(五)
術後は瞼にガーゼを当てて、急な内出血が起きて来ないか経過観察のために、そのまま三十分ほど待合で待っておいてもらうことになった。待合には受付スタッフ一人以外には誰もいない。仕事を終えて白衣から私服に着替えた福富が、娘さんの横で携帯電話をいじっている。娘さんは瞼のガーゼの隙間から細く眼を出した仮面舞踏会のような顔で、ぼーっと待合のテレビのニュース番組を眺めて座っていた。顕也の気配を察した福富が、携帯電話をポケットに押し込みながら顕也の方に向き直る。
「いやー、遅くまでありがとう。思ったより痛くなくて退屈だったって。さすが村沢先生だね。今こいつに、『あの繊細な手術はあんたにはできないよ。』っていじめられてたところさ。」
「そんなこと言わないよね。お父さんには別の専門があるし。」
顕也が娘さんの肩を持ちつつ、内心では、手術中の看護スタッフとの会話の内容からは確かに親子二人だとそんな口の利き方もするかも、と想像している。
「・・・」
娘さんがニヤッと笑いながら無言で父を睨む。瞼の上のガーゼが邪魔をして、意図しなくても上から目線である。
「そんなことあります、いつもいじめてます、だろっ!」
福富がぎゃははと笑いながら肘で娘さんを小突いて白状を迫る。
「何よ、パパだってここに来た時、今日のこの服装ダサいって散々いじめたじゃん。」
「ダサいからダサいって言っただけー。」
福富がべーっと舌を出して娘さんに殴られそうになっている。仲のよい親子だった。
「まあまあ、あんまり暴れると中で出血するんで。さっき説明したとおり、二、三日はおばあちゃんになったつもりでゆっくり動いてね。」
顕也が型通りに術後の安静を説明する。
「おいおい、ちゃんと聞けよ。」
福富が注意すると、ヒョイと顎を上げて顕也に向き直った娘さんが、態度を一変させてスクッと立ち上がる。そしてお腹の前で手を交差させて深々と頭を下げる。顕也もいっしょに頭を下げざるを得ないくらい律儀な礼である。基本的には真面目でよくできた娘さんだった。礼なんて要らないという意味を込めて、顕也がクリニックの出入り口を指さして帰るように促す。
「さあさあ、もう大丈夫。そうやって顔を下に向け続けるのも出血の原因になるから、勉強もほどほどにね。受験が終わったから大丈夫でしょ?」
「そこは絶対大丈夫。」
福富が小声で即答して娘さんに二の腕をつねられている。二人が出て行った後も、イテテテテテ、という福富の声が出入り口のドアを閉めようとする顕也の耳に届く。
「お先に失礼しまーす。」
後ろから最後の受付スタッフの声が聞こえた。
クリニックに一人残った顕也は、外来診察室に戻って術衣の上に羽織っていた白衣を脱いで椅子の背もたれに投げ掛ける。そしてドサッと深く、白衣を押し潰しながら椅子に腰掛けた。白衣のポケットには何も入っていなければ名札すら付いていない。午後八時半を過ぎた頃である。顕也は心地よく疲れていた。三十秒ほど頭の後ろで手を組んで目を閉じて天井を仰ぐ。そして、徐に電子カルテを開くと、手術記事の足りないところを少し書き足す。足すと言ってもほんの二行だ。
顕也は、その一瞬の打ち込み作業中に、横浜こども病院の駆け出しの頃を思い返していた。手書きのカルテと寒い外来。ちょうどこれくらいの時間に黙々と雑務をこなしているのが日常の日々。
都会の雑居ビルにあるクリニックの窓のない狭い診察室には、脱いだ白衣を置く診察台はなかった。クリニック内はいつも空調が利いて寒くも暑くもなく、ほとんど季節を感じることはない。唯一の季節の風景と言えば、窓一面に貼られた看板ステッカーの隙間から僅かに見える街路樹の枝くらいである。窓のすぐ外で部屋の明かりに薄暗く照らされた枝先に、ほんの少し膨らんだ新芽はプラタナスであろうか? こども病院のモミの木とそのすぐそばの救急外来の出入り口を思い出す。
あの頃は、福富と同じような親子を毎日のようにたくさん診察していた。今日の福富と娘さんのやり取りは、紛れもなく当時何も感じずに接してきた同じような親子の日常の一部だったに違いない。どう見ても、生まれた時から二十年近く当たり前にいっしょに過ごして来た本当の親子、理想の父と娘であった。ぶつかり合う日があったとしても、二人が自分の知りえない果てしない何かを乗り越えて来たこと、今は娘さんが父の医師の仕事内容を軽々しく批判するくらいに信頼し合える関係にあることは確かであった。時に厳しくてもありのままを優しく受け容れる包容力溢れる父、反発しながらもそれを嫌がっているわけではない真面目でお茶目な娘、何から何まで今の顕也には遠く気高く、重くて辛くて滑稽な異次元の世界だった。
きっと、美希はどこかで道に迷ってそんな家族の日常を自分にちょっと多めに診せてくれただけで、根本的には、彼女にとって自分は少し頼りになるかもしれないくらいの一介の医者だったに違いない。いつしかそう信じて疑わないようになっていた。さらに、もう今ではこんな考えすら、ごくたまに何かの間違いで酒が切れてすごく疲れていてもなぜか静かに頭は冴えている時にだけ、ほんの一瞬襲われる無意味な屁理屈だった。
その日も顕也の携帯電話にお誘いの着信やメールが何件か入っていた。土曜日だというのにさすが銀座だ。疲れて読む気はしない。疲れている、ただそれだけ、そう自分に言い聞かせる。素面と疲労が心身の健康に良いはずがない、そうも言い聞かせる。九時過ぎにクリニックを出た顕也は、すぐそばの牛丼チェーン店で瓶ビールを片手に紅生姜を山ほど載せた大盛りの牛丼に赤富士のごとく七味唐辛子を振りかけて五分で平らげた後、タクシーに飛び乗って帰宅、追加の缶ビールを飲んで気持ちよく眠った。
顔面手術の抜糸はおよそ一週間後である。手術をたくさん手掛けていると、患者が抜糸のために再診する頃には、そういえばこんな手術をしたっけな、と思いながら抜糸している。福富の娘さんも例外ではなかった。
娘さんの瞼の仕上がりは上々であった。まだ腫れと内出血が少し残っているので、ぱっちり幅広の二重瞼に濃いアイシャドウを塗ったようなどぎつい顔になっているが、一カ月ほどで落ち着けばいい感じになるであろう。これなら少し化粧すれば大学の入学式で初対面の誰かに二重瞼の手術を受けたことを気付かれることはまずない。抜糸は五分もかからない。父にやってもらってもよいのであるが、本人が抜糸もぜひ顕也にやってほしいと言って再診したのであった。福富は娘さんが来ていることを知っているはずであったが、手術中ということでここには来なかった。
「これどうぞ。母からです。」
抜糸の済んだ娘さんが、足元に置いてあった紙袋から桐の箱を取り出す。なぜか包装紙に包まれていない。
「ありがとう。気を遣わせちゃったかな。」
「開け・・・開けてみてください。」
娘さんが顕也に箱を開けてほしいと言う。ありありと勇気を出して中を見るように伝える娘さんの姿に、顕也も少し照れ臭くなる。デスクに置いた箱の蓋をそっと開けると、中は立派な江戸切子の徳利と二つの盃であった。
「お酒が何より好きな先生だって、父が言ってて。母はでもちょっと心配だって・・・」
娘さんがますます照れ臭そうにもごもごと語尾を濁す。確かに何の心配なのかは説明不要だった。二つの盃がすべてを語っている。
「ハハハハ。そういう気遣いなんだ。ますます申し訳ないな。大きなお世話だって後でお父さんに言っておくね。でも心配してくれているお母さんにはくれぐれもよろしく言っておいてね。がんばりまーす、って言ってたって。」
娘さんは、ひょうひょうと受け止める顕也の態度に安心したのであろうか? それとも母の言伝に自ら気付いてくれた顕也に感謝していたのであろうか? 手術の日と同じようにピシッと姿勢を正して、律儀にお腹の前で手を交差させて深々と頭を下げる。
「色々ありがとうございました。」
清々しい姿だった。それこそこの二つの盃とは無縁に違いない、圧倒的に穢れなく正しい姿であった。
爽やかな空気を残して娘さんが出て行った後の処置室で、顕也はもう一度桐の箱に納められた江戸切子の徳利と盃を見る。この二つの盃を娘に託したこと、福富がここに来ないこともまた、両親の采配なのであろう。こんな物を貰ったからと言って、自分の何が変わるというわけではない。大きなお世話というのは本音であった。一体、自分の何を理解してどこが心配だというのであろうか。世話を焼くほどの価値が、自分のどこにどれほどあるというのであろうか。それでもどうしたことであろうか。僅かに残る後ろ髪引かれる思いが、ただ余計だった。邪魔だった。こんな邪念は酒で薄めて薄めてやがて消えていくのがよい。そう思うと、さっさと桐の箱の蓋を閉じて紙袋に入れてロッカーに仕舞い込む。
何事もなかったかのように、その日の夜も顕也はいつもどおり酒を飲んだ。縫合糸のメーカーの接待に始まり、そのメンバーでそのまま日付が変わるまで小料理屋とクラブを梯子する。クラブにいる頃には何のメーカーだったのかも大して覚えていない。クラブの女の子が飲み過ぎではないかと心配してくれるとだいたいその日はお仕舞いになる。同じことを何度も繰り返し言っているような気はするが、誰の肩も借りずにふつうに歩けているし、女の子にしつこく絡んでないし、全然酔ってなんかいないと言い張ってはみる。とはいえ、確かにそれ以上飲むと翌日の仕事に差し支えることもわかっている。状況はすべて全然よくわかっている。そういう意味では確かにまだまだ全然酔っていないのである。そして、グラスに酒が注がれる瞬間に昼間の桐の箱に納められた盃をふと思い出して、全然酒が足りないことを升々自覚する。でもその日はその一杯でお開きだった。たくさん飲んでもらって売り上げが上がればそれでよい、クラブに限らず銀座の夜にそんな雰囲気のお店は一軒もない。女の子が今日はお開きと言えばお開きなのである。顕也にとってはごく普通の当たり前の日常だった。
「うちのがぜひ連れて来いって言うんでさ。キンキンに冷えたビールいっぱい用意しとくから。」
福富にそう言われて世田谷の自宅のバーベキューに招かれたのは、梅雨明けも近い七月の中頃だった。そう言われれば娘さんの瞼の手術を担当したことを思い出して、術後経過も少し気になった。乗り気のする酒宴ではないが断る理由もない。いつの間にかクリニックの看板ステッカーの隙間に見える街路樹の枝が緑一色になっていた。
福富の自宅は世田谷の高級住宅街にあった。福富が謙遜するとおり、その住宅街の中ではどちらかというと小さめの家であったが、一般的にはかなり大きな豪邸であった。雛段状の土地なので、外からは白が基調のこぢんまりと落ち着いた洋館風の建物が見えるだけで庭らしきスペースは覗けない。門から広い階段を四、五段上がったところに玄関があり、どうやら反対側に庭があった。庭が谷側でその地下が道路と同じ高さで駐車場になっている。さらに玄関脇に来て初めてそこと駐車場がもう一つの階段で繋がった凝った作りになっていることに気付く。雨に濡れずに駐車場と行き来できるということであろう。下に伸びるその階段が、南フランスの田舎家の地下貯蔵庫の入り口のように演出されているのは奥さんの趣味であろうか。玄関を潜るよりもまずはその地下貯蔵庫に下りて行きたくなってしまうような、何とも怪しい魅力がある。顕也にしてみれば、そんな玄関周囲の佇まいだけでもすでに一般住宅ではなかった。
「いやあ。狭いから変な作りになるんで。」
後に付いて階段を上がって来た顕也に、福富がもう一つの階段の事情を説明する。
「俺はきらいじゃないんだけど。ほら、この辺じゃ庭か駐車場かわからないようなだだっ広いスペースに頭から車入れて中でターンして出る時も頭からみたいな家も珍しくないからね。バックで駐車場に入れてる時点で庶民丸出し、と言うか、自分で運転してる時点で庶民だな。ガッハッハッハッハ。」
福富が玄関先でそう言って開き直ったように笑い飛ばす。怪しい地下貯蔵庫の階段を二、三段下がったところからその福富を見上げていると、確かにオーバーな話ではないような気になる。
「うちのが挨拶したいっていうからちょっと上がんなよ。反対側の通路を通って庭に行ったら酒盛りの準備はできてるけど、ひとまず遠慮なく家の中を突っ切ってってくれ。」
福富がそう言って、道路際のフェンスと家に挟まれた、庭に通じる路地のような空間を指さす。ランダムに敷かれた黄褐色の踏み石と幾何学的な渦巻き模様を配した白いフェンス自体は小洒落た小径なのに、なぜかその白いフェンスに今時小学校の校庭でもなかなか見かけないくらい元気いっぱいの朝顔がびっしりと巻き付いているのを見て、顕也は少し安心した。
「ようこそ。はじめまして。茂子と申します。」
玄関ポーチを潜って中に入ると、奥さんの茂子が出迎えてくれた。茂子を見て、顕也は一瞬自分の目を疑った。高級住宅街にある洋館風のご自宅、美容外科クリニック副院長のご主人、そんな肩書きからはどうにも見た目がかけ離れていたのである。どこにでもいると言えば失礼であるが、美容外科医の奥さんとしては予想を大きく覆す容姿であった。持ち歩く買い物かごから飛び出しているのがバゲットではなく大根の方が似合いそう、茂子はそんな第一印象であった。もちろん些細な驚きはおくびにも出さない。
「今日はありがとうございます。お邪魔します。」
家に上がると、庭に面した大きなリビングに通された。そこに、と茂子が勧めるテーブル脇の椅子に座ると、正面に大きなフレンチドアがある。外に準備された白いパラソルに所々重なる庭木の影が庭の奥行きを深めている。
「村沢先生、いつも主人がお世話になっております。娘の手術もありがとうございました。」
「こちらこそ、今日はありがとうございます。素敵なお家ですね。」
「麦茶でいいですか?」
「ムギ茶・・・はい。」
この家の作りからして冗談かと思ったが、茂子は真顔である。どう反応してよいのか困ったが、顕也にはものすごく面白かった。この家とこのご主人、そして茂子さんのこの容姿があって、絶妙なタイミングで麦茶と来たのである。お笑い番組を見てツボに入ったように、笑いを堪えるのが辛くて吹き出しそうになった。
「おいおい、麦茶はないだろ。今日は宴会だぜ。」
火でも起こしに行こうとしたのか、フレンチドアを開けてサンダル履きになった福富が二人を外に誘う。
「それもそうだわね。」
茂子がそう言って用意した麦茶を顔の前に持ち上げてじっと見つめる。コップに近すぎて寄り目になって困っている茂子の真剣な顔が実に可笑しい。まさにお笑いコントのようである。すると、これまた絶妙なタイミングで、銭湯上がりに牛乳でも飲むかのように、エプロン姿のまま腰に手を当てて一気に麦茶を飲み干す。その茂子のパフォーマンスを見て遠慮がちにでも笑うしかない顕也を横目に、福富は大喜びしている。
「何やってんだか。すまんすまん。いきなりでびっくりさせたかもしれんが、こいつはいつもこの調子だから。」
こうして始まった福富家のバーベキューは、すべてが良い方に期待を裏切った。火の粉が飛んで危ないのでバーベキューの調理は男性が担当するのが当たり前だとは思っていたが、この二人はその常識をかなり忠実に守っていた。顕也は茂子の隣に座り、テーブルを挟んで二人の向かいに座る福富が茂子の注文を聞きながらあれこれ焼くのである。もちろん足元のクーラーボックスからビールを出して注いでくれるのも福富だった。福富自身は手酌である。
「こいつの話を聞くのが今日の村沢先生の仕事さ。」
そんな福富の言葉通り、顕也と茂子はほとんど店の客と同じように、飲んで食べて話に興じていればいいだけだった。明らかに福富はそんな給仕を気に入ってやっている。まったく予想しなかった構図であった。
上司に肉の焼き加減を指示して酒まで注がせるのだから、普通に考えれば余程気を遣うはずなのに、顕也は一向に気を遣わないで楽しんでいた。その理由は、決して上司の上機嫌ではなかった。理由はただ一つ、茂子が抜群に面白かったからだ。初っ端の麦茶は茂子の話術、卓越したハイセンスなジョークであったことに気付くのに、然程時間はかからなかった。




