(十二)
「冗談だろ。それは無理だ。」
ちょっと気になって顕也の方から電話でアイデアを伝えた時、佐伯は最初に思い切り吹き出して笑いながら顕也をあしらった。顕也としては軽い気持ちで電話しただけなのに、真面目な佐伯はいきなり仕事モードに切り替わってまったく耳を貸さない。
「美人の遺伝子解析だって? そんなもん無理に決まってる。言ったとおり、何の役に立つのかがすごく大事なんだ。だいたい美人をどうやって定義するんだよ。治療が必要な疾患とかじゃないんだから。」
そのとおりだと思ったが、臨床医の直感でいいとか言ってたくせにそこまで頭ごなしに否定するのかと、顕也は内心苛立った。何でもいいから気になったら教えてくれと言ったのはそっちではないか。馬鹿にするのもいい加減にしろと怒鳴り付けたい気持ちをグッと堪える。ただ、頭では理解できた。佐伯にはとても言えたものではないが、自身も少し研究に身を置いた経験はある。年齢、性別、身長、体重、そして検査結果などのデータは扱いやすいことぐらい承知している。それらは定量データといって数値化できるので比較しやすいのだ。当然ながら美人を数値化することは不可能であり、これは定性データという。数値化できない定性データを比較することは困難である。しかし、どう考えても白金の研究所で聞いた佐伯の話はこの常識を否定しているように聞こえた。定性データであっても自分の遺伝子の研究でちゃんと目に見える形で違いを証明してやる、と息巻いていたのではなかったのか? 定性データであっても数さえ集めて遺伝子という正確な情報を網羅的にすべて解析すれば差が見えることがあると豪語していたのではなかったのか?
「数はそれなりにいるし、真面目に美容医療の臨床現場で引っかかってることを言ったまでだ。よくあることだと思ったんだよ、一族代々美男美女ばっかりみたいな話。こう言っちゃなんだけど、こんなブサイクな両親からどうしてこんな可愛い子が生まれるんだ、なんてこと、実際はあんまりないじゃん。それはレアケースだよ。可愛い子って、両親どちらかがそこそこ整ってるってことが多いんじゃないかな。誰も異論ないと思うけど・・・」
顕也が怒りを抑えて淡々と意見するが、電話では秘めた怒りがまったく伝わっていない。無駄だとばかりに佐伯が口を挟む。
「わかった。それはいい。わかったよ。冷静に考えて、それは個性だ。顔の形がみんな違って、濃い顔の両親から濃い顔の子が生まれる、薄い顔の両親から薄い顔の子が生まれる、そんなことは当たり前。美人とか美人じゃないとかってのは、後から周りが決めてるだけで、そんなもんに責任遺伝子があるはずがない。」
佐伯の口調は明らかに顕也を馬鹿にしていた。
「いいか。だいたい美人なんて定義しようはないし、仮に美人に何らかの枠組を構築できたとして、誰がどうやってその病院に受診することのない健康な連中のサンプルを採取するんだよ。話にならん。」
さすがに顕也は頭に来た。ここまで言われると、そのいかにも研究者っぽい理屈でしか物事を判断できないガチガチ頭を逆に馬鹿にしてやりたくなった。しかし、その対応はあまりにも子供っぽい。顕也は声のトーンを落として静かに見当違いを詫びた。
「そんな簡単じゃないってことだな。悪かった。こんなことで電話して。」
ガチガチ頭に十分な軽蔑を込めてさらに淡々と言ったつもりだったが、何しろガチガチ頭である。どうにも伝わらない。まったくの厚意で思い付いたアイデアを軽く口にしただけでここまで話が噛み合わないとは、かなりの相手である。話にならんと言いたいのはこっちの方である。嫌味の一つも付け加えたくなったが百歩譲ってそれは止しておこう。自己嫌悪に陥りたくはない。そもそも佐伯とは同じ医師でも仕事の対象がまったく違っている。この先二度とこちらから話したいと思うことはないだろうと考えると、逆に馬鹿っぽくて愛想を尽かされるくらいの方が、とっとと縁は切りやすい。
「やっぱり自分は研究には縁がないね。毎日患者さん診てる方が性に合ってるかな。楽しいよ、臨床現場。せいぜい頑張って出世してくれ。」
「ありがとう。つまらないことでもいいから連絡くれるのは助かるよ。」
最後までガチガチ頭の言葉遣いはどこかおかしい。形だけのお礼はともかく、つまらないと思えば連絡などしないわけで、そういう言い方はないだろう。悪気のないことは理解できるが二度とこちらから連絡などしないと心に誓う。
じゃあな、とここで電話を切れば何も始まりはしなかった。なぜ怒りの冷めやらぬこのタイミングで、さほど重要とも考えていなかった他愛ないエピソードを付け加えて話そうとしたのか、顕也自身もまったくわからない。臨床現場には色んな出会いがあって、それこそ美人のスタッフや患者さんだっているから楽しいぜ、と暗に言いたかっただけなのかもしれない。最初に佐伯の仕事が遺伝子の研究だと聞いた時に、こども病院の遺伝科という診療科をちょっと思い出したからなのかもしれない。ただそれをここでふと佐伯に言ったという自身の行為が最大の謎だった。
「臨床現場って言えばさ、以前こども病院で働いてた時に、スケベな中年外科医と爺さん先生二人、酒飲みながら口唇口蓋裂の子供のお母さんは美人が多いとかって言ってたんだよな。不謹慎な話だけど、実は自分も大いに心当たりがある。だから何だ、って感じだよな。口唇口蓋裂は日本じゃ数が集められないって言ってたしな。」
顕也の迷いがそこに導いたとしか言いようがない。当然、顕也はそう言いながら美希と彩乃のことを思い出していた。佐伯にはまったくわけのわからない話であろう。少し気になっていたエピソードであったが、口唇口蓋裂の研究は中国が先行していると聞かされて、特に話すような内容でもないと思っていたのである。
しかし、顕也の勝手な解釈は見事に外れていた。佐伯がこの話にいきなり食い付いたのである。
「ちょっ、ちょっと待った。今なんて言った?」
まったく悪びれることなく、佐伯が手のひらを反して問い質す。
「口唇口蓋裂の子供のお母さんは・・・美人が多い、ってこと?」
顕也はその勢いに思わず引いてしまう。
「そっ、そっ、そうだって言うんだ。言ってた爺さん先生たちは、形成外科の部長と遺伝科の部長の先生。遺伝科の先生なんてけっこう有名な先生だったけど、ほんとにどうしようもない連中だろ? お前らいつも診察しながらそんなとこばっかり見てるのかって。」
「それは面白い。その二人が他に何言ってたのか思い出せないか?」
確かにその件で二人が妙に意気投合してはいた。盛り上がって色々大袈裟に言い合っていたような気はする。
「いやぁ、あんまり覚えてないけど、目が人並み外れて大きければ美人と言われるけど人並み外れて小さければ先天異常を疑われて遺伝科に紹介されて来る、結局先天異常かどうかの判断は小児科医の主観じゃないか、って言ってたな。でも、お母さんが美人っていうのは口唇口蓋裂の話だぜ。話が面白くても使えないだろ?」
「まあ、確かに。ただ、現場でそういう意見があるっていうのはちょっと面白いな。違う二つの科の年配の先生たちが同じ意見、っていうのも興味深い。」
佐伯に変な刺激を与えたかもしれない。自分のアイデアを受けてもらったらもらったで面倒臭そうだと感じさせるところが研究者全般に共通する奥深い習性かもしれないという偏見を、強く再認識させる研究者こそ佐伯であった。
「そういう入口は決して悪くない。探りを入れる価値があるとも思えないけど。何の役に立つのか自分にはまったく見えないし。でも覚えてはおくよ。優先順位は限りなく低いから、ちょっと時間をもらうことになる。」
そう言って佐伯は電話を切った。時間をもらうも何も、それ以上の佐伯の研究など顕也の知ったことではない。徒労に終わった時に文句を言うために責任を分散しようとしているようにも聞こえなくはない。やり取りを拒否するほどではないが、佐伯との話があまり噛み合わないことは、この先も諦めた方が良さそうだった。
このくだらないやり取りは、顕也がまったく想像もしなかった方向に向かった。発端は、少し自身の興味もあって、美人を対象にしてはどうかと言ってみただけであった。あまり関わりたくもないが、顕也としては佐伯の研究の助けになればと思った、ただそれだけである。それ以上のことは何も考えていなかった。佐伯の反応もどうということはなかった。後で冷静に考えれば、電話口で佐伯の見せた何となく興味がありそうな素振りは、とんちんかんなアイデアを伝えてくれた馬鹿な臨床医に対する彼なりの気遣いだったのだと受け止めていた。
ところが佐伯の動きは速かった。一週間後にかかって来た電話で、佐伯は明らかに興奮気味だった。美人はいけそうだけど詳しく話すからとにかくまた白金の研究所に来てくれの一点張りだった。ぜひ美人の遺伝子解析を推したいというのだが、何がどういけそうなのかさっぱりわからない。仕方なく顕也はその日のうちに白金に向かった。提案した責任がまったくないわけでもない。顛末ぐらいは聞いてやろうと思った。
「頭の固い連中に言っても埒が明かないので、ロバートにメールで相談してみたんだ。彼、何て返事くれたと思う?」
佐伯に頭が固いと小馬鹿にされているのは、ここの研究者たちであろう。顕也から見れば頭の固さについては申し分ない佐伯にそう言われてしまう者たちは、たぶん人間ではない。きっと妖怪である。
「わからない。どうせ応援してるとか言ってゴーサインが出たんだろ? 大変だな、佐伯も。日本に戻って来てもロバートの一言に振り回されてたんじゃ、身が持たないぜ。理解に苦しむよ。」
夜十時を回ったこの古い建物の奥深くに怪しく蠢く妖怪たちを想像して笑いそうになりながら顕也が答える。案の定、佐伯は顕也の答えなど何でもよさそうである。あくまでも自分のペースで一方的に生き生きしている。
「それが何と、羨ましいって言ってきたんだ。自分はそういうことをやりたかったって言ってるんだよ。」
「はっ?」
顕也にはまったく理解できなかった。どういう思考過程でそういう考えに至ったのであろうか? 不覚にも、地球の裏側に棲む妖怪たちのラスボスの意見を、佐伯から聞いてみたいと思った。
「ロバートは、最初に美人の遺伝子と伝えた時から、詳しく教えてほしい、って言ってきたね。さすが自分とは違うと思ったよ。それで、日本の複数の臨床医が口唇口蓋裂、つまりクレフトだな。クレフトの患者の母親は美人が多いと言っていると伝えたら、な、な、な、なんと、ロバートもそんな気配を感じてきたって言うんだ。そればかりか、アメリカでクレフトを扱ってる頭蓋顎顔面外科って言うのかな? クラニオマキシロフェイシャルの先生たちの中にも同じようなことを言う先生が何人かいたっていうんだよ。これはさすがに自分も驚いたね。」
確かにそれは興味深かった。顕也の頭に十年近く前の記憶が蘇る。酔っ払ったこども病院の遺伝科の部長が、見方を変えれば男前や美人は体表先天異常みたいなものじゃないか、とも言っていたことを思い返す。国も人種も言語も違う、経験豊富な遺伝の専門家二人が同じようなことを言っているのである。何よりも顕也は、あまりにも身近に美希と彩乃という典型の親子を知っていた。これはやはり偶然ではないかもしれない。様々な思いに言葉が見つからない顕也に、佐伯が説明を続ける。
「ロバートが言うには、顔の形には個性がある。彫りの深い顔、浅い顔、高い鼻、低い鼻、大きい目、小さい目、当然それらは遺伝子という設計図で親から子に遺伝する。当たり前だ。親と子の顔は似る。その顔の形を決める遺伝子に異常があってクレフトが生じる。クレフトの関連遺伝子がすでにいくつも突き止められていることは話したとおりさ。ただ、その遺伝子を持っている人が全員クレフトになるわけじゃない。むしろクレフトを生じずに一見して正常という人の方が実は多い。なぜ同じ遺伝子をもっていても疾患を発症したりしなかったりするのか、これは今のところまったく解明されていない。でも、顔の形を決める遺伝子に異常を持っている人がクレフトを発症していなくても、平均的な顔に比べて何かちょっと特徴的な顔の形をもって生まれてくるということは十分にあり得るんじゃないかって、ロバートは言うんだ。もっと言うなら、その特徴的な顔の形は、目が大きいとか鼻が高いとか顔が小さいとか、そう、美人の条件だったりすることがあり得るんじゃないか、って。遺伝子の同じ場所に異常がある時、白黒はっきりその遺伝子が発現するかしないかじゃなくて、緩く発現すればチャーミングな目鼻立ちになるけどしっかり発現すればクレフトを発症するなんてことがあるんじゃないか、とも言ってた。そこだけ聞けば飛躍し過ぎてて眉唾ものだけど、どうやらそうじゃない。あくまでも臨床のドクターの意見を整理して考えてみたからこそ、そういう推測に至ったという過程が重要なんだ。実際、クレフトだって片側や両側、口唇裂だけとか口蓋裂だけとか、色んな裂のタイプがあるわけだろ。顔の形を決める複数の遺伝子異常のオーバーラップが、美人とクレフトという大きな振れ幅で発現していることは大いにあり得るらしい。それが彼の主張さ。Beauty Syndrome なんて呼んでたぜ。そんなことあるのかな? 正直、ロバートがぜひやってみろというから、あるのかもしれないと思ってる。」
顕也も同じ考えだった。たった一組の親子だけで何も言うことはできないが、ロバートが言うならそんな遺伝子があるのかもしれないと思ってしまう。もし本当にそんな遺伝子があれば、紛れもなくそれは美希と彩乃のことを指している。興味は湧く。
「自分は・・・自分は、きっとあるような気がする。あってもいいかなって。」
「そっ、そうか。珍しく意見が合ったな。」
顕也が興味を示していることに、佐伯がちょっと驚いている。その反応からは、美人の遺伝子という研究テーマが、佐伯自身の本来の研究から大きく外れていなくとも本筋ではないことに気付かされる。
「ただ、これを確かめることは、ロバート自身はできないと言ってる。その理由の一つは人種なんだ。顔の造りが人種によって大きく違うのは当然で、とくに遺伝の研究は多民族国家に向いている研究とそうでない研究があるんだ。彼はその点でもガラパゴスみたいな日本が羨ましいとも言ってる。ロバートはとにかく賢い。ヒトの形態遺伝学の最終的な目的がすばらしいんだ。元々ヒトは人種とか肌の色とか見た目の多様性なんかよりも遺伝子的にはもっと多様性に溢れたヘテロな種族で、そいつらがサルだった頃以降色んな時代に色んなヒトが交雑しながら進化して今の人類に至っていることを遺伝学的に証明して、少なくとも見た目で争うのはナンセンスだということを主張したいらしい。今のヒトどうしの争いや差別は見た目も原因の一つになってるけど、遺伝子的にはまったく無意味だと言いたいらしい。ほんとに立派だよ。けど、そんなことが言えるような膨大なデータ収集と予備研究を、今からやるには自分は歳を取り過ぎたって。それが、ロバート自身がこの美人遺伝子を確かめる研究に興味があっても直接関与できない二つ目の理由らしい。世界中の弟子みたいな研究者が彼の意志を継いでいくんだろうけど、一応自分のことも弟子だと思ってくれてるみたい。美人は日本にいるお前に任せる、ってさ。気持ちはうれしいけどそんなこと言われてもなぁ・・・」
顕也は頭の中の整理がつかないでいた。混乱する頭でも心臓の鼓動が早くなっているのがわかる。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。
「お茶もらうよ。」
「ああ、てきとうに・・・」
佐伯の返事は顕也に届いていない。いや、宙を見つめたまま焦点も合っていない。佐伯のデスク脇の丸椅子を離れて席を立った顕也は、白昼夢を見るような足取りで勝手に共用スペースにお茶を汲みに行く。そしてマグカップもティーバッグも手前のを適当に取って勢いよくお湯を注ぐと、すぐに口に含んだ。
「アチチチ。」
「大丈夫か?」
佐伯の声がようやく顕也に届く。
「アチチチ・・・大丈夫。」
一体何から佐伯に聞けばよいのか? 顕也の頭の中は、突然湧き上がった言いたいこと聞きたいことが洪水のように渦巻いていた。気持ちを抑えて、そっと持ち上げたティーバッグをまっすぐ横から見ながら深呼吸する。ポタポタとお茶が落ちなくなるまでじっくり待って、それを流しの隅の小汚い三角コーナーに捨てる。年季の入ったマグカップは、よく見ればドーナツ屋の景品だった。内側にびっしりこびり付いた茶渋にどうしても目が行くが、それはそれでこの研究所にマッチしているような気もする。何かを成し遂げた歴代の研究者の幾人かが、このドーナツ屋から持ち込まれた差し入れをここで食べて、このマグカップで休息のお茶をとったのかもしれない。そう思えば妖怪たちを少しだけ身近に感じる。マグカップを持って佐伯の横に戻ってきた顕也は、丸椅子の横で立ったまま、ゆっくり音を立ててお茶を啜ると、ようやく冷静さを取り戻した。
「じゃあさ。ロバートからみれば、美人遺伝子の研究は彼の研究の予備研究に値するってことなんだ。美人遺伝子は研究する価値があるってことなのか?」
「そうさ。そういうことになる。」
何とか平静を装う顕也の質問に、佐伯が淡々と答える。
「でも、佐伯が言ってたよな。『何のためにその研究をするんだ?』って。ロバートは美人遺伝子の研究の目的を何と言ってるのか、ぜひ聞かせてくれ。」
「それは、彼にとっては至って明白なんだ。『個性の幅を広げる。』それだけさ。多様性を正しく理解するのに上も下も優も劣もない。どっち方向からでも認めざるを得ない真実を暴いて個性を認め合う、ってことさ。それだけのことらしい。」
そのぶれない信念と柔軟な発想が、瞬時に顕也の心の真ん中を射抜いた。何というシンプルで力強いメッセージであろうか? 生まれつきの障害は言ってみれば個性だから健常者と障害者の境界はないという発想はありふれているが、ロバートは美人という恵まれた資質と口唇口蓋裂という先天異常の境界を科学的に一気に取り除いて個性の幅を広げようというのだ。目からウロコとはこのことだった。
「遺伝子的に美人は先天異常かもしれない。研究でそう言えれば個性の幅を広げるってわけだ。」
「そう。研究結果を知って、人々がそういう見方をすれば間違いなく個性の幅が広がる。ロバートの言うとおりだと思う。」
「いや、でも引っかかるな。健康だと考えられている美人の立ち位置を落とすことになるわけで、魔女狩りみたいな話になってしまうんじゃないか?」
「そこは自分も気になったんだけど、ロバートが言うには、美人はふだんからちやほやされて何かと得してるんだからいいんだよ、だって。美人は自分たちが周囲と違うことを本人たちが一番自覚してるから、遺伝子が違うって言ってあげたらやっぱりそうかって思うだけじゃないか、って。それどころか、先天異常だなんて少々落としたところで平気どころか、両刃の剣みたいな遺伝子だと知って、そのか弱そうな特別感にますます図に乗るんじゃないか、ぐらいなことも言ってた。笑えるよな。ロバート、若い時に美人から余程ひどい仕打ちを食らったのかな?」
本当に驚いた。偉大なロバートが、美人に対して茂子さんと同じく凡人丸出しの敵対的な感覚を持ち合わせているのである。もはやロバートの意見を信じない方が難しかったが、まだ気になる問題があった。
「口唇口蓋裂の患者のサンプルはどうやって集めるのさ? たくさん集めるのは日本じゃ無理なことぐらいは自分にも十分わかる。」
「それこそ簡単。この前話した中国のクレフトの研究のデータをそのまま借りればいい。同じモンゴロイドだし。何より、あの中国の研究に参加している研究者のうち何人かはロバートの研究室にいた人たちさ。数年以内に論文になればそのまま引用すればいいし、論文になってなくてもだいたいの結果は手に入る。クレフトの責任遺伝子はいくつもあるから、美人の遺伝子が一つでもそこに被って見つかれば大発見、なんだそりゃー、って話になる。美人側のサンプルさえあればやることは簡単だよ。」
「じゃあ、その美人はどうやって定義するんだ? 定義できないって散々言ってたよな。」
「そいつもさすがロバートなんだ。村沢に謝らなきゃな。心配してた美人の定義もどうってことない。ロバートに指摘されて過去の論文を調べたら、確かに美人についての論文はいくつもあるんだ。そこには美人が様々に定義されている。主観的な評価だけで論文になってるのだってあるくらいだけど、評価者が多ければある程度の客観性があるとみなされるみたいだよ。つまり、ある程度周りから美人だと言われる女性を抽出すれば、それなりに説得力を持つらしい。女優やモデルといった職種の人々ということになると思う。ロバートが言うには、医学雑誌だって売れなきゃ意味がなくて、美人をネタにすれば読者ウケはいいから、多少大目に見るじゃないけどアクセプトされやすいだろう、ってさ。残る問題はそこじゃない。」
「残る問題?」
「それこそロバート自身がこの研究に直接関われない三つ目の理由だよ。何だと思う?」
「うーん、何だろうな?」
顕也はそう言って握ったまま冷めたマグカップを口に運ぶ。
「個人的に美人にまったく縁がないから自分には美人を集める術がない、だってさ。最高だろ? ロバート、ほんとおっかしいよな。」
顕也がお茶を吹き出しそうになってゴホッとむせ込む。確かにオチが面白い。
「大丈夫か? いやしかし、自分たちだって同じだぜ。芸能プロダクションとかにいちいち電話して女優のサンプルが欲しいなんて言ってもまず受け付けてもらえるはずがない。誰がどう考えてもイカれたファンが女優に近付くための巧妙な口実だろうな。たまに受け付けてもらえたとしても打率が低くて大変な労力だし、まとまった数は到底無理だ。美容外科には美人が一定数受診するんだろうけど、評価者が村沢一人じゃ話にならん。どう? 何かいいアイデアないかな?」
佐伯が、この時を待っていたとばかりに、初めて対等な研究者として顕也に相談を持ち掛ける。熱心な現場の臨床医たちとのやり取りに慣れた佐伯が、さっきから身を乗り出して聞いている顕也の変化を見逃すはずがなかった。
「ある。」
顕也は即答した。もはや小賢しい佐伯の誘導尋問などどうでもよかった。自分がやってみせるという決意、他の者では成しえないという自負であった。
「心当たりがある。美人のサンプルは、必ず集まる。」
そう言った瞬間、顕也の中で何かが終わった。行く手の足元さえよく見えなかった濃霧が突然晴れて、視界がどこまでも急に開ける。新しい何かが始まろうとしている。喉に閊えて息すら苦しかった大きな塊―こども病院でがむしゃらに働いた意味、美希と出会った意味、突然の別れの意味、美容外科に転職した意味、大して面白くもない夜の街に通い詰めた意味、数知れない女たちが跡形なく通り過ぎて行った意味、そして茂子さんの何気ない言葉に無性に心が揺さぶられる意味、すべてが今ようやく飲み込めた。すべてが今繋がった。日付も変わろうという時刻になって、最後に佐伯が付け加える。
「実は、関連遺伝子の名前はもう決まっている。美人遺伝子、つまりbeauty gene、略してB-gene。名案だろ、これ。」
やる気があるのかないのかわからない佐伯のふざけた提案など、顕也の耳にまったく届いていなかった。




