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(二十)

 旅行から帰ってきても彩乃はしばらく夏休みなので、顕也が帰宅してから三人で遅めの夕食をとる日が続いた。プロポーズのことは彩乃に伝わっているらしく、二人で先につまんでていいよ、などとうれしそうに率先そっせんして夕食の支度したくをする彩乃は、まるで娘の婚約を喜ぶしゅうとめのようであった。しかし、いつも基本的な調理は済ませてあるので、その先に彩乃が追加でやる作業はたいしてない。えらそうなこと言ってんじゃないよ、黙って宿題でもやってな、とやり返す美希もまたそんなやり取りを楽しんでいる。その時も宿題の話が出たからであろうか? いつものように三人で夕食をとっている時に、美希が大真面目に思いもよらない希望を顕也に告げた。

「あたしさ、今まで勉強やんなかっただけで、やったらけっこうできると思うのよ。エッヘン。自信過剰じゃない自信がある。」

「美希が勉強?」

 ちょっと驚いた顕也は、もっと驚いている彩乃と顔を見合わせた。

「酔ったりしてないからまじめに聞いてね。」

「う、うん。聞くとも。」

「看護学校に行きたい。」

「看護?」

「そう、看護学校。仕事内容も自信があるの。おじいちゃん、おばあちゃんの話をたくさん聞いてあげられると思う。」

 それはそのとおりだと顕也は思った。花屋でもお年寄り相手に売り上げが伸びたと店長にめられたと聞いている。美希が聞き上手、相手の話を引き出す天賦てんぷの才能を持ち合わせていることは疑いようがない。ただ一点、一際ひときわ人目をくこの美しい顔立ちが、どうしても看護師とは結び付かない。想像しただけで吹き出しそうになった。

「問題は学費かな。勉強がんばるから受かったら学費出してほしいな。将来顕也が自分で病院建てたらそこで働いて返すから。」

 子供のおねだりのようにそう言ってはにかむ美希を見て、顕也は彩乃といっしょに大笑いした。

「そんなこと考えてるの? 笑っちゃいけないけど面白い。すごく意外ですごく面白い。面白すぎるからぜひ全面的に援助させてもらうよ。学費なんてたいしたことないない。」

 実際には想像も付かず、漠然と白衣姿の美希といっしょに病院で働く将来に思いを巡らせて、何だか舞い上がるような気持ちになる。変な夢でも見るような心地ではあったが、何より頼りにされることがうれしかった。自分は一生懸命働いて、美希と彩乃は一生懸命勉強する。単純な目標だけどお金が少しかかって時間はうんとかかる、そんなことを三人でこの先数年間続けていけると考えるだけで胸がいっぱいになった。

「笑ってごめんね。ありがとう。頼りにしてくれて。」

 顕也が正直な気持ちを茶化ちゃかさずに言った。

「自分こそ突然ごめんね。思い付きじゃないのよ。ずっと前からこいつといっしょに病院通いするうちにそんなことを考えるようになったの。母親がこんなだけど、こいつ、ちゃんと育ってるでしょ。これって病院通いがあったからかも、って思うところもあるわけ。本気で感謝してるの。病院で自分たちに関わってくれたみんなに。今度は自分が誰かの役に立てたらいいな、って。」

 ぐに将来を語る美希の言葉に、顕也は背筋が伸びる思いをしていた。入学式の後に初めて授業を聴く生徒のように、一語一句()らさず美希の言葉を書きめておくような一ページの予感があった。

 さらに、この頃、顕也の仕事もいっそう充実していた。世代交代をはらに決めた上級医が開業準備などで不在がちになり、小児の手術の大部分を顕也が執刀するようになっていたのである。上級医不在というかつてない緊張を感じながら、かたぱしから手術書や医学雑誌を読み込んでは研修医を交えてああでもないこうでもないと手術に没頭する時間が圧倒的に増えた。八方はっぽうふさがりで頓挫とんざしていた研究もまた、思いがけず研究費をもらったことで急に進展した。欲しかった試薬などの消耗品を買ったり、各科の研究室を掛け持ちしているテクニシャンに月に数回来てもらったりするようになっただけのことであったが、たったそれだけでまずは顕也の気持ちが今までとは全然違っていた。研究など大抵たいていはそうであることを心得てはいたが、予想と違う結果を連発したとしてもそれはそれで何かを手繰たぐり寄せているかもしれない妙な期待をふくらませる材料としては十分だった。一年近くそんな空振からぶりすらもなかったのであるから、ただ研究を前に進めることができているだけで十分満足だったのである。何よりも、自分のような若い外科医が手術をメインで執刀しながら研究費をもらって研究するチャンスをも与えられていることに、他の誰よりも周囲の研修医たちが目を輝かせた。そんな研修医たちが自分の活躍を見て、将来彼らが持つべき専門性として形成外科に本気で興味を示してくれることを誇りに思った。

 かつて味わったことのないこんな充実感は、不思議なもので、その季節の風景を顕也の目にまぶしいくらいあざやかに映えさせた。今までもきっと目にしてきたはずのありふれた景色が、まるで初めて訪れた土地で初めて見る景色ように、美しい陰影を放つ情景描写に置き換わった。父親に肩車をしてもらって公園でせみりをする少年、母親と手をつないでプールに向かう麦わら帽子の姉妹、部活帰りに駄菓子屋でアイスキャンディーを買い食いしている野球部員たち、そんな何度も見たはずの光景が、まるで切り取った写真のように鮮明な残像として顕也の心に焼き付いた。三人が暮らすアパートの部屋の壁には、彩乃がいた三人の肖像の横に、通りすがりの結婚式場の案内コーナーに設置してあった顔出しパネルで撮影した新郎新婦姿の顕也と美希の写真が飾られていた。顕也はこの写真をその壁ごと気に入っていたのであるが、この照れ笑い初々(ういうい)しい新郎新婦の二人の写真と遜色そんしょくないほどに、どこにでもある何気なにげない日常の景色がいくつも心に積み上げられたのである。まったく初めての精神体験であった。


 こんな幸せがずっと続くはずだった。そう信じていた。ところが彩乃の夏休みが終わると、三人にちょっとした試練が待ち受けていた。彩乃が学校に行きたくないと言うのだ。今までにもそんなことはあったということを美希から聞いていたし、度々(たびたび)相談にも乗っていた。数日学校に行かない日もあることを知ってはいた。しかし、実際にその時々に美希と彩乃がどんなやり取りをしてきたのかを具体的には知らない。そんな状況に、顕也は初めて身近で遭遇することになった。

「学校行かないのはテメエの勝手だろうけど、それで学校の先生とか、プリント持って来てくれる友達とかに迷惑かけてんじゃねえのか?」

「持って来てって頼んでないのに勝手に持ってくるんだもん。」

 ほとんど聞き取れない小さな声で彩乃が応戦する。

「何が勝手だよ。理由もなく学校休んでるやつと、心配して学校の帰りに遠回りしてプリント持って来てくれるクラスメイトとどっちが勝手なんだよ。ちっとは考えろ、このタコッ。」

「・・・・」

 ひざを抱えて部屋のすみに黙って座り続ける彩乃は、やがて一方的に美希の小言こごとを受け入れた。

「どうせ、またすぐにそこからいなくなってどっか行くんだろ? 悪いと思ってないんだよ、学校行かないことを。そもそも学校なんて行って当たり前なんだよ。ちょっとヤなことがあったら行かないなんてあり得ないんだよ。何考えてんだ、おメエは。ここにいてくれてる顕也だってヤな思いしてんだぜ。こんな親子喧嘩(げんか)なんて誰も見たくないよ。」

 床の一点を見つめていた彩乃の体が小刻こきざみに震えていた。表情は変わらないし泣いてもいない。美希の言葉がそれ以上続かなくなるのを待っていたかのように、彩乃はその場でスッと立ち上がる。

「いなくなればいいんでしょ。」

 そう言い捨ててさっさと玄関に向かった。

「勝手にしろ。戻って来んじゃないよ。」

 美希が強がる。

「こんな時間にどっかに行ってもまたそいつらに迷惑かけんだぜ。家出してきたやつといっしょにいて楽しいやつなんかいるわけ・・・・」

 振り向きもせずに飛び出して行った彩乃に、美希の言葉は届いていなかった。バタンと閉まったドアを腕組みして見つめる美希が、ふーっ、と溜息ためいきをついた。その目には少し涙がにじんでいる。

「ごめんね。嫌な思いさせて。本人は悪いヤツじゃないんだけど、周りには悪いヤツらもいるのよ。頭冷やせばまたすぐ戻って来るから心配しないでね。」

 美希はそう言ったが、平日の夜九時過ぎに小学校五年生の女の子がく先も告げずに一人でどこかに行ってしまって、心配しないでいることは無理である。周りの悪いヤツという言葉にも引っかかった。

「心配しなくていいのよ。あいつ、今日最初に言い合いになった時から、お財布握ってたでしょ。いつものことでだいたいこうなることはわかってるのよ。変なところは親とまったくおんなじ。だから、心配しないで。」

「確かに出て行っちゃう時、いつの間に財布持ってたんだろう、ってちょっと思った。それは、わかったよ。そっちじゃなくて、その、悪い友達っていうのは、何なの?」

 美希の顔に一瞬ハッと、しまったしゃべりすぎた、という表情が浮かんだ。

「あたしと彩乃の二人の問題だと思ってたからあんまり言いたくなかったんだけど、やっぱり顕也には相談すべきだったかもね。聞いてくれる?」

「もちろん。」

「顕也みたいな優等生にはよくわからない世界のことかも・・・耳障みみざわりだったら、ごめんね。」

 あきらめたように美希が話し始める。

「最近あいつタバコ臭いのよ。」

「え?」

 顕也は驚いた。髪の毛を染めているわけでもなければ、色付きのリップクリームを塗ったり爪をピカピカに磨いたりしているわけでもない。普段の服装もどちらかというとかなり地味な方である。彩乃の見た目は一般的に思いえがかれる不良メンバーとはあまりにもかけ離れていた。

「彩乃が吸ってるとか吸ってないとか、そんなことはどっちでもいいんだけど、いつもタバコ吹かしてるような連中と付き合ってるのは間違いないわ。」

「友達の親がタバコ吸ってたらにおいって移るんじゃないかな? たまたまそんな友達がいるってことだってあるよね。」

「そうじゃないのよ。仲良くしてる子のお兄ちゃんかお姉ちゃんだと思うの。やんちゃそうな中学生くらいの子たちが、小学生くらいの子を引き連れてタバコ吹かしながらえらそうにしてるの、仕事の帰りにたまに見かけるのよ。」

「彩乃にちゃんと聞いてみたら?」

「おかしな連中と仲良くしてんじゃないだろうねって聞いてみるんだけど、もごもご言ってるだけ。言うわけないじゃん。」

「何で言ってくれないんだろう。」

「私の娘だもん。」

 肩を落としてそう吐き捨てた美希の言葉には妙な説得力があった。ある部分では完全に信用しているからさほど心配もしていないというスタンスであることもよく分かった。よくよく聞けば、こんな家出はもう一年以上前から日常的に続いていたらしい。美希も慣れたもので、自制ある規律正しい素行不良と鼻で笑っているくらいだった。美希の言ったとおり、この日はふつうに二人で食事して寝て朝起きて仕事に行って帰って来ると、彩乃はふつうに家にいた。学校には行っていない様子だったが、美希がそれをとがめることもなかった。

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