(十九)
彩乃が夏休みになると、家族の一体感が加速した。彩乃が朝寝坊できるからと言って、顕也の帰宅が少しくらい遅くなってもほとんど毎日三人で夕食をとった。その夕食も美希の手足のように動き回る彩乃が中心になって作られたものが大半だった。食事の支度だけではなく、彩乃は美希と分担している一通りの家事を、その日の気分に左右されることなく毎日すべてこなすのが習慣になっていた。恐らく今まで自宅で勉強する時間などほとんどなかったのであろう。早く帰宅した日や週末に、美希に頼まれて彩乃の夏休みの宿題をいっしょにやると、彩乃は少し照れながら嬉しそうに顕也のアドバイスを、うん、うん、と聞いた。
いわゆる学生の夏休みの期間というのは、形成外科が扱う手術の内容に少し変化がある。そもそも傷痕や変形を何とかしてほしいというニーズは、男性よりも女性、大人よりも子供の方が多いので、夏休み中に手術を済ませたいという子供が増えるのである。その中には当然先天疾患の子供たちも含まれており、こども病院に勤務したことのある顕也は、大学病院でもすぐに先天疾患に対する手術の中心的な役割を担うことになった。
そんな忙しさがピークを迎える八月初旬、彩乃が海に行きたいと言ったので三人で伊豆に出かけた。ハイシーズンの週末の伊豆に気の利いた宿など空いているはずはなく、浜から十分足らず歩いて山に面した民宿に一泊することになった。さほど高台でもないので海が望めるわけでもなく、自分たちの住むアパートと大して違わない外観に少しがっかりする彩乃が美希に窘められている。美希は「田舎のおばあちゃん家に来たと思えばいいのよ。」とか言って、その言葉どおり満更でもない。奥に気配のある家人を玄関で勢いよく呼び出した。
「ごめんくださーい。村沢です。お世話になりまーす。」
こういう時の美希は心から尊敬できた。およそこの民宿とかけ離れた風貌にも関わらず、こういう時の美希の振る舞いは見事に常識的で礼儀正しく、はっと驚くほど自然体なのである。
「はーい。いま行きますねー。」
奥から届いた美希にも負けないくらい溌剌とした声の主は女将であろう。スタスタと廊下に現れて玄関にやってきた割烹着の初老の女性が、美希に案内を始めた。彩乃が上がり框に腰掛けて半身でそれを聞いている。
「ようこそいらっしゃい。三人様でしたね。どうぞ、上がってください。お二階のお部屋になります。ふだんは何にもなくてゆっくりしてもらうにはいい所なんですけど、今日は地元のお祭りがあるんですよ。大したお祭りじゃないんですけど、観光客がいないのがいいってみんな言って下さるんです。たまたまお祭りの日に来て下さったお客さんには毎年お勧めしてます。行かれるんでしたらお嬢さんの浴衣もご用意してありますよ。」
荷物に肘をついて下駄箱の上の水槽にゆらゆらと泳ぐ金魚を見ていた彩乃が浴衣に少し反応したのを、美希が見逃さなかった。
「いい日に来たのかしら。彩乃、お前、浴衣着て花火大会行きたいって言ってたじゃん。」
美希の誘いに、彩乃は振り向きもせずにこりと笑う。
「じゃあ、三人でお祭りに行かせてもらいます。」
「よかったです。あんまり何にもなくてもお嬢さんは退屈でしょうから。少し早めに夕食を済ませて七時前くらいから行かれるといいですよ。後で浴衣をもって来ますんで、夕食の前にお風呂に入られて浴衣に着替えておかれてもいいですね。今年はお嬢さんにぴったりの浴衣があるのよ。」
お祭りに行く段取りを勧めてくれる女将が誰よりも嬉しそうだったが、それを受ける三人も何だか嬉しくなった。世話好きの女将が三人の着付けまで手伝ってくれて、そのまま他の宿泊客といっしょに一階の座敷で夕食をとった。只者ではない雰囲気を漂わせる浴衣姿の美希であったが、人目を引く自身の姿など美希にはどうでもよかったのであろう。よく似合うね、などとありきたりな顕也の褒め言葉など端から美希の耳に届いていない。あるいはこの時、顕也にも美希の浴衣の着こなしなどどうでもよかったのかもしれない。三人にとって、鮮やかな青地に朝顔の描かれた浴衣を照れ臭そうに着こなして、母に口紅を塗ってもらってはにかんでいる彩乃こそが、決定的にこの日の主役だったのである。
夜の漁村は少し風があって日中よりも涼しく気持ちがよかった。ちょっとした商店街のような通りを抜けて、三人はお囃子の聞こえる浜に向かった。商店街の出口でお祭りの中心になっている年寄りや有力者らしい法被姿の男たちが酒盛りをしている。少しだけいる観光客は明らかに地元住民と違う距離でこの集団から少し離れたところを通り過ぎて行く。浜に沿う空地に十軒ほどの夜店が連なり、子供たちが金魚掬いや射的に夢中になっていた。彩乃はもうそこに割り込んで金魚掬いや射的を楽しむ年齢ではなかった。かき氷を買って防波堤に上がり、そこに腰掛けて暗い海を眺めながら三人で食べた。後ろからは射的で景品を倒した時に鳴らされる鐘の音が、前からは波の音に混じって船どうしが当たって擦れる音が時々聞こえる。
「かき氷、おいしい?」
顕也が真ん中に座っている彩乃に聞く。
「うん。」
「お祭りがあってよかったね。今まで地元のお祭りには行かなかったの?」
「行ってたよ。」
「そっちはそっちで楽しそうだね。」
地元の中学生であろうか? 少し離れた浜でふざけ合う男の子の声に混じって打ち上げ花火の音がする。
「別にそんなに楽しくない。」
「そう。何で楽しくないの? 夜店とかあるんでしょ?」
「・・・」
彩乃が返事に困った。
「そんなことないのよ。」
彩乃を挟んで美希が顕也に向かって言う。
「こいつ、お祭りが大好きで、小さい頃はほんとによく行ったのよ。あたしが行けないときはジイジを無理やりいっしょに連れてってさあ。ジイジは駄目なんだよね。甘やかすから。金魚掬いを五回もやってあたしが家に帰って来たら三つくらいの洗面器とか如雨露とかに、金魚がいーっぱい泳いでんの。あれはさすがに怒られたよね、彩乃。」
少し照れ臭そうに肩をすぼめながら彩乃が聞いている。
「あの、大きくなった金魚。ほら、旅館にいたじゃん。あれくらいになったのいたよね。あの金魚どうしたんだっけ?」
彩乃が少し首を捻って何かを思い出すような仕草をした。
「あっ、あの金魚? 友達の家で金魚をいっぱい飼ってたからその子にあげちゃった。金魚もみんなといっしょの方がいいかなって。そのあとどうなったかわかんない。あれ? 今って何時?」
「もうすぐ八時だよ。」
顕也が広場の時計台を指さしながら言う。
「あたし、見たいテレビがあるの。ママ、先に帰っていい?」
「じゃあ、三人で帰ろう。ここにいなきゃいけないことはないんだから。」
顕也が立ち上がりながら言う。彩乃の向こうで美希はじっと暗い海を見つめたまま座っている。
「いいよ、ママたちここにいて。」
彩乃も立ち上がった。
「はい、これ。」
彩乃が空になったかき氷の容器を顕也に差し出す。
「気を付けんだよ。」
座ったまま振り向きもせずに美希がそう言った時、彩乃はもう防波堤の階段を下り始めていた。
確かに彩乃は同年代の子供たちよりもしっかりしている。夜とはいえお祭りで賑やかな街を一人で先に宿に戻っていることくらいは何の心配もないだろう。周囲の大人たちと比べればまだまだ小さいけれども余裕すら感じられる確かな足取りの浴衣の後ろ姿を見送りながら、それがここに残された大人二人への気遣いであるかもしれないことに、顕也は微かに気付いていた。
「いいのよ。放っておいて。あいつ、一度言い出すと聞かないから。座んなよ。」
美希が顕也に隣に来るように促す。
「ほんと、しっかりしてるよ。美希とも性格が違うところが面白いよね。」
「そうなの。似てるところもあるんだけど、明らかに半分は違うものを受け継いでいるのよ。見てればわかる。ほんとに面白いよ、親子って。」
美希は相変わらずじっと海を見つめている。
そんな美希の気を引きたかったというわけでもないが、実は顕也には用意しておいたサプライズがあった。半月ほど前からタイミングを窺っていたが、それを実行に移すなら今しかない。ふだん彩乃抜きで二人になる時間はほとんどなかった。この時間はむしろいつもの彩乃からのサプライズなのだと直感した。今しかない。裸のまま財布に忍ばせておいたプラチナのリングを取り出す。
「はい、これ。」
美希の手を取ってそっと指に着けた。仕事の合間を縫ってこっそり元町商店街のジュエリーショップに何度か足を運んだ甲斐があって、指輪は美希の薬指にピタリとはまった。
「なに、これ?」
ちらりと自分の指に目をやる美希の反応は、顕也の期待とは違うものだった。
「婚約指輪、ってこと? あたしのこと、もらってくれる気になったんだ。ありがとね。」
少し冷めた口調でそう言うと、美希はまた海の方に向き直った。
「もちろん、OKよ。ありがとね。」
海を見ながら美希が言った。顕也は心配になった。横顔に残る微笑みからは、美希が何か考え事をしていることは明らかだった。ここで渡すべきではなかったということなのだろうか? それとも結婚までは考えていなかったのだろうか?
しかし、ここまで来て引き下がるわけにはいかない。顕也にはもう一つサプライズがあったのだ。同じジュエリーショップで買ったネックレスだった。実は悩みに悩んだのはむしろこのネックレスの方である。必要かどうかもわからなかった。小さなテディベアがトップに垂れ下がっている。けっこう値の張るプラチナのネックレスにこんな子供っぽいデザインのものがあること自体を、顕也はそのジュエリーショップで初めて知った。同じようにそのネックレスを財布から取り出して、美希の方に向き直って浴衣の首筋に掛けてみようとしたが、そもそもネックレスの着け外しなどやったことがない。ショップで一度きりやってみたが、こんな薄暗いところで再現できるはずもなく、焦って落としそうになったところを美希がひょいと拾い上げた。指輪の着いた手でそっと持ち上げられたチェーンの下に揺れるテディベアを、二人でまじまじと見つめる。
「彩乃に渡してほしいんだ。美希だけじゃダメなんだ。彩乃もいっしょじゃないと。」
テディベアを見ながら顕也が声を振り絞る。
「ありがとう。彩乃のこともちゃんと考えてくれてるんだ。」
テディベアの向こうにある美希の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちるのが見えた。
「色々考えてたあたしが馬鹿だったわ。ごめんなさい。」
嬉しそうに笑って泣きながら答える美希を見て初めて、顕也はさっきからの美希の心配事が彩乃のことであることを悟った。もちろん、ふだんから自分たちの関係が彩乃に与える影響を一人の母親として心配する美希の気持ちをできるだけ尊重したいとは考えていた。しかし、親離れとでも言うのであろうか? 近頃の彩乃が見せる所々大人びた行動や仕草は、単に成長の過程であって、美希と自分の関係が大きく影響しているとは顕也には考えられなかった。今後も美希と彩乃と三人でやっていくことが自分にとっては当然過ぎて、彩乃に何かの悪影響を与えてしまうかもしれないなどとは考えたこともない。元々の意味とは少しずれて、彩乃への心配を理解しているという証になってしまったネックレスを、顕也はもう一度複雑な思いで眺めた。美希がそのテディベアに話しかけるように言葉をつないだ。
「寂しいのはあたしの方かもね。」
「寂しい?」
「そう、彩乃が自分から離れていっちゃうのがわかる。自分たちがいっしょになったらたぶんもっと離れていっちゃう。」
「そんなことないんじゃないかな。」
「でも。それでいいのよ、きっと。いつもまでも子供じゃないんだし。またあたし馬鹿なこと言ってるわ。」
「いつかは独り立ちするんだろうけど、まだ少し先じゃないかな。しばらく二人の喧嘩の仲裁くらいは立派に務めさせてもらうよ。」
「ありがとう。顕也ってほんとうに優しいよね。」
そう言って美希はテディベアを引き上げて手に取った。
「あたし、こんなに泣いたことないのよ。彩乃と二人で暮らし始めた時にはとにかくあいつを一人前にするまで絶対泣かないって心に決めてたわ。それからずっと泣いたことなかった。ほんとよ。それが顕也と出会ってから何回泣いたかわからない。」
確かにそうだと暗い海を見ながら顕也は思った。美希の涙は決まって彩乃への思いといっしょに溢れ出ることを顕也は知っていた。逆に他の涙を顕也は知らなかった。涙どころかこれまで彩乃以外のことで美希が感情を表に強く出すことはなかったとさえ思う。自分に出会う前に泣いたことがないというのは誇張ではなく真実であろう。これから三人でやっていくというのは、きっとこの涙を受け止め続けることなのだ。顕也はこの時、そう心に誓った。




