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(二)

 夜の街には随所に美希の作法があった。髪の結い方、お酒のぎ方、足の組み方はもちろん、去りぎわに振り返らないことまでもが、美希のやり方に重なった。美希が亡くなって初めて夜の街を知った顕也にとって、それらは種明かしのようだと感じることがあった。大勢おおぜいの男たちが女を求めて夜の街にやって来るのに、言ってみれば顕也は夜の街に出向くことなく、もっとなまめかしい彼女たちの作法を身近に肌で感じて生活していたということになるのかもしれない。美希はそんな作法のすべてを天賦てんぷの才として持ち合わせたような女だったような気もするし、まったく逆に大切な何かを孤高に守り抜くためにただ上辺うわべだけそんな作法を商売道具として身に付けていた女のようにも感じた。

 夜の街に身を置けば美希について思い出すことは色々あったが、一つだけ言えることは、目の前のさかずきから酒があふれ出てさえいれば、顕也の中で美希をなつかしむ感傷がこぼれ出すことは一切ないということであった。むしろ、その場限りの女たちの中に見え隠れする美希のような所作しょさを見るたびに、ああ自分はこのやり方にやられたのかもしれない、この雰囲気にまんまとだまされたのかもしれない、と思うことすらあったのである。

 だからと言って夜の街に行かなくなることはなかった。他に行くべき場所などなかった。気が付けばまっすぐ自宅に帰る日はほとんどなくなっていた。仕事は最優先でも空き時間があれば彼女たちの誘いを断ることはなかった。いつしか、美希が本当にこんな髪型をしていたか、本当にこんなお酒のぎ方をしていたか、本当にこんな去りぎわだったのか、ちゃんと思い出せなくなっていた。でもきっとそれこそが望む心境だったのだと自分に言い聞かせていた。

 美容外科クリニックの残業など大学病院に比べればないに等しかった。八時以降までクリニックにいることはほとんどなく、まっすぐ自宅に帰って眠る以外の時間を一人で過ごすことなど考えられない生活が当たり前になっていた。福富たちスタッフといっしょに飲みに行ったりすることもあったが、同じ美容外科医は基本的に自分の時間を大切にしており、仕事以外の付き合いはドライだった。飲み歩くのが大好きそうに見える福富ですら、家族を大事にしていることが言葉の端々(はしばし)からうかがい知れた。顕也を熱心に誘ってくれるのは、ほとんどがお店の女の子たちだった。

「話さなかった? あたしも前は横浜にいたのよ。横浜もよかったんだけど一度東京で働いてみたかったの。」

 この日はナナと名乗る女の子と寿司屋にいた。以前彼女の働くお店で自分に付いてくれた後に、美味おいしい物を食べに行きたいと連絡をくれた女の子である。日焼けした肌と長い付け睫毛まつげ以外に彼女の顔もあまり覚えていなければ、寿司屋も手術器械の業者に何度か接待を受けただけのとくに特徴のない店だった。接待で来た時に何を食べたのかもまったく記憶に残っていない。顕也は、以前彼女のお店で自分が横浜から出てきたことをつい話してしまったことを思い出していた。

「横浜で働いてただけで地元じゃないから。あんまりよく知らないな。ナナさんは地元なの?」

 大将がもりだいにちょんと置いた白身の握りを箸で持ち上げながら、顕也がナナに尋ねる。

「そう。あたしは地元。本牧ほんもくってわかる? 小学生の時に近くの丘の上からランドマークタワーがどんどん空に伸びていくの眺めてた。」

「へー。今のにぎやかさからは考えられないね。」

「そうでしょー。あんなふうにちゃんとした街になってきたのはまだ最近。十年ちょっと前にはでっかい外国人とあやしい日本人がウロウロしてて、子供心にこんなとこで子育てすんなよって思ってた。」

「へー。自分の中じゃ、横浜といえば中華街とあぶない刑事デカくらいしかないかな。」

「それ、あたしがっちゃい時にロケ来てたの記憶にあるあるー。」

 ナナが握りに目もくれずに声を弾ませる。その顔はコンビニの前で昔話に盛り上がる中学生のようだと感じて、顕也が一歩引く。

「まず食べて食べて。まだ最初だから。ねっ、大将。」

 顕也は、ナナのもりだいに置かれた握りを勧めて大将にも話を振った。大将が、ゆっくりでいいです、と笑いながら落ち着いて次の握りを支度したくする。

「ナナさんって、この仕事の前は横浜で何してたの?」

「あたし?」

 ナナが寿司を頬張ほおばりながら答える。茶色の髪が醤油の小皿にくっ付きそうになっている。

「おいしー。さすがじゃん。あたし、高校卒業してすぐこの仕事。高校の先輩に誘われて。」

「ブレなかったんだ。立派だね。将来何かやりたいことでもあるの?」

 顕也がナナのお猪口ちょこに酒をぎながら尋ねる。顕也が横浜の話題を避けたいことに気付いていないのか気付かないフリをしてくれているのか、顕也にもわからない。

「立派? めてくれてありがとー。将来の夢はいいお嫁さんになることかな。なんちゃってー。はははは。」

 夜の女に統一感があるのはいかにもという外観だけで、内面的には様々なタイプの女がいた。ただ、今の顕也に女性の好みなどあるはずもなかった。ナナのようにみずから話題を振ることに慣れない女でも、過去には触れずに上手うまく話をらせながら顕也の話を引き出す女でも、顕也が彼女たちに優劣を感じることは一切なかった。要するにどうでも良かった。会話の弾まないナナのような女の方が、むしろ妙な達成感を感じているようなところもあったかもしれない。

「じゃあ、ナナさんは料理とか得意なの?」

 再び顕也がナナのお猪口ちょこに酒をぎながら尋ねる。

「料理? 時々作る。最近別れた彼氏にはよく作ってあげてた。」

「何を作ってあげてたの?」

 美しい容姿に不釣り合いな美希の温かい手料理が、一瞬顕也の頭によみがえる。

「オムレツかな。夜は外食ばっかりで、作ってあげられるのはいつも朝。朝はコーヒー入れてトースト焼いてオムレツといっしょに食べる。さわやかでしょ。」

「似合わないけどさわやかだね。」

「よく言われるー。そんなにさわやかじゃないのぉー?」

「そうだね。自覚した方がいい。」

「えーっ。ひっどーい!」

 そう言って大笑いしながらナナが顕也の腕をつかんでぐいぐい揺する。顕也が口を付けようとしていたさかずきから酒が少しこぼれる。それを見てサッとおしぼりを手渡しながらナナが笑い続けている。

 寿司屋を出て彼女の店に行った後も、ずっとそんなふうにどうでもいい話を聞きながら日付が変わるまで酒を飲んだ。

 三日もすればどの店で何を話したのかもどんな顔の女だったのかもたいして覚えていない。到底とうてい名前など翌朝には思い出せない。そんな夜の街で過ごす日々は、仕事と眠っている時間以外の顕也の日常になった。


 実の姉から届いた両親が別居したという知らせが、いっそう顕也を酒に向かわせた。ある日突然クラブで飲み始めた矢先に、どこでどうやって暮らしているのかも知らない姉から、何年ぶりかに電話がかかってきたのである。何でも姉はずっと前から母の相談を受けていたという。顕也が医学部を卒業したら離婚したいと考えていたらしいが、昨年ようやく父が家を出て行ったということであった。事務的にただそれだけ告げると、姉は余計なことに振り回されたくないという口調で早々に話を切り上げた。クラブのトイレで便器に投げ込まれた氷の山を見つめながら、少しだけ酔った頭でその知らせを聞いた。三分ほどのやり取りだった。

 たいして驚きもしなかったが、日中素面(しらふ)に戻っても、美希のような女と家庭を持つことを夢見ていた頃の自分が何だかいとおしくて、思わず吹き出しそうになるのを抑えることにしばらくひと苦労だった。夢や幻とまでは言わなくとも、あの三人のあの暮らしは最初から成り立つはずがなかったのだ。どういう形であってもすぐに終わってしまうことが最初から決まっていたのだ。素面しらふに戻ると遠い記憶と重ねて少しだけそう感じることがあった。しかしすぐにどうでもよくなった。酒の力は偉大だった。

 幸い仕事が途切れることはなかった。酒と同様とにかく仕事をしていれば余計な考えから逃れることができた。だからお金には困ることがなかった。クリニックの中心的な存在になっていた顕也にとって、連日飲み歩くことくらいは経済的に痛くもかゆくもなかった。つぎ込む趣味もなければブランド製品や高級車に興味があるわけでもない。貯金したところで将来設計こそない。休日返上で時間の許す限り仕事を引き受ける顕也の貯金は、それでも増えていく一方であった。

 美容外科クリニックは土日が忙しいので、顕也の休みは基本的に月曜日か木曜日であった。その休日にも近郊にある美容クリニックに招かれて手術することが度々(たびたび)あった。近郊の駅前の雑居ビルに入っているような美容クリニックは、自称美容皮膚科医を中心に業務を回していることが多い。自称というのは他でもない。手の込んだ手術をしない美容クリニック勤務の医師を総称して自他ともに美容皮膚科医と呼ぶのがもっともらしいというだけのことである。表向きは美容外科クリニックの勤務医であっても、それくらい手術をしない美容皮膚科医は大勢おおぜいいた。もともと外科医ではなく内科医や麻酔科医であった者が、いきなり美容外科医に転職してもそう簡単にトラブルなく短時間で手術をこなせるわけではない。そもそも、流れ作業で多くの手術を効率的に執刀するならともかく、手術に時間をかければ手術以外の外用剤、レーザー、局所注射などの診療にく時間が削られてしまう。手術を希望して美容外科を受診する患者は実は少なく、美容業界全体では手術以外の診療による売り上げが圧倒的に多いのである。大学卒業後に研修医を二年やっていきなり美容外科に就職する者がいないわけではなかったが、経済的な理由などで転職して美容医療を始める者が多くを占めた。そうなると、ニーズが多くてリスクの少ない手術以外の美容医療が中心というクリニックが多くなるのは当然のことである。医療技術よりも広告費と売り上げのバランスを取る経営技術が巧みな美容クリニックが典型的であった。

 しかし、患者心理としては、手術を多く手掛けている美容外科クリニックが安心できるようであった。脳神経外科クリニックに頭痛の患者が大勢おおぜい受診する状況と似ていた。毎日でなくとも手術を受けたような風貌ふうぼうの患者が待合にいるという状況が、非手術の美容医療を受けるハードルを低くするのである。ただ、数は少ないにしても美容外科の看板を上げる以上は手術を希望する患者が一定数いることは確かであり、経営の巧みなクリニックがそういう患者をみすみす他の美容外科クリニックに紹介したりはしない。常勤医でなくても顕也のように手術をメインで診療を行う美容外科医をうまく勧誘して自前で美容手術を展開した。このような美容外科医に対して、不定期なアルバイトという勤務体系でありながら、真面目に大学病院で働く医師から見れば破格ともいえるような賃金が支払われることは言うまでもない。手術は何よりの広告であった。

 顕也が常勤医として勤務する銀座の美容外科クリニックの院長自身もまた、手術をまったくやらない美容皮膚科医であった。顕也の出身大学よりも格段立派な国立大学の出身で、半世紀前から医療用レーザーの開発に携わってきた学者肌の温厚なご老人であった。大学では思うような研究ができないとレーザー専門のクリニックを開業し、レーザー機器の業者とのコネクションを利用して次々と最新機器を導入して患者の支持を広げてきた。収益はそれなりだったはずであるが、業者としても機器を売り込んでいくらという世界である。同じような治療を始める美容外科クリニックが増えていくにつれて、手術なしでの集客に限界を感じて福富がやとわれたわけである。ほとんど広告を出さない、誰でも簡単に常勤でやとうわけではないという点で、院長がこの業界ではある意味すごく良心的だということを、顕也は働き始めてしばらくしてから福富に聞いて知った。副院長の福富を筆頭に、常時四、五人の美容外科医が常勤医として働いていたが、なぜか採用条件に手術の経験は不問だった。逆に相当手術の経験があっても不採用になることがあるらしく、その採用基準は福富にも謎ということであった。しかも、逆にレーザー部門の常勤医は院長以外に四十代半ばの女性の美容皮膚科医が一人いるだけで、他はすべて非常勤で回していた。院長の意に沿うのか反するのか、銀座の一等地ということもあって、郊外の美容外科クリニックよりも外科手術による収益の割合が高いクリニックになっていた。この非手術、手術の人員配置は収益の比率をそのまま反映しているといううわさを一度だけ耳にはさんだことがあったが、そこまでリベラルな人物がなぜ美容外科クリニックの院長なのか、顕也には知るよしもなかった。

 顕也の休み返上のアルバイトは、そんな院長の斡旋あっせんによるものも多かった。福富の口添えも少しはあったのであろう。卒なく手術をこなし、何よりも私的な理由で滅多に仕事を断らない顕也は、普段ほとんど接点のない院長から明らかに好意的に見られていた。この何の詮索せんさくも根拠もない信頼が、どれほど顕也を勇気付けていたであろうか。自分の素性すじょうたいして知らない相手から信頼されることほど誇りに思えることはない。何しろ院長とは面接の時以来、このいつどこの美容クリニックに手術をしに行ってもらえないかという業務上のやり取り以外に言葉を交わしたことがないのである。こんな自分の中に何を見出して特別待遇とも言えるアルバイトを自分に回してくれるのであろうか? 院長の真意は不明のままだった。単に同じような動きができる外科医が他にいないだけなのかもしれなかった。

 しかし、今の顕也には理由など何でもよかった。院長も患者も確かに自分を必要としてくれている。必要とされるなら自分がやるしかない。そんな一方的な思い違いとも言える誰にも課されない責任感こそが、無心で仕事に向き合える唯一ゆいいつ確かなモチベーションだったのかもしれない。言ってみれば、顕也にとってここでの仕事は、あえてどうでもよい話で盛り上がる酒宴しゅえんと同じ意味を持っていたのかもしれない。それは確かな曖昧あいまいにどっぷりひたることのできる座禅のようなものであった。

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