研究編(一)
美希の死を現実だと受け止められるようになったのは、二年もしてからだったと思う。夢だったのではないかという期待とともに目覚める日が半年は続いたであろうか。美希と出会ったことを思い出しては泣き、いっしょに見たような景色に出会っては泣き、思い描いていた三人の将来を空想してはまた泣いた。
一年くらいで徐々に現実だと受け止められるようになってきたのは、単に夢から覚めない毎日が繰り返されたからであった。夢だといいのにと思いながら過ごす日々が少しずつぼんやりと現実らしく思えてきただけのことであった。だからどこかにまだ少しは夢だといいのにという期待があった。この期待を早く振り切ってしまうのに一番いいやり方は、期待から逃げることではなかった。夢と現実の境界を曖昧にしてしまうこと、あるいは夢でも現実でもどちらでもいいのではないかという心境に至ることであった。
仕事も研究もどうでもよくなって、とっくに大学の医局を辞めていた。横浜にいる理由もなくなって、大崎のマンションに住んで銀座の美容外科クリニックに就職していた。忙しく仕事をしていれば気が紛れて心穏やかにいられることも、美希から学んだ「いいやり方」に他ならなかった。幸いそのクリニックで働く他の美容外科医は、形成外科医として働いたことがない経歴の持ち主がほとんどだったので、すぐに顕也のところに手術が集中するようになった。
美希の死から二年ちょっと経った年の瀬に職場近くのフランス料理屋でお酒を楽しんでいたのも、クリニックで多くの手術をこなす立場になった手前、断れずに仕方なくクリニックの忘年会に参加したからではない。顕也はもう一年以上この手の飲み会にはすべて出席していた。できるだけ参加するようにしていた。誰かが夢中になって話す大して面白くもない話を黙って酒を飲みながら聞いていると、これでいいんだ、これでよかったんだ、と思えてくるから不思議である。夢でも現実でもどちらでもいいのではないかと思えるのに一番手っ取り早い「いいやり方」、それはまさに酒だった。
「俺はでかいオッパイなんて作りたくないんだ。オッパイはな、小ぶりでちょうどいいのが一番。男がみんなでかいオッパイが好きだなんて大間違い。谷間なんか以ての外だって。」
この日のメンバーの中で中心的な美容外科医である副院長の福富が、赤ら顔でニヤニヤしながら楽しそうに事務スタッフの女の子たちに語りかけている。福富は、このクリニックで豊胸手術を得意とする四十代半ばの愉快な人物である。もともと総合病院で乳腺外科をやっていたが、患者とのトラブルで辞めて美容の世界に流れ着いたという噂どおり、できるだけ顔の手術は避けて通りたいらしく、二重瞼を希望する患者をもっとも顕也に流してくれている先輩美容外科医でもあった。
「そもそもヒトは脊椎動物なんだぜ。軟体動物じゃないんだからプルンプルン揺れたら駄目だろ。村沢先生はどう?」
就職して間もない引き気味の若い事務スタッフの女の子の横で、年配の看護スタッフがクスクス笑いながら、いつもこの調子なのよごめんなさいね、と謝っている。
「僕ですか?」
いつの頃からか、顕也は、急に話を振られてすぐに気の利いた言葉を返せない自分でよい、と開き直るようになっていた。これもやはり美希に教え込まれた処世術なのかもしれない。うーん、と考えながら思い付くことをゆっくり話し始める。ふだん自分から話を振ることが少ない顕也が何かを話そうとすると、福富の周りのスタッフが全員その発言に耳を傾けた。
「そうですね。顔の場合には、目、鼻、口、とか、各パーツを平均の大きさや形にして一つの顔にすると美人になるという話がありますよね。だからやっぱり万人受けするのはちょうどいい平均的な大きさと形なんじゃないかな、と思います。」
福富がうんうんと肯いた。
「そうそう、俺が言いたいことに近いけど、村沢先生はひとつ大事なことを忘れておる。」
こういう楽しそうな酔っぱらいとのやり取りこそが、未だに闇の中を当てもなく彷徨い続けている顕也の一時の心の支えになっていることなど誰も知る由はない。心底楽しそうに福富が続ける。
「俺たちは見た目の悩みから患者さんを救ってあげなければならない。だから村沢先生の言う通り、ある程度万人受けするおっぱいを作ってあげなければ患者さんはハッピーにはなれない。本人の勘違いやコンプレックスで勢いのままに大きなオッパイにしちゃったら、想いの男性を射止めるという意味では選択肢は狭まってしまうんじゃないか、と俺は言いたい。」
「ちょっと待って。それは先生の趣味でしょ。」
やはり引きっ放しの事務スタッフの女の子の横で、年配の看護スタッフが首を傾げながら横槍を入れる。よく見るとこの看護師さんもずいぶん酔っていた。
「先生の趣味はよくわかったけど、やっぱりほとんどの男は大きいの好きよねー。それこそ胸元に谷間なんて出てたらみんなそこ見てるもん。ぜんぜん興味なさそうな男の人ですら、『えっ、あなたもそこ見ますか!』って感じ。」
だよね、と話を振られた事務スタッフの女の子が満更でもなく、そうそう、と答えている。
「いや、俺は見ない。頼まれても俺は見ないよ。たまたま目に付くことはあるかも知らんが、あるべき理想とはまったく別問題だ。なあ、村沢先生。」
赤ら顔で眉間に皺を寄せたまま、腕を組んで含蓄いっぱいに福富が語る。
「俺が村沢先生に聞きたいのは、個人の理想だ。こうあるべきという理想だ。男が理想とする女性のおっぱいは、推測するに大きくてもせいぜいCカップ、たぶんBカップがベストだ。BとCどっちが理想かそれだけでいい。俺は村沢先生の個人的な理想を聞きたい。」
また始まった、無視していいからね、と年配の看護スタッフが事務スタッフの女の子たちのグラスにワインを注いでいる。顕也はこの女性たちよりもさらに困っていた。
「BとCですか?」
真面目に答えようとする顕也に女性たちが注目する。正直なところ顕也にはどちらでもよいが、話の流れとしては福富を支持するしかない。
「似合ってるならCでもDでもいいと思ったりしますけど、個人的には谷間がとくに魅力的だとは思わないから、Bですかね。」
福富がニヤリと笑った。
「よく言った、村沢先生。やっぱり村沢先生は最初に会った時からセンスがあると思ってたんだ。それでこそ美容外科医だ。」
何だかよくわからない酔っ払い独特の盛り上がりになってきたところに、隣のテーブルからもう一人の看護スタッフが加わってきた。手術室を専門にする看護スタッフで、彼女は手術着の上からでも十分にわかる圧倒的なバストサイズを誇っていた。福富先生の正面にワイングラスを持って現れた彼女もまたかなり酔っている。
「あらぁ、福富先生も村沢先生もずいぶん楽しそうね。お呼びつけいただいてありがとうございます。」
意地悪くそう言いながら、ワイングラスをテーブルに置いた彼女の両手は、開襟ブラウスの間にこれでもかと露出した谷間の両脇のバストを下からぐっと持ち上げて上下左右に揺らして見せた。男も女もない。一瞬にして一人残らずその豊満な肉体に目が釘付けになる。もちろん福富もその一人だ。
「ほーら、今見たでしょ、見たでしょ!」
鬼の首を取ったように年配の看護スタッフが福富を指さす。
「このとおりなのよ、男っていうのは。」
見てない見てないと弁解する福富の慌てぶりに、若い事務スタッフの女の子たちがお腹を抱えて笑っている。豊満な看護スタッフは私の勝ちだと言わんばかりにブラウスをはち切る勢いでガッツポーズをしている。確かに、彼女の揺れるバストを口が少し開いたまま一瞬見入った福富の姿を目の当たりにした顕也としても堪ったものではない。顕也もまた大声で笑っていた。こんな下らないことで心の底から大笑いできたことは久しくなかった。素晴らしい馬鹿馬鹿しさだった。これでよかった。
その忘年会は当然のように二次会もあり、福富は三次会と称して顕也をクラブに誘った。顕也がクラブに行くのは初めてではなかった。福富はことあるごとに顕也をクラブに連れ回すようになっていたからである。酒好きの福富にとって、誘っても滅多なことでは断らない顕也は格好の同志だったのかもしれない。
「いやあ、あいつらには参ったよ。せっかく俺が辛気臭い会を盛り上げてやろうと思っているのに、あんな爆弾みたいなのが登場したら台なしだ。」
ボックスシートで横に座った女の子に煙草の火を付けてもらいながら福富が言う。
「福富先生、まだ言ってるんですか? でも先生も明らかに見てましたよね。」
酒の力を借りて顕也が福富をからかう。
「そんなことないって。正面に来たら嫌でも視界に入るってもんよ。その話はもういいよ。ほら、ちゃんと挨拶聞かないと。」
それぞれの隣に座った女の子が名刺を出しながら代わる代わる挨拶する。年末で忙しいのであろう。顕也ですら初めて来る店ではなかったが、常連のはずの福富に対して、二人の女の子は明らかに新人だった。おそらく女子大生の小遣い稼ぎなのか、名乗った後に相手から話が出るのをただ待っているぎこちない素振りから、経験不足は明らかである。
「今日はリエ子さんいないの?」
見兼ねた福富が親しくしている女性を指名する。
「リエ子さん、奥にいますよ。今声かけてきます。」
スリムな方の女の子が機敏に立ち上がって奥に消えて行く。すると、もう一人の少しぽっちゃりした体形で日本人離れした顔立ちの女の子が、正面に座っている顕也に向かって真剣な顔で口を開いた。
「爆弾って何ですか?」
顕也と福富が一瞬顔を見合わせる。さてはと思いながらそのまま二人でちらりと彼女の胸元に目線を落とす。一次会と同じ光景がそこにあった。
「はははははは。」
話を飲み込めずにぽかんとした表情を浮かべる女の子を他所に、二人はまた大声で笑った。
「今、絶対見たでしょ。」
「馬鹿言え。興味を持って見たわけじゃない。これは確認だ。一に確認、二に確認。手術を安全に行うために確認は基本中の基本だ。」
「確かに。確認は大切です。」
顕也が適当な返事をしているところにリエ子さんがやってきた。
「先生、お久しぶり。最近来てくれはらへんから、連絡させてもらおう思ってたとこです。」
リエ子は関西出身で三十代半ばくらいの和服のよく似合う落ち着いた女性だった。雰囲気美人とでも言うのであろうか。控えめな顔立ちに反して、自然な流れで連れの顕也にお辞儀するタイミングだけでも相当な場数をこなしてきたことが窺い知れる。周囲に絶妙な緊張を生み出す隙のない挙動と気さくで表裏のない関西弁とのギャップがさらに人を惹き付ける。
「ちゃんと来てくれんと、さっさと忘れさせてもらいます。なーんちゃって。特別にまだボトルとっといてありますけど、それでよろしいですの?」
「うん。ありがとう。いきなり来てごめんね。」
「いえいえ、いきなりでも来てくれはるだけでうれしいのよ。こっちこそありがとうございます。」
リエ子がお店の男の子を呼びつけてボトルを持ってくるように指図すると、失礼しますと言いながら福富の横に座る。
「きっとお連れの方も先生なんでしょ?」
「そう、同じクリニックの期待の新人、村沢先生。新人つっても外科崩れの俺なんかと違って、形成外科上がりの生え抜きの美容外科医さ。顔の手術は全部任せちゃってる。いい男でしょ。胆が据わっているというか、無駄口を叩かないし、何より飲みっぷりがいい。」
「初めまして。リエ子です。さっき福富先生と二人してうちの若い子いじめてはったでしょ。村沢先生は上品そうなお人やから、福富先生の真似なんかしたらあかんよ。うちの子を可愛がってあげてくださいね。」
顕也の横で日本人離れした顔立ちの女の子が三人にお辞儀している。
「さては先生たち、さっきこの子のバストのことで盛り上がってはったんちゃいます?」
リエ子が唐突に言った。顕也と福富が驚いて再び顔を見合わせる。
「爆弾とか何とか言ってはったでしょ。」
「何でわかるの? さっすがリエ子さん!」
福富がリエ子さんの方に向き直って真面目に感心している。
「だって二人ともこの子の胸元をチラチラ見たはるんやもん。だいたいこんな可愛い子を除け者にして男二人で盛り上がってはったらそんなことしかあらしません。」
福富がまた正面の顕也に向き直って言う。
「すごいだろ、リエ子さん。俺は女房の前だと平気でウソ付くけど、リエ子さんの前でウソ付くときはいつも手に汗握ってるのさ。こんな気持ちにさせる女の人はそうなかなかいない。俺はそんな内なる爆弾を抱えてる女の人の方がよっぽどグッとくるよ。」
「あら、そうなん? 話なんてどうでもええから胸元の爆弾だけでええ、っていう男の人はいっぱいおるんちゃいます? 色んなことで自分を磨いて努力したはる女の子にしたら、確かにそれ一発でぜんぶ台なしになる爆弾に違いない思うわ。どっちか言うたらウチもやられてきた口やん。」
リエ子が両手を自分の小振りなバストに当てて、舌をペロリと出して三人の笑いを取る。
「いや、リエ子さん。たった今、それがそうじゃないって話をしてきたところなんだよ。」
福富が小振りなバストの尊さについて再び話し始める。リエ子は優しくそれをうんうんと聞いている。
顕也は、当然のようにできるだけバストから離れた話題を隣の日本人離れした顔立ちの女の子に振る。すると、大抵こんな時は女の子が自ら身の上話を始める。大学進学で上京したが親が学費を出してくれないから週三日ここにいる、大学では経営の勉強をしていて将来は経営者になりたい、語学留学を考えているからお金を稼ぎたい、そんな彼女たちの話を意外なほど飽きずに顕也は聞くことができた。隣に来てくれた彼女たちに対するせめてもの礼儀などではなかった。彼女たちが注いでくれる酒を飲みながら彼女たちの話題に身を任せることが心地よかった。時として本心のようなものが見え隠れしつつも結局はどうでもいいと思えるような話題が一番良かった。そんな話題こそが、その場限りのやり取りの中で、顕也自身が彼女たちに何か影響を与えている良い聞き手であるかのような細やかな満足感があった。そしてもちろん、その店に足繁く通ってその女の子を指名するなんてことは自分からは絶対にしない。少しだけ歳を重ねてそういう作法がいつの間にか板に付いていくことを、顕也は快く受け入れようとしていた。それでよかった。




