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(二十二)

 救命センターの待合には彩乃と祖父がいっしょにいた。美希と彩乃の話の中では度々(たびたび)登場していたが、一度軽く紹介されただけの美希の父と会話するのはほとんど初めてだった。彩乃がすべて話してくれているのであろう。祖父が立ち上がって挨拶あいさつした。

「仕事中でしたでしょうに、お騒がせしてすみません。この子が呼び出してくれと言うんで。本当にすみません。」

「今はどんな状態ですか?」

「カテーテルが終わってこの後手術になるかもしれないというような説明をされてそれきり。三十分ほどたったかな。先生、おくわしいでしょうから、もう一回聞いてきてくれませんかね?」

 その会話を聞いて顕也の到着が集中治療室のスタッフに伝わったのか、職員用の出入り口のドアがガチャリと開いて五十前後の落ち着いた感じの男性医師が出てきた。おそらくセンター長であろう。

「電話をした加藤です。湘南医大の村沢先生ですね。間に合って良かったです。話は中で。どうぞお入りください。」

 顕也一人が中に誘導されそうになったが、顕也が立ち止まって彩乃の方を振り返ったのを見逃さなかった祖父が彩乃の背中をポンと押すと、彩乃が顕也の方に駆け寄ってきた。加藤がそれをさえぎらないことが、一刻を争うという容体ようだいを物語っている。想像どおり、美希はベッドサイドで緊迫した四、五人のスタッフに取り囲まれていた。

「加藤先生、鎮静がかないです。」

 一人の若手医師がそういうとおり、気管挿管きかんそうかんされて人工呼吸器につながれた美希の体にかけられたタオルケットからこちらに向かって飛び出している足がもぞもぞと動くのを見て、顕也は一瞬安心した。しかし、加藤の説明で重篤な状況であることがすぐにわかった。

「現状では出血のコントロールができているとは言えません。肺挫傷(ざしょう)もあって初療室しょりょうしつ胸腔きょうくうドレーンを入れさせてもらったのですが、そのドレーンからじわじわと出続けていて少しずつ血圧が下がっています。肝臓以外からもそれなりの出血が続いている可能性が高いです。」

 確かによく見れば血圧は六十台、脈拍は百以上、メインの点滴ルートの側管そっかんには昇圧剤しょうあつざいなどがたくさんつながれていて、別の点滴ルートからは濃厚赤血球輸血が一本のすじとして流れるぎりぎり速さでタタタタタと落ち続けている。この状態でむしろ時々足を動かしていることが不思議なくらいだった。

「血圧を維持するための輸血が追い付かなくなってきています。開けるしかないです。」

 加藤がそう言い終わる次の瞬間、突然美希の目がカッと見開いた。何かを探しているように、その目で自身の足元に立つ人影を追って顕也を見つけると、起き上がるような動きをして周囲のスタッフに体を押さえつけられた。

「川原さん、怪我けがをしてるんです。動かないでください。」

 看護師の一人が美希の耳元に近付いて説得しようとする。顕也はすぐにその横に割り込んで美希に顔を近付けた。美希の目は一瞬顕也を認識したように感じたが、焦点が合っていない。視線の先は顕也の体を貫いてその後ろに向かっている。視線の先に彩乃がいた。彩乃に向かって手を伸ばそうとする美希であったが、抑制帯よくせいたいはばまれてまっすぐ彩乃の方に伸ばすことができない。顕也が目配めくばせすると、彩乃が進み出てその手を握った。ゆっくりと、その手はゆっくりと、確かに彩乃の手に何かを書こうとしていることが誰の目にも分かった。機転をかせた看護師が医療材料のパッケージのはし切れらしい厚紙を持って来てマジックペンを美希の手に握らせる。しかし、それはほとんど文字になっていない。ほんの数秒で美希の集中力が途切れたのか、開いていた目がうつろになると同時にモニターのアラームが激しく鳴った。

「いいよ。危ないからもう入れちゃって。」

 加藤が、シリンジポンプに手をかけていた若手医師に鎮静剤の急速投与を指示した。意識がなくなって半分閉じた美希の目からは、一筋ひとすじの涙がこぼれ落ちている。鎮静剤の投与で脱力した美希の手からマジックペンが転がり落ちた。

「村沢先生、同意書をいただきたいです。すぐに手術室に上がります。」

 加藤にそう言われて顕也と彩乃がすぐ横の面談室に移動するわきを、美希のベッドがアラームを鳴らし続けたまま手術室に向かう。面談室で外科医から厳しい説明を受ける。出血点にガーゼをパッキングしてそのまま帰ってくる予定であるが、出血がコントロールできなければ手術室で亡くなってしまう可能性もある、という内容だった。

 そんなことがあるはずがない。そう信じるしかなかった。今さっき、ペンを握って何かを書こうとしていた人がこのまま死んでしまうことなどありえない。自分自身も普段からいつも最悪の可能性を患者に話してから手術をしているではないか。そう自分に言い聞かせるように、大丈夫だから、大丈夫だから、と彩乃に繰り返し言いながら手術が終わるのを待っている時間が永久のように感じた。

 実際の手術時間は一時間ほどだったかもしれない。顕也がここに来た時に祖父と彩乃が座っていた待合のソファに待機していた三人に声がかかったのは、正午過ぎだった。無表情な看護師が一人で近付いてきて三人に言う。

「川原さんのご家族ですね。手術が終わって先生からお話がありますので、ベッドサイドに来てください。」

 三人は看護師に付いてさっきのベッドサイドに通された。アラームは手術室に向かった時のまま鳴り続けており、血小板輸血の空き袋がワゴンの上に山積みされている。モニターの血圧が四十台を示していた。話を聞くまでもなく顕也はすべてを悟ったが、祖父と彩乃は理解できていない。外科医が状況を話し始める。

「肝損傷や肺挫傷(ざしょう)はそれほどでもなかったのですが、おそらく胸腔きょうくう内への出血は下行かこう大動脈だいどうみゃくの裏側の静脈じょうみゃくそうからの出血です。残念ですが、この部位は血管を結紮けっさつして止血したり、パッキングして止血したりすることがうまくできません。可能な限りパッキングしてみたのですが、やはり出血のコントロールは困難でした。残念です。」

 外科医の横で、加藤が若手医師に赤血球輸血のポンピングの手作業をゆるめていい、と目配めくばせしている。状況を理解した祖父ががっくりと肩を落とした。彩乃は茫然ぼうぜんと立ち尽くしている。

「そばにいてあげてください。」

 加藤がそう言ったので、顕也が横に立って美希の手を握った。極度の末梢まっしょう循環じゅんかん不全ふぜんの手は、彩乃に握らせるのを躊躇ためらうほど冷たかった。彩乃は顕也の横で黙ってうつむいている。すぐに、モニターのアラームがデッドアラームに変わった。心電図が一瞬心室細動(しんしつさいどう)になってまた少し元に戻る。美希の顔をまじまじと見つめる。唇はほとんど真っ白でほおにはさっき伝った涙の跡がうっすら残っている。気管挿管きかんそうかんチューブの中を無機的に周期正しく水滴が移動している。またすぐにアラームが変わり、心室細動しんしつさいどうの波形がそのまま続いた。血圧はとっくに拾えていない。下顎かがくが少し落ち、口が少し開いて、顕也の手に美希の腕の緊張がなくなったのがすっと伝わった。ここまでだった。

 加藤がけい動脈どうみゃくを触れる指と逆の手で白衣の胸ポケットからペンライトを抜き取る。長い睫毛まつげの下に対光反射がなくなって大きく開いたままの緑褐色の瞳孔が、顕也の位置からでもはっきり見えた。

「九月三十日、午後、十二時二十二分、永眠されました。」

 美希に向かって深々とお辞儀じぎをするスタッフに囲まれて、腰のところで顕也のシャツを握ってうつむいたままだった彩乃が、そのシャツをさらに強く握りめた。美希を直視できずにスタッフの後ろで背中を向けて立っていた祖父がすすり泣くのが聞こえる。スタッフへのお礼の意味も込めて、顕也も反射的に軽く頭を下げた。そのまま斜め後ろの彩乃を横目に見る。自分のシャツを握る反対側の手の中で、さっき美希が書きなぐった厚紙が細かく震えている。彩乃の顔をまともに見ることはできない。小さな足元にポトリポトリと静かに彩乃の涙が落ちて行くのが見える。

 信じられない。信じられるはずがない。さっきいっしょに朝食を食べた美希がたった今死んだ? そんなはずはない。現実のはずがない。これはあの夢の続きに違いない。さっきのように美希が涙を流しながら路地裏に現れた、いつか見たあの不思議な夢の一幕ひとまくに違いない。その証拠に、幼い記憶の中にかすかに残っていても成人の自分にそんな身体現象が残されているはずのない激しい嗚咽おえつが始まっていた。夢の中でなければきっと人前でこんな泣き方はできない。三人で過ごした日々が、三人でいっしょに見た景色が、次々と頭に浮かんで嗚咽おえつといっしょに涙があふれてしまう。リアルな夢はあるものだが、もしこれが夢でなかったらと考えると震えが止まらない。何でこんなことになったのだろう。


 夕方になっても翌朝になってもとうとう夢は覚めなかった。昨晩、彩乃は祖父の家で過ごしたようだった。顕也は三人で過ごしたアパートに戻って泣き続けているうちにいつの間にか眠ってしまったようだった。夢だったと信じて静まり返った部屋を見回すが、やはり美希も彩乃もいない。朝日の差し込むカーテンの隙間すきまに取り込まれなかった洗濯物を見つけて、また嗚咽おえつが始まる。かけがえのない人を失ったことはどうやら確かだった。現実に起こった出来事だった。これまでの人生でもっとも好きになった女性が、これからもいっしょに暮らしていくことを信じて疑わなかった美希が、今はもうこの世にいない。これまでの自分の無知を次々と気付かせてくれた女性。煮え切らなくてもぎこちなくても精一杯好きだった女性。何の見返りも求めずに誰かを愛することの素晴らしさを教えてくれた美希。どこから誰がどう見ても直視するのを躊躇ためらうくらい美人だった美希。やはり自分は途方もなく美希を愛していた。その美希がもうこの世にいない・・・

 彩乃は今何を思っているのだろうか? ちゃんと眠っただろうか? ずっと泣き続けていたのだろうか? 昨晩は祖父に手を引かれて葬儀社の霊安室を立ち去るまでずっと静かに泣いていた。美希と彩乃に出会ってすぐの頃、彩乃の手術の時にも病棟で美希にしかられて静かに泣いていたことがあった。あの時の彩乃はまだ本当に小さかった。小さかったけれども、不思議な才能を発揮して何かと自分を支えてくれたように思う。その彩乃に導かれるように、自分は美希と親しくなった。やがてその彩乃が成長して、気が付けば三人で暮らすことを受け入れてくれていた。色々あったけれども、ひょっとすると彩乃は美希よりも自分の気持ちをよく理解してくれていたかもしれない。それにしてもやはりまだ彩乃は小さい。美希の死を淡々(たんたん)と受け入れるにはあまりにも小さい。彩乃のことを考えるだけで胸がいっぱいになってまた涙があふれる。彩乃はこの先どうやって生きていくのだろうか。

 そんなことを考えていると、玄関のドアノブがガチャガチャ音を立ててドアがバタンと開いた。彩乃だった。靴を脱ぐ音が聞こえる。その足は玄関の方に向き直って座ろうとする顕也の前の座卓に近寄って来たが、涙ににじんで顔はよく見えない。彩乃の手から離れた顕也の鍵が座卓の上にガチャリと落ちる。彩乃にもらった縁結びのお守りのキーホルダーがくっ付いている。昨晩ドアを開けた後、抜くのを忘れたらしい。彩乃は無言で窓を開けて洗濯物を取り込み始めた。

 時々嗚咽(おえつ)が聞こえたが、彩乃の淀みない作業はほとんど日常と同じだった。何と声をかけてよいのだろう。淡々(たんたん)と洗濯物を取り込む彩乃を手伝うべきかもしれないと思ったが、立ち上がろうとして四つんいになったまま体が言うことをきかない。声をかけるどころか、泣きながらでも日常に戻ろうとしている彩乃の姿を、顕也はどうしても直視できない。そもそも自分は何のためにこのアパートに転がり込んで来たのだろうか? この二人の生活をぶち壊すためにやって来ただけなのではないか? 自分がここに来なければ二人は今日も普段と変わらない日常を送っていたに違いない。おそらく美希は事故にわずに済んだはずだ。四つんいのままひたすら自分を責め続ける。あれもこれもと自分の至らなさを回想すれば、三人で過ごした日々の情景を思い出してまた嗚咽おえつが始まる。その繰り返しだった。何でこんなことになったのだろう。

 そのうち、彩乃が今取り込んだ顕也の分の洗濯物をキーホルダーの横に両手で置いた。四つんいのままの顕也が初めて顔を上げて、彩乃が静かに泣きながら折り畳んだ洗濯物を見た。座卓をはさんでその洗濯物の向こうに彩乃のひざが見える。

「はい、これ。」

 昨日美希が亡くなってから彩乃が初めて発した言葉だった。そう言って、座卓の上に置いたのはコンビニの袋だった。顕也が袋に手を伸ばして中をのぞこうとした時、彩乃はもう玄関にいた。外に祖父を待たせているらしい。靴をつっかけたまま振り返ることなくドアを開けて外に出て行く間際まぎわに彩乃の横顔が一瞬見えた。顕也は、その意外なくらいいつもどおりの彩乃の表情を見て、はっと気付いた。声をかけづらかったのは彩乃だったのだ。

 何と言う不甲斐ふがいなさであろう。母親が亡くなった翌日だというのに、その娘に母の恋人に何と声をかけようかと頭を悩ませながら洗濯物まで取り込ませてしまったのである。そもそも自分は彩乃の身内でも何でもない。祖父や彩乃にしてみればまったくの赤の他人なのである。こんなところでうじうじしているわけにはいかない。きっと泣きながらでも日常を回して全力で彩乃を支えるべきなのはこちらの方なのだ。今こそ全力で彩乃を支えなければ、美希を愛していたあかしにはならない、そう直感した。気持ちを切り替えてとにかく彩乃を見守らなければならない。そう自分を奮い立たせた。

 コンビニの袋の中には、おにぎり二個と通夜の案内が入っていた。泣きながらおにぎりを食べてシャワーを浴びた後、駅前の紳士服屋で礼服を調達すると、その足で美希のところに向かう。今まで美希といっしょに見た景色、何でもない普通の家族、駅を降りてキャンパスに向かう女子大生、どこかのクリニックの看護師募集の広告、彩乃の将来、色んな景色と思いが混ざり合ってはまた涙が出てくる。とにかく彩乃を守ってやろう、その決意に支えられながらもその決意にまた涙が出た。

 しかし、顕也の心には少しだけ不謹慎な予感があった。淡々(たんたん)と洗濯物を取り込んで出て行った彩乃の振る舞いが、思いのほかふつうであったことが妙に引っかかっていたのだ。時々泣いていたにせよ、今の過酷な状況とは不釣り合いに冷静に見えたことが気になっていたのだった。単にまだ母親の死を受け入れられずにいるだけだと自分に言い聞かせていたが、自身がこの母娘おやこの心情をどこまで理解していたかを考えれば、その予感はいっそう現実味をびた。

 うるさい母親がいなくなった。彩乃が心のどこかでそう思っているのではないか? もともと居場所がなくて家出を繰り返していたくらいだから自分は母親がいなくても何とかなる、彩乃の立ち直りの早さはそんな思いがどこかにあるからではないのか? 美希が亡くなった翌日にしてはあまりにも不謹慎な考えであったが、何かと辻褄つじつまは合ってしまう。そうでなくとも最近の彩乃は日に日に大人びて、周囲の想像をはるかに超えて傍目はためには理解できないような美希に対する嫌悪を抱いていたとしてもおかしくはない年齢に達していたのかもしれない。最近よく二人は喧嘩けんかをしていたし、昔から威厳ある父親の役割も演じていた美希は、明らかに彩乃にとって何でも話せる母親という存在ではなかった。すでに母親抜きの人生を歩み始めていたとしたら、このタイミングで母の死に直面する思いは、一般的な小学生が自分の親を亡くして抱く感情とはまた違うはずである。うるさい母親がいなくなって清々(せいせい)しているなどということはないにしても、精神的に親から独立している普通の大人が自分の親を亡くしたときと同じように、生活をともにするパートナーを失う悲しみや自分の将来の不安などを伴う混乱には至らないのかもしれない。そう考えれば、母が亡くなった翌朝に、本来まったく他人であるはずの自分におにぎりを届けるほどの落ち着きぶりが説明できてしまう。もちろん、小学生が母親を失ってそんな落ち着きがあることは異常なことで、どこかに健全な本心がひそむことを顕也は願った。過ぎた考えは、人目を気にしつつもあふれ出る涙を止めるためには都合が良かった。

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