(十七)
美希の自宅の最寄り駅を降りた時には十時を回っていた。月明かりに照らされながら、二人並んで美希の自宅に向かう。人気がないのはここも同じである。彩乃がその日初めて自分から口を開いた。
「おうちがかわったの。」
「うちがかわった?」
顕也には一瞬何のことかよくわからなかった。何のことだろうかと考えていると、彩乃の手が顕也の腕をぐっと掴んで引っ張った。
「こっちになったよ。」
覚えていた信号機のない小さな交差点で、彩乃が新しい自宅の方に向かうよう顕也の腕をぐいぐい引っ張って方向を変えた。
「引っ越したんだね。」
「うん。」
なぜ引っ越したか聞こうとして、お互いのためにそこに触れてはいけないことをふと思い出した。そんな重大なことを忘れてしまっていたことに月日の流れを感じた。彩乃もまた引っ越しに理由などないとでも言いたそうな足取りで顕也を先導した。道すがら、木から落ちたばかりの白いツツジの花が月明かりに照らされて道路に浮かび上がっているのを、彩乃は楽しそうに三つ拾った。顕也もいっしょに一つだけ拾った。顕也はその時、自分の心の傷が時間の経過とともにいつの間にか癒えつつあることを知った。
新しい美希の自宅の外観はお世辞にもきれいとは言えなかった。顕也の自宅も大して新しくはなかったが、それよりもさらにオンボロの築三十年以上はありそうな木造のアパートだった。二階に上がる階段の屋根に取り付けられたトタン屋根と裸電球が昭和の香りを引き立たせている。引っ越しの理由はともかく、華やかな世界にいたはずの美希がここまで生活の質を下げてちゃんと暮らしていけるのであろうか? お酒ばかり飲んでいないだろうか? 仕事はどうしているのだろうか? 彩乃の後ろに付いて二階の玄関の前まで行き、とりあえず外で待機しながらそんなことを考えていた。
彩乃はもう五年生になっていた。自分でドアの鍵を開けて三和土のところで奥から出て来た美希と何やら話している。きっと自分が今日ここに来ることはまったくの突然だったのであろう。電話ぐらい寄こせという懐かしい美希の声が聞こえて来た。彩乃が無事に帰って来たことに安心したのであろう。その声に怒りは感じられない。すぐに彩乃が表に出て来た。
「ちょっとここで待っててね。」
さっきまでとは別人のように嬉しそうに彩乃が言う。
「ママ、着替えるんだって。なんか真剣な顔してたよ。気味悪いね。」
そう言って彩乃は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
程なくして顕也は、美希の新しい自宅に招き入れられた。美希も見た目は変わっておらず元気そうだった。
「ごめんね、こんな格好で。」
外観どおり畳敷きの六畳間が居間になっていて、以前はあまり見かけなかったワンピース姿の美希が、顕也にちゃぶ台の前の座布団に座るように促した。
「今日は授業参観だったの。お母さんっぽい格好でしょ。」
美希が自分でそういうほど酷い格好ではなかった。そればかりか、久しぶりに見た美希がやはり並外れた美人であることに驚いた。さっきいっしょに食事をしていた恵子も二人でいると大層な美人と感じてはいたが、美希とは比べ物にならなかった。初めて見るレースの襟が付いた花柄のワンピース姿という新鮮さと、オンボロのアパートという意外さのコントラストが、その怪しいまでの美しさを引き立たせている。かつて美希をこれほどまでに美しいと感じたことはなかった。美希にそんな自覚があるはずもなく、ついまじまじと見つめる顕也の視線を遮るように照れ笑いをした。
「元気だった? 今日はありがとね。彩乃も難しい年頃でくだらないことですぐ言い合いになっちゃうのよ。」
玄関脇の炊事場でお茶を入れている彩乃の方を見ながら、美希が言葉を続ける。
「それで今日に限って何で顕也の家に行ったんだかよくわからないんだけど、彩乃には感謝しなきゃね。」
「彩乃に感謝?」
顕也はまた少し驚いた。自分が感じていたこととまったく同じだったからだ。彩乃がいなければ確実に今自分はここにいない。今夜もまた薄暗い袋小路を彷徨っていたに違いなかった。
「そう、彩乃ははっきり物を言うのが苦手でいつも自分からどうしたいとは言ってくれないんだけど、後から考えると彩乃にしてやられたっていうか、彩乃に任せてよかったって思うことが多いのよ。今日もきっとそんな日ね。」
美希は顕也の前のちゃぶ台をひょいと横にずらすと、徐に顕也の前に正座して両手で顕也の手を取った。そして、そのままじっと顕也をまっすぐ見つめる。
「会いたかった。半年、すごく長かった・・・」
彩乃が、持ってきたお茶をちゃぶ台に置きながら横でその光景を見ている。
「キモいよ、ママ。外でやってくれる?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて嬉しそうに彩乃が言う。
「そうね。確かにちょっと恥ずかしいけど・・・。」
そう言いながら、美希は顕也の手を引き寄せてお互いの胸の高さまで引き上げると、彩乃のからかいを無視して言葉を続けた。その真剣さに彩乃も黙って横で聞いている。余程の思いがあったのであろう。半年前に夜の仕事を辞めてこのアパートに引っ越したこと、今は花屋でアルバイトをしながらギリギリの生活をしていること、生活費を切り詰めるために毎日のように飲んでいたお酒はほとんど飲まなくなったこと、顕也と出会う以前のことも含めてすべては彩乃のことを思ってそうせざるを得なかったことなどが、涙といっしょに溢れ出た。そして美希は最後に言い放つように付け加えた。
「あたし、ほんとにバカなんだけど・・・早く、もらってくれないかな・・・」
いつの間にか顕也の手から離れた美希の手は、俯く顔の前で静かに目頭を押さえる動きに変わっていた。突然のことで顕也はしばらく返す言葉に詰まっていたが、美希が本気でこの先自分といっしょにやっていきたいと思ってくれていることは疑いようがなかった。何よりも、打算のない真っ直ぐな気持ちとこの半年間の具体的な変化に心が打たれた。顕也も美希が大切だという思いに迷いはなかった。しかし、直感的に正直な自分の気持ちを問えば、美希に対して結婚を意識したことがなかったので、ここですぐにOKと言うのはあまりにも具体性がなかった。美希の真っ直ぐさに比べて自分はどうなのだろうか? 半年間、美希のために自分が何をしてきたのだろうか? さっきまで恵子と食事していたではないか? この母娘に対して、今すぐここで家族になりたいと言える資格が今の自分にあるだろうか?
そんなことを考えて沈黙を作ってしまった顕也を見兼ねたのか、面白がったのか、彩乃はさっき拾ってきたツツジの花束を必要だったら使ってねとばかりにそっと顕也に差し出した。顕也は輪ゴムで束ねられた四つのツツジの花を黙って受け取った。受け取りながら、深く考えずに気持ちだけ伝えないとまた薄暗い袋小路に戻ってしまう、そう悟った。そして、そのツツジの花をそっと美希に差し出して、もちろん、と言った。
彩乃が再び悪戯っぽく顕也にOKサインを出すと、その姿が美希の視界にも入ったのか、大人をからかうものじゃないと泣き腫らした目で嬉しそうに彩乃を叱った。美希の嬉しそうな顔だけでも顕也の心を奮い立たせたが、多くを語らない彩乃が心底嬉しそうな顔をしていることが、さらに顕也の心の奥底に突き刺さった。何の根拠も具体性もないまま、自分がこの二人を幸せにするしかない、そう自分に言い聞かせる他なかった。
こうして突然三人での暮らしが始まった。成り行き上、美希のアパートの部屋にいっしょに住むことになったのであるが、色んな意味で顕也には不安いっぱいのスタートだった。まずは、根本的に美希がこんな質素な生活を続けられるかどうか、心のどこかで不安に感じていた。とにかく、華やかな夜の世界とはあまりにも対照的な生活である。半年前まで休日の午前はいつも眠そうにしていたことを思い出す。きっと、明け方に酔って帰ってきて彩乃の朝食を作ったらそのまま昼過ぎまで眠る、という生活サイクルだったのであろう。美希がこの半年でそんな生活を一変させたことから決意自体に疑いようはなかったが、どこかで無理をさせているのではないかという妙な思いやりの気持ちが湧いてくる。美希の過去に対するわだかまりが完全に払拭されているわけでもなく、何よりもふと彼女の過去を想像すればするほど彼女の今をどこまで信じてよいのかわからなくなってくる。朝早く起きて昼間仕事をして夕方には帰宅してお酒もないまま夕食をとって眠るという繰り返しが、今の美希にとってどれくらいありふれた日常なのだろうか?
さらに、この先この三人でやっていくという思いに立ちはだかるのは、自分の両親と姉への報告のことだった。もう両親には一年以上会っていない。姉には学生時代に結婚式に招かれて以来何年も会っていない。両親に最後に会ったのは大学病院に異動になった後、引っ越しで整理した荷物を実家に運び込んだ時だったように思う。郵便物が来ているなどとごくたまに電話がかかってくるくらいでほとんど連絡もなく、ある意味こちらの仕事が忙しいことを誰よりもわかってくれている存在なのかもしれない。何の特技も資格もない普通のサラリーマンの父と専業主婦の母を誰かに誇るには多少無理があったが、今にして思えば非常にできた両親だったと思う。大学に入るまでは勉強しろと口うるさく言われて面倒臭い親だと思うことも多かったが、医学部に合格してからこれまではむしろ面倒臭がらずに勉強に付き合ってくれたことを心から感謝していた。両親は、医師を志す自分の勉強に、どの同級生の親よりも熱心に向き合ってくれたように思う。今更ながらその真面目さこそが自分の両親の美徳なのだと思う。医学部に合格した時、嬉しくて泣く親を初めて見た。自分の息子を収入が良くて安定した職業に就かせることは、堅実であることを何よりとする両親の夢でもあった。そんな両親が美希との結婚を喜んでくれるだろうか? 自分が今思い描いている美希と彩乃のいる家庭は、両親が自分に与えてくれた家庭とは似ても似つかないことは明らかである。疎遠とはいえ職場結婚してごく普通の家庭を築いている姉も同じであろう。もちろん、両親や姉が反対するくらいで破談になることなどありえないと思ってはいるが、良き理解者に祝福されないかもしれないという事実は決して追い風にはなりえない。
そして、今すぐ新居に引っ越して三人で新しい生活を始めることに躊躇するもう一つの大きな理由があった。それはやはり、形成外科医としての仕事がまだまだ半人前だと感じる気持ちが強いということだった。二人に出会って親しくなってから今まで、顕也の仕事に対する考えを顕也の思うとおりに実行すればよい、という二人のある種の寛大さは少しもぶれることがなかった。二人のそんな強い信念は、顕也が早く一人前の形成外科医になって彩乃の口唇裂の傷痕や変形をきれいにしてくれるという期待そのものであると、顕也は捉えていた。顕也の心の中では、この先三人が家族であり続けるためには、自分自身が口唇裂の修正手術を難なく手がける程度に立派な形成外科医になることが大前提だったのである。しかし、今の仕事内容を考えれば気が遠くなるばかりだった。本当は土日も返上で手術の勉強をしなくてはならないはずである。手術の勉強とは何の関係もない研究など放棄して、ただひたすら手術の勉強をすべきなのである。それが本来脇道であるはずの研究すらも一向に進まず、同時に手術からもどんどん遠ざかっていく。では、研究がうまくいったとして大勢の患者を執刀する形成外科医に近付くのかというとそうでもなさそうである。この生活のどこに出口があるのだろうか? 仕事において、顕也はこの時完全に袋小路に入り込んでいた。仕事面だけからみても、そもそもこのタイミングで結婚などありえないのではないか、とまで思っていた。




