(七)
顕也からは向こうに一服する福富が見えた。茂子の軽妙な毒舌が続く。
「はっきり言って、あんな二重瞼であの子自身の見た目は何にも変わってないのよ。手術の翌日だけちょっと前と違うかな、と思っただけ。三日もすれば前の顔ってどんなだっけ、今と違ってたんだっけ、って。そういう意味では何も変わってない。村沢先生には申し訳ない言い方だけど顔の造りだけ見れば、えっ、たったこんだけー? なーんにも変わってないじゃん、って感じ。」
この茂子の感想は、確かに顕也が術後一週間後くらいにほとんどの患者から受ける印象と同じであった。変わっているのであるが、第三者から見ればほんの少し違うだけのことなのであろう。
「でもきれいになったでしょ? 確かにあの子は村沢先生にお手伝いしてもらって、べっぴんさんに生まれ変わったと思う。何で変わったかってね、村沢先生。お化粧するようになったからでもなくて、ピアスを付けたりきれいな洋服を着たりするようになったからでもないのよ。すっぴんでもやっぱりきれいになってるのよ、本当に。」
そこまで語った茂子は、その日初めて見る表情を顕也に見せた。いつか見た、娘を思う母親の顔だった。実は、茂子さんはそこまで酒に弱くないのかもしれない。
「顔付きが変わったのよ。本当に。話し方、笑い方、怒り方、表情が手術前とまるで違うの。顔立ちなんて何にも変わりはしない。瞼の上に線が一本できただけでしょ。でもね、村沢先生、手術で顔付きが変わったの。私がいつも思ってたことがやっぱり正しかったんだ、ってわかったの。人が誰かに魅力的だと思ってもらえる要素って、顔立ちはあんまり重要じゃないんだって。顔付きの方が重要なんだって。顔立ちは生まれつき決まってるけど、顔付きってその人のもってるものでどんどん変わるでしょ。歳とって色んな経験しても変わっていくし、努力して身に付けた自信みたいなものでも変わるし、極端なこと言えばその日の気分によっても変わる。人の印象って、村沢先生が口を滑らせて、さっき私に言ってくれたとおりだと私は思っているの。だって、顔が整っててもただ整ってるだけで魅力のない芸能人、男でも女でもいっぱいいるわ。ただ整ってるだけで売れない芸能人がたくさんいるのは、顔立ちの良さはその人の魅力のほんの一部にしかならない、ということなんじゃなくて? 逆に、あんまり整ってない個性的な顔立ちでも、キラリと光る何かをもっていてその自信みたいなものを満面に湛えた顔付きや仕草を見せてくれる芸能人が多くの人を惹き付けて売れっ子になっていくんじゃなくて? その人が男前だの美人だのって思ってもらえる大事な要素は、顔立ちが十パーセント、顔付きが九十パーセントくらい、私はそう思ってる。」
そのとおりかもしれない、顕也はそう思った。自分が感じ取った娘さんの変化は、酔っ払いの両親を適当にあしらいながら堂々と顕也に対峙する彼女の顔付きと仕草の変化だったのだ。
「それが、たったあれだけの手術で、あの子の顔付きがあんなに変わった。未だに信じられない。たったあれだけのことで。ほとんどマジックよ。美容外科、満更じゃないかも、って見直したわ。確かにきれいになったじゃない、って。」
茂子の言葉は、迷える美容外科医の胸の奥底に突き刺さった。これこそ人々が美容医療に求める真の要望なのだと確信した。
この日はそれだけではなかった。帰り際、玄関先で福富と二人になったときのことである。
「茂子さん、ベルファムのリエ子さんに似てません?」
家の中に声が届かないように、顕也が小声で茂子さんの正直な印象を福富に伝える。
「リエ子さん? あれが?」
福富が目を上転させた変な顔付きになる。
「そりゃ、褒めすぎだぜ。歳も違うし、品があるでしょ。リエ子さんの方が。」
顕也はまったく逆に感じていた。意図して作られたようなリエ子さんの表情に、少なからず品のなさを感じていたのである。茂子さんの小気味よいしなやかな思考から生み出される真っ直ぐで裏表のない品の良さが、リエ子さんにはなかった。
「俺は似てると思ったことは一度もないな。」
「切れのある話し方が似てるだけですかね。」
「そいつはますます違うぜ。あいつは興味ないことにはことごとく鈍感だし、俺らには想像もつかない突拍子のないこと言うだけ。まあ、それで楽しませてもらってるんだけど。」
野暮でとんちんかんなことを聞いてしまったかもしれない、と顕也は思った。
「いやあ、てっきり福富先生は茂子さんやリエ子さんみたいな女性が好きなんだと思いましたよ。福富先生が似たような二人だと思ってないのは意外です。」
「俺さあ、あいつの言うところの顔立ちっつうの? 女の顔の造りにあんまり興味ないかも。美人に興味ないわけじゃないけど、そう、言葉を借りたら顔付きフェチなのかな? だから特に、俺みたいな男にはあいつの言ってることは正しいんだと思う。釈迦に説法だけど、形成外科から美容外科医に転身した村沢先生なら、顔立ちが静的な見方で顔付きが動的な見方というのはわかるでしょ? 静的な顔立ちよりも動的な顔付きの方がずっと個々の違いがあって、とくに惚れ惚れする女って、その人しか持ってないようなドキッとする顔付きとか仕草ってあるじゃん。俺はそういうのが大好きなんだな。うまく言えないけど、とにかく男も女もちょっと変で面白いヤツが大好きなんだ。だからだと思う。どんな状況でどんな顔すんだか隅々まで知っている身近な人間の顔付きが、他人の誰かに似て見えるなんてことは滅多にないよ。動的な顔付きはどうしようもないくらい複雑で、誰でも唯一無二さ。世の中には顔立ちだけだったら似てると思うような人間もいるけど、そしたらいよいよあいつとリエ子さんが似てるなんてことはまったくないでしょ。」
顕也は、福富がバスト専門で顔の手術は自分に任せられている深い理由を、この日初めて知ったような気がした。顔立ちに興味がなくてその方面で美容外科医としての自分のセンスを信じないから顔立ちを変える手術を自分に任せているというのであろうか? 動的な顔付きや仕草に女性の魅力を見出していてそれは静的な顔立ちよりも個々の魅力の違いが大きいから好きになる女性どうしが被って見えることはないというのであろうか? これは今までの顕也がまったく考えたこともない斬新な発想、斬新な女性の魅力の捉え方であった。でも確かに茂子さんもリエ子さんも美人ではなく、その一番の魅力は顔付きや仕草であると自分も感じている。一方では、福富と違って二人が似ているという印象を受けるのは事実であるから、一口に顔付きや仕草の魅力と言っても、顕也と福富では違う顔付きを見て違う顔付きに魅力を感じていることになってしまう。顕也の中で何かが整然としたが、何かが一層混乱した。ただ一つ言えることは、見た目で判断するその人の魅力について、自分が大きな勘違いをしていたかもしれないということであった。そしてそれを顕也に漠然と示してくれた福富と茂子、この二人にとって、おそらくそれはあまりにもどうでもいいことのようだった。
「いや、でも確かに、言われてみればオッパイのサイズはリエ子さんと同じくらいかもな。ガッハッハッハッハ。」
わざとなのか忘れているのか、玄関の前とはいえ十分家の中まで届く大きな声でそう笑い飛ばす福富の顔立ちは、普段よりもどことなくスマートで端正に見えた。
茂子との出会いは顕也の仕事に微妙な変化をもたらした。それまで顕也は自分の仕事に興味がなかった。仕事に興味がないというより、患者が手術を受けようとするに至った背景にほとんど興味を持つことがなかったというべきかもしれない。顔の形、つまり、顔立ちを注文通り変える、それだけが自分の仕事だと割り切っていたのである。自分の仕事の結果が他人である患者に何をもたらすのか、それはまさに他人事であった。
患者とのドライな関わり方は何も美容外科に限ったことではない、と顕也は思っていた。どんな医療でも少なからずそういう要素はある。運良く治療で病を克服した者が、その健康な体を使って何をしようとその者の勝手であり、そもそも医療はそこに踏み込んではならないのである。それは、善良な者でも犯罪者でも患者に施される医療は同じでなければならないという倫理観に派生する考え方である。美容医療の施術に限界はあるにせよ、そもそもの話がお金儲けであるから、患者の望む以上でも以下でもあってはならず、淡々と希望に沿って治療を行う、ただそれだけのことである。顕也は、素面で過ごす時間はせめて業務に忙殺されることを強く希望するあまり、ふと立ち止まって考えれば美容外科医にあるまじきクソ真面目な倫理観を貫いていたのである。
よくよく患者の話を聞いてみれば、美容外科手術を受けようとする彼らの背景は千差万別であった。こちらが聞かなければ背景などまったくわからず、あえて聞くこともないのであるが、中には少数派ながら手術を受けるに至った具体的な動機について陽気に話してくれる患者が時々現れた。
実は、不思議なことに、茂子と出会う以前の顕也に患者たちが自らの背景を話してくれたことは一度もなかった。以前は施術に関係ない無駄話とばかりにさらりと受け流していたのかもしれない。少なくとも患者の方からくどくど話し出した背景を延々と聞くハメになったという記憶がなかった。それが、手術の動機や綺麗になってどうしたいという野望とでも言うべき目論見は相当に色々あって面白いかもしれない、と気付き始めた途端に、患者の方から話してくれることが増えたのである。
患者の方から、聞いてくださいよ、という感じで話が始まってみると、その背景は実に様々であった。手術の動機としては、何となく綺麗になったらもう少し異性を惹き付けられるようになるのではないかという期待感のようなものがもっとも多かったが、フラれたから絶対に綺麗になってやるとか、三か月後にモデルのオーディションを受けるというような込み入った動機を打ち明けてくれる患者も少なくなかった。意外と中高年の男女も多く、孫に格好いいジイさんだとか綺麗なバアさんだとか言われたい、商売を始めるからお客さんの印象を良くしたい、離婚後に独り身だったがお見合いパーティーに参加する、などという話を、外来のカウンセリング中はもちろん、手術中に面白可笑しく語ってくれる患者が徐々に増えていった。
そんな話を、顕也は純粋に面白いと思ってフムフムと聞いた。術後、患者が本当に満足しているかどうかは相変わらず知りようはないが、これも顕也側の心境の変化であろうか? 術後に表情が明るくなって顔付きが変わって綺麗になったという印象を受ける患者が以前よりも増えたように思った。以前はそんなことはどうでもよかったが、今は少し違っていた。まずは顔付きも含めて綺麗になったことを手術する側が肯定的に受け入れて、その感想をそのまま患者に伝えるようになっていた。変に持ち上げるわけではなく、福富の娘さんの時と同じように、いい感じですね、印象変わりましたね、そう思ったとおりを言葉にするようになっていた。
もちろん満足しない患者も少なくなかった。要するに造りが変わっても表情が変わらない患者である。正直なところ半分以上の患者がそうだった。顔立ちが変わっても顔付きが変わらないまま何の印象も変わっていないのである。それがむしろ通常であった。相当な美人であっても希望通りの手術結果に満足しない患者は山ほどいた。顔立ちだけは十分整っているにも関わらず、話し方、仕草や振る舞いが相応ではなく、どうにも落差が目立ってしまう奇妙なミスマッチを、顕也はこれでもかというくらい見てきた。ルックスはお金と同じだ。いつしか顕也はそう思うようになった。百万円の貯金に自分は大金を持っていると思えばその人は金持ちだし、一億円の貯金にまだ足りないと思えばその人は貧乏なのである。だからそういう満足しない患者に接する時こそビジネスの世界に立ち返るようにした。淡々と希望に沿って治療を行う、それだけのことであった。顕也の方からいかに顔付きを変えるかなどという精神論に踏み込むことは一切ない。
ただ、顕也は少し茂子に共感していた。人の見た目の魅力に造りは然程影響しないという前向きな楽観論を、心地よく感じていた。そんな自分の気持ちに患者の前でも正直でいるという微妙な変化が影響するのかしないのか、顕也のところには以前にも増して手術を希望する患者が集まるようになった。半年近く先の手術枠が埋まってしまうこともあり、急ぐ患者を休日に出向しているクリニックにお願いして手術を組んでもらうことも珍しくなくなった。まさに望むところの忙殺の日々であった。自然と夜の店に出向く回数が減って、財主の興味なく手付かずのまま増える貯金に、銀行が日増しに興味を示すようになった。顕也の携帯電話に個人的にどこからか届く連絡の数は、お店の女の子のお誘いの次に銀行や不動産屋からの資産運用の勧誘が迫る勢いになってしまっていた。美容外科医として少し前に進んでいるような気がして、これはこれで悪くない気がしていた。
プライベート、つまり夜の店でも顕也の気分に変化があった。出向く回数が減ったから変化があったのか、変化があったから出向く回数が減ったのか、顕也自身にもわからない。ただ、その変化は茂子との出会いがもたらしたものであることは確かであった。
夜の店でも、どうしても女の子の顔立ちに目が行くようになってしまったのである。美しい顔とはどんな顔なのだろう、美しい目とは、美しい鼻とは、美しい目鼻立ちとは、一体どんな顔なのだろう。どうしても、そういう目で女の子を見るようになった。ところが、女の子の顔をそういう目で見れば見るほど、日に日に茂子の言うことが正しいのかもしれない、とも思うようになってしまっていた。容姿が重要と思える夜の店でさえ、どの女の子の顔立ちがとくに良いわけではない、個性的な顔立ちに素敵な顔付きが伴っているくらいの方が確かに魅力的かもしれない、いつの間にか漠然とそう感じている自分に気付いていた。
銀座の夜の店には綺麗な女が数多といる。自分は、通い過ぎてそんな女たちにも見慣れてしまったのだろうか? 美容外科の仕事と同じように、彼女たちも商売で男の相手をしているのであるから、どこか画一的な見た目や作法を身に付けてしまっている。とうとう自分はそういう雰囲気に飽きてしまったのだろうか? 酒なら一人でも飲めるし、大して魅力を感じない女たちとのやり取りにお金を出すだけの価値がない、と思い始めてしまっているのであろうか? 以前ほど店に足が向かない。
そんなことはないと思う自分もいる。自分の通った店なんてほんの一握りだ。多くの会員制の店には数えるほどしか出入りしていないし、一目でハッと惹き付けられて足繁く通いたくなるような美人も、この銀座にはまだまだいるはずである。それこそ、顕也には見せない顔付きや仕草もあって、上辺の付き合いでは彼女たちの魅力を全然知り得ていないに違いない。そうでなければあまりにもこの世の中は狭過ぎると時に悲観してしまう。しかし、そうまで思いを振り絞って、相変わらず夜の店に通う自分自身を嘲笑いながら酒を飲んでいる。以前の自分はそんなことは本当にどうでもいいと思っていた。同伴する女の子を見た目で決めたことはないし、そもそもどんな顔だったか大して覚えていないまま応じてきた。美しい顔とは何なのだ? 茂子さんは何者なのだ? そして、美希こそ何者だったのだ?
そう、結局この自問は、美希は自分にとって何だったのか、という問いにたどり着いてしまうのであった。その問いは裏返しの問いとも切り離せない。これを切ないと言えばしっくりくるのかもしれない。
自分は美希にとって何だったのか?
そこは振り出しだった。戻ってはいけない場所だった。あの日々の何もかも捨てて変わって、次に進もうともがいてあがいて諦めて、やっと今があるとさえ思う。美希を思い求めてもどうにもならない。まったく誰のためにもならない。死んだ美希の供養にさえならない。そんなことは明らか過ぎて考えたくもない。それでもなぜか今、美希の亡霊がこの銀座を彷徨っている。自分は美希にとって何だったのか? 美希は自分に何を求めていたのか? 自分の何を必要としてくれていたのか? 自分も美希の何を愛したのか? 美希が美人でなければあの日々はなかったのか? そもそも美希は美人だったのか? とびきりの美人だったのか? 美希くらいの美人はたくさんいるのではないか?
一度、動く美希を見た。銀座のお店の中だった。他の女の子と話をしている最中に、向こうのテーブルで無表情に客の相手をする美希を見つけた。見つけた瞬間、ハッとした。亡霊ではない生身の姿に胸が高鳴った。
「先生、どうしたの? あっちに気になる子でもいるの?」
向こうのテーブルに視線が釘付けの顕也に気付いた女の子が尋ねる。
「あっ、いや、そのとおり。ごめんね。あの子と話してみたいんだけど、指名できるのかな?」
顕也が向こうのテーブルを指さす。お店によってはお願いされて指名することがあっても、顕也から指名したのは実はこれが初めてであった。それくらい適当に他人任せに銀座の夜の店に出入りしていたのかもしれない。銀座には指名できない店も多く残っていたが、実際にはあまり堅いところのない店がほとんどである。自分に付いた女の子が指名されて途中でいなくなることは普通であった。指名されて喜ばない女の子はいないし、男性客の方も、ちょっと行って来なさい、くらいの紳士であることが求められる場なのである。女の子がママに相談しに席を立つ。
五分ほどして美希が来た。近くで見てもその顔立ちは美希にとてもよく似ている。まだ二十代前半であろう。出会った頃の美希をさらに若くしたような顔立ちであった。しかし、話し始めると、それがすべて自分の妄想であることがわかった。
「カンナでーす。ご指名ありがとーございますー。」
最初の挨拶から続く軽い話し方、甲高い声、酒の注ぎ方、お絞りの丸め方、すべてが決定的に美希ではなかった。五分もすると、まったく美希とは別人にしか見えなくなった。顔立ちすらなぜ似ていると思えたのか不思議なくらいで、話しているのも辛くなった。指名したことを後悔した。
その時、なぜか無性に茂子さんと話したくなった。自分は美希にとって何だったのか、茂子さんが何か良い答えを用意してくれているように思えてならなかった。茂子と会ったのはもう一年以上前のことだった。




