(十)
「まずは自分の研究のことかな。」
佐伯がパソコンの前に座る。パソコンの画面は佐伯が臨床の先生を相手にプレゼンテーションする時に使うスライドだという。小難しい研究内容は提示されず、意外とプレゼン慣れしていて簡潔でわかりやすい。
「遺伝子解析って言っても色々あるんだけど、自分は入口が消化器外科だったわけ。ほら、第一外科って、教授の専門が肝胆膵だったでしょ。当たり前だけど、とくに肝胆膵の癌って手術だけで治りました、なんてことはまずない。いかに五年生存率を上げるか、五年生存率が少しでも高くなる治療法は何か、って考えたらやっぱり抗癌剤は欠かせない。ところが、臨床で抗癌剤を使っていると、ほとんどの先生が、同じ部位の同じタイプの癌でも抗癌剤の効き目に個人差がけっこうあるという認識を長い間もってきた。これがすごく重要。まあ、こんなの、抗癌剤以外の他の薬でも同じでしょ。効き目に個人差がある、って。そこで遺伝子解析が登場するわけ。」
これは顕也も聞いたことがあった。
「効きやすいのを使うってことだな。切除した癌の遺伝子を調べて患者さん一人一人違う抗癌剤を選択するってヤツでしょ。学生時代にまもなくそんなことができるようになるって聞いたけど、佐伯がその分野の研究をやってるわけだ。」
「そのとおり。一部で臨床応用が開始されて、もう何年にもなる。今まさに、どんどん色んな癌に範囲を広げてデータを蓄積して臨床応用を広げているという状態だよ。効き目だけじゃない。その患者さんで副作用がより少ない、とか、多剤併用で他の薬との相乗効果まで遺伝子解析でわかる。地味だけど臨床に直結したやりがいのある研究だと思ってる。抗癌剤に限らずこの分野で一番重要なのは臨床現場の意見、っていうところが自分はすごく好きなんだ。」
「現場の意見?」
そこが顕也にはわからなかった。首を捻る顕也をみて佐伯が続ける。
「ごめんごめん。わかりにくいよな。癌遺伝子とか、って学生の時にやったでしょ。そんな有名どころの癌を誘発する特定の遺伝子なんて半世紀前に見つかってるんだけど、もっと身近に『がん家系』みたいな話ってあるじゃん。普通にありふれた乳癌や大腸癌だけど、丁寧に家族歴を聞いてみたら両親や祖父母にやっぱり癌で亡くなった人がいるというケースが多くみられる。そんな病歴はデータでも何でもなくて、臨床をやっている先生たちの単なる憶測でしかない。あるいは『がん家系』の話なんて、一般の人たちの、確かにそんな傾向がありそう、くらいの感想でしかない。ところが今は技術的に全部調べる方法でそれが本当かどうかを遺伝的に確かめることができるようになった。網羅的に全遺伝子を解析すれば、そういう漠然とした臨床家の推測とか勘みたいなものに遺伝が関与しているかどうかがわかるような時代になったんだ。実際に、がん家系という話に限れば、ありふれた癌の発症でも立派に遺伝が大きく関わっているような癌がいくつもあることがわかってる。癌だけじゃない。家族歴は発症に関係があるだろうと自分たちが学生時代に習った疾患は、糖尿病とか心疾患とか精神疾患とか色んな病気が、すでにことごとくちゃんとココとココとココの遺伝子が関与してる、みたいな結果が出てしまっている。そればかりか、例えば、あなたがこの癌にかかるリスクは平均の何倍ですよ、あなたが糖尿病を発症するリスクは平均の何倍ですよ、みたいな数字を患者一人一人に個別に示すことが理論上は可能で、そういう診断をビジネスにしようとしている研究団体や企業が、すでにいくつもある。個人的には、糖尿病なんて患者の数がものすごく多いからやっぱり儲かるのかなあ、なんて思ったりしてる。ちょっと金に目が眩んだりして。」
佐伯の仕事についてはよくわかったが、聞く限りでは顕也にまったく関係がない。唯一の接点はボスのロバートが美容外科クリニックの見学を望んだことで、やはりそちらの方が気になる。
「佐伯の仕事はよくわかった。そんな癌関連の研究をやってる佐伯のアメリカ時代のボスが、なんで美容外科に見学に来るんだよ。そっちの方が知りたい。」
顕也が正直に佐伯に言う。
「そうだよな。前置きが長くなって申し訳ない。自分の仕事の話は前置きで、ここからが本題。」
佐伯がそう言って自身のスライドを閉じる。どこだっけなーと言いながら、開いたスライドは英語のプレゼンテーションだった。スライドを数枚進めると、次々と白人の男女の顔が出て来る。
「これ、この前の学会のロバートのプレゼン。拝借してきた。クリニックに見学に行く前に電話でちょっと話したと思うんだけど、彼の今の興味は形態遺伝学という分野なんだ。それはもちろん、ショウジョウバエとかマウスでも盛んに研究されているんだけど、彼はヒトで形態遺伝学をやりたいらしい。簡単に言うと、親子で顔が似ているとか身長が高い人の子は身長が高いとかって、やっぱり遺伝が関係してそう、って思わない? むしろぜったい遺伝も関係あるって感じでしょ。誰も調べないだけで調べれば絶対に見つかると思う。でもそれがわかって何の役に立つのか、って言われたらそれまでじゃん。逆に身長が高くなる遺伝子を持っていない男性とは結婚しない、みたいな女性が出てきても世の中がおかしなことになるでしょ。だからロバートもそういう研究のための研究みたいなのはやろうとしない。さすがに抵抗があるみたい。あくまでも疾患の予防やなんかに役立つ研究をやりたい、という思いが一応あるらしい。そうすると、まずはヒトの形態から入らなきゃならない。ヒトの形態の個体差って、身長とか癖毛とか色々あるけど、やっぱり一番個体差を識別しやすい部分って顔でしょ。まずは顔面の形態を正確に計測できる装置を作るべきということになる。実はその時にアメリカの形成外科とか口腔外科の先生方と関わったみたいだよ。口腔外科っていうか、アメリカじゃあ顎顔面外科っていうんだっけ? その顎顔面外科の先生方はとくに注文がうるさいらしい。撮影しにくい口の中のどこをどうやって記録に残せるかというのが重要だからね。ロバートは形態遺伝学の立場で目の色が撮影方向で変わるのをどうするか、なんていうことを意見したみたい。開発された装置自体はどうってことない。やることは普通のカメラの撮影と同じ。でもレーザーで三次元のデータを保存できるようになっている。この画像はそのデータを再構成して得た三次元の顔さ。ほら、このとおり。」
そう言って佐伯がカチカチとスライドを進めると、蝋人形のような顔の静止画像が次々と映し出される。ただ、二次元の画像と違って画面内でくるくると回転させるとどの方向からでも顔が見える。大学にいた頃に海外の古い形成外科の教科書に石膏で作った術前術後のデスマスクの写真を見かけたことがあったが、要するに人の顔型を石膏模型で保存しなくてもカメラ撮影と同じ要領で三次元のデータで保存しておけば学術的な有用性は同じというわけだ。CTで撮影した骨を三次元に再構成した画像や樹脂で作った実体モデルは今時珍しくないが、写真のような容貌が三次元画像になって見ることができるのは、確かに斬新だった。
「この装置、何に使うかっていうとね。すでに市販されてて欧米の美容外科ではかなり導入されつつあるって言うんだ。自分にはよくわからないことなんだけど、装置は色とか皺やシミなんかもばっちり記録するんで、例えば皺を少なくするような手術だかレーザーだかをやったとしたら、前後でデータを比較すれば皺の程度を具体的に数値化してどこがどれくらいよくなってますよ、と客観的に数字で示すことができるらしい。個人的には見た感じ満足できればいいような気もするんだけど、欧米の人たちってそういう客観的な評価が好きなんだよね、医者も患者も。そうそう、この装置が日本の美容外科にどれくらい導入されてるのか、導入されてなければどれくらい需要がありそうなのか、末梢の美容外科の先生の意見を直接聞きたい、っていうのがロバートの見学の趣旨だったみたい。売れたら、しこたまお金入るんだと思うよ、たぶん。知らないけど。そういう話は一切タブーなんだ。」
佐伯の話は本当によく理解できた。学生時代に成績がいいという話は聞いたことがなかったが、今日の簡潔な説明を聞く限り、実は頭のいいヤツだったのであろう。ロバートから話を聞いたにせよ、まったく専門外と言える形成外科の仕事についてもそれなりに理解していそうな話しぶりにも感心する。ただ、また一つわからないことが出てきた。佐伯がこの説明をするためだけに自分をここに呼んだのであろうか?
「なるほどね。よくわかったんだけど、この話のためだけに佐伯は自分をここに呼びつけたの? 佐伯も忙しいのにメリットないんじゃない?」
「ほぉー。村沢って実は頭いい? 学生時代はとてもそう見えなかったけど。」
佐伯もなかなか言ってくれる。そのまま返したい言葉である。
「まさか自分に何か研究ネタはないか、ってんじゃないよな。」
「それがそのとおりなんだ。さすが村沢!」
「自分にあるわけがないだろ。大学とか、せめてどこかの総合病院くらいにいるならともかく、美容外科クリニックの勤務医だぜ。」
「そりゃあそうだけどそうじゃない。アイデアなんだ。欲しいのはアイデアだけ。それがさっきから言ってる臨床の現場の意見って話。形成外科や美容外科を経験してきて、これは遺伝するんじゃないか、って思い当たる節があったら教えてほしい。これは形成外科分野の予備調査の予備調査くらいのインタビューなんだ。欲しいのはアイデアだけ。」
そう言われて、顕也は真っ先に口唇口蓋裂を思い浮かべた。形成外科でもっともよく扱う疾患で、遺伝も関与することが教科書に書いてある。
「口唇口蓋裂はどうなの?」
「それ、言うと思った。正直やり尽くされてるかな。スニップ解析って言って、網羅的じゃない部分的な遺伝子解析だと山ほど研究されてて面白くない。しかも患者の数がそこまで多くなくて一流誌に載せるのは難しい。でも、何だか最近中国の研究仲間に聞いたところによれば、中国は人口が多くて口唇口蓋裂の患者もいっぱいいるから大規模な網羅的解析が進行中だって話だよ。数が多ければまた話は違う。」
「患者の数?」
「そう。数が多ければ口唇口蓋裂みたいに生死に関わらないような疾患でも一流誌にアクセプトされる。ネイチャーってわかる?」
「もちろん。」
ネイチャーは医者であれば誰でも知っている超一流誌である。当然、顕也には縁のない、開いたこともない雑誌である。
「ネイチャーにも色々あって、自分たちの分野の遺伝、つまり gene の分野の雑誌の最高峰はそのネイチャー・ジェネティクスってやつ。たぶん中国の口唇口蓋裂の仕事は数年でこれに載ると思う。ネタが口唇口蓋裂でネイチャーに載る論文はたぶんこれが初めてだろうな。ジーンは数の多い網羅的解析をやれば疾患に関わらず一流誌を狙える。中国だからできるんで、日本じゃ無理な研究だね。」
「じゃあ、ケロイドなんかは?」
ケロイドは臨床でよく見かける疾患である。いわゆる傷痕が目立ちやすいという体質であるが、親の体質を受け継いでいる患者が明らかに多い。患者の数がそれなりに多いので、形成外科医なら当たり前の事実である。
「それも言うと思った。残念ながらケロイドはすでにここで現在進行中。形成外科の分野ではもっとも手堅いかな。患者のサンプルを二千も集めれば間違いなく結果が出ると言われてる。若い女医さんだったよ。二年くらい前に形成外科の臨床をやめて、ここでサンプル集めに奔走してる。やっぱり良さそうな対象ってそんなにないよなあ。お金はあるんだけどなあ。」
佐伯が少しがっかりしている。顕也には他に思い当たる疾患がなかった。本人の言葉どおり、佐伯は顕也が思っていたより各診療科の臨床の先生たちと幅広くコンタクトしているようだった。佐伯の研究自体に興味はないが、熱意はまあ理解できる。アイデアだけで実動がないなら協力してあげたいところではあったがどうすることもできない。早々に美容外科に転向した自分には、ぜんぜん経験値が足りないのである。
顕也は考えるふりをしながら共用スペースのテーブルの上のマグカップを取りに席を外した。殺伐とした部屋を見渡しながらカップを手に取って一口飲む。ティーバッグが浸かったまま冷めたお茶に風味も何もない。佐伯は、じっとパソコンの画面を眺めていた。
「つまんないでしょ。」
マグカップを持って席に戻ってきた顕也の方に向き直って、佐伯が淡々と言う。
「今日は聞いてくれてありがとう。こんなもんさ。これは良さそうなんて研究対象がすぐに見つかることはそうそうないから。宝探しみたいなもんなんだ、研究って。地道に臨床の先生とこういう話をすることで見つかるお宝もあって、そういうお宝こそが実は一番うれしいんだ。臨床の先生が心のどこかで引っかかってる何かを遺伝で説明できたときに、ほらやっぱり、って言ってもらえる。それが何よりかもね。お宝を見つけたときに論文を書く作業なんて大したことじゃないし、何なら村沢の筆頭著者の論文を手伝ってもいい。ただお宝を見つけたいだけさ。自分が論文たくさん書いて偉くなるために村沢を利用するなんて魂胆はさらさらない。これだけはわかってほしいな。」
顕也は返す言葉がないままお茶を飲み干してマグカップを佐伯のデスクに置いた。泥のように濁ったお茶に塗れたティーバッグが底に張り付いている。口の中の何とも言えない粗末な苦みがしばらく消えない。佐伯の仕事は立派だが、やはりどう考えても自分には縁がないと言わざるを得なかった。本当の意味で、佐伯との間に学生時代よりもはるかに大きな距離を感じた。




