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(十六)

 少し日がつと、顕也は、本来自分が足を踏み入れてはいけない世界の女性を相手にしてしまったのかもしれない、と感じるようになった。客観的にみれば水商売の女がどこかの社長の愛人であることなど何も珍しいことではない。むしろそんなパトロンがいることがステータスなのであって、女をモノにしたい金持ちの男と楽にお金を稼ぎたい女がお互いにウィンウィンの関係であるというのが夜の世界の本質なのであろう。間違いは、そんな綺麗きらびやかな夜の世界のえ抜きの美人と自分のような堅気かたぎえない男に接点ができてしまったことだった。そもそも自分のような男を相手にして美希に何のメリットがあったのだろうか? ブランドのバッグ一つ買ってプレゼントしたこともなかったではないか。美希は自分に一体何を求めていたのであろうか? きっと自分が美希に与えたものは何にもない。でも、自分は少し傷付いていることを差し引いても十分誇りにできるいい夢を与えてもらったのかもしれない。このままこの先もずっと美希と会えないことは受けがたかったが、もしも会えなくなるならせめて最後にそんな思いを伝えられないだろうか?

 新年度が始まった四月の当直室の窓越しに五分咲きの夜桜を眺めながら、そうやって美希のことを考えていると、さっそく診察室に呼ばれた。この日は、もうすっかり常連の当直医としてスタッフとも顔馴染(なじ)みの川崎の病院に来ていた。

「三人待ってます。」

 診察室の看護師が、顕也に何の患者か簡単に説明する。

「昨日頭を縫った人のガーゼ交換が一人と、昼過ぎからの腹痛が一人です。あと・・・」

「あと?」

「あと、たった今来た女性なんですけど、先生のお知り合いらしいですよ。先生のお名前を確認してから来られたんですって。背の高いスラッとしたきれいなお嬢さんですよ。彼女ですか? やりますね、先生。フフフ。」

「知り合い? さて誰でしょう。彼女にはフラれたばかりですよ。ハハハ。」

 そんな調子で三番目に診察室に入ってきた患者は、果たして確かに見覚えがあるような女性だった。

「去年、外科の渡辺先生と村沢先生の後輩の先生と、私たち三人で飲み会をやっていただいた時の一人です。思い出してもらえましたか?」

 顕也は、やっと確かにそういうメンバーがいたことを思い出した。名刺をもらったことは覚えているが、名前はまったく覚えていない。有名私立大学の経済学部卒で、確か商社勤めを辞めてCAになった人だった。三人の中で一番背が高く、古風でピアスさえ開けたくないと言っていた上品な美人である。

「ああ、あのときの。恵子さんですよね。覚えてますよ。」

 カルテの名前を見て適当に覚えていたような返事をした。

「今日はどうしましたか?」

 顕也のつれない返事とは対照的にややテンションの高い恵子が、今日ここに来た理由を説明し始める。

「足の親指の巻き爪のところがものすごいれちゃって、痛くて歩けないくらいなの。ときどき痛くなることがあったんだけど、四日前に福岡のステイ先のホテルで調子に乗ってネイルケアをしてもらったら、その後から急に痛くなってきて・・・」

陥入かんにゅうそうだね。形成外科の専門じゃん。ここに来てよかった。」

「そうなんだってね。渡辺先生にメールで尋ねたら、それは形成外科だって。そしたら、ちょうど村沢先生がこの病院で毎週当直してるから行ってみれば、ってお返事をいただいたの。形成外科ってあんまりないし、川崎だったら近いし、ちょうどいいやって。突然来てごめんなさい。」

 恵子は、きちんとそろえたひざの上に両手を重ねて置いた姿勢のまま、普通の患者と同じように巻き爪が痛くなった経過をひととおり説明した後、顕也の仕事ぶりを持ち上げた。

「本当にお医者さんなんだね。変なめ方だけど、意外と白衣似合うかも。」

「意外じゃないと思うよ。」

 そう言って二人で笑いながら、顕也はさっそく恵子の足を診察した。足は局所麻酔で部分的に爪を抜く処置が必要だった。処置自体は麻酔を含めても四、五分で終わる。翌日には歩ける程度まで痛みが改善することを説明しながら、最後に包帯を巻いた。

「ありがとう。明日もフライトなので助かりました。」

「明日は今日よりいいと思うけど、念のため痛み止めを持って帰った方がいいんじゃないかな?」

「よくなるんだったららない。あんまり薬とか飲みたくないから。でも・・・」

「でも?」

「ちょっと心配だから、先生の連絡先を教えてほしいな。」

 彼女の話術が巧みだったこともあったかもしれない。しかし、それは絶妙なシチュエーションとタイミングによって生まれた顕也の心の隙間すきまにふと割り込んできた、誰が仕組んだわけでもない悪戯いたずらという他なかった。とくに躊躇ちゅうちょなく、気付けば恵子とメールでやり取りする間柄になり、そのうちいっしょに食事に行きましょうと誘われるようになった。こうなると美希のことを思い出さないわけにはいかなかったが、美希からは何の連絡もないまま半年が過ぎようとしていた。美希のことをあきらめたわけではなく、仕事をしていると美希のことを忘れていられるのと同じように、恵子とのやり取りもまた美希のことを忘れていたくてそうしていることに、顕也は自分でも気付いていた。美希のことを考えるつらさから逃れるように、とうとう顕也は誘われるがままに恵子と食事に行くことになった。


 五月初旬、湘南海岸は夏を待ち切れないそわそわした気配があちこちにただよう。恵子がどうしてもそこに行きたいと言ったお店には、そんな開放感があふれにあふれていた。ちょっとした崖の上に広いテラス席のある店内からは、青い海と遠くの江ノ島が見える。大勢おおぜいのサーファーが波間に揺れ重なり、店内は夕食にはまだ少し早い時間帯なのにカップルと若い女性のグループで満席だった。顕也が週末にこんな店に女性と二人で来るのは横浜で働き始めて初めてだった。

 お店の雰囲気だけではなく、初めて体験すると言ってもいいまぶしいくらいの海辺の空気に、顕也は何となく浮き足立っている自分を認めないわけにはいかなかった。美希と色々あって薄暗い袋小路に迷い込んだ自分を積極的に連れ出してまったく異質な明るい別世界に誘い込んでくれた恵子に、どちらかといえば感謝していたのだと思う。顕也は、江ノ島の向こうに沈んでいく夕日を眺めながら、気分よくビールを飲んだ。恵子もまた、そんな顕也との食事に満足しているように見えた。

「いいお店ね。」

「ほんとに。すぐ近くなのに、職場で話題になったこともないよ。」

 顕也の何気なにげない一言ひとことが、彼女に真面目さをアピールして好印象を与えていることなど知るよしもない。

「ずっと仕事だからなあ。もうちょっとこんな時間が欲しいね。」

「大変よね、お医者さんて。学生を六年もやるだけでもすごいのに、働いてからもお給料と関係ないような研究ばっかりやらなきゃいけないんでしょ? それで自分の時間っていうか、こんなふうに素敵な食事の時間も全然ないんだったら、何のために働いてるんだか、わかんないじゃない?」

 彼女の言っていることはすごく正しい。

「そうだよね。うーん、研究か・・・研究なんて・・・やめたやめたー。」

 顕也は思い切り茶化ちゃかして言ってみたが、内容は本心に近かった。恵子が大笑いしている。

「いい調子。悪党じゃないんだし、お給料がもらえる仕事は必ず人の役に立ってるはずよ。立派な研究だけが人を救っているんじゃないと思うわ。言い過ぎかな?」

「ハハハハハハ。」

 今度は顕也が大笑いした。彼女の言っていることは百パーセント正論だった。思ったとおり、恵子は裏表がなく、育ちの良さを感じさせるウィットにあふれた魅力的な女性だった。何の回り道もなく自分の前に現れて今日のようなデートにぎ着けたら、きっと気合いのあまり自分がお店を探してこんな素敵な場所は見つけられないまま盛り上がらずにすぐにフラれてお仕舞しまいになっていたであろう。

 何の因果であろうか? 彼女の気配りであろうか? こんな美人とこんなお洒落しゃれなお店で食事をすることに何の緊張もないまま、食事を終えた二人を乗せた海沿いのローカルな電車が顕也の自宅の方向に向かって走り出した。その電車の中で、驚いたことに、恵子は顕也の自宅に寄って行きたいと言い出した。帰るにはまだ早いのでお茶でもしていきたい、と言うのである。これには顕也も少し引いた。彼女の帰り道の途中にあるとはいえ、光栄なことではあったが、そもそもそんなつもりはなかったので部屋がまったく片付いていない。その気があってもなくても人を招くような状態ではない。何よりも、美希との関係が中途半端なままこうやって彼女と二人で食事に行くことすら十分に後ろめたいのである。

「じゃあ、玄関までお見送りしていい?」

 恵子がそう言うので、せっかく素敵な時間を与えてくれた相手にあんまりサービスしないのも良くないと思って自宅の最寄もより駅でいっしょに降りた。こんな横浜の外れに、彼女が帰るような時間まで、まさにお茶を濁すにも気のいた飲食店などありはしない。二人は黙って顕也の自宅に向かって歩き出した。

 八時半頃だった。駅前の商店街は数軒の居酒屋とコンビニ以外はほとんど閉まっている。このあたりで休日のこんな時間に食事や買い物をする客などいない。人気ひとけのない道路で足元を路地から路地へ走り抜ける猫を見て、恵子はキャッと声を上げて顕也の腕にしがみ付いた。いきおい顕也のひじがカーディガンの下の彼女の胸に触れる。恵子はそのひじの位置をとくにずらしたりしないことに躊躇ためらいがない。とうとう腕を組んだまま自宅の前まで来てしまった。

 そこでふと自宅のアパートの玄関に目をると、扉のわきの壁にもたれ掛かって足元を見つめる小さな人影が見えた。あたりはすっかり暗くて顔はよく見えない。

(こんな時間にどこの子供だろう?)

 嫌な予感がして顕也はサッと彼女の腕を振りほどいた。

「ちょっとここで待っててくれる?」

 まだ気付いていない玄関先の相手に気付かれないように、顕也が小声で言う。ただならぬ気配に恵子は目を丸くして黙ってそこに立ち止まったが、運良くすぐに彼女のショルダーバッグの中で携帯電話が鳴り出した。恵子が話し出す時には顕也はすでに玄関にたどり付いて小さな人影の正体を突き止めていた。彩乃だった。

 彩乃は壁にもたれ掛かった姿勢のまま一瞬だけ顕也の方を見たが、その視線はすぐにまた地面に落ちた。表情なく地面の一点を見つめる彩乃に、顕也は何と声をかけてよいのかわからなかった。あの母親の手前、夜も自由に出歩くことが多かったが、こんな時間にここにいることを美希は知っているのだろうか? 美希と彩乃が度々(たびたび)激しく親子喧嘩(げんか)をしていたことを思い出した顕也は恐る恐る声を掛けてみる。

「家出してきたの?」

 こくりと彩乃がうなずく。

「送ろっか?」

 再び彩乃がうなづく。アパートの前の街灯の明かりにうつし出された彩乃の目には少し涙がにじんでいる。

「ちょっと待っててね。」

 顕也が恵子のところまでダッシュして戻ってきて状況をしどろもどろに話し始めようとするまでもなく、恵子はプイっと駅の方にターンして振り返りもせずにカツカツとヒールの音を響かせて足早に立ち去ってしまった。都合よくずっと電話をかけていてくれるはずもなく、きっと一部始終を見ていたのだろう。手間が省けた、と顕也は思った。

 しかし、ほっとしている場合ではなかった。美希と彩乃に一体何があったのだろうか? 彩乃は変わりないように見えるが、美希は元気でやっているのだろうか? 彩乃のところに戻った顕也は、何とか話を引き出そうとゆっくり話しかけてみるが、口をつぐんだままの彩乃が美希について語ることはなかった。

「じゃあ、わかった。もう遅いからとにかく家まで送るよ。夕ご飯は食べたのかな?」

 彩乃がゆっくりと首を横に振って壁から離れた。顕也がその手を取ってさっき恵子と歩いて来た商店街を二人で駅に向かって歩き出す。そしてコンビニでおにぎりを二つ買った。彩乃は電車の中で時々鼻水をきながら、黙ってそのおにぎりを二つとも食べた。暗い電車の窓ガラスに反射して見えるおにぎりを頬張ほおばる彩乃に笑顔はなかったが、自分に会えて何となく安心している素振りを感じ取ることはできた。そんな彩乃の横で、顕也は腕組みをしてどっしりと座って平静をよそおっていた。内心は、久しぶりに会う美希にどんな顔をして何と言ったら良いのか、ただただ緊張していた。色んな想定が次々と頭に浮かんできたが、それぞれの状況に対する気のいたセリフなどまったく思い付きもしない。もうどういう結果になっても仕方がない。ひたすらそう自分に言い聞かせる他なかった。こうやって以前と同じように自分の横に座っていてくれる彩乃がいなければ確実に今の状況はなかったことを考えれば、むしろ彩乃にすべてをたくそうという気にさえなっていた。

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