(二十一)
それでも、不登校の頻度が増えているのが美希としては悩ましいようだった。悩ましいというよりも、どうやら彩乃が自分から少しずつ離れていくことを受け容れられないでいるということらしい。あいつの人生だからね、といつも口癖のように笑いながら強がって呟く姿が、どこか寂しかった。
確かに、ここ数か月で彩乃はさらに大人びたように思う。口数が少なくなって自分から話しかけてくることはなく、無邪気な笑顔は減った。美希が話しかけても聞こえないふりをしたり適当に答えたりするような子供染みたことはせず、淡々と冷めた返事を返した。
そんな彩乃に痺れを切らせたのであろう。ある日、喧嘩するときに怒鳴ったことなど一度もなかった美希が、キッチンで突然大声で叱りつけると同時に、突き飛ばされた彩乃が居間に転がり込んで来た。その声は夜十時を回ったボロアパートの一番遠い一階の居室にまで聞こえたに違いない。
「もう一回言ってみろ! 親をなめてんじゃねえぞ!」
転がったままの彩乃はとくに反応もしない。顕也が近寄って床に散らばった食べ残しの総菜を片付ける。仁王立ちする美希の両側に握りしめられた拳がぶるぶると震えているのが横目でもわかった。
「言っていいことと悪いことがあんだよ!」
やはり彩乃はすくっと立ち上がって黙ってそのまま出て行こうとした。
「おい、待てよ。」
美希が引き留める。
「謝れよ。」
「・・・」
俯いて黙ったままの彩乃がちらりと美希を見る。顕也には、一瞬、その横顔に、これは謝るべきかもしれない、という表情が見て取れた。
「あたしにじゃねえよ。顕也に。」
一瞬の、ごく一瞬のすれ違いだったかもしれない。ここで自分が何か気の利いた言葉で二人の間に入ってあげることができていたら、その後何かが違ったのかもしれない。俯き加減の彩乃のその一瞬の表情は、残念ながら美希からは見えなかった。
「顕也は関係ないんだし、毎日仕事で大変なんだから、こんなくだらない親子喧嘩に付き合ってもらって悪いと思わなきゃおかしいだろ?」
彩乃はすでに元の冷めた表情に戻っていた。そして顕也に向き直ってぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。」
そしてまた財布を持って出て行った。
彩乃が出ていくと、美希が顛末を話してくれた。話さないと心が折れそうだから、そう前置きして話し出した。何でも、ふとした拍子に美希の後ろで、死んだ方がいいかな、と呟いたというのだ。いつものように振り向きもせずに馬鹿なことを言ってんじゃないよと窘めたら、そうやっていつもちゃんと話を聞いてくれない、と食ってかかってきたらしい。さすがに美希も手を止めて話を聞こうとしたら、彩乃が突然、生まれて来なきゃよかったね、と吐き捨てたという。どういうことかと問い詰めたら、今の世の中は子育てを放棄してもちゃんと施設が預かって立派に育ててくれるんでしょ、だったらそうした方がよかったんじゃない? それでも生きてれば時々会ったりしなきゃいけないんだろうから、いっそ病気か何かで死んじゃえば一番都合がよかったんだろうと思う、きっぱりそう言ったというのだ。これには顕也も絶句した。美希が声を荒げたのも無理はなかったが、それよりも、彩乃の抱える心の闇が想像を遥かに超えるものであることに顕也は驚愕した。あんなに自分と美希がいっしょになること、この先三人でやっていけることを喜んでいてくれたではないか。今の暮らしの中で、彩乃は自分が美希のお荷物になっていると感じているということなのであろうか? 少なからず危惧していたことではあるが、自分がこの親子の関係に大きく水を差していることはどうやら間違いなかった。
しかし、美希の言い分はまた違っていた。
「あいつ、顕也のことは大好きなのよ。それは確かなの。ああ見えて、自分の心のもやもやのために顕也に迷惑をかけることを一番気にしてるのよ。言ってることとやってることが正反対なんだけど、どうやったら顕也とあたしがうまくやっていけるか、いつも考えてくれてるのよ。信じてあげて。それだけは確かなの。」
美希もまた頭を捻りながら思い当たることを必死に顕也に伝えようとしている。いくら親とは言え、彩乃自身が整理の付かないデリケートな心の問題を、推測してわかりやすく説明することは難しくて当然である。
「そこが問題じゃないのよ。顕也がここにいることはあたしたちには間違いなくプラスなの。変なとこだけあたしに似ちゃってるんだけど、顕也がくれたネックレスを渡した時の喜びようったら、すごかったのよ。付けてるとこ一度も見たことないでしょ。きっと、ものすごい宝物だから大事にしまってあるってことなんだと思う。簡単には見せられないものなの。ほんとうにうれしいこととか、ほんとうに大切なものとか。あたしはすごくわかるような気もするんだけどね。」
こんな状況にも関わらず、自分と彩乃を重ねて話をする時の美希はちょっと嬉しそうだった。出会った頃から変わることなく、顕也はそんな美希の話を聞くのが何だか好きだった。
「問題の心のもやもやは、あいつの友達関係なのよ。友達って、自分のことをどんなふうにも変えてくれるものだと思わない? 何でも言い合える友達って大事なのよ。その友達関係が今の彩乃はたぶんうまくいってないの。あたしもちゃんとしたことはよくわからないんだけど、もともとはあいつのことをちょっとからかったりする友達がいたらしいのよ。そのことを親身になって相談に乗ってくれた友達がいたんだけど、その子は、中学生のやんちゃな兄弟がいて、みんなから一目置かれてるリーダー格の子だったみたい。その取り巻きの子たちが彩乃をからかってた子たちを締めてくれちゃったようなの。」
「締める?」
小学生の女の子たちの間で、そんな物騒な人間関係があるのかどうか、正直、顕也は半信半疑である。
「まあ、たぶん暴力だよね。彩乃がからかわれることはなくなったらしいけど、今はそのリーダー格の子のグループに何となく取り込まれて抜け出せなくなっているみたい。そういうのって今も昔も変わらないのよね。あいつも変に義理堅いところがあるから。あたしはもうちょっと上手くやってきたように思うんだけど、あたしほど要領が良くないだけ質が悪いって感じかな。もうちょっと上手く立ち回れないのかしら。」
大真面目にどうしたものかとさらに首を捻りながら一見して平然と話す美希ではあったが、顕也を視界に入れずに沈黙を恐れるかのように矢継ぎ早に言葉を繋ぐ様子がいつもとは少し違っている。彩乃の友達関係を心配しているというよりは、さすがに死にたいという彩乃の言葉から受けた動揺を隠しきれていないのかもしれない。
「五年生ってまだまだ子供っぽくて、ちょっとでも思ったこと何も考えずに口走っちゃうじゃない。友達関係で悩んでいるなら尚更だよ。」
美希を安心させるために一歩下がった見方をして顕也がありきたりなアドバイスを言ってはみるが、大した気休めになっていないことは明らかだった。
「じゃあさ、引っ越してみるのはどうかな? 彩乃の学区内で。もうちょっと間取りの広いところに。」
「引っ越す?」
初めて美希が顕也をまっすぐ見つめた。思いがけない顕也の提案に目をぱちくりさせて顕也の言葉が続くのを待っている。その表情は確かに娘を思うあの母の顔であった。
「もちろん引っ越し先は自分が探すよ。彩乃も自分の部屋を貰えるって言ったらそっちに興味が行くんじゃないかな? 美希だってここじゃ看護学校に行くための勉強ができないと思うよ。」
とっさに思い付いたにしてはかなりいい提案だと我ながら思った。顕也にしてみれば、先延ばしになっていた入籍もできるし、大したプレゼントもないまま二人にお世話になってきたお返しとしてはうってつけである。一心に彩乃を思う美希の反応も、果たして上々であった。
「それは名案かも。そんなこと任せちゃっていいの?」
「もちろん。これは自分の仕事さ。好みはあると思うから相談はするけど。」
「私はどこだっていいのよ。ここより悪くなりようがないし。」
決して順調とは言えないが、こうやって顕也の主導で三人が普通の家族として暮らしていく第一歩を踏み出すことになった。
週末に、さっそく顕也は駅前の不動産屋に出向いて候補物件を案内してもらった。その中に、今よりも学校や駅から遠くなってしまうけれども、あの蛍を見た川に臨む物件があった。住めばきっと彩乃が使うはずの四畳半の部屋からもその川面を見下ろすことができた。きっと二人も気に入ってくれるはずだと直感した。
翌日、その物件について二人に相談した。引っ越しを提案してから四日しか経っていない。
「あたしはそこでいいと思うな。」
どこでもいいと言っていた美希が二つ返事で賛成してくれた。
「ママたちがいいならあたしも反対しないけど。」
急に出てきた引っ越しの話に少しびっくりしている彩乃は、慎重に言葉を選んでいた。その彩乃の対応からは、思ったことを何も考えずに口走ったりするほど子供でないことは明らかである。美希の顔色を見ながら彩乃が遠慮がちに言う。
「あたしは、ここでも悪くないと思ってる。」
「ここだとお前の部屋がないから顕也が気を利かせてくれてるんだよ。ここでいいってのはないんじゃない? 今みたく毎日お風呂の脱衣所で着替え続けるわけにもいかないだろ。勉強だって少しはやんないと、やる場所ないからってずっと逃げてちゃ高校に入れなくなっちまうよ。」
消極的な彩乃に美希が間髪入れずに意見する。優しい言い方ではない。
「やる場所ないからやらないわけじゃないし。」
ちょっとした口答えに美希の顔色が瞬時に険しくなるのがわかる。単に母親としての美希が彩乃の言動に敏感になり過ぎているだけで、客観的にみて言い争いの引き金になるような口の利き方ではない。そもそもこの段階でいきなり喧嘩されても先に進みにくい。自分の立ち位置で二人の関係が良くも悪くもなることに気付きつつある顕也が割って入った。
「確かにそうだよ。ここでも勉強くらいできると思うし、学校でしっかりやって家ではやらないなんて子も大勢いるから心配いらないんじゃないかな。勉強なんて理由は抜きにして、ママが勝手に入って来ない自分の部屋って、欲しくない?」
彩乃は俯いたまま返事をしなかったが、欲しくないとは言わなかった。
「じゃあさ、とりあえず見に行ってみようよ。今日だったらいつでもいいみたいだし。気に入らなかったらしばらくここにいてもいいんだから。」
そう言って顕也と美希は半ば無理やり彩乃を外に連れ出した。不動産屋の担当者とは現地で待ち合わせることにして、三人で歩いてその物件に向かう。黙って顕也に付いてくる視界良好とは言えない二人のご機嫌とは対照的に、吸い込まれるような青空が目に染みる日曜の朝だった。そんな快晴が顕也の思惑に見事に一致する。部屋に入るなり二人は目を輝かせた。
「何これ? カウンターキッチンって言うんだっけ? 居間を眺めながら料理作れるんだ。これじゃ今日も帰って壁に向かって料理作るのが嫌になるわね。」
少し本気の混じった美希の冗談に、不動産屋の若い女性担当者が笑いを堪えている。気分を良くしたのは美希だけではない。
「眺めいいね。ほんとに川が見える。」
そう言いながら、彩乃が居間の横にある四畳半の部屋から、ガラスの引き戸を開けてスリッパのままベランダに出て行った。美希と顕也も彩乃に続いてベランダの手摺りに手をかけて三人が並ぶ。日中はまだ残暑が残る頃、きらきらと眩しく涼しげな川面に見とれる三人は、しばらく言葉が出なかった。
「きっと、蛍が飛んでたらここからでも見えるよ。」
彩乃が呟く。
「そうね。また見たいね。」
美希も呟く。
「悪くないよね。」
顕也が川面を見ながら言う。川の向こうにはおそらく今の横浜には貴重とも言える田畑が広がっている。顕也はもちろん、二人もすでにここでの新しい生活を容易に思い描けているようだった。駅からも学校からも遠いけれど、ベランダの向こうが明るくてオープンな立地が何より今の自分にこそ必要だと、彩乃自身が一番感じたのかもしれない。三人に他の物件もなどと間の抜けた意見は一切なく、この日、ここに引っ越すことが決まった。
ところが、引っ越すまでには様々な準備があった。そもそも顕也は大学病院のそばの自宅アパートもまだ引き払っていなかった。手術に外来に研究にと大忙しの大学病院業務の合間に、そんな引っ越しの手続きを進めることは簡単ではない。引っ越すことが決まったという気分だけでは何も変わりようがなく、実際に新しい生活が始まらないことには、美希と彩乃、あるいは彩乃とその悪友たちの関係は、どこかでバランスを失うこともなく今までと同じような日々が繰り返されていった。
一か月後に決まった引っ越しを、とにかく三人とも待ち望んだ。とくにこの二人こそ引っ越しによる変化を期待していたであろう母と娘の葛藤は、半月ほど続いたであろうか。そろそろ荷物の整理を始めないといけないと相談していた矢先だった。その日の朝のことは、出勤のために駅に向かう途中の道端に、秩序があるようでないような彼岸花の群生が咲き乱れていたことだけを、顕也は鮮明に覚えている。他に特別なことなど起こりえない何でもない一日になるはずだった。朝十時過ぎ、顕也は手術室で執刀中に唐突にその電話を受けた。
「横浜市立西部病院救命救急センター医師の加藤です。川原美希さんの婚約者の方だということで、娘さんから事情を聞いてお電話しました。今朝八時半頃、川原美希さんが職場に向かっている途中で歩行者対自動車の事故に遭われて救急車で運ばれて来られました。村沢先生はドクターと伺っていますので専門的な言葉でお話させていただきますが、来院時に意識がなく、肝損傷による出血性ショックの状態でした。すぐにカテーテル塞栓術を行って今は何とか血圧を保てている状態です。今日中に追加の治療が必要になる可能性があります。おそらく必要です。村沢先生が今手術を執刀されている状況でなければ、あるいは執刀を交代できる状況であれば、すぐにこちらに来ていただいた方がいいと思います。」
その後、どうやって美希のところに駆け付けたのかは、断片的にしか覚えていない。教授に事情を話して執刀医を交代していただいたことだけは確かだった。




