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(十三)

 顕也はまずプレゼンテーションの準備に取りかかった。佐伯の所属する研究室では、臨床医が様々な疾患に対して遺伝子の網羅もうら的解析を行っていた。もちろん実際に遺伝子解析を行うのは佐伯たちのような本職の研究者であって、臨床医の役割は、そこそこ臨床に関わりながらサンプルを収集することであった。大学院生として研究所に所属したり、非常勤研究員のポストを用意してもらったりして、生活できる程度の診療を行いながらひたすらサンプルを収集するのである。

 研究対象になりそうな疾患があれば、まずは研究の着想を得た臨床医が直接研究室でプレゼンテーションを行う決まりになっていた。高額な研究費を必要とすることもあり、その研究に着手するかどうかは佐伯一人で決められることではなかった。とはいえ佐伯の研究室の研究費は潤沢じゅんたくにある。佐伯が推す研究であれば、研究費をケチってやめておけと言われてしまうことは基本的にあまりないらしい。

「ロバートに聞いておいてくれた?」

 栄養ドリンクのフタを開けながら、顕也がかすように佐伯に聞く。顕也は二日後に迫ったプレゼン準備の途中経過を見せるために研究室に来ていた。部屋に他の研究者が数人いたので佐伯が小声で答える。

「ああ。ロバートもいいんじゃないかって言ってたよ。よくもまあ、サンプル集めに夜な夜な銀座のクラブを回るなんて役目を引き受けるよな。」

 佐伯の対応はとても速かった。普段から他の分野の臨床医たちとの同じようなやり取りがたくさんあるのだろう。

「ダメじゃないだろ。美人いるぜ、いっぱい。彼女たちだって容姿を伴わなければその仕事にけない連中だし。」

「そりゃあそうさ。村沢が言ってたとおり、ロバートも東京のナイトクラブの各店で一番の美人とされる女性でいいんじゃないかってさ。日本ではそういうのをナンバーワンって言うんだって説明したら、その称号はパワフルだからぜひ論文で使えだと。大丈夫かな?」

 佐伯が少し心配している。ロバートが後ろ盾だとわかれば大半はプレゼンを好意的に見てくれるであろうというのが佐伯の見立てであったが、明らかにかたい雰囲気の研究室にそぐわない内容であるため、できるだけプレゼンは穏便おんびんに済ませたいという思いもあるようだった。

B(ビー)-gene(ジーン)なんて造語も使わなくていいから。個人的には気に入ってるんだけど、まだこの二人の間だけの呼び方でいい。何よりもみんなの心配事は本当にそんなサンプルが集まるかどうかだ。できるだけバイアスを排除したきれいなサンプルを集める人材が、現時点で村沢一人だっていうところがもっとも弱い。必ず質問はそこに集中する。ロバートも言ってたぜ。」

「何だって?」

 佐伯がにんまり笑う。付き合いが長くないとできないそのれしい笑い方に、あーよせよせと顕也が言う前に佐伯が続ける。

「天ぷら屋で村沢と最初に会った時に隣にいたレディがまさにナンバーワンホステスだってロバートに説明したら、『彼はプレイボーイだったのか! そうは見えなかったけど。』だってさ。夜のドクタームラサワは頼りになると伝えたら、アンビリーバブルだって言ってた。」

 そこだけ佐伯の声が大きくなって周囲の研究者がちらちらこっちを見る。この研究室でも佐伯は雰囲気の読めないヤツなのであろうか? みんな佐伯程度に空気を読めないからたいして浮くこともないのであろうか? 実態がまったくつかめない。

「大きなお世話だって言っといてくれ。」

 顕也が真面目に答えると、佐伯も不安を隠さない。

「俺は別に疑ってない。何があったか知らないけど、銀座で連日クラブ通いの村沢なんて学生時代からは考えられないから、本当に美人をそんなにたくさん集められるのかどうか心配になるロバートの気持ちもわかる。」

「任せてほしい。サンプル集めを手伝えって言ってるわけじゃない。」

「ああ。幸運を祈るよ。」

 すでに、この時点でこの研究は顕也を中心に走り出していた。顕也としても当然これに異論はない。ロバートの本当の思惑など知りようはないが、彼が興味だけでその分野の頂点にのぼめた研究者の鏡だという佐伯の話を信用するのであれば、その信念は今の自分も決して負けてはいない。ただ真実が知りたい。純粋なその思いだけはロバートにもまさっている自信があった。

 プレゼンテーションは、ただその気持ちをぶつけるだけであった。当日は、いかにも研究者らしい風貌ふうぼうの十人くらいのメンバーの前で、顕也は座ってじっくりプレゼンを行った。正直なところ、相手が一人でも百人でも同じだった。そもそもこのメンバーに理解を得ようとは思っていなかった。顕也としては、研究費が確保されて研究が遂行すいこうできればそれでよいのである。佐伯もそんな顕也の得体の知れない意気込みを理解してくれており、プレゼンはお茶を濁せばよいという指示を何度も受けている。佐伯の入れ知恵どおり、口唇口蓋裂こうしんこうがいれつの疫学から始まり、美人の顔面形態の特徴や、顔面形態異常と他の先天異常の合併を検証した過去の報告なども引用して、できるだけ論理的に美人遺伝子の存在を検証する妥当性を伝える。プレゼンを終えると、教授であろうか? 研究室のトップらしい人物がすぐに発言する。

「これ難しいんじゃない? 出ないと思うなあ。佐伯さん、どうですかね。」

「確かに。私も半信半疑です。」

 佐伯の答えに続いて、大半の研究者が熱心に意見してくれる。顕也よりも若そうな研究者も複数いる。

「疫学的に遺伝的な証拠が希薄なので、こういう場合はまず中国のクレフトの報告が出るのを待ってから全体として不顕性ふけんせいの保因者がどれくらいいるのかみる。次に、その全体の保因率と美人の保因率に差があるかどうかをみる、という順序が正攻法なんじゃないか? 大変な作業なので、そこまでやる価値がないのでは・・・」

「美人が先天異常というならクレフトにしぼらないで美人という集団に一般集団と比べてどんな遺伝子異常が併存しやすいかを広く見た方がより結論に近付くのではないか? あればラッキーという内容なので、極端に労力が増えない限りまとしぼらない方が賢明。」

「目、鼻、口、顔の各パーツを平均値にすると美人になるという説がもし本当なら、美人は平均の中の平均、正常の中の正常ということになる。これは美人が先天異常だという説とこう矛盾するのではないか?」

「美人薄命という言葉がある。これは歴史の中で多くの人々の洞察から出てきた言葉だと思うが、遺伝的欠陥という要因をはらむ可能性を示唆しているととらえられなくもない。」

「美人の多くは父親似だという都市伝説のような話をよく耳にする。口唇裂こうしんれつは女性よりも男性の方が多いという疫学的な事実とその都市伝説が何か関係があるように見える。口蓋裂こうがいれつは女性の方が多くて小顎症しょうがくしょうに続けて起こりやすいという発生メカニズムもあるとのこと。であれば、潜在的に、女性は顔が小さくて小顎の傾向があるから口蓋裂こうがいれつが多い、男性はゴツゴツした顔面の傾向があるから口唇裂こうしんれつが多い、このゴツゴツした顔面の父親に似た娘こそ美人なのかも。ちょっと飛躍し過ぎ? 形成外科医はこの男女差をどう考えているか?」

「クラブのママはもとナンバーワンが多い。解析に年齢は関係ないので現役の美人でなくてもよいのではないか?」

「ナンバーワンなんてただの呼称。クラブによって所属人数が違うから上位十パーセントにすれば数を増やせる。」

「虚栄とうそばかりの夜の世界で、整形美人をどうやって見抜くのか? 美容外科医的な見方をすれば簡単に見抜けるものなのか?」

 役に立ちそうな斬新ざんしんな質問から素人の感想に毛が生えたようなアイデアまで、様々な意見をかなり自由に言ってくれることに驚いたが、佐伯の表情を見る限りではどうやらこんなものらしい。少なくとも、確かにここでダメという結論にはならなそうであった。銘々(めいめい)言い尽くすと、教授が佐伯に軽い調子で質問を投げる。

「佐伯さん、あのロバート先生はこんなものをやってみろと言うんですか?」

 待ってましたとばかりに佐伯が答える。

「ええ、そうです。どちらかというと乗り気で。やれば出るだろう、くらいな。」

「うーん。こいつはトライアルにもならん気はしますがね。ロバート先生もおとしを召してどこかあせっておられるのかなあ。」

「多少端折(はしょ)っておられる気配は感じます。」

「まあ、遊びの部分も必要でしょう。こんなものから意外な結果が出ることもあるのは確かですから。」

 トライアル? 遊び? 意外? こんなもの? 顕也には引っ掛かる言葉だらけであったが、この連中に悪気はない。佐伯の忠告に従ってただ聞き流す。真実さえ突き止められればそれでよいのである。教授が佐伯と現実的な相談をし始める。

「佐伯さん、それで、村沢先生のお立場は?」

「非常勤でいいかと。稼ぎはばっちりです。美容外科ですから。」

「村沢先生には基本的に今のままお仕事をしながら夜がんばっていただくということですかね。」

「そうなんですが、サンプル収集のペースをみて臨床のペースは減らしてもまったく問題なさそうです。見てのとおり、稼ぎの割に元々(もともと)お金に執着がないようですので、私が説得します。たぶん研究の方を取ってくれるはずです。」

 他の研究員が、顕也と佐伯を交互に見ながらクスクス笑っている。人物紹介と研究への意気込みは事実なので否定できないとしても、臨床家と研究者のギャップを感じるところではあった。なごやかに笑いで場が閉められた状況からは、気持ちの持ちようによっては妖怪どもが自分を少しだけ仲間扱いしてくれていると感じ取れなくもない。最後に、教授が顕也に直接確認する。

「村沢先生、そんな感じでよろしいですか?」

「もちろんです。ありがとうございます。」

「おっ、村沢先生は美容外科医のイメージと確かにちょっと違いますね。この前の血液内科の若い先生、髪が茶色でため口でしたからね。」

 場内にどっと笑い声が上がる。その笑い声や雑談といっしょに参加者が退室していくのに重ねて、佐伯が教授に念を押されている。

「万が一出れば村沢先生がファーストでいいんですかね? 所属の重心がここにない先生がファーストというのはあんまりないことだと思いますが。もちろんお二人の間でよければそれでいいんです。」

 佐伯が静かにうなずいている。論文の話であろう。顕也にはどうでもいいことであった。


 翌月の倫理委員会には顕也も共同研究者として会に参加した。研究の対象が奇抜なので書類の作成にいつもより苦労したということを、佐伯から委員会当日に打ち明けられた。会議中ほとんど佐伯の横で話を聞いているだけの顕也にはよくわからないことであったが、その研究のためだけに被験者ひけんじゃの身体から直接サンプル収集を行う介入研究の場合は、承認のハードルが高くなるらしい。遺伝子解析となれば尚更なおさらのようだった。会議で、佐伯は委員会のメンバーから改善すべき点をいくつも指摘されていた。ただ、多くは本質から外れた書類の誤字や文体の指摘などで、素人が聞いていても全員が集まる会議でやる内容ではないように思われた。それに淡々(たんたん)と応じる佐伯は立派だった。顕也自身はサンプル収集を実際に行う者として二つほど質問を受けただけで、明らかに佐伯主導の研究を手伝う補助員とみなされていた。それはもちろん佐伯の采配であった。

「書類は全部任せていい。それが仕事だから。」

 倫理委員会の後に二人で今後の打ち合わせをした時にも、佐伯は繰り返しそう言ってくれた。顕也は委員会の直前に初めて提出書類に目を通しただけで、意見することはおろかサインの一つもなかった。それは顕也にとってありがたかった。

 佐伯の努力が実ったのか、いつもの流れなのか、すぐに倫理委員会で承認されて収集が始まった。研究期間は三年、予定被験者(ひけんじゃ)数三千例であったが、五百例程度の予備解析の結果次第では打ち切りにしようと佐伯に言われていた。それくらいで何もつかめなければその先も何もつかめないだろうというのが佐伯の見立てであった。

 研究費は研究所が各研究室に一律いちりつに割り振る研究費から捻出するという設定になっていたが、実質これは書類上の話であった。むしろ同様の遺伝子解析に相応ふさわしい研究対象を臨床医が研究室に持ち込むのをただ待っていてもそれほど多く集まるわけではなく、佐伯のような立場の研究者が積極的に探りを入れて現場に出向いて初めてそのような研究対象が開拓されていくらしい。そうなると、獲得した研究費をかし切るという意味では、この美人遺伝子のように、かなり不透明な研究に研究費を割り振ってでも使用実績を築かなければならないというのが実情のようであった。要はそれくらい潤沢じゅんたくに研究費があるということであった。

 サンプルは血液である。顕也はとりあえず毎晩のように保冷バッグと採血の道具の入ったリュックを持ってクラブを回った。同意書にサインしてもらって採血管に6㎖採取すると、一旦いったん自宅に持ち帰って冷蔵庫に入れておく。一、二週間に一度、サンプルの採血管が貯まってくれば、それをクリニックに出勤する時に持ち出して帰りに佐伯のところに届ける。ただこれだけであった。研究計画書には採血はクリニックで行うことになっていたが、これは無視した。お店がいている時にお邪魔して、すみのテーブルを借りて採血させてもらうことがほとんどだった。佐伯もこの事実を知っていたが、見て見ぬふりをした。その全責任は顕也にあった。顕也もそれでよかった。三千円の謝礼でわざわざクリニックに出向いてもいいという女の子がいるはずがないのである。そんな非現実的な計画書の内容を指摘できる倫理委員会のメンバーなどさらにいるはずがなかった。

 まずは、よく出入りする十軒ほどのお店に出向いて採血をお願いして回った。もともと連絡先を知っている女の子や顔見知りのママに研究内容を説明して、とにかくいわゆる美形、整った顔立ちの女の子を紹介して欲しいという切り口で話を進めて被検者ひけんじゃに該当しそうな女の子を紹介してもらったのである。馴染なじみのある常連客の顕也が採血くらいで断られるはずもなく、あっという間に三十例程のサンプルが集まった。しかし、そこに顕也の最初の大きな誤算があった。基本的に自分は客だったのである。出入りしたことのない店に一軒一軒回ってもまったく相手にされないことが半分以上で、話を聞いてもらえたとしても当の女の子の反応がすこぶる悪かった。

「採血きらーい。痛いのきらーい。」

「私じゃなくても他にもっといるわ。」

「あたしが何か得するわけ?」

 大抵たいていはこんな調子で惨憺さんたんたる結果であった。すぐにサンプルの数は伸び悩んだ。一先ひとまず客としてお店との関係を築いてから研究の話を持ち出すなんてことをやっていたら、どう考えても三年はおろか十年かかっても終わりそうにない。どうしたものであろうか? クリニックのロッカーに積み上げられた何百本というからのままの採血管を見て、顕也は天をあおぐ。

(始まったばかりだ。あきらめるわけにはいかない。)

 佐伯の言う通りだった。顕也は仕事を切りめてでもこの研究を成しげてやろうと奮い立った。

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