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(十八)

 ところが、顕也のそんな心配はほんの二週間でほとんど吹き飛んだ。一か月もすると、三人で暮らしていくことにOKした時のプレッシャーからすっかり解放されて、オンボロのアパートが自分の家だと思えるようになっていた。一人で暮らしていた頃が遠い昔のように感じられる。不安を打ち消した一番の理由は何と言っても二人の素晴らしさ、この三人でいることの素晴らしさだった。とはいえ、その心地良さは気負わない二人の知恵と工夫と気遣きづかいがあるからこそだった。まずは顕也の仕事や研究が最優先された。それどころか、炊事や洗濯、学会の年会費の振り込みまでもが、すぐに顕也の仕事ではなくなった。仕事と研究で疲れれば疲れるほど、美希と彩乃の待つアパートに帰りたくなった。

 美希の手料理が美味おいしいことは今更いまさら驚くことでもなかったが、その手伝いをする彩乃の手際てぎわの良さはとくに目を見張った。ゴミ出しやアパートの廊下のき掃除まで文句も言わずにこなす彩乃は、勉強こそできるわけでもなかったが、アパートの住人からアイドルのような扱いを受けるほど可愛がられていた。ちょっとしたお菓子や果物のおすそ分けが彩乃宛てに玄関ドアのノブに引っ掛けられているのを何度見つけたかわからない。美希は美希で、花屋から売れ残りをもらってきたという切り花を、廊下や階段の柵にしつらえた手作り感たっぷりの花瓶にけては、昭和のアパートに何とも言えないほっこり感を提供していた。顕也の生活に変化が起きたのは眠る場所と通勤経路くらいで、他愛ない多くの会話以外に顕也が何か新しくしなければならなくなったことは、軽自動車を手放した二人の買い物に同行して買い物袋をこの二人よりもちょっと多めに持つことくらいだったのである。顕也が想像していた以上に、二人には生きていく力とでもいうべきエネルギーに満ちあふれていた。顕也を巻き込みながらも負担に感じさせることはなく、優雅さすら感じられる二人のなめらかでうるおいのある日常に圧倒された。

 さらに、顕也の肩の荷をずっと軽くしたのは入籍のことだった。結婚を約束したにも関わらず、顕也の不安を鋭く見抜いた美希は、入籍は次の引っ越しの時のついででいいと言ってくれたのである。そればかりか、美希は冗談半分に何度かこう言った。

「あたしはバツがついてるから、あたし自身に問題あったかもしれない、ってことになるよね。言ってみれば不良品。顕也にとって不良品かどうか、お試し期間ってことでいいのよ。」

 顕也自身がもちろんそんなことを考えたこともないが、実際にすぐに結婚して新居をかまえてというと、気が引けたのである。美希が前回の結婚で相手の両親とうまくいかなかったことを以前に聞いていたから、自分の両親にどのように結婚や入籍の報告をしてよいのか、非常に悩ましかったこともある。普通のサラリーマン家庭で育った顕也にとっては、美希との結婚が一般的にはやや特殊であると見なされることは頭では十分に理解できた。余程よほどうまくことを進めないと、自分の両親がこの結婚に反対することは容易に想像できた。しばらくお付き合いしてから結婚という流れは、美希の言うとおり、両親に自分の気持ちが変わらないことを訴えるのに重要な根拠になると思われた。要するに、顕也自身が今何かを自分から積極的に変えようとする必要はなく、ただ顕也が毎日二人の待つアパートに帰ってくるという日常を積み上げることこそが、三人が強く望む家族のあかしだったのである。


 一か月という時間は、振り返ってみればそんな境地にある顕也にとって果てしなく長く感じられた。充実した旅行先から帰途に着く時、数日前に家を出たのが遠い昔のように感じられるのと同じように、一か月前にこの二人がいない生活のあったことが、もはや前世ぜんせのことのように感じられた。この一か月を特別に長く感じたのは、仕事の変化が重なったということも関係していたかもしれない。

 不思議なことに、三人で暮らし始めてから仕事に打ち込む姿勢が変わったという自覚がとくにないまま、顕也の仕事は突如とつじょ好転し始めた。手術を執刀する機会が増え、進展のなかった研究には研究費が下りることになったのである。手術の執刀が増えたのは上級医が相次いで開業準備に忙しくなったからで、研究費は教授に言われて駄目元だめもとで書類を書いたらたまたま採択されたからで、どちらも単なる偶然であった。しかし、こうなっては二人の不思議な力を感じないわけにはいかなかった。

 とくに彩乃には不思議な力を度々(たびたび)感じた。六月下旬、顕也は久しぶりにホタルを見た。学生時代を過ごした東北で一度きり見かけただけで、まさか横浜でホタルを見ることになるとは思いもよらなかった。

「今日はホタルが出るから見に行こうよ。」

 いつも早めに帰ることにしていた水曜日に三人で夕食を食べていると、彩乃が突然そう言い出した。

「バカなこと言ってんじゃないよ。今から出かけるなんてダメ。三人とも明日も仕事と学校なのよ。」

 美希がいましめる。顕也はなぜ突然ホタルの話になったのか理解できていなかったが興味は湧いた。

「どこかにホタルがいるの?」

「そう、すぐそこの川。」

「川?」

 確かにアパートから五十メートルほど行くと川のようなものがあったが、顕也は用水路と認識していた。美希もそう思っていたようだった。

「あんなところにホタルなんかいるわけないだろ。昔はたくさんいたって聞いたことあるけどママは見たことない。彩乃は見たの?」

「・・・」

 彩乃が黙って首を横に振る。

「でも。上級生が、あそこはいる、って言ってた。」

「それだけ? だまされてんのよ。お前はほんとにお人よしだね。ハハハハ。」

 美希が一人で笑ったが、二人が笑っていないのに気付くと、すぐに調子を合わせた。

「わかった。わかった。行こう。すぐそこだもんね。三人で散歩しよう。」

 こうして三人で川沿いを歩くことになった。まだ空が少し明るかったので、よく見ると広いところでも幅四、五メートルしかないその川は所々階段を下りて川面に近付けるように整備されていて、単なる用水路とも言えないことは確かだった。とはいえホタルは最初一向(いっこう)に現れず、もう帰ろうと美希が言い出したときだった。

「光ったかも。」

 彩乃がポツリと言った。

「あそこ。」

 彩乃が指さす向こう岸に三人が視線を集中させたまま、誰も話さずに五分くらいはその場に立ち尽くしたであろうか。

「また光った。」

 彩乃だけが気付いているのか、見間違えているのか、顕也と美希にはどこかわからなかったが、次の瞬間、彩乃がじっと見つめる先で、確かにか弱い光が飛んだ。その光がふらふらと点滅しながらこっちに向かって飛んで来る。三人ともびっくりして声が出なかった。そしてよく見ると、すぐに向こう岸のくさむらの中であちこちにホタルが点滅していることに気付く。こちら側にもホタルはいる。彩乃がさっそくホタルを捕まえた。

「すごい。光ってる。」

 彩乃が両手の隙間すきまのぞき込みながらそう言うのを、顕也と美希がじっと見ていた。その二人を驚かせようとしたのであろう。彩乃は二人の方に差し出した両手をそっと開いた。ホタルは、点滅しながら彩乃の指の上をよろよろと少し歩いた後、一層いっそう強い光りを放ってすっと飛び立つ。あまりにも美しい瞬間だった。彩乃の不思議な力と重なって、この時の光景が顕也の心に強く焼き付けられた。

 しばらく三人でホタルに見入った。顕也は、ホタルを見ながら、この二人が今の自分にとってかけがえのない存在だと強く感じると同時に、それがそうではなくなる日が来るかどうかについて思いを巡らせていた。三人で暮らし始めてから仕事は順調で毎日が楽しかった。ここまで何一つ悪いことはなかった。では、仕事がうまくいかなくても二人の存在がここまで大きいと感じることがあっただろうか? この先きっと悪いこともいっしょに乗り越えなければならない時が来るであろうが、今と同じ気持ちでいられるほど自分は強い人間なのだろうか?

 美希と彩乃が、そんな微妙に揺らぐ顕也の心情をとらえているかどうか、まったくわからなかった。さては二人にとってそんなことはどっちでもよかったのかもしれない。ただ単純に、力強く、ぐに、顕也のすべてを受け入れてくれている。なぜそこまで無条件に自分を信じてくれるのか理解できないところもあった。難度の高い手術を任されつつあること、研究費が下りて手付かずだった研究を再開できそうなことを、二人は自分のことのように喜んでくれている。そうかと言って、仕事がうまくいかなくて愚痴ぐちひとつでもこぼせば、必ず二人が何かしらの勇気をくれるに違いない。そういうふうに感じさせてくれることこそが、きっとこの二人の素晴らしさなのだろう。この二人に自分のすべてをゆだねることなく、所々で煮え切らない自分がおろかだと思えてくる。今までの人生でこれ程までに内容の濃い一か月があったであろうか? 何を躊躇ためらっているのだろうか? ホタルも一生いっしょう光を放ちながら飛んでいるわけではない。ここぞという時を悟って飛び立たなければ、自分の放つ光を誰にも認識されないまま一生いっしょうを終えてしまうかもしれないのである。もう迷っている場合ではなかった。

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