(二十三)
葬儀社の控室には、祖父と彩乃の他にも親族が五、六人いた。当然、初対面の親族が顕也に話しかけてくることはなく、どんな自己紹介をすべきなのか戸惑った。気を利かせた祖父がそれとなく顕也のことを紹介するが、お互いに、ああどうも、と応えるきり言葉が続くはずもない。顕也は、すぐに想像以上に自分はここではほとんど部外者であることを知った。
そればかりではなかった。通夜が始まると、初対面であるはずの美希の知人らしい人物たちからの冷たい目線が自分に向けられているのがすぐに分かった。時々自分の方を見ながら小声で話しては控えめにも驚きの表情を見せる同年代の礼服姿の男女が、入れ替わり立ち替わり自分を目で追っていた。あれだけの美人だった美希がその後どうなったのか気になる同窓生たちは大勢いたに違いない。離婚後に地元で娘と二人で暮らす美人の古くからの知人として、彼らはどんなふうに美希と関わってきたのだろうか? 傷付いた美希の話し相手だけではなく、心を寄せて近付く男も少なくなかったであろう。亡くなった時に同居していた男がどのような人物だったか興味が湧かないはずはない。泣き腫らした顔で居心地悪そうに一人突っ立つ顕也が、誰の目からもすぐに当事者であることは明らかだった。彼らの目線は度が過ぎて攻撃的であった。興味の対象として見られる程度ならまだしも、通夜の経過とともに、それは彼女を守れなかった顕也を責めようとする眼差しにエスカレートした。
そんな状況で、顕也の複雑な思いは悲しみからは程遠いものになった。今朝は自分で自分を責めていたのに、見ず知らずの人物たちから無言のままに責め続けられると、もはや自分を責めなくなっていた。むしろ自分を責めても仕方がないと思うようになった。自分を責めても彩乃は救われない、そう思い込むことで耐え忍んだ。彩乃は全力で自分が見守る、居場所がないと感じながらもひたすらそう念じ続けて通夜を凌いだ。最後には弔問に訪れる彼らに微笑みすら返すようになっていた自分に、顕也は自分で驚いていた。悲しみは、何が何でも彩乃を守るという信念に置き換わりつつあった。
しかし、肝心の彩乃が何を考えているのかまったくわからなかった。通夜の間は、美希の棺の前の椅子に座って足をブラブラさせたり、ボーっと天井を見たりして退屈そうなくらいに見えた。時々、亡くなる直前に美希が何かを書き残そうとした厚紙をじっと見つめては何かを考えている様子だったが、泣いているわけでもなかった。
通夜の後、ほんの少しだけ美希と彩乃と三人になる時間があった。たった五分くらいだったかもしれない。いつの間にか棺に納められた思い出の品々を見てまた涙が出て仕方がないのでちゃんと見ることはできなかったが、化粧された美希はまさに眠っているようだった。今しか聞けないと思い切って顕也が彩乃に声をかける。
「良かったのかな?」
「・・・」
彩乃は黙って美希の顔を見つめていた。
「良かったのかな? 死んじゃった日に・・・」
全部言い切る前に涙が溢れて声にならない。
「死んじゃった日に、いっしょにいたのが自分・・・自分なんかで、良かったのかな?」
「・・・」
彩乃がちょっと困ったように顕也を見上げる。顕也はもう一度美希の亡骸をじっと見つめた。
「ごめんな、美希。美希が死んじゃっても、まだ自信がないんだ。自分が美希に相応しい男だったかどうか・・・」
それは本心だったが、弔問客の冷ややかな視線に惑わされた言葉でもあった。冷静に考えれば彩乃にこんな辛い思いをさせている以上、相応しいはずもない。彩乃本人を前にして自問すること自体が間違っている。それでも心から湧き出る言葉だった。情けなかった。
彩乃がますます困った顔になった。それは小さな自分の前で大きな大人が取り乱して泣いていることに対する単純な困惑だった。顕也の言葉に対して自らの言葉で優しく否定してあげるような思慮分別は、まだ彩乃には備わっていなかった。それでも彩乃は、今まで本気で母と自分を思っていてくれたに違いない顕也に何とかして応えたかったのであろう。亡骸の横の画用紙を一枚、迷いなくさっと抜き取った。
「はい、これ。」
小さな手が二ツ折りになった画用紙を開きながら両手で差し出したのは、いつか見せてもらった大小様々な顔が描き込まれた彩乃の絵だった。
「燃えちゃうの嫌だからもらって。ママはあんまり好きじゃなかったみたいだし。」
一瞬しか見えなかったが、こんな状況で見ても、やはりハッとするくらい強烈な絵だった。一つとして同じ表情はなく、大小様々、色、形、表情、すべて違う顔が一面に描かれている。圧倒される絵だった。棺から取り出した物を顕也に渡す後ろめたさがあるのか、彩乃はすぐにその絵を八ツに折り畳んで顕也の礼服のポケットに突っ込んだ。そして、その小さな二つの手が、数珠を握りしめる顕也の右手をそっと包んだ。
こんな場面でも、彩乃の不思議な力が顕也の抑えきれない感情を瞬時に落ち着かせた。なぜ今この絵なのかまったく理解できなかったが、そう考えることを仕組まれていたかのように気持ちが落ち着いた。まるで、彩乃がこうなることをわかっていて、この絵を美希の亡骸の横に用意しておいたような錯覚を覚えた。
「大丈夫だから。」
握った顕也の手を見つめながらそう言い残して、彩乃はちょうど会場の入り口から中を窺う祖父に呼ばれて小走りにその場を去って行った。振り返らずに立ち去るその後ろ姿は美希によく似ていたが、顕也の手に残る小さな手の感触は、すらりと長く伸びる指先まで隙のない大人の美希の手とは似ても似つかない。気丈に振る舞う彩乃の本心がますますわからなくなった。
葬儀になっても、弔問客の顕也への冷たい視線も、彩乃の多くを語らない態度も変わりがなかった。火葬場で、もう美希の姿を見られなくなるという時になっても、彩乃は黙って俯いたままだった。親戚であろうか、学生時代の恩師であろうか、顕也には誰だか知る由もない人情味溢れるおばさんが泣く泣く最期の挨拶を彩乃に促しても、彩乃は黙って棺を覗くだけであった。顕也には、母の死をまったく受け入れていないようにも、儀式を早く終わらせてほしいと願っているようにも見えた。彩乃がどんな思いでいるのか掴めないことが、見ず知らずの冷たい視線よりも顕也には辛かった。何でこんなことになったのだろうか? 何でこれが夢ではないのだろうか? 彩乃はこの先どうするのだろうか? 彩乃は自分という赤の他人の存在がこの場にいることをどう思っているのだろうか? 色んな思いが込み上げてくるうちに、顕也もまた美希の姿の見納めなどどうでもよいと思うようになり、黙って遠巻きに火葬炉の前の棺を見つめていた。
その時だった。係員に誘導されて、ベビーカーを押して火葬炉の前に喪服姿の女性が現れた。子連れであることに違和感がある美しいプロポーションと堂々とした立ち居振る舞いの女性は、瞬時にそこに居合わせた一同全員の視線を集めた。棺を見るなり、女性は感極まって、美希を看取った時の顕也と同じように嗚咽交じりに泣き出した。状況を察した人情味溢れるおばさんが、ベビーカーを取り上げて外に出て行く。女性は泣きながらでも乱れることなく、均整のとれた歩調で棺に歩み寄って美希の顔を拝んだ。横浜こども病院でお世話になった看護師の丸山さんだった。
「こんなふうに村沢先生と三人で会うことになるとは思わなかったよ。」
丸山さんだと気付いて棺の横に歩み出た顕也の横で、丸山さんが美希に話しかけるように呟く。
「私の結婚式の二次会で二人が出会った後のこと、ミキッチはわたしに全部話してくれてたんだよね。」
なぜ丸山さんがここに現れたのか不思議そうな表情を浮かべている顕也に応えるように、丸山さんが美希に話しかけた。
「村沢先生と喧嘩して引っ越したことも、横浜の川で蛍を見つけたことも、民宿に泊まった時にプロポーズされたことも、わたしはみんな聞いてた。すごくうれしかった。ミキッチ、あんなにいっぱい苦労してきて、やっとこれからだ、って言ってたのに。看護師になっていっしょに働こうって言ってたのに・・・」
顕也は、居合わせた一同のすすり泣く声を後ろに聞きながら、丸山さんが美希のことを看護師と患者の家族という立場を超えた親友だと言っていたことを思い出していた。自分の煮え切らない態度を何度も丸山さんに打ち明けていたのだろう。美希が看護師になりたいと言っていたのも、きっと丸山さんのアドバイスだったのだ。失ったものの尊さに、もはや気が遠くなった。
「でも、わたしはそんなことを伝えるためにここに来たんじゃない!」
場内のすすり泣きが一瞬静まり返るくらい語気を荒げて丸山さんが叫んだ。顕也には、度々横浜こども病院のナースステーションで彼女に怒られた時の記憶が蘇る。
「彩乃ちゃん、お久しぶり。」
棺の脇にそっと腰を落とした丸山さんは、彩乃の右手を両手でしっかり握って微笑んでいた。
「大きくなったね。会いたかったよ。」
病棟で見た同じ光景の中にいた彩乃は確か六才だった。丸山さんのことはしっかりと覚えていたに違いない。俯いていた彩乃がゆっくりと顔を上げて丸山さんをまっすぐ見た。
「彩乃ちゃん。あなたがその手に持っている紙に、最期にママが何を書きたかったのか知りたいんでしょ。」
彩乃の目が見開いて瞳孔が少し大きくなるのが顕也にもわかった。
「わたしは知っているよ。その紙にママが書こうとしたこと。すごく簡単なことよ。ママの気持ち、今はわたしにもわかる。」
そう言って丸山さんは両手でぎゅっと彩乃を抱きしめた。そしてそのまま話し始めた。全ての視線がこの二人に集中する。
「ぜーんぶ、彩乃のため。ミキッチの残りの人生は、全部彩乃ちゃんのためだった・・・それだけなのよ。ただそれだけ。」
丸山さんの腕の中で、何かの魔法から解けたように、彩乃の顔が恐る恐る棺に向く。
「ただそれだけ。」
棺を見つめる彩乃の両目から、顕也が今まで一度も見たことがない大粒の涙が零れ落ちた。
「ずっと自分が育った土地で暮らしたこと、好きでもない男の人を相手にお酒を飲む仕事をしてたこと、村沢先生と婚約したこと、みーんな彩乃ちゃんのことを考えて、一生懸命考えて、ミキッチがそうしたの。遠くに移り住んだわたしにしょっちゅう連絡をくれて、相談することはいつも彩乃ちゃんのことばかり。男の人って娘の話するとすぐに他の話に振りたがるからって、最初は村沢先生にもすごく気を遣って彩乃ちゃんの話を出さないようにしてたんだって。でもなぜか村沢先生の前ではついつい彩乃ちゃんの話になっちゃう、って悩んでた。村沢先生は彩乃ちゃんの話を楽しそうに聞いてくれるから仕方ないよね、って。彩乃ちゃんが、村沢先生といるママが楽しそうだ、って言ったんでしょ。ミキッチはそれで村沢先生に決めたの。彩乃ちゃんの一言で決めたの。何もかも彩乃ちゃんのためだった。」
彩乃が丸山さんの腕をすり抜けて、棺の小窓を覗く。美希が、眠るように美しい美希がそこにいた。
「だから生きて。彩乃。ママの分まで。死ぬなんて言わないで生きろよ。ママが代わりに死んでやったんだから、ママの分まで生きるんだよ。生まれて来なければよかったなんて言うんじゃない!」
ボロボロに泣きながら、丸山さんが美希の声色を真似て彩乃を叱った。彩乃の顔がくしゃくしゃになる。瞬く間に大声を上げて泣き出した。
「ママはそう書きたかったの。ただそれだけ・・・」
顕也だけではなく、大声で泣く彩乃の姿を誰も見たことがなかったのかもしれない。ホッと安心したのであろうか。居合わせた一同の中には泣きながら大きく頷いている者もいる。顕也も涙を流してはいたが、自身の口元は笑っていることを自覚した。きっとみんな同じ思いだったのだ。これで良かったのだ。これなら後は大丈夫だ。美希を送り出しても、彩乃は必ず美希といっしょに生きていく。全員がそう感じていた。
とうとう本当に美希はこの世からいなくなってしまう。こんなことが現実だなんて信じられない。あまりにも突然で、あまりにも悲しくて、あまりにも無力だ。しかし、今この瞬間、彩乃への不安はなくなった。そもそも彩乃がどうやって生きていくかなんて、自分が考えても仕方のないことだったのだ。彩乃の止めどない涙と今後彩乃を見守ってくれる人達の安堵に誠実に応えようとするなら、ここで二人との関係は終わりにしなければならない。自分にできることは、美希が教えてくれたように、振り返らずに立ち去ることだけだ。
「ありがとね。」
美希がちょっとだけ涙を浮かべながらそう言ってくれていると感じた。顕也もただ一言、ありがとう、そう心の中で呟いて二人の前から姿を消した。大きく響き渡る彩乃の泣き声と、みんなの安堵の表情に見守られながら、滞りなく美希は灰になった。




