(三)
とにかくクラブで相手にする女は千差万別だった。何しろ自分から好みを求めるわけではないから、要は女が顕也を気に入るかどうかである。気に入れば連絡先を聞いて来るし、聞かれれば顕也もただそれに応じる。しばらくすると店に来てとか、食事に行きたいとか、連絡が来ることもあるし来ないこともある。誘われてたまたま空いていればただそれに応じる。何度か会えばプレゼントをねだられることもあるし、食事や演劇鑑賞だけに付き合うこともある。夜の女だからといって皆が高価なプレゼントや飲食を求めるわけでもなく、アウトドアはゴルフとダイビングだけというわけでもなかった。参加者の名刺の肩書きからは活動内容をまったく想像できない団体のパーティーに同行したり、博物館でしか見たことがないようなクラシックカーの初ドライブの助手席に座ったりすることもあれば、実家の神社で家業の神楽を舞うからに見に来てほしいという女や、深夜に気になる心霊スポットに行くから付き合ってほしいという女までいた。
エリカもそんな大勢の一人、長い髪の似合うスレンダーな女だった。多くを語らず経歴どころかおよその年齢も見当が付かない。二十代半ばくらいであろうか? 美形であることは確かなので、黙っていた方が教養のなさを出さずに得することが多いという、この世界でやっていくための彼女なりの処世術なのであろう。
何度か訪れたらしい店で何度か顕也に付いてくれたらしいが、三回目くらいにまったく覚えていないことを正直に話すと顕也のことをいたく気に入ってくれたようで、それから度々連絡が来るようになった。正直には話せなかったが、顕也はこの女があまり得意ではなかった。しかしある日、ものは試しとばかりに同伴することになった。
「あたし、占いが好き。先生、占いやったことある?」
和服で澄まして突っ立っている仲居に見送られながら料亭のにじり口をくぐるやいなや、唐突にエリカが顕也に尋ねる。
「占い? なんでまた急に占いなの?」
「あたしはこの先どうしたいなんてない。今日もそうだけどこの先もたぶん変わらない。どうするかはだいたい占いで決めることにしてる。その方が楽しいし諦めやすいし、そんなもんか、って自信が湧くの。」
「じゃあ、どこがよく当たるとか詳しいんだ。」
「もちろん。教えてあげよっか?」
満面に笑うエリカを見たのはこの時が初めてだった。興味がないとは言えずにいる顕也は、エリカに手を引かれるままタクシーで麻布に向かった。
「よく来るんだけど、混んでるかな・・・」
エリカは、さっきまでの料亭とはまるで違って楽しそうだった。慣れた足取りでごく普通のマンションの一室に顕也を導く。出てきた人物もまた、ごく普通の浅黒くて小太りの中年女性だった。
「ようこそ。今日はお連れさんもごいっしょですか?」
占いのおばさんが甲高い声でエリカを招き入れる。
「そう。今日はあたしじゃなくてこっちの先生。お医者さんです。」
「あら、そう。先生は大勢来るけどお医者さんは少ないねえ。ご用件は?」
どちらかといえば乗り気ではない無言の顕也の気持ちを見透かすように、おばさんが上目使いで顕也を睨む。
「あたしが、占ってほしいだけなんです。先生のこと。」
「あら、そう。占ってほしいお相手が目の前にいるというわけだ。お相手の名前とか写真とか持って来られることが多いんだけど、そういうのも時々あるわね。」
料亭からの流れではエリカの意図は恋愛の占いではない。そもそも勘違いがあるようで、見事に外している。浅黒さを隠しきれない派手なメイクが胡散臭さを一層強調している。しかし、顕也の気持ちとはまったく逆に、エリカはそれはそれで面白いとばかりに盛り上がっている。
「じゃあ、二人ともそこにおかけなさい。」
おばさんに勧められるまま広いテーブルに向かって、顕也とエリカが並んで座る。テーブルの向こうに座ったおばさんが、じっと十秒くらい顕也の顔を見つめる。次に無言で怪しげなカードをテーブルの上に並べ始めた。
「じゃあ、始めますよ。」
おばさんが手持ちのカードをシャッフルしながら、誕生日、初恋の相手、好きな動物、他にもどうでもいいような質問をいくつか顕也に浴びせる。
「この方は基本的には真面目で律儀な男性ですね。人生を大きく踏み外すようなことはぜったいにない。今後もずっと。」
エリカは少し身を屈めるように前に乗り出して聞いているが、顕也は酒も手伝って露骨に斜に構えていた。おばさんが次のカードを捲る。
「ずいぶんがんばって来たんだねえ。まだ若いけど、この方は相当がんばって来られたように出てるわ。お勉強とかそんなんじゃないのよ。先生だから勉強がんばるのは当たり前だもんねえ。」
へへへ、っと、おばさんが勝手に笑って次のカードを捲る。
「乗り越えるんだねえ。こういうお方は。何だろうねえ。今、こうしてあなたとここにいるのもきっとそのため。何かを乗り越えなきゃいけないみたい。何だろうねえ。」
当たるも何もない。恋愛の占いが始まるのかと思ったら話がどんどん逸れているし抽象的でよくわからない。
「今は何かを待っている状態だね。人じゃないね。何かしらね。お金も十分あるみたいだいし。」
おばさんが次々とカードを捲る。
「なるほどなるほど。家庭がうまくいってないんだねえ。それはご苦労なさって当然。今は辛抱だねえ。何かが来るまでは。」
当たってなくもないが、普通に考えれば大抵の医者はお金があるし、家庭がうまくいっていればこんな時間に派手な女と二人でこんな場所には来ない。酔った頭で言葉遊びだと高を括る。
「次のは、あなたが決めてくださる? お連れさんでもいいのよ。」
エリカがちらりと横目で顕也を見て一枚のカードを指さす。
「はい。ありがとうございます。」
おばさんがもったいぶるように両手で隠しながらそのカードを摘まみ上げて覗き込む。
「あれ? 待ってるものは大したものじゃないねえ。いや失礼。ご本人さんには大したものかもしれないけど、あなた自身の内側にあるものみたいだね。それが来たら・・・」
おばさんがじっと二人の顔を交互に見つめてニッコリ笑う。
「それが来たら、乗り越えられる。それだけ。」
そら見たことか。あまりの具体性のなさに顕也がちょっと呆れる。そんな顕也のじれったい気持ちを見透かしたおばさんが言葉を続ける。
「わかりにくいでしょ。ご本人さんはだいたいそんなとこだね。わたしの占いは怒って帰る人も多いの。でも当たるんです。もうだいたい事情がわかってきたから。」
ハハハ、っと、おばさんがまた勝手に笑って次のカードを捲る。その顔付きが一転して真剣になる。
「やっぱり。」
おばさんのわざとらしい形相に、顕也も念のため向き直る。まっすぐ自分を見るおばさんの瞳に自分の顔が映るのが見える。
「死んだんだね。あなた、大事な人を亡くされたんでしょ。」
顕也は内心驚いた。いや、不意を突かれて完全に動転した。ほんの一瞬であったが、まさに走馬灯のように美希との日々が蘇る。しかし悟られなかった自信はある。それは酒に対する信頼でもある。
「まあ、そうかも。」
何事もなかったかのようにあっさり顕也が答える。おばさんは、また一転して優しい口調で顕也に語りかける。
「きっとすごく哀しかったでしょ。今でも切ないはず。わかってあげたいけど、あなたのこと、まだ何も知らないから何と言葉をかけてよいやら・・・。人が亡くなるってすごく大きなことよね。わたしがこんな仕事をやるようになったきっかけも、小学生の時に大好きだったお兄ちゃんを病気で亡くしたからなの。兄は今でもわたしの占いに大きな影響を与え続けている・・・」
おばさんは、その後も残りのカードを捲りながら、占いは暴くことが目的ではなくてこの先どうしたら良くなっていくか考えるのに役立ててもらうのが目的だとか何とかそれらしいことを言いながら顕也に助言を続けたが、何一つ顕也の耳に届かなかった。最後に、帰り際の勘定でエリカが少し離れた隙に、顕也の耳元でおばさんが囁く。
「余計なことかもしれないけど、あなた、この女の人とはまったく縁がないわよ。フフフ。」
大した占い師だった。その日顕也はエリカの店に形だけ同伴したが、その後は他の店を転々と夜更けまで飲み続けた。彼女からの連絡は二度となかった。
英恵は音大卒のピアニストであった。大学を主席で卒業したが思うような仕事がなくてクラブでピアノを演奏する仕事をやっているうちに、接客の仕事もこなすようになったらしい。
「ピアノ上手いのなんていくらでもいるのよ。」
彼女の切れ長の目が少し遠くを見つめる瞬間が、顕也は嫌いではなかった。
「英恵さんは今どこで何をやってたと思う? もしピアノをやってなかったら。」
二人は東武宇都宮駅にほど近い路地裏にある小料理屋のカウンター席にいた。小料理屋と言っても定食屋とスナックを足して二で割ったような店構えである。前後泊のある出張時、顕也はいつもこの手の小料理屋で遅めの夕食をとった。顕也はともかく、OLを演じる女優のような出立ちの英恵にはひどく不釣り合いな小料理屋だったが、この日は宇都宮の美容外科クリニックの出張に彼女の方からカバン持ちに付いて行きたいと言ったのである。顕也の質問が、彼女には意外だったらしい。
「変なこと聞くのね。何て答えていいのかな。先生はどうなの? 医者にならなかったら何やってた?」
顕也だってそんなことを聞かれたことはない。
「プロレスラーとでも答えておくよ。」
「意地悪ね。じゃあ、わたしはこういう小料理屋の女将かな。」
英恵がそう言うと、カウンターの向こうの女将が入口近くの他の客連れに注文のグラスを出しながら、顕也たち二人の方に向き直ってニコリと笑った。
「まあ大変。こんな人がお店出したらお客様がみんなそっち行っちゃう。」
七十歳前後であろう。小柄で人懐っこい笑顔が印象的な、割烹着のよく似合う女将だった。
「ほんと? わたしがお店出したら、たくさんお客さん来てくれるかな。」
カウンターに両手をついて立ち上がらんばかりに、英恵がそう答えるのを女将は嬉しそうに聞いていた。
「当たり前でしょう。商売敵になる前に今すぐこっち側に来てほしいくらいねえ。」
女将が悪戯っぽい笑みを浮かべてカウンター内の床に人差し指を向けながらそう答えた。
「えっ、いいの?」
「かまわないですよ。どうぞどうぞ。」
「立ってみたかったんだよね。こういうお店のカウンター。」
英恵はそう言いながら遠慮なくカウンターの中に進んで、どうやらその英恵よりもいっそう乗り気な女将がパッと脱いで手渡した割烹着に袖を通した。手前に一人いるそろそろ出来上がりそうな初老の男がグラスを傾けながら、似合う似合うお姉さんいいねえ、と冷やかしを入れる。
「じゃあ、焼酎のお湯割り、もう一杯もらおうかな。」
顕也が英恵に注文を入れる。女将がさっと英恵の前に焼酎の瓶とグラスを差し出す。そして女将の指図どおりポットのお湯を注いで顕也にグラスを手渡そうとした英恵の動きがふいに止まった。曇ったグラスはカウンターに置かれることなく彼女の両手に握られたまま静かに湯気を放っている。英恵は顕也の後ろにある物置のようなスペースをまっすぐ見ていた。
「ピアノがあるのね。」
英恵がそう言うと、顕也も振り返って女将と三人でピアノを見た。奥まった場所に丁寧にカバーを掛けられているので、一見してピアノがあることに気付きにくい。
「あれはお嬢さん?」
英恵が女将に聞く。よく見るとメトロノームの影に隠れて写真立てがあった。成人式の写真であろうか。セピアにもなり切れない少し古いカラー写真には二十歳そこそこの黒髪の女性が微笑んでいる。
「そう。わたしに似てなくて可愛かったのよ。」
一瞬遠くを見つめてそう言った女将の言葉が過去形であることを察した二人に、女将の方が気遣って少し陽気に言葉を続けた。
「病気で亡くなっちゃって。辛気臭い話でごめんなさい。元気で風邪もひいたことがないくらいの娘だったのに、大学出て学校の先生になったばかりの頃、突然頭が痛いって言い出して病院に行ったら頭の中に腫瘍があるってわかって。それから半年ももたなかった。ほんとに病気ってやだね。」
返す言葉に詰まる顕也と英恵の沈黙を破ったのは、英恵がコトリとグラスをカウンターに置く音だった。
「音楽の先生だったの? きっと学校でピアノ弾いてらっしゃったのね。」
それは英恵の精一杯の気遣いだった。三人が同時に写真に目を遣りながら女将がこくりと肯く。顕也は夜の女たちのこういう誠実さに触れることが好きだった。
「ちょっと弾いてもいいかしら?」
英恵の意外な提案に女将の顔がパッと明るくなる。
「えっ! 弾いてくださるの? ぜひ聴かせてちょうだい。娘もきっと喜ぶわ。」
二人が無言でカバーを外して三分ほどで即席の演奏会の準備が整う。店内にいる他の客に軽く挨拶してスーツに割烹着姿の英恵の演奏が始まる。
クラブで下積みを重ねた彼女のピアノと歌声は本物だった。ノクターンから始まり、Piano man や天城越えの弾き語りまで、多彩なバリエーションはすぐにその場にいる全員を釘付けにした。それどころか、決して多くない路地裏の通行人が皆足を止めたので、あっという間に後列は肩車でもしないと歌声の主を拝めない状態になった。小料理屋の入口は開放されたまま、向かいのラーメン屋のご主人らしきねじり鉢巻きまでもが仕事そっちのけで通りから中を覗いている。
その盛況ぶりと演奏する英恵をキョロキョロと交互に見渡しながら、顕也はただ笑うしかなかった。お腹を抱えて笑いたくなるほど、そのミスマッチと場内の高揚感が可笑しかった。小料理屋と粋な弾き語りのギャップが何とも心地よい。こんな異空間を生み出すきっかけを作ることに貢献した顕也は、痛快で誇らしささえ感じていた。
鳴り止まぬ拍手の中、英恵がスクッと立ち上がって女将に深々とお辞儀をする。場内が一瞬静まり返る。英恵としては本当にそれでお仕舞いと言いたかったようだったが、当然のようにアンコールが響く。胸の前で両手を握りしめて演奏を聞いていた女将がどうぞという目配せを英恵に送る。その時、英恵は何かを汲み取ったのであろうか? それまでとは違う神妙な顔付きで、もう一度女将にお辞儀をした。そしてピアノに歩み寄ると、ピアノの上の写真に向かってもう一度お辞儀をする。彼女にとってそれが渾身の演奏であったのか、いつもどおりの演奏だったのかは誰にもわからない。静まり返る小料理屋の奥から、これ以上を聞いたことがないというようなYou raise me up の弾き語りが路地裏に響き渡った。顕也にとって音楽でこれほど心を揺す振られたのは初めての経験だった。いけないことに、ねじり鉢巻きが涙を流しているのを見てしまった途端に、自分の目にも涙が込み上げるのがわかった。きっとラーメン屋のご主人はこの母娘のストーリーを見守ってきた一人なのだろう。女将も泣いている。女将だけではない。ほとんど全員が時々目頭を押さえている。
演奏が終わると、大喝采の中で英恵が女将を抱きしめる。ねじり鉢巻きが駆け寄って英恵に何度も何度も頭を下げている。顕也は自分の涙が笑い過ぎた涙であるかのように精一杯誤魔化したが、幸い誰も顕也が英恵の連れだとは思っていないようであった。
何という破壊力であろうか。こんなことができる演奏家がそれを生業にできないはずはない。そんな顕也の直感どおり、間もなく英恵が店を辞めて映画の製作会社に就職したという噂を聞いたが、その後彼女の歌声が顕也の耳に届くことは二度となかった。




