(十一)
佐伯とのやり取りは、顕也のもう一度茂子と話がしてみたいという思いを強くした。迷いがない佐伯の姿は、良い意味で常識的な不安を少し顕也に与えたのである。佐伯から見れば、きっと結婚もしないで夜の店を飲み歩く美容外科医など、同じ医師として道を大きく踏み外したろくでなしである。同級生でなければあまり関わりたくないというのが本音であろう。そんな常識的には荒んだ生活に、まったく疑問を感じないわけではなかった。茂子さんならそのうちきっと自分の話を聞いてくれるはずである。どうしても茂子さんとじっくり話してみたい。なぜか顕也は、茂子のことを慈愛に満ちた常識人だと勝手に決め込んでいた。
「やっぱり、リエ子さんと茂子さん、どこか似てますよね。」
顕也が福富にそう切り出したのは、ベルファムの店内だった。二人ともたぶん大分飲んでいたが、そろそろ帰ろうという雰囲気はまだない。リエ子さんはさっきまで福富の横にいたが、店の男の子に呼ばれて席を外していた。
「そうかな? 俺にはぜんぜんわからんよ。」
「いや、しつこいですけど似てますって。」
顕也はいつにも増して大して酔っていない自覚があった。その証拠に、あえて今この瞬間こそ福富に打ち明ける絶好のチャンスだと判断した冴えわたる自らの無敵の頭脳に心底感心している。善は急げである。
「言っときますけど、酔ってません。酔ってませんから。酔ってなくても、あえて今日は言わせてもらいましょう。」
前置きからそう絡む顕也の片方だけ立ったままのシャツの襟を、横から女の子がそっと直してくれる。
「僕は、茂子さんの方が好きです。似てるとは思うけど、やっぱり違う。僕は茂子さんが好きです。」
福富は茂子の話題を持ち出されることが嫌いではなさそうだった。顕也の妙な絡みにちょっと困っているが、どこか嬉しそうである。
「やっぱり変なヤツだな、村沢先生は。俺はまったく似てないと思うし、断然リエ子さんの方がいいな。色気が違うよ。まあ比べようがないんだけど。」
身内の謙遜もあるのか、福富が反論する。顕也も一歩も引かずに思いを伝える。
「また、茂子さんと飲みたいです。福富先生。ここも好きなんですけど、今一番どこでどうやって飲みたいかと言えば、茂子さんと飲みたいんです。茂子さんは、たぶん色々わかってる。自分の迷いに対する答えみたいなものを、きっと用意してくれてるはず。もっと話してみたい。茂子さんは、僕の天使なんです。ずっとそう思ってました。」
酒の勢いが手伝い過ぎても、それは顕也の本心だった。酔ってなくても同じことを言うに違いなかった。思いが伝わったのかどうかよくわからないが、福富が少し態度を変える。負どうしの掛け算が正になるように、酔っ払いが酔っ払いを見てこいつは真剣だと福富の頭の中で処理されたのかもしれない。
「ガッハッハッハッハ。ほんとに、ほんっとに面白いな、村沢先生は。わかったわかった。茂ちゃんに言っとく。きっと喜ぶよ。」
どうやら上司の奥さんと飲みたいと言っている変な部下に気付いた女の子が、顕也の横でクスクス笑っている。
「というか・・・。」
福富が思い出したように付け加える。
「あいつ、あのとおり、酒、ぜんぜん飲めないよ。」
そうだった。顕也は、茂子が人生二回目の梅酒と言っていたことを思い出していた。いっしょにお酒を飲みましょう、というお誘いは少々おかしい。
「どうしましょうか?」
顕也が両手を膝に置いて真剣に福富に向き直る。
「昼飯でもおごってやってよ。」
「昼飯? ランチ、ですか!」
「ああ。変な話、あいつ、お酒入ってなくても酔っ払いみたいなテンションだから、それでいいんじゃない? 俺は付き合わないから勝手に行ってよ。」
「二人で、ですか!」
「ああ。あっちが嫌だって言うことは絶対ないし、村沢先生だって怪しい中年女性と夜な夜な密会してるところを誰かに見つかったら、被害は小さくないだろうし。」
福富がそう言い終わると同時に戻って来たリエ子さんが、福富の横に座って二人の顔を交互に見る。
「先生たち、また何か悪い相談してはったんちゃいます?」
福富がにんまり笑う。
「当ったりー。村沢先生が気になる女を紹介しろって。」
「あらあ、村沢先生がそんなこと言わはるん? きっとウチに似て素敵な人なんやろうね。」
リエ子のこの一言で、福富と顕也は一瞬顔を見合わせて大笑いする。周りの客も振り向く大爆笑の一方で、何が可笑しいのかわからないリエ子がぽかんとしている。
「じゃあ、連絡先教えとくから。」
笑いが止まらないまま福富が言う。そんな不思議な流れで、茂子さんと二人でランチをすることになった。
翌日さっそく茂子さんから連絡が来て、週明けの月曜日に二子玉川で待ち合わせる。落ち着いて話せる方がいいという顕也の提案を受けて茂子が予約してくれたカジュアルフレンチのお店に向かう。茂子のテンポは相変わらずだった。
「たまにはこういうのいいわね。いつもどおりだったら、お家でこたつに入ってみかん食べながらサスペンスドラマ見てるはずなんだけど。」
茂子がそう言って顕也に向かいの席を勧める。前に会ったのは一年半前だったから季節は真逆である。窓の外に時々雪が舞っていた。
「今日はありがとうございます。」
顕也があらためて礼を言う。
「ご馳走してくれるんだから、私は文句ないわよ。ここの料理は何でも抜群。量も多くなくて、いちいち気が利いてるの。村沢先生にはちょっと足りないかなー。足りなかったら適当にアラカルト頼んでね。ワインもね。ご馳走してもらう立場で何言ってんだかって感じでしょ。気にしない気にしない。」
茂子のそんな調子で余計な話が弾んで、楽しい時間があっという間に過ぎる。ただ、茂子には隙がなかった。一見して洗練されていない茂子の隙のなさは、同じように隙のないリエ子よりもさらにその隙を狭くしている。ワインを少々飲んだくらいでは、込み入った話などここで出すのはまったく不可能であった。とは言っても、そんなある種の壁に不愉快さを感じることはなく、茂子が必要性を察知してわざわざお膳立てを演出してくれているような期待感しかない。核心に近付いたわけではないが、ようやく娘さんの話になったのは、最後のデザートが運ばれて来た時だった。
「前にも言ったような気がするけど、あの子はあの手術で本当に変わっちゃってね。」
ふと窓の外の雪に目を遣ってそう言う茂子が、少し寂しそうに見えた。
「あっという間だったな。一人娘でしょ。いっつも親子三人でどっか出かけて、だいたい親二人どっちかが、電車の中で広げた駅弁をまっ逆さまに落としたりとか、山のてっぺんに忘れたリュックをリフトで取りに戻ったら気を利かせた係の人がリュックだけ降ろしてくれて空中でリュックとすれ違ったりとかするのよね。それをちょっとクールなあの子が横でクスクス笑ってるなあ、と思ってるうちに気付いたらもう二十歳。色んな時代があって、その時々を精一杯楽しめたらそれでいいんだとは思うけどね・・・」
「仲、いいですもんね。福富家。」
「そうかしら。みんなこんな感じじゃないかしら。」
「いやあ、僕の両親は離婚しちゃってて。親父はどこで何してるんだかよくわからないし、母や姉とは何年も会ってません。だから、あんまり結婚したいとは思わないんです。」
「ごめんなさい。この前は何だか余計なホームパーティーに誘っちゃったかしらね。」
「とんでもないです。自分でもよくわからないだけなんです。福富先生みたいな立派な家に住んで、素敵な家族といっしょに過ごしている自分が、ちょっと想像できないだけです。茂子さんみたいな女性が現れたら変わるような気もします。」
「もう、なーに言っちゃってるのぉ。そういうお世辞言ってると、あの人みたいにどんどんオッサンになって行くわよ。」
茂子がそう言って両手でティーカップを握ると、また窓の外を見る。目は笑っていない。
「実はね。私、話したいことがあるの。」
「えっ、僕にですか?」
意外な切り返しに顕也が驚く。話があると誘ったのはこっちである。茂子がカップを置いて、まっすぐ顕也を見て言う。
「そうよ。他に誰がいるわけ? いや、言い方が変ね。村沢先生じゃないといけない話なの。少なくとも私のことブスって言った以上、相談に乗ってもらう義務があるわ。」
茂子がちょっと意地悪そうに微笑む。
「そんなこと言いましたっけ? 口が裂けても言うはずが・・・」
「言った。言いました。女が根に持つと怖いよぉー。」
茂子が目を細めて顕也を睨む。口元は思い切り笑っている。
「あの子のことなの。言ってみれば、見た目のことでは村沢先生はあの子の主治医なわけでしょ?」
慣れない主治医という呼び方はともかく、確かにそうかもしれない。
「まあそうなりますね。また何か気にしておられるんですか?」
「ぜーんぜん。あの子自身はなんにも気にしていないわ。私はそれが気になるの。」
「どういうことですか?」
「ブスって親に似るのかな?」
「はっ?」
「簡単に言うとね、あの子もそんな遠くない先に子どもを持つでしょう。その子がブスだったら、またその子も悩むのかなあ、って。」
茂子の心配はよくあることだった。手術前の面影がなくなってしまうくらいたくさん顔の手術を受けた患者が、自分に似ても似つかない子供が生まれて来ることを心配するのは当然である。
「手術したのは眼だけですからね。お子さんもまたあんな感じで手術を受ければいいだけだと思いますよ。」
ありきたりな答えだった。普段同じような心配を打ち明けられることは少なくなかった。
「そうよね。難しく考えなくていいかな、って自分に言い聞かせるようにしてる。私、手術であんなに変わったあの子を見てたら、何だか弱気になっちゃった。前にも言ったとおり、顔立ちなんて大したことなくても魅力的な人っていっぱいいるじゃない。私のちょっとした心配は、あの子が最近まで私と同じように自分がかわいくないと思って生きてきたってことなの。私はそれがよくわからない。手術なんか受けなくても、今のあの顔付きになれたんじゃないかなあって、親の私が自然に今のあの顔付きを引き出す手助けをしてあげられたんじゃないのかなあって、どうしても考えちゃう。でもできなかった。親としての私の関わり方が何か間違ってたのかなあ、なんて考えちゃう。自信がなくなったっていうか、そこは私に責任があったような気がして。」
茂子がまた窓の外を見る。カフェもデザートもとっくになくなっていた。店員が水を注ぎに来る。平日とはいえ、人気のレストランのこの時間帯は、店の外に待っている客が十組はいるであろうか? 茂子の方から自身の迷いについて話してくれたのは、粋な計らいだったのかもしれない。今ひとつ落ち着かない店内とは対照的に、茂子との距離は縮まったような気がする。少し歩きませんか、という茂子に従って二人で寒空の下を歩き出す。
「私自身はね、ブスで満足してるの。でもね・・・」
多摩川の土手で立ち止まった茂子がコートのポケットに手を突っ込んだまま空を見上げて言った。さっきまでの雪が今は止んでいる。子供たちがあちこちで凧揚げをしている。
「やっぱり何か不公平なの。生まれつきのブスなんていないと信じてた。一生懸命努力して磨き上げればいくらでも逆転するくらいに思ってた。でも、生まれつきそんな悩みとはまったく縁のない人が、口惜しいけどやっぱりいる。それは事実。悲しいことに、ブスはますますブスになるのよ。だって、生まれつき持ってる人は努力してても楽しいだろうからますます努力するし、持ってない人は報われないような気になるだけでますます集中して努力もできない。ブス代表として言わせてもらえば、正直言ってそんな生まれつき容姿のコンプレックスなんてまったくないような美女たちに不幸が起こると、ざまあみろ、って思っちゃう。あんたたち、今までそんなに恵まれて来たんだから仕方ないじゃない、って。性格悪いでしょ。美人のお母さんなんて、けっこう家族の不幸があったりお子さんに生まれつきの障害があったりすることが多いような気もするのよね。私なんかブスだけどこのとおり、健康で何食べても美味しいし、娘もちょっと手術したけどあのとおり、今じゃそこそこかわいい方じゃないかしら。家族みんな元気で好きなことできてて、なんにも不自由はない。それ以上のことはないわ。もちろんぜーんぶブスのひがみだから、後でいっぱい笑ってあげて。今本人の前で笑っちゃだめよ、傷付くから。」
白い息といっしょに包み隠さず吐き出される茂子の本音は、その内容とはかけ離れて透き通るように爽やかだった。聖人のようにきれいな言葉で建前だけを並べずに、決して上品とは言えない言葉で人間臭い感情を整然と並べる愚直さ、それもまた大きな魅力だと思わせる何かを茂子は確かに持っていた。どう見てもブスではない。顕也も体をくるりと多摩川に向けて、胸を張って正直な気持ちを伝える。
「僕は、茂子さんのこと、好きですよ。茂子さんは仕事でもプライベートでも僕のヒトの見方を変えてくれました。見た目も中身も、大好きですよ、茂子さんのこと。」
それは本心であるが、普通はなかなか言えない言葉であった。まして相手は上司の奥さんである。
しかし、照れ隠しに茂子の方を向かなかったという誤魔化しに加えて、実は茂子の何気ない言葉に引っかかっていたという偶然が重なって、さらりとそんなことが言えたのだった。酒などとっくに抜けている。顕也は自分の発した歯の浮くようなセリフとまったく別のことを、頭の中で考えていたのである。
(美人のお母さんと障害を持つ子供・・・)
流すべきだったのかもしれない。一般的にはこの差別的な発言を受け容れ難いとする意見もあるだろう。医療者でない人々の感情は、しばしば言葉になれば残酷なものである。医療者としてそれを理解して目を瞑る寛容さはもちろん顕也にもある。しかし、顕也はまったく違う意味で引っかかっていた。茂子がそれに気付くはずもない。
「村沢先生、やさしいね。そういうの、お世辞でもうれしいから不思議よね。」
茂子がそう言い捨てて駅に向かってゆっくり歩き出す。顕也が斜め後ろを付いて歩く。茂子が、振り向かずに少し大きな声で聞く。
「それでぇー、村沢先生の相談って何なのぉー?」
鉄橋の上に近付く電車の音に負けないように、顕也も後ろから声を張り上げる。
「いやー、いいんです。今日ぅー、久しぶりに茂子節を聞いたらぁー、だいたい解決しちゃいましたー。気持ちぃー。気持ちの問題ですからぁ。これについて相談したいってのはぁー、とくにないんですー。」
大声でそう言いながらも、顕也の頭の中では、やはり美人の母親というフレーズが反芻している。茂子は、少しそのまま無言で先を歩いた後、電車が鉄橋を通過し終わると同時に急に立ち止まってくるりと顕也の方を向いた。
「うそつき! なーんてね。確かに言わなければうそにはならないわ。だからうそつきじゃない。けど、あえて言うなら完璧なうそつき。」
茂子がにこりと微笑む。そして、ポケットから抜いた両手を差し出して、顕也にも手を出すように求める。
「じゃあ、また今度ね。それは私が望むところ。ほんとは今日私が村沢先生に話したかったこと、下らないブスネタじゃなくてよ。だから、私もちょっとうそつきかな。」
茂子は、冷たくなった両手で顕也と握手しながらそう言い残して、晩御飯の総菜を買いに行かなきゃと振り向かずに駅前のデパ地下に消えて行った。
また雪が舞っていた。見上げると、ビルの間にゆらゆらと牡丹雪が疎らに落ちて来る。顕也は、美人だった美希と口唇裂の手術を受けた彩乃のことを思い出していた。いつかといま、あっちとこっち、これまでバラバラだった重要な点と点が、線で繋がりそうな予感がした。




