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(十五)

 完全な手()まり、いや、すでに終了したも同然の状況で、顕也が今までと同じやり方で地道にサンプル収集を再開する気になどなれるはずはない。もはや途方にも暮れず、研究前と同じように毎晩飲み歩いてはつくづく研究に縁のない自分をこれでもかと自嘲じちょうする日々が始まっていた。それはいっそ徹底的に格好悪くこの研究を放棄しようという自虐への助走だった。

「携帯、鳴ってるよ。」

 ポケットの携帯電話の着信のバイブレーションに気付いたのは、隣に座ってくれていたお店の女の子だった。

「いいよいいよ。そんなの放っておいて。」

 そもそも水商売なんだから、持ち主が無視してる電話の着信くらい気をかせて聞き流そうよ、という思いを返事の声色こわいろに込める。まだ九時過ぎだというのに、誰がどう見ても顕也はもう出来上がっていた。もちろん自覚はない。いい客ではない自覚なら少しはあった。

「だいたいこんな出来損ないの医者が急患で呼ばれるなんてことはないんだから。誰からもたいして必要とされないって悪くないんだよなー。らっくちんだもん。」

「またそんなこと言って。きっときれいな後輩の女医さんから患者さんの相談の電話よ。」

「若い女医なんていないもん、職場に。」

「じゃあ、きっと他のお店の子からお誘いの電話よ。約束してたの、すっぽかしてるんじゃない?」

 確かにそれはありる、となぜか顕也は思ってしまった。真顔まがおに戻って急に電話の着信履歴をチェックし始めた顕也に向かって、女の子が笑いながら不平をこぼす。

「えーっ、図ぼしー? 感じわるーい。」

 着信は、半年ぶりの茂子からだった。

(そうか、自分には茂子さんがいたんだ。このままこんな毎日を過ごしていても先が見えている。どうせダメになる研究なら思い切って茂子さんに相談してみるか!)

 確かにそれはありだ、となぜか顕也は思ってしまった。すっぽかしてはないけど急用ができたとうそをついて店を出る。店の前で顕也を見送る女の子が半ば本気で不平をぶつける。

「えー、ほんとに行っちゃうの? 感じ悪くない?」

「またすぐ来るから。」

「うそつき!」

 彼女たちもノルマを課せられて商売をしている。そう言って微笑ほほえんではいるが本心は言葉どおりだ。少し酔っていても目がとっとと消えろと言っていることぐらいはわかる。はっきり言ってどうでもよい。

 さっそく路上で折り返しの電話をしながら、そういえば半年前に茂子さんにもうそつき呼ばわりされたことを思い出していた。

「お久しぶりです。うそつきの村沢です。ちょうど連絡しようと思ってたところなんです。ちょっと酔ってまーす。すみません。」

「ほーっんと、うそつきよね、相変わらず。」

 感じは悪くない。茂子さんと言葉を交わした途端に、何だか急に元気が出てくる。

「すみません。うそつきたくてついてるわけじゃないんですよ、これが。」

「もうその酔っ払いがうそ。酔っ払いの言うことなんか誰が信じるの?」

「そう。誰も信じてくれないんです。こんなに真剣なのに。」

「いきなり泣き言? そもそも、お酒なんて飲みたくないんでしょ。村沢先生は、まず自分にうそついてるのよ。」

「・・・」

 そう言われて、顕也はにぎわう夜の銀座の路上でポツンと立ち止まって我に返る。端的たんてきな指摘に言葉がつながらない。き場のない顕也の迷いを電話越しに察したのか、茂子が朝寝坊の子供を起こすように大声で用件を続ける。

「お久しぶり! 今日は花火大会のお誘いのお電話。花火大会、行きましょ!」

「はな・・・・び?」

 あまりの唐突ぶりに、顕也はいっぺんに酔いがめた。

「そう。今、ヒロさんに言われて電話したの。ヒロさんが、最近、村沢先生元気ないから誘ってあげて、って。今週末、娘と二人で行こうと思ってゲットした観覧チケットがあるんだけど、その日は彼氏と遊びに行くとか急に言い出して。ヒロさんも今週は仕事だって言うんで、聞いたら、村沢先生はこの頃土曜日は三時までの勤務になってるって。チケットもったいないし、村沢先生元気ないし、ちょうどいいじゃん、だって。」

 確かに、研究が始まってから土曜日の夕方は早めに店を回れるように外来のわくを後輩にゆずっていた。今ではただ飲み歩いているだけである。

「自分でかまわないんですか?」

「もちろんよ。ねえ、ヒロさん。」

 電話の向こうで、よっしゃーと叫んでいる福富の声がする。

「ちゃんと来てね。うそつきはダメよ。」

「わかりました。おともさせていただきます。それで、場所、どこなんですか?」

「横浜。」

「よ、横浜? 遠くないですか?」

 花火と言えばてっきりまた二子玉川だと思ってしまった。茂子さんと話せることはありがたかったが、横浜はどうしても気が乗らない。

「何言ってるの? 電車で一時間もかからないじゃない。娘なんて、いっつも彼氏と横浜とか湘南とか行くのよ。たまには私も連れて行けって言ったら、じゃあ花火大会に行こうってことになったの。ドタキャンってひどくない?」

「いや、でも、横浜あんまり行かないから・・・」

「だからこそ行こうって言ってるの! 文句ある? この酔っ払い!」

「あ、あ、ありませーん。」

 電話の向こうで福富が大笑いしている。場所だけは引っかかったが、茂子さんと話せるならこの際どうでもよかった。茂子さんに研究のことを打ち明けて相談に乗ってもらえれば少しでも前に進むことになる。もうこれが最後でいい。最後に悪あがきしてみよう。佐伯やロバートの言うことも信じてみよう。試せる方法をすべて試してダメでもそれはそれで胸を張っていい結果なのだ。次の一歩につながる立派な足跡そくせきなのだ。ダメなら終わりにしよう。そんな決意を胸に、週末横浜に出かけた。


 横浜は何年ぶりだろうか。どうしても足が向かないし、来る用事などまったくなかった。花火大会の日で幸いだった。山下公園周辺は人でごった返しており、記憶にあるどこか地方都市感(ただよ)う落ち着いた雰囲気の横浜のイメージとはかけ離れていたからである。

 花火の観覧席はおおさんばしにあった。普段は客船からのタラップが設置される場所にパイプ椅子が並べられているだけである。少し離れた駅から人混みをかき分けて薄暗くなり始めた頃にようやくそこにたどり着いた顕也は、前から二番目の列のはしの席でこっちを向いて手を振っているワンピース姿の茂子を見つけた。ちょうどその向こうの海上にベイブリッジを背にして打ち上げ用のだいせんが浮かび、右手には電飾に縁取られた氷川丸が見える。茂子の横に座ってその景色を眺めて初めて、混雑を極める特別な日であっても確かにここは横浜だと思った。

「今日はありがとうございます。こんな席から花火見るのは初めてです。」

「いいでしょ。きっと元気出るわよ。どうかしたの? ヒロさんが元気ないって心配してた。」

「横浜、久しぶりなんです。ありがとうございます。」

 差し出された缶ビールを開けながら顕也がつぶやく。

「またそうやって誤魔化ごまかす。もう飲んで来たんでしょ。」

「いいえ。これが今日の一本目です。」

 顕也はそう言って一気に半分ほど飲み干した。日中の暑さほどではないにしても、少し歩いて汗だくになった体には最高だった。

誤魔化ごまかしじゃなくて前置きです。今日こそ聞いてもらいます。」

「あら珍しい。吹っ切れて。観念したのかな?」

「観念? 確かにそうですね。とうとう観念して、今日ここに出頭しました。あとがないんです。」

 顕也がそのまま研究の話を続けようとした時、開会の合図の花火が打ち上げられた。打ち上げのだいせんに近いので大きな音が全身に響く。だいせんの上には作業する花火師の影が見え隠れする。会場全体のざわめきが落ち着くのを待って、茂子が続ける。

「そうなのね。でも良かった。元気そうで。私、花火が大好きなの。家族三人でほんとによく行ったな。墨田川もお台場も、泊りがけで諏訪湖も行ったな。そういう意味では私も横浜は久しぶり。娘が小学生の時に花火見に横浜に来たっきり。次は孫といっしょに来るのかな? ほんとにすぐにとしとっちゃうね。イヤになっちゃう。」

「大丈夫。お孫さんはまだ少し先です。それより、大学生の娘さんと二人で花火見るって素敵ですよね。大人になってそんなふうに付き合う父と息子って見たことないけど、その点、母と娘っていいなあっていつも思います。うまく言えないけど、とにかくちゃんと親子なんです。わかりにくいですかね?」

「何となくわかる。男ってそういう生き物だから仕方ないんじゃない? 基本的にコミュニケーションが下手へただから、二人でいても場がもたないでしょ。そのくせに一人じゃやっていけないのよね。調子いい時は俺はいつも一人でやって来たんだとか威勢のいいこと言っといて、困った時は誰の目にもションボリ振りが明らかで、誰かにちょっと話聞いてもらえばまた調子出て来る。私の父がそんな人だったな。」

 話がれているようであったが、さすが茂子さんだった。顕也は、まさに自分のことを言われているような気がした。

「ほんとそうです。自分がまさにそうだと思います。」

「だったら結婚すれば? ヒロさんも心配してたわよ。飲み屋のお姉さんしか相手にしてる気配がないって。いいじゃない、飲み屋の女の子で。最近はインテリの女の子も多いんでしょ? 立派な大学出てる子もいっぱいいるんじゃない? 出会った場所やお互いの立場が気になるようなお相手ならそれまでの相手なのよ。そんなのどうでもいいと思える相手ならそれが本物。出会ったきっかけなんて、親や子供にくわしく話せないくらいの方がむしろいいんじゃない? きっとその方が二人のきずなは強いはず。私とヒロさんはそんなんじゃないから、無い物ねだりで密かに私自身はそう思う。あっ、すみませーん。ビールをひとつ。」

 地元の学生であろう。横を通り過ぎようとした売り子の男の子を茂子が呼び止めて、顕也にも欲しいものを聞く。

「何か食べたいものとかある? 私、食後のデザートがほしいわ。」

 観覧席には夕食のシウマイ弁当が付いていた。まだ開けていないが確かにデザートが入っているとは思えない。

「じゃあ、自分もデザートを。」

 茂子に合わせて顕也も冗談半分で言った。売り子が肩から下げているばんじゅうの中に、明らかにデザートは入っていない。しかし、茂子ができればスイカをなどと真剣に交渉すると、売り子がすぐ確認してきますと言ってビールだけ置いてどこかに行ってしまった。その世間ずれしていない誠実な対応に、茂子が感心する。

「娘と同じような年頃よね。アルバイトの大学生かな? えらいよね。売った分のいくらかはもらえるんだとしても、無いって言って手元にあるの売り続けた方が稼げるはずなのに・・・」

「確かに。健全ですよね。お金儲けだと思ってないからできるんですよ。こういう場所で花火を見ながら売り子をするって、なかなか経験できない仕事ですから。すべての意味で美容外科や水商売とは対極の仕事です。」

「フフフ。そんなふうに思ってるんだ。」

「ええ。茂子さんに出会って以降は。」

 そろそろ花火が始まりそうな気配である。茂子がだいせんの上の人影を気にしながら言う。

「村沢先生は、一体何がしたいの? 美容外科をやってたいわけじゃないでしょ。時々ヒロさんとそんな話になるんだけど、何でいつもそんなに壁を作ってるの?」

「か、べ、ですか? そんなつもりはないんですけど。」

「私、こんなんだけど安心して。根掘り葉掘りしつこく聞くつもりなんてないのよ。軽々しく人には言えない大事なことってみんなあるもの。そもそもお酒飲めないから、とってもからみが悪いし。」

「話せないことなんてないです。実は春頃から研究を始めたんです。まさにお金儲けとは無縁の研究。あのアルバイト以下の仕事です。これがなかなか大変で。」

「研究?」

「はい。」

なんの研究?」

「美人。」

 茂子がまゆをひそめて聞き返す。

「びじん?」

「はい。」

「びじんって、ブスの反対のやつ?」

「はい。」

「冗談言ってる?」

「いえ、本当です。数百万円の研究費がかかる美人の遺伝子の研究です。美人遺伝子、英語で言うとbeautyビューティー geneジーン、略してB-geneビージーン。こいつを見つけてやろうと・・・」

 茂子はからかわれていると思ったようだった。それにしては入念で熱のこもった顕也の話し方と、どこまでもうそ臭い具体的な内容が、顕也の意に反して茂子の笑いのツボを見事にとらえた。茂子は抑えきれなくなってクスクス笑い出す。

「フフフ、ヒヒヒヒ、ハハハハハ・・・ ビッジーン? 遺伝子? 研究費? 何それ? まさか、真面目なやつじゃないでしょ?」

「・・・」

 苦笑する顕也をちらりと見て、茂子がとっさに謝る。

「ごめん、笑い過ぎた? さてはそんな感じじゃなかったりする? ブスネタとは打って変わってこんな面白い話を準備してくれたんだから、笑い飛ばしてあげなきゃと思ったけんだけど・・・」

 茂子の反応はもっともだと顕也は思った。研究に多少なりとも理解のある自分だってそんなことがちゃんとした研究対象になるなどとは思いも寄らず、最初は嘲笑あざわらっていた。茂子さんは研究についてまったくの素人なのである。まして、最初に自分が口をすべらせてしまって以降はブスネタを面白可笑(おか)しく度々(たびたび)提供してくれた人でもある。詳細を知らされずにいきなり美人遺伝子と言われても、むしろ本当の話だと思ってもらうことの方が無理に違いない。経緯けいいをちゃんと伝えよう。なぜこの研究を始めるに至ったのか説明しよう。なぜ結果が出ること、美人遺伝子が存在することを信じてこの研究をやりげたいと思っているのか、全部、今日は言おう。でなければ前には進めない。今日は茂子さんに相談するためにここに来たのだ。

「そうなんです。自分の方こそ、いきなり突拍子もない話をしてすみません。実は、ちょっと横浜に関係のある話です。」

「あら、そう。横浜にいたことがあるんだっけ?」

「ええ、まあ。今のクリニックの前は、横浜の大学病院にいました。」

「へー。そういえばヒロさんから聞いたような気もする。じゃあ、何かあって辞めて美容外科に転職したんだ。美容外科ってそんな感じの先生が多いんでしょ?」

「そうかもしれません・・・。いや、確かに自分がそうです。」

「さてはその何かが重要ってことだ。あっ、ちょっと待ってね。」

 顕也が話し始めようとした時、茂子の横に売り子の学生が戻って来た。一口ひとくち大にカットされてプラスチック容器に入ったスイカを見つけて、わざわざ持って来てくれたのだ。ひとパック四百円くらいのスイカをふたパック頼んで、茂子が千円札を渡す。二人がそのやり取りをしていると、歓声とともにいよいよ花火が始まる。男の子は花火の方に振り向きもせず、茂子が財布を手提てさげに入れるまで、スイカの入った袋を両手で持って中腰ちゅうごしでじっと待っている。

「ありがとね。釣銭取っといて。」

 花火の音が途切れるのを待って、茂子が学生に耳打ちする。

「あ、ありがとうございます!」

 学生はぎこちなくそう言って満面の笑みでお辞儀じぎをすると、その場に何ともさわやかな空気を残してどこかに消えて行った。

 その余韻もあって、花火はよりいきおいよく、いっそう美しく夏の夜空に映えた。何ということもない花火のはずなのに、その意外な美しさに顕也は言葉を失う。研究の話は一旦いったん中断でよいと思えてしまう。話を続けないのは花火の音で声が通らなかったからでも、見上げていると首が疲れるような場所で花火を見物するのが初めてだったからでもなかった。見ているこちらが内に秘める簡単ではない事情がこの花火をこんなにも美しく見せているのだということをすぐに自覚する。たぶん茂子も同じように感じている。顕也と茂子は、弁当を食べるのも忘れて二人で黙って花火に見とれた。それは茂子の思惑どおりだったのかもしれない。

 夏の夜風と大輪の花火は嫌でも郷愁を誘った。適当に誤魔化ごまかしてきたはずの感傷が優しく顕也を襲う。花火に近付こうと両手で父と母の手を引っ張って川の土手を歩いた遠い記憶の中の幼い日、勉強なんてやってられるかと進級試験前日に級友たちと花火大会に行って全員追試験を受けた大学時代、この花火とはまるで違っているけれども夜空を飛び交うはかなげな光―そう、三人で見た横浜の郊外で人知れず命の光をともしていたホタル、海面に向かって尾を引くしだれ花火が消えていく瞬間に、そんな光景を昨日のことのように思い出す。本当はあの二人をこんな花火大会に連れて行ってあげたかった。そんな日常を夢見ていた。そんな希望に心燃やす日が確かにあった。ただ若かったと今は思う。

 はかなくも望む未来には限りがあった。命には限りがあった。あきらめるしかなかった。取り戻せないものをなげいても仕方ない。先になんて進まなくてもいい。忘れられなくてもいい。どうだったっけとぼやかしておけばいい。花火がきれいで酒がうまい、それでよい。そう信じてきた。それなのに、今更いまさら何をこんなに苦しんでいるのだろうか? 逃げ出したはずなのに、今日また同じ場所に戻ってきてしまった。この苦悩は一体何なのだろうか? あのアルバイトの学生のように、無限の可能性を信じて疑わない時代は誰しもある。ひと握りのバイト代にどんな希望をもいだいてよいという幻想から解放されて、人は大人になっていくのだ。ただそれだけ。みんな同じだ。自分が特別なんかであるはずはない。それぞれに苦悩と缶ビールを抱えてこの花火を眺めているに違いない。だからこそきっと、きっとそれぞれの思いに身を任せて何かを乗り越えようとすることもまた自然なことなのだ。この研究は美希に向き合うための必然、そう直感したのだ。

 もう迷ってなどいられない。前に進むしかないのだ。やり切って燃え尽きることができる時は、まさに今しかない。他でもなく一瞬の花火の輝きとともに止めどなくあふれてしまうこの感傷こそが、自分をこの研究にき動かしたのだ。命には限りがある。もはや自分をだましようはなかった。

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