(九)
築地の回転寿司は土曜日の午後八時を過ぎてもまだ混んでいた。カウンターに通されてグラスのビールで乾杯した後、院長、ロバート、佐伯、顕也の順に四人が横一列に並んで、どこからともなく流れてくる皿の上の寿司を睨んでいた。院長がロバートにお勧めの握りを教えながら、時々真面目に日本の美容医療について説明している。必然的に佐伯と顕也が二人で話すことになる。そこで初めて、顕也は二日前には聞けなかった佐伯の渡米後から今までの経緯を聞くことになった。
何でも佐伯は、第一外科の教授に一年で日本に戻って来てよいからと言われて、泣く泣くボストンに行ったのだという。ところが、ロバートの研究室はとにかく研究費が潤沢にあって、留学生が次々と研究しにやって来ては自身が筆頭著者の論文を残していくらしい。佐伯もその一人だったのであるが、前任の研究がほとんど仕上がった状態で佐伯にバトンタッチしたというちょっとした幸運もあったらしい。それはさほど特別なことでもなく、留学生が自国に持ち帰らずに中断してしまっている研究が山ほどあって、たいていの新参者はまずそれに乗っかって自身が筆頭著者の論文を書く。するとその論文を使って研究費を獲得せよという流れになって、研究費が入るとまた研究せざるをえなくなって帰れなくなる。研究が本職の研究者にはありがたいのかもしれない無限サイクルであるが、要は留学生たちに対して筆頭著者の論文を餌に、最低でも二、三年そこで研究してもらうような組織ぐるみのシステムが出来上がっているのだという。実際に上手くこなして論文を年に一本程度書き続けて五年くらいで日本に帰って来た先生方は、ほぼ全員どこかの大学教授になっているらしい。
中心人物であるボスのロバートは、これがまた凄くて、基本的には全米の研究費を研究者たちに割り振る側に近い人物なので、自らの研究室の研究費が途切れることはない。さらに凄いのはその人柄で、ロバートは疑う余地なく興味と好奇心だけで研究を続けているのだという。個人的に全然お金を持っていないらしく、貰っていないはずはないのだけれども、たぶんそのほとんどを研究に使ってしまっているというのだ。職場には自転車で通勤していて自家用車すら持っていない。時々声のかかる海外の招待講演の折に、かつての部下たちと食事するのが唯一何よりの楽しみだという。それでいて、まさに来る者は拒まず去る者は追わないスタイルに徹しているためか、とにかくロバートの所には、大学内はもちろん全米中、世界中から人が集まってくるらしい。
ロバート先生が凄い人物だということ、佐伯がロバート先生に頭が上がらないことがよくわかったが、顕也には何一つピンと来ない。興味がないという方が正しい。仕事の疲れもあった。へーそうなんだ、それ以外の受け答えができずに欠伸が出そうになった顕也に、佐伯が思わぬことを口にした。
「二人はボストンで会ったことがあるらしい。」
顕也には意味がわからなかった。
「院長とロバート先生が?」
そんなはずはないだろうと顕也が聞き直す。
「あれ? 村沢は聞いてないの? 会ったことがあるというのはオーバーだけど、さっきクリニックで院長先生に聞いたよ。院長先生、四十年近く前にボストンに二年くらいいたんだってね。大学じゃなくて隣の病院の方だけど、大学にも出入りしてたからすれ違ってたかもしれない、って話だった。レーザーの研究とかじゃなくて、一般皮膚科のクリニカルフェローだったって。昔はそんな留学も多かったらしい。今はいきなり臨床って敷居が高いからまずは研究しかない。ちなみに、ロバート先生もその頃初めて学会発表で日本に来たらしいよ。それで、朝に地下鉄で学会会場に行こうとしたらぎゅうぎゅう詰めの満員電車で気を失いそうになったところをオフィスワーカーらしきレディたちが助け出して介抱してくれたことが忘れられない、あの天使たちがいなかったら自分は東京の地面の下で死んでた、ってさ。大爆笑だったよ。」
顕也にはまさに寝耳に水であった。院長のことは出身大学くらいしか知らず、そんな経歴があったとは思いも寄らなかった。しかも、大学を卒業してまっすぐに美容医療やレーザー機器の開発に邁進したわけではないという。悠々と美容外科クリニックの院長になったわけでもなければ、卒なくこの珍客に対応して晩飯まで付き合っているわけでもないことに気付かされて急に胸が熱くなる。顕也は、グラスに半分くらい残って少し温くなったビールを一気に飲み干して手酌で瓶ビールを注ぐ。隣の二人の耳には、彼らの息子くらいの年齢の顕也と佐伯の会話はまったく届いていない。二人は古くからの友人のように、寿司ネタのことで白熱した議論を交わしている。
「村沢、院長先生に信頼されてるよな。顔が専門なんだろ? クリニックで、村沢のこと、ロバート先生に何か変な呼び方で紹介してたよ。」
思い出したように佐伯が言う。
「なんだそりゃ?」
脈絡がよくわからず顕也が聞き返す。
「クリニックに変なのが転がり込んできたと思ったら、これが大当たりだったって。腕が良くて患者満足度の高い先生だ、ってスタッフがみんな言ってるって聞いた。」
「確かに変なヤツだったとは思う。」
照れ隠しに顕也が言う。院長も意外と口が軽いなと思いつつ、嫌な気はしない。
「何より・・・そうそう。」
また思い出したように佐伯が言う。
「ドクタームラサワは、若造にありがちな単なるlooks changerではない。すでにかなりベテランのsmile maker だ、ぐらいなことを言ってた。患者に喜んでもらっているってことだよな。」
これには顕也も驚いてビールを吹き出しそうになった。佐伯は言葉どおりに捉えていたが、顕也には全然違う意味に聞こえたのである。
looks changer(顔立ちを変える外科医)とsmile maker (顔付きを良くする外科医)。まさか、院長が自分の担当する患者のそんなところまで見ているはずはない。顔面神経麻痺で表情筋が動かなくなった患者に対して筋肉移植で動きを取り戻すという日本の形成外科医が開発した手術法が今では世界中で行われているが、最初に発表された時に堅苦しい医学用語でfacial reanimation(顔面神経麻痺の動的再建) とせずにsmile reconstruction (笑顔の再建)とした素敵なネーミングが一役買っているという説がある。海外ではこういう精神論的な切り口が受け入れられやすいだけで、自分を持ち上げるためのオーバーな賛辞として、顔立ちを変えるのではなく顔付きを変える外科医だと紹介したまでであろう。誇張にも程がある。
そしてたまたまであろう。茂子さんと出会って以来、患者、いや、夜の女たちの見方までも変わりつつあった自分の意識が、院長の何気ないリップサービスと一致しているのは、間違っても何かの偶然であろう。それとも、福富が何か吹聴しているのであろうか? 娘さんの手術のことで院長と何か話したのであろうか? とてもそうは思えない。院長と一定の距離があるのは福富も顕也と同じである。酒の席で二人がいっしょになっているところなど、記憶にもなければ想像もできない。そもそも福富はどう見てもそんな繊細な人物ではない。ただの気さくなオッパイ大好きおじさんである。
ともあれ、院長が自分を好意的にみてくれていることには感謝しかなかった。自分を買ってくれる理由はよくわからないままであるが、自分に何かを見出してくれてそれが院長の思惑に合致したようだと言ってくれているという伝聞はお世辞でもうれしかった。院長といい、福富といい、そういう部下への気取らない思いやりの姿勢を身に付けるに至るまでは決して平坦な道程ではなく、彼らにしかわからない紆余曲折の末に掴んだ彼ら独自のやり方だと感じるところが、さらに顕也の胸を熱くした。
二人の寿司ネタの議論が続いていた。ロバートはしめ鯖が一番だと言っているようだった。醤油との相性が絶妙だと主張している。院長は海老アボカドが最高だと言っている。それは日本を飛び出してリサーチを重ねなければ決して生み出されることのなかった最高傑作だと。この日、顕也には、院長が世界的権威のロバートに負けず劣らず立派な先生に見えていた。
数日して顕也は肝心なことを聞くのを忘れていたことに気付いた。一つは、一体ロバートは何のためにクリニックの見学に来たのか、ということだった。これはぜひ知りたいと思った。もう一つは、佐伯の仕事は何なのか、何の研究をしているのか、ということだった。自分の仕事のことを色々聞いてもらったのに佐伯の仕事のことを全然聞いていないことに気付いて、同級生とはいえ礼儀を欠いたかもしれないという反省であった。こちらは正直なところそれほど興味はなかった。
そう思っていたら佐伯からまた電話がかかってきた。その内容はまたしても意外なことに、顕也に佐伯の研究室に遊びに来てほしいというものであった。ロバートの相手をしなくてもよくなったからか、佐伯は聞き違えるように大きく弾んだ声で熱心に顕也を研究室に誘った。ロバートが何のためにクリニックに来たのか、佐伯が何の研究をしているのか、電話越しに率直に聞いてみたが、研究室に来た方が早いからの一点張りである。ただの同級生なら今忙しいからまた連絡すると断ったに違いない。しかし佐伯は、まずは院長が誠意をもってクリニックの見学にも回転寿司にも対応したロバートの代理人であった。幸い白金の研究所は顕也の自宅からすぐである。業務が早めに終わる日に寄り道することになった。
「いやあ、十年前は横浜の職場で時々会ったけど、まさか白金の職場で村沢と会うなんて、夢にも思わなかった。」
佐伯がそう言って研究棟の出入り口で出迎えてくれた。
「ほんとに。もっと出世して会ってくれなくなる前に会っといてよかった。」
佐伯の後ろを歩きながら顕也が言う。
「そんなことない。後で説明するけど、自分たちは臨床をやってる先生たちとのコネクションが何よりも大事なんだ。出世できるかどうかはそこにかかっていると言っていい。」
そんな会話をしつつ、佐伯がいつも仕事をしているというデスクのある部屋に通された。もともとかなり古い建物であるが、部屋の中はさらに年季が入っていた。出払っていて今は誰もいないが、普段は七、八人で使っているのであろうか? 薄汚れた壁と床、補修を繰り返して統一感のなくなった天井の照明、街の中華料理屋でも最近見かけないような換気扇、天井まで伸びるスチール棚に雑然と並ぶ科学雑誌、それだけが新しくて違和感を放つデスクのパーテーションがある分、まだ小綺麗でワンランク上の部屋なのだという。東京の一等地でなければ誰も寄り付かなくなってとっくに取り壊されているであろう。
「そこに座んなよ。今、お茶でも入れるよ。」
佐伯が共用スペースのソファーを指さす。ソファーの横の観葉植物の葉に薄ら埃が積もっている。
「こんなのしかなくて済まんな。」
言葉通り、ティーバッグの上に電気ポットのお湯を注いだだけのストイックなマグカップがテーブルの上に置かれる。
「それにしてもよくやってるよな。給料だってよくないだろ?」
顕也が感じたことをそのまま言う。
「まあね。でも今の自分は勤務医よりちょっとだけ安いくらいの稼ぎはある。当直があったり夜中に呼び出されたりするわけじゃないから、それはそんなもんじゃないかな。」
「臨床やってないと、この先もずっと臨床できないままで不安じゃない?」
「それがそうでもない。大して手を動かさなくてもOKな医者の仕事はいっぱいある。医師免許をとっても臨床やらないで研究だけやってるいわゆるMDの研究者たちでも、研修医さえ経験してれば免許上は臨床で何をやってもOKなわけだから。実際に、下のMDの先生たちはここだけだと稼ぎが十分じゃないから週に一、二回はバイトに行ってる。たまに、研究やーめた、って全部投げ出していなくなったと思ったら大手チェーンの美容外科に就職してた、なんてヤツもいるって聞くよ。研究やめても何とかなるんじゃないかなと思ってる。」
顕也にはどこかで聞いた話である。自身が湘南医科大学で研究を投げ出したことを思い出す。佐伯がそんな顕也の背景を知る由もない。この際何でも思い付くまま聞いてみようと思っていた。
「そんなに面白い? 研究。」
マグカップを眺めながら顕也が尋ねる。
「面白いんだよ、これが。」
気付くと佐伯の目がギラギラしている。研究にのめり込んでいる研究者たちのこういうところが、顕也は好きではなかった。ロバートも、成功して一角の研究者になって初めてそれまでと違う一面を見せているだけで、きっと駆け出しの頃はこんなふうにギラギラしていたのであろう。でなければ小汚いアジアの小国にわざわざ学会発表に来たりはしない。
「どうやったらこの薄汚い部屋で毎日面白く過ごせるのか、逆に興味が湧くよ。」
「フフーン。いい指摘だ。さすが村沢だよ。実は何から話していいのかわかんないんだけど・・・」
どうやら話したいことが山ほどあるらしいが、そんなことは最初からわかっている。ここに顔を出すことを了承したのだから佐伯の話をじっくり聞くことは想定内、勿体ぶらなくても顕也には聞くしかない状況である。
「いいよ。何からでも。話したいんなら全部聞くよ。」
「パソコンの画面で説明するよ。椅子もってこっち来て。」
座面のビニールが破れてスポンジが飛び出した四つ足の丸椅子を、佐伯が指さす。今時、駄菓子屋のゲーム機の前はおろか粗大ゴミ置き場でも見かけないようなボロボロの椅子だった。佐伯には申し訳ないが、この何かに取り憑かれた同級生が少し哀れに思えた。佐伯はたぶん悪いヤツではない。あわよくば救ってやりたいような気にもなる。まずは話くらい聞いてやってもいいだろう。顕也は丸椅子をもって佐伯のデスクの前に移動した。マグカップはテーブルに置きっ放しになった。




