(十四)
険しい道程が顕也を待っていた。研究が始まって三か月でサンプルは五十例にも満たなかった。研究を優先してすでに本業以外のアルバイトの多くを断っていたが、仮にこのペースが続いたとしても三年かかって目標の半分である。しかし、このペースが続くはずもない。収集開始直後は馴染みの店でお願いしたから難なく採取できたが、この一か月間に収集できたサンプルはたった四、五例である。このままだと予備解析すらできずに研究が立ち消えになってしまうことは確実だ。もっと多くの店に出入りして広く顔を売っておけばよかったのであろうか? 地道に続ければ交渉術が身に付いて打率が高くなっていくのであろうか? 顕也は、意気込みと結果のギャップに大きな不安を抱えていた。
追い打ちをかけたのは、梅雨時の深夜に訪れた店でのサンプル採取だった。その日は五軒ほど回って運よく一人だけ採取できていたので、この店で終わりにしようと思って入った店で、ついお酒の誘いに乗ったのが良くなかったのかもしれない。
「いらっしゃい。お一人? カウンターにどうぞ。」
こぢんまりした店なので、ドア付近までママが出て来て応対してくれる。
「いえ、ちょっと相談があるんです。いきなり来て申し訳ありません。」
「何の相談かしら。こんな時間だからお仕事じゃなきゃイヤよ。」
「それが申し上げにくいことに、研究のボランティアの話なんです。」
「へー。研究? 堅い話はよくわからないから飲みながら聞いたげるわ。どうぞ。」
そう言われて顕也はカウンター席に座った。たまたま暇そうだったから通してもらえたのであろう。実はこうやって話を聞いてもらえるのはまだいい方だった。この日も半分の店は忙しいからまたねと話すら聞いてくれずに門前払いである。話さえ聞いてもらえれば研究内容にそれなりのインパクトはあるので、その場のノリでOKをもらえることは時々ある。上手く話を持っていけば、当日でなくても紹介された店などで立て続けにサンプル採取にこぎつけることだってあった。この場で勧められるままに出された酒を飲んでいくことぐらいは何でもない。むしろ採血のお願いを断りにくくするためにも必要なことであった。
顕也は、隣に座ろうとした女の子を断って、ウイスキーの水割りをちびちびやりながらカウンター越しのママに丁寧に事情を説明した。反応は悪くなく、すぐに奥の休憩室から一人の女の子を連れて来てくれた。確かに顔立ちは美形であったが、少しぽっちゃりしている。
「サクラです。」
「あ、どうも。ありがとうございます。お酒飲みながら堅い話ですみません。美容外科医をやっております村沢と言います。ママからだいたいの話は聞いてもらえましたか?」
「はい。採血したいとかって。」
カウンターの上に研究の説明書と研究所の非常勤研究員の肩書きのある自分の名刺を並べながら、顕也が説明する。
「そのとおりです。研究をやっています。美人の遺伝子を調べたい。胡散臭く聞こえますが、かなり真面目な研究です。もちろん、個人のデータが外に漏れることはありません。調べる人間は私ではなく研究所の研究者で、個人の採血結果は外に漏れるどころかサクラさん本人や私にも教えてくれません。これは遺伝子に異常があったとしてもです。つまり、サクラさんに何のメリットもありません。三千円の謝礼だけです。」
「今採血するの?」
「そうです。お仕事中でしょうから、今駄目なら日時を指定してもらえればまた後日伺います。お店が始まる前後とかにまた来てほしいとおっしゃる方もいます。」
「じゃあ、今いいよ。今日はもう来なそうだから。」
顕也がリュックから取り出した謝礼の入った封筒と同意書とボールペンをカウンターに置いて、型通りの説明を付け足す。
「あと、こちらの同意書にサインをください。説明書に自分の連絡先も書いてありますから、後でよく読んで、やっぱりこの研究に自分のサンプルを提供するのは嫌だなあと思ったら連絡ください。その時点で研究対象から外してサンプルは破棄します。」
顕也が採血に必要な道具を準備している間に、サクラが無言で同意書にサインした。奥のテーブルに場所を移動して採血が始まる。
「ちょっとこれで照らしててください。」
顕也が小型の懐中電灯を採血と反対の彼女の手に渡す。採血に支障がない十分な照明を備える店など基本的にない。深夜の病棟に呼び出された医師が看護師に懐中電灯で照らしてもらいながら点滴の留置針を刺すことは、どんな病院でもごく普通の光景であった。
「うーん、ちょっと難しいかも。」
顕也が人差し指でサクラの肘をあちこち触れながら言う。失敗した時の伏線である。体表から血管が見えなかったり触れなかったりして採血が難しい腕はあるが、サクラの腕はその典型であった。肘の関節のところで僅かに触れる撓側皮静脈に一回目の留置針を刺すが、うまく血液が引けない。反対側の腕の同じような部位でもトライしたが、見事に失敗した。
「ハハハ。何回やってもいいよ。私、注射好きなの。」
幸か不幸か、サクラは大らかだった。彼女の言葉に甘えてここぞという秘策を取り出す。24ゲージのプラスチックカニューレの留置針だった。それはよく小児に用いられる細い留置針である。針は刺す時だけ機能して外側のプラスチックカニューレを血管の中に留置してくることで血管を傷付けずに確実に血管内に点滴薬を投与するための器材であったが、いわゆる血管が細い患者の採血にもよく使用される。顕也は、少し時間を置いて深呼吸した後、むっちりしたサクラの手関節辺りで僅かに触れる血管にその留置針を刺してみたが、今度もプラスチックカニューレがうまく血管の中に進まない。それでもうまくいくまでどうぞと言ってくれる彼女の両腕を刺し続けたが、とうとう持参した五本の秘策をすべて使い果たしてサンプル採取は失敗に終わった。
「すみません。難しかったです。」
ただ謝るしかなかった。顕也はテープで貼り付けたアルコール綿だらけの腕になったサクラに頭を下げて、その場を撤収した。
数日後、顕也はお店のママに呼び出された。仕事が終わって雨の中をすぐに店に駆け付けると、ママが仁王立ちしている。
「先生、困ります。この子、翌日から手がアザだらけになって、あんまりみっともないから包帯巻いて出勤してもらったんだけど、お客様がそれは怒ってましたわよ。とんでもない医者がいるもんだって。この子はこれでいいって出勤してくれるけど、ふつうの子はこんな腕で仕事なんかできないって言うと思います。」
もっともだった。ママの後ろで片方の腕だけ包帯を外したドレス姿のサクラが無表情に突っ立っている。その白い腕に紫色の皮下出血が三、四か所見えたが、ママの言うとおり怒っている素振りはなく、あっけらかんとしていてこちらを向いてもくれない。彼女の腕以上に、顕也は自分が痛々しかった。彼女が怒っていれば、むしろ顕也の気分は吹っ切れていたのかもしれない。その場の雰囲気に任せて何度も採血をトライした挙句、サンプル採取には失敗してママに呼び出されて大目玉、当の美人はまさに野良犬に咬まれたとでも言うような鼻にもかけない態度、何から何まであまりにも惨めだった。こればかりは誰かのせいにするわけにいかなかった。今まで業務上のちょっとした失敗を、散々病気のせいにしたり患者のせいにしたりしてきたことを実感する。本来彼女に何の必要もない採血だったのである。すべて自分の責任であった。
「包帯の費用とか・・・お支払いさせていただきたいのですが・・・」
念のためママに補償を持ち掛ける。
「そんなのいらないわよ! 二度とうちのお店に近付いたらただじゃおかないから!」
そう言われて深々とお辞儀をして無言でその場を去った顕也は、土砂降りの雨の中で赤信号に立ち止まると、傘をずらして空を見上げる。大粒の雨が気持ち良い。ほんの五秒で雨か涙か鼻水かわからなくなる。
(どうにもならないことはある。諦めるしかないかもな・・・)
その日以降、採血の道具が入ったリュックはロッカーに仕舞い込まれたまま、しばらくクリニックから持ち出されることはなくなった。
心が折れそうな顕也をさらに追い込んだのは、他でもない佐伯だった。一か月近くサンプルを届けに来ない状況を確認するために、電話がかかってきたのだ。その口調は優しかった。
「あんまり集まってないようだけど、体でも壊したのか? 無理しなくていいよ。」
最初はそんな感じだった。
「一人じゃ難しいんじゃないかと思ってたけど、どうなの? 誰か手伝ってくれる人は見つかった?」
「いや、そんなんじゃない。交渉がもうひとつ上手く行かない。打率が予想より低くて、ノウハウを模索してる最中といったところかな。」
顕也が強気に継続中を主張するが、本当は一か月近く前に採取できたサンプルを最後に最近は収集に出かけてもいない。何とかその場を取り繕う。
「やり方がわかってきたら、クリニックで興味ありそうな同僚にでも声をかけて手伝ってもらおうと思ってる。」
「現実、もう始まって四か月くらいだから大幅に遅れていると考えてよさそうなんだけど、その採血のノウハウの構築から誰かに手伝ってもらうわけにいかないかな? 本来、この規模のサンプル収集を一人でやるなんてありえない。最低でも十施設くらいが共同研究施設になって、寄って集ってやるのが普通なんだ。美容外科は夜遅くまで日常業務がなくて週二日は休みだって聞いていたから、ひょっとするとそんなこともできるのかもと思ってたんだけど。そこはじゃあ、サンプル集めの大変さという点で、他の研究対象とあんまり違わないってことだ。」
「そういうことになる。」
佐伯がその暗い返事に一筋縄ではいかなさそうな雰囲気を察したのであろう。
「もうちょっと様子見てていいかな? このままだと、とりあえず解析してみようというサンプル数は到底見込めない。やめるなら今のうちかな。まだほとんど研究費を持ち出してないから、傷が広がらないうちに引き下がるのは正しい。今だったら、周りは真っ当な判断だったと言ってくれる。内容的には誤解を生みやすいテーマだけど、やっぱりあの研究は計画当初からいい加減だったからなぁ、なんてことにはならないと思う。真っ当で素敵なチャレンジ、やろうとしただけでも立派な足跡を残した、そう捉えてくれる人はいると思う。今なら絶対そう言える。なーに、こんなもんさ。同じように頓挫する研究なんて山ほどある。それも醍醐味。気にしない気にしない。」
その言葉が佐伯の本心なのか自分への気遣いなのか、顕也にはまったくわからない。顕也のサンプル収集の遅れを窘めるものでないことは確かであった。その余裕がますます顕也を追い込む。心はすでに揺れていた。自分には信念を貫く図太さもなければ、試してみる打開策のアイデアこそまったくない。佐伯の提案どおり、やめられればどれだけ楽になるだろうか。ただ、今すぐやめるのは嫌だった。相当なスレスレだが、まだ精神的に限界ではない。もうちょっともがいても、あと少しだけ耐えられそうな気もする。
「開始から半年。そう、あと二か月、秋まで待ってもらえないか? 試してみたい方法がある。」
適当な嘘だった。時間稼ぎに過ぎなかった。現実逃避と言ってもよかった。
「わかった。二か月だけこのまま様子を見よう。秋に状況が変わってなければ中止。それでいいと思う。研究は時間との戦いだから。他にもやることがいっぱいあるんだ。」
佐伯は、明らかに顕也には想像もつかないような遠いところを見ていた。そもそも佐伯は癌の遺伝子の研究がライフワークなのである。患者が生きるか死ぬかの問題に研究者として最前線で正面から立ち向かっている佐伯が、こんな窓際の枝葉末節とも言えるような自分の研究に本気で付き合ってくれて、うまくいってなさそうでも気にするなと言ってくれるのである。すべて佐伯の言うとおりだった。佐伯には他に取り組むべき研究が山ほどあるに違いない。今すぐ中止だと言われても、顕也に文句を言う権利など一切なかった。
「ありがとう。もうちょっとだけ頑張ってみるから。」
そう言いながら、顕也はいっそう惨めな気分になった。佐伯と自分の立ち位置を比べてしまうこともあって、今はどうしてもやめれば格好悪いと感じてしまう。しかし、二か月あれば自分の中でうまく処理して無言で研究所から去ることがすごく格好悪いわけでもないと思えるようになっているのかもしれない。また酒に逃げればいい。酒があれば何とでもなる。二か月という期間はそんな執行猶予にも思えてくる。一方、佐伯の言葉はどこまでもポジティブでひた向きさと自信に溢れていた。
「ぶっちゃけた話、この研究はロバートにトライしたけどダメだったって言えるようにだけはしたい。その報告が一番の目的かな。彼とのコネクションは重要だからね。彼は口癖で、なぜダメかわかればそれが一番の収穫、ダメな原因を知るだけでもやる価値がある、いつもそう言ってる。ダメだった理由をすごく詳しく知りたがるけど、こうすればうまくいったのになんてダメだったことを責める姿を見たことがない。それがまた彼のすごいところなんだ。」
佐伯が嬉しそうに最後にそう言った。要するに、最初から佐伯にとっては取るに足りない研究だったのである。つまり、簡単に言ってしまえば、下請けの下請けとして自分が利用されたのだ。さらに、サンプル収集がうまくいっていれば最後の結果が出るまで他のすべてを任せろと言ってくれているのだから、中止になればその責任はどう考えてもすべて自分にある。間違いなく自分が責められても佐伯自身が責められることはない。あるいは、考えたくもないが、周囲の研究仲間や研究室の教授からはもちろん、ロバートからも、佐伯自身が責められることがないように最初から計算ずくで推し進めた研究だったのかもしれない。自分と同じような臨床医が大勢いたであろう彼の研究の背景が、今では何となく理解できる。研究がうまくいってもいかなくても佐伯の勝ちだった。完璧な研究計画である。顕也は完全に打ちのめされた。




