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(八)

(いったいいつまでこんな暮らしを続けるのであろうか? でもまあ、毎日ストレスに満ちた仕事をしているわけでもないし、こうやって時々女の子といっしょに酒を飲むのが特別イヤなわけでもないし、余計なことはまた明日か明後日あさってくらいに考えればいい。その日の酒がうまければ後は何でもいい。)

 そんなことを考えながら、顕也はカウンターの向こうの大きな天ぷら鍋を見ていた。鍋の中には涼しなめらかな泡をまとってゆっくりと回転するそら豆が浮かんでいる。先客のネタであろうか。そら豆の横に、一匹ずつ静かに投入される頭だけの海老がサッと赤くなってひときわなめらかな泡を放つ。その日は女の子に誘い出されて彼女のお勧めの天ぷら屋に来ていた。女の子が顕也のさかずきに冷酒をぎ足す。

「お医者さんって大学六年行くんでしょ?」

「同級生で十年行ったヤツもいるよ。」

 顕也が油に泳ぐ頭だけの海老を見ながら答える。

「もちろん途中で同級生じゃなくなった。」

「お金かかって仕方ないね。取り返すんだろうけど。」

 あみの上に引き上げられていたそら豆が、自分たち二人の目の前の皿にヒョイと移動する。

「まあね。本当の貧乏人は、どんなに頭良くても医者にはなれない。」

 あみの上に引き上げられた頭だけの海老をにらみながら答えてさかずきける。

「自分は恵まれてたと思う。今となればほんとに感謝しかない。自分もそうだったけど、みんなやりたいことばっかりやってたいして勉強なんかしないもん。試験さえ受かりゃいいやって。学生の時に成績優秀なヤツが卒後に活躍するとは限らないんだけどね。」

 顕也は、塩も付けずにそら豆を口にすると、何気なにげなく頭だけの海老の行方ゆくえを目で追った。箸にまみ上げられた頭だけの海老が一匹、ちゅうを舞ってL字のカウンター席の奥に座る初老の白人男性のもとに運ばれる。白人男性を囲む四、五人の日本人の視線が、まずは皿の上で小人のオペラ歌手のように両腕を広げた海老の頭にそそがれる。

 その中に、一人だけ海老ではなくこちらを見ている同年代の小柄な男がいた。男と目が合う。表情は明らかに顕也のことを注目している。顔に見覚えがあった。大学の同級生の佐伯だった。顕也の方も気付いたことがわかると、佐伯がソーリー、ソーリーと白人男性に断って席を立つ。

「さっそくいたよ、優秀なのが。」

 そう言って顕也もちょっとゴメンと席を立つ。その場で込み入った話はできない。二人でエレベーターの昇降口に退席する。

「むらさわー、久しぶり。」

「久しぶり。」

 そこはちょうど奥の佐伯たちの席から少し見える場所だった。白人男性が海老ではなく二人を見ているからなのか、欧米人のようにオーバーに振る舞う佐伯に誘導されて、抱き合って久々の再開を喜ぶ。

 大学時代に佐伯と仲が良かったわけではない。むしろたまたま同じ湘南医科大学でいっしょに研修医として働くようになってからの方が多く会話したくらいである。それ以来、佐伯と会うのは十年ぶりくらいであった。佐伯は湘南医科大学の第一外科に入局にゅうきょく後はボストンに留学してそのままアメリカに居着いてしまったと聞いたのが最後で、その後どうしているのかまったく知らなかった。研究仲間でも連れて日本に一時帰国しているのであろうか?

「三年前に日本に戻って来たんだ。今は白金の研究所にいるよ。」

 佐伯が近況を報告する。医科学研究所で相変わらず研究生活を送っているようだった。慣れた感じでサッと取り出した名刺の肩書きには准教授とある。おそらく大学の同期では一番の出世頭であろう。自分は名刺すらない。

「村沢こそ何でここにいるんだ?」

「何でって、見てのとおりだよ。」

「見た感じ・・・ぜんぜんわからない。というか、デート中だよな。ごめんごめん。」

「デート? そうか、これはデートか。」

「何言ってんだ? 相変わらずだな。煮え切らないと逃がしちゃうぜ!」

 とくに仲が良くなくても付き合いの古い佐伯は、顕也の優柔不断な性格をよく見抜いていた。どうやら佐伯たちの席の全員が、目の前の海老をお預けにして二人のやり取りに注目している。

「席に戻んないと。確か、村沢って形成外科だったよね。」

「いや、美容・・・」

「へー、美容外科か。それは面白い。また話聞かせてよ。」

 そう言い残して佐伯が席に戻る。アメリカ暮らしの長い佐伯は、さっそく流暢りゅうちょうな英語で白人男性に顕也のことを話し始めている様子だった。時々白人男性が笑いながら顕也に愛想あいそを見せる。照れ臭くてやりにくかったが無視するわけにもいかず、顕也も目が合えば軽く笑みを返す。佐伯は白人男性の横でずっと話の中心になっている。仕方がないから、こちらでも女の子に佐伯の経歴を説明する。何となく佐伯の優秀さは伝わっているがたいして興味がないらしく、女の子は話を聞き流している。一品ずつ皿に載せられていく天ぷらの進捗しんちょくがもどかしい。こういう店では客どうしに偶然起きるこんなやり取りは想定内なのであろう。担当してくれていた職人さんが顕也に別の話題を振ってくれたのをきっかけに、その場が何となく落ち着きを取り戻す。

 そのうち向こうでも違う話題になって、それぞれに天ぷらと酒を楽しんだ後、佐伯たちが先に席を立った。佐伯たちの一行いっこうが顕也たちの後ろを通って退店する。この時、佐伯が白人男性を顕也に紹介した。アメリカ時代のボスで、今は学会の招待講演で日本に来ているらしい。英語のできない顕也は立ち上がって、Nice to meet you. とだけ言葉を交わす。ギョロっとした目でまじまじと顕也の顔をのぞき込んで彼の方から求めてきた強い握手に少し痛みが残る。世界的な権威はどこか違うのかもしれない。佐伯は佐伯でさっきと同じ自分の名刺を取り出して、その握手した右手にボールペンを渡して顕也の連絡先を名刺に書けと言う。顕也は名刺の余白に自分の携帯電話の番号を書きながら、さっき適当に見ていた佐伯の肩書きをちゃんと見る。

「ヒトゲノム解析センター シークエンスデータ処理技術開発分野 准教授」

 まず長過ぎてまずに読める気がしない。そして当然、具体的に何をやっているのだかさっぱりわからない。そもそも一体どこでどうやったら一般外科医からここにたどり着くのかまったく見当も付かない。

 それでも、この日久しぶりに会った佐伯は、態度の端々(はしばし)に自信があふれていた。臨床なんてやらなくてよかった、そんな得体えたいの知れないひた向きさがひしひしと伝わってきた。もちろん何一つとして顕也が佐伯の立場を羨望せんぼうすることはない。大学時代と変わらずこの先もあまり仲良くなれないだろうとも思った。また連絡するから、佐伯はそう言って天ぷら屋を出て行った。


 その()()()()が社交辞令ではなかった。二日後に佐伯から電話が来たのである。その内容は意外にも、天ぷら屋で会ったボスのロバートが日本の美容外科クリニックを見学したがっているというものであった。佐伯も少し困っている様子であった。

「自分もそこまでくわしく知らないけど、今のロバート先生は形態遺伝学という分野に興味があって、ボストンで形成外科や脳神経外科みたいに首から上の形態をみる臨床家とコラボしてヒトのデータを集めているらしい。とくに形成外科は、形成外科医じゃなくて美容外科医が中心だって言うんだ。学会の招待講演でも、ヒトで臨床にリンクさせて形態遺伝学をやるみたいなことを息巻いてた。すでに目と目の距離が近い親からは先天異常の子供が若干じゃっかん生まれやすいなんてデータもあるみたいなんだ。そしたら、日本の美容外科医にばったり会ったというわけ。しかし、美容外科って、患者の目と目の距離なんて計測したりするの? 言葉だって十分通じない変人と付き合うのは大変なんだよ。」

 佐伯にしては疲れた語尾に、手を貸してほしいという強い願いが込められている。何よりも、顕也から見れば宇宙人のような佐伯がロバート先生を変人扱いする状況が顕也の同情を誘った。

「そりゃ、かまわないけど念のため院長にも伝えておくよ。美容外科は意外とプライバシーに気をつかうから。」

「助かるよ。しかし、村沢がいる美容外科はどこなの?」

「銀座。」

「銀座? ・・・そうか、じゃあやっぱりあの子はお店のお姉さんだったんだろ?」

「まあ、そうだね。」

「じゃなきゃちょっとショックだよ。あんなきれいな子が村沢の彼女だったら、俺、しばらく寝込むな。」

「はははは。大きなお世話だ。」

 本音とも思わせる佐伯のジョークに悪い気はしない。意外と正直で憎めないヤツなのかもしれない、とも思う。

「それでいつ来るの?」

明日あした。」

「えっ、明日あした?」

明後日あさってアメリカに帰るっていうから、明日あしたしか都合が合わない。無理を承知でお願い。お願い。頼む。このとおり。」

 幸い、この日は院長が登院していた。急過ぎてダメだと言われたらそれまでだし、聞いてみることはできる。

「じゃあ、ちょっといまいてくるから待ってて。ダメって言われたらあきらめるしかない。またすぐ電話するよ。」

「悪いね、本当に。ありがとう。」

 まったくどうしてこうもみんな急な用事を他人ひとにお願いするのだろう。相手にだって山ほど用事がまっているかもしれないとは思ってくれないのであろうか? とはいえ、佐伯自身もどうやら被害者である。院長は温厚で相談しやすいし、話くらいは通してやる義理があるような気もする。

 院長は、すぐ隣の処置室でレーザー専門の美容皮膚科医の女医といっしょに、レーザー機器メーカーの説明を受けていた。顕也がカーテンの隙間すきまからちょっと相談があると伝えると、すぐにレーザー機器がたくさん並べられた診察室の裏のスペースに出てきてくれた。

「お話し中にすみません。クリニック見学の話なんです。」

 顕也は内心どうでもいいと思いながら、同級生の佐伯のことや、電話で聞いたばかりのロバート先生の仕事などを説明する。院長はレーザー関係では顔が広いので国内からの見学は時々あったが、海外からの見学は顕也の知る限り一度もなかった。

「明日とはまた急ですな。私がいませんからねえ。」

 院長はそう言って眉間みけんしわを寄せて天井を見上げた。やはり突然過ぎるのであろう。佐伯には申し訳ないがあきらめてもらうしかない。自分ができるのはここまでである。

「ところでその海外の先生は、どこからいらっしゃってるんだろう。」

 院長が確認する。

「確か、ボストンだって言ってました。」

「うーん。わかった。わかりました。何とかしましょう。」

「ということは・・・?」

「ということは、いいでしょう。来てもらってください。夕方くらいからだったら私が来ますんで。午後からゆっくり来てもらえばいいでしょう。」

 まったくもって院長は誠実な人物だった。そんな見学を受け入れたところで一円にもなりはしないのである。ましてや自分が休みの日に出て来て対応するという。その人柄に半ばあきれつつもやはりどこか尊敬できる。なぜこんな人が美容外科の院長なのか、いつまでたっても顕也には不思議で仕方がなかった。断りましょうよ、と言いかけていた言葉を顕也は胸に仕舞しまい込んだ。


 佐伯とロバートが二人でクリニックにやって来たのは、翌日土曜日の午後三時過ぎだった。美容外科は土日に患者が少なくなることはない。二人が見学に来ても、顕也は手術の合間に少し顔を出すだけでほとんど相手などできない。ロバートがそれでもいいと言っているから、と佐伯に押し切られて来てもらったはいいが、すぐに二人はまったくの放置状態になった。さすがに失礼かと受付スタッフに声をかけてお茶を運ばせたきり、待合の一角いっかくで小一時間は待たせたであろうか。

 この状況を一変いっぺんさせたのは、四時過ぎにやってきた院長だった。待合で院長と挨拶あいさつを交わす二人が、診察室から手術室に移動する顕也の目にまった。二人は院長に導かれてすぐに顕也の執刀する手術ものぞきに来た。驚いたのは院長の英語だった。ベタベタの日本語英語であったが会話に困っている様子はない。ロバートと同年代ということもあるのかもしれない。二人は妙に意気投合して、院長がロバートの質問にこと細かく答えている。美容外科になんぞまったく興味のない佐伯は、明らかに手持ち無沙汰ぶさたである。その後はどうやら院長室で話をしていたようであるが、五時頃には院長も含めて院内から三人の気配がなくなった。顕也の業務が終わった七時過ぎにはほとんど三人の存在を忘れていた。

「おお、村沢先生。お疲れ様。」

 院長室から出てきた院長が、更衣室に向かう顕也を呼び止める。

「まだいらっしゃたんですね。」

 顕也が院長室をちらりとのぞきながら答える。ロバート先生がこちらを見ている。

「ロバート先生と食事に行こうと思うんだけど、村沢先生も良かったらいっしょにどうですか?」

「私がいっしょにですか? とくに予定はないですけど・・・」

 実際に予定はない。佐伯が自分を見ている。

「ほら、老人二人に佐伯先生が一人くっついて来るのも気をつかって大変でしょう。そんなに仲良しじゃなくても同級生がいればずいぶん違うでしょうから。」

 佐伯はけっこう余計なことを言っているようだった。やはり意外と正直で憎めないヤツなのかもしれない。

「それで、どこに行くんですか?」

「それがね、村沢先生。ドクターロバートは回転寿司に行きたいと言うんだよ。世界中であんなに有名だし、本家ほんけの日本でも人気なら美味おいしいに違いない、って。先生、このへんで回転寿司はご存じですかね?」

 さすがに院長が回転寿司に行くことはないのであろう。それにしても回転寿司とは確かにロバート先生はただの変人ではないかも、と少し佐伯に同情する。今の院長との会話を所々聞き取っているらしいところにも、ロバートの明晰な頭脳と底知れぬ好奇心をうかがい知れる。

「カイテーン、カイテーン。カーイテーンスーシー。」

 院長室の中からロバートの変な寿司コールが聞こえる。隣の佐伯がずいぶん小さく見えた。

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