮は、ただ夜景を眺めていることだった。
「ヒロさん、こう言ったの。『それはお前がまだ子供だからだ。俺たち二人といっしょに十年ちょっとしか過ごしていないからだ。いっしょにいる時間が長いとだんだん似てくる。家族ってのはそういうもの。お前も酒を飲むようになるとわかる。今、俺が毎日お酒を飲んでるのは、あと何年かしたらお前といっしょに旨い酒を飲むための練習みたいなもんだ。』って。ほんとに力強かった。立派だった。立派過ぎて、今度は涙を堪えるのに精一杯になって・・・」
クリニックの外来で初めて娘さんに会って以来、この家族にそんな背景があることなど一体誰が想像しようか? そればかりか家族を大事にする父親としての福富は、顕也にとってただ眩かった。素晴らしい父親だった。娘さんだけではない。茂子さんにさえも、褒められたり貶されたり、頼られたり拒否されたり、からかわれたりつねられたり、そんなすべての福富の振る舞いには、さり気なく何より家族を大切にする一点の曇りもない情熱がいつも静かに溢れ出ていた。その福富が、あの娘さんの実の父親ではないというのだ。
「立派よ、ほんとうに。村沢先生も福富も。その子もあの子もあなたたちの子どもじゃないんだから。」
そのとおりだった。顕也は言葉が見つからないまま茫然と立ち尽くしていた。
「村沢先生、あなたの気持ちは福富と同じ。違うはずがないじゃない。血なんて繋がってなくても、いっしょにいても離れていても、特別な誰かを思いやる気持ちのどこに違いがあるの? 研究はそういうことでしょ? 考えがあるわ。私に任せてちょうだい。」
茂子は最後にそう言って、手提げから缶ビールを取り出す。顕也は、ハイっと顔の前に差し出された常温の缶ビールを受け取ると、無言で蓋を開けて一気に口に注ぐ。
「うへー、まずいー。」
顕也がしかめ面で学生時代によくやっていたように缶を逆さにして空になったことをアピールすると、茂子がその背中をバシンと叩く。その勢いで鼻からビールが飛び出す。
「よーし。その調子! 忙しくなるわよー。」
そう言って茂子が先に歩き出すと、焦らしてゆっくり手提げから取り出したハンカチで優しく顕也の口元を拭き取った。二人は、大笑いしながら大さん橋を後にした。
快進撃とはこのことだった。花火大会の翌日、ただの飲んだくれのあんたとは出来が違うと散々言われちまったと、福富が嬉しそうに声をかけてきた。それ以降、事態が急展開したのである。福富が院長に相談してくれたらしく、かつてあらゆる手段を使って街に配ったら忙しくなり過ぎて止めたという古いクーポン券が、どこからともなく顕也の前に差し出された。引っ張り出してきた院長もまたニヤニヤと面白がっていた。
「こんなの使ってクリニックに来させてここでサンプルを集めたらいい。採血はスタッフを使えばいいし、クリニック内にリサーチセンターも作ればいいですよ。そういう研究所があるってのは、クリニックのいい宣伝になりますから。今だったら患者が増えてもスタッフを増やせるし、そもそも売り上げを増やさないとスタッフを増やせないわけで。福富先生と村沢先生と二人でその辺も考えながらやってってもらえるのでしたら、引退がそう遠くない私には何より。大変結構なことですよ。ワッハッハー。」
そう言って院長に手渡された古いクーポン券には、初回ピーリング半額、ボトックス半額など、街で配られているティッシュペーパーのような広告が印刷されている。一言で言えばごくありきたりで必要以上に俗っぽい。本当にこんなもので集められるのか不安だったが、その効果はてき面だった。
もちろんそのまま使ったわけではなかった。福富と相談して、非手術のレーザーなどは初回施術料を無料にするというものであった。かなり大胆なサービスであったが、ばら撒きではなくクラブの生え抜きのホステス限定であること、彼女たちがクリニックを利用すること自体が宣伝になること、患者が増えても非手術を担当する美容皮膚科医の人材確保は外科医よりも容易であるということなどを視野に入れた立派な経営戦略を、院長が快くOKしてくれた。
茂子さんからの入れ知恵で、サンプル提供者には白金の医科学研究所とクリニックのリサーチセンターの施設名が入った研究参加証も渡された。裏に同意撤回書を記して二面刷りにすると、その見栄えは一気に希少価値が増して、いかにも選ばれた女性だけが研究に参加できるという雰囲気が漂った。クーポン券の譲渡不可の注意書きがそのプレミア感に拍車をかけている。心ばかりの三千円という謝礼もまた、ちゃんとした研究という印象を持ってもらうのに重要な役割を果たしていた。
また、院長が、希望者には一般的な健康診断くらいの血液検査をついでにやってあげるのがいいのではないかと提案してくれた。彼女たちは飲みたくもない酒の日々で健診もろくに行けないだろうから、細やかでも健康診断を兼ねてあげたらいい、検査結果を聞きに来るついでに無料の施術を受ければいいのだ、と。もちろんその検査費用はクリニックの持ち出しであった。名ばかりとは言え、リサーチセンター長の肩書きを拝命した顕也は、院長の懐の深さを再認識することになった。
そんな条件で仕事帰りにクラブを回って、とにかく大勢のママに「選抜部隊」にこっそり渡してほしいと研究の案内とクーポン券を一緒にしたチラシを配った。コツは、あくまでもママの独断による選抜でクラブを代表する美人にこっそり渡してほしい、と伝えることであった。美貌を維持してもらうことはクラブの人材確保のための先行投資だ、と謳うことであった。ママ自身にも、いわゆる医薬品として市販されずにクリニックでしか扱うことのできない化粧品サンプルの詰め合わせを、クーポン券といっしょに渡した。もちろんこれも茂子の入れ知恵だった。その所要時間はおよそ五分。なるべく医師であることを明かさずに、まったく酒の飲めない医薬品業者の体で話を聞いてもらうと、手っ取り早く話を終えることができた。顕也としては、要はチラシがしかるべき「選抜部隊」に届けばそれでよかったのである。
続々と美人のホステスがクリニックに姿を見せるようになると、後輩の美容外科医たちも興味を持ち始め、積極的に顕也といっしょにチラシを配ってくれる者も何人か現れた。積極的ではなくても、クラブに飲みに行く時にはそのチラシを持って出かけることが、クリニックの美容外科医の間では当たり前になっていった。チラシを持っていけば堂々と美人と話がしたいと言えるメリットがあったのかもしれない。適当なばら撒きになってしまう側面もあったが、軌道に乗ったサンプル収集に水を差すことはできない。名ばかりのリサーチセンター長には、クリニックの収益にとっても旨味のあるチラシ配りを制限する権限など最初からなかったのである。
こうして、一か月で二、三例まで落ち込んだサンプル数は、瞬く間に多い時には一日で二十例にまでV字回復した。




