(十五)
当然その日からしばらく美希と連絡が取れなくなった。電話をかけてもメールを送っても、返事はなかった。それでも顕也は不安ではなかった。美希がまだ自分のことを思ってくれているという何の根拠もない自信があったからだ。もっと言うなら、美希がどう思っていようとそんなことはどちらでもよかった。ただ自分の美希に対する変わらない気持ちがあればそれだけでよかった。理屈抜きに恋人や家族を好きでいること、自分のその気持ちに正直でいること、そんな真っ直ぐで単純な優しさを、他でもなく美希に教わったことを今更強く意識するようになっていた。顕也は美希のそんなところをずっと尊敬してきたのかもしれない。そしていつしかそのやり方を真似るようになっていたのである。
二週間後に、顕也は直接美希の自宅を訪ねた。電話やメールは便利でも顔が見えないのはやはりよくない。直接時間をかけて色々話せばきっとわかってくれるはずである。日曜日の朝、幸い美希は自宅にいた。彩乃は友達のところに遊びに行ったという。笑顔のない美希が顕也を招き入れる。
「頭冷やした?」
顕也が冗談っぽく笑いながら尋ねる。美希はキッチンで黙ってお茶を入れ始めた。
「突然来てごめんね。今日は美希に、ありがとうって言いに来たんだ。」
その言葉をどう受け止めていいのかわからなかったのであろう。横向きでお茶を入れていた美希が、初めてちらりと顕也の方に向き直った。
「ありがとう、って変かな?」
戸惑いながら振り絞るように出て来た顕也の言葉に、手を止めた美希がまたこちらを向いた。二秒ほどじっと顕也をまっすぐ見つめる。そして初めて軽く微笑んだ。
「意味が聞きたいって言ってもいい?」
「ありがとう。まずは聞いてくれることにありがとう、かな。」
顕也は、本当に美希が自分をここまで育ててくれたのだと感じていた。以前の自分ならこんな会話を楽しめないでいたに違いない。会話の内容によっては誰よりも何よりも大切なはずの美希と今この瞬間から会えなくなってしまうかもしれないのに、その会話を楽しんでさえいた。他ならぬ美希が自分をここまで変えてくれたのだ。今後のことは一切省略して、ただそんなありがとうの気持ちを顕也は本気で美希に伝えた。それで顕也はすっきりした。もう美希とのことはお仕舞いになっても仕方がないと思えるくらいすっきりした。だから、本当はお仕舞いにしたくないのに、形だけでもお仕舞いを告げるような言い方の方が格好は付いた。
「今までありがとう。」
美希はお茶の入ったマグカップを両手で握りながらとくに意見することなく黙って聞いていたが、言葉通りに終わりにすることを迷っているように見えた。
「私もありがとうって言わなきゃいけなんだけど、まだそんな気分じゃないかな。」
顕也は一瞬ドキリとした。ここで美希からもただありがとうと返されることが一番怖かったのである。自分のことをどこまで本気で思っていてくれたのかは知る由もないが、離婚を経験して彩乃もいながらずっと夜の仕事をしてきた美希にとっては、冷静に考えれば自分などその他大勢の一人であろう。何の駆け引きもなく調子に乗って近付きすぎた男を、心では嘲笑いつつさらりと通り過ぎて行ってしまうくらいのことは、いとも簡単なはずである。
「自分の気持ちは変わらないから。美希と彩乃のこと、ずっと大事にしたいと思ってる・・・」
「まだそんなこと言ってくれるのね。わからない。顕也はあたしのお馬鹿さんまでうつっちゃったのかな? わからない。不思議な人。」
「本当にありがとう。美希みたいな人にそう言ってもらえて光栄に思うよ。」
美希がマグカップをテーブルの上に置いて立ち上がると、顕也の手を取った。
「あたし、自信がないのよ。」
美希に手を引かれて顕也も立ち上がる。
「自信がないの。顕也がずっとあたしの方を向いていてくれる自信が・・・」
美希が正面から顕也に抱き着いた。その肩は小さく震えている。
「しばらく考えさせて。少し時間が欲しい。」
美希は、顕也を見上げて軽くキスをした。その美しい顔が顕也の顔の横を通り過ぎて頬が合わさる。美希の頬を伝った涙が顕也の顔に小さく触れた。
「ごめんね。あたしが顕也に、他の女の子と飲みに行かないで、なんて言う権利ないよね。」
最後にそう言ったきり、美希はただ時間が欲しいとだけ繰り返した。
以降美希から一切連絡は来なかった。美希が待てというのであればいつまでも待とうと顕也は思っていた。もはやこちらから連絡することはできなかった。美希が自分の気持ちに整理を付けてそのうち出すはずであろう答えを考えると、この待っている時間が果てしなく続くように感じられた。
しかし、不思議なもので、忙しく仕事や研究をしていると美希とのことを忘れることができた。何もせずに美希からの連絡を待っていると悪いようにばかり考えてしまうので、いつの間にか現実から逃げるように仕事や研究をやるようになっていた。とはいえ、やはり研究は頭打ちのままだったし、手術も誰かに頼りにされるほど形成外科が扱う成人の疾患について理解していなかったので、やっていることは入局一年目の後輩と大して変わりがない。総合病院の新米臨床医が常に抱える病院独特の大量の雑用がない分、大学にいる時間だけは長いにも関わらず、臨床も研究も中途半端であることは誰の目から見ても明らかだった。
見ようによってはそんな都合のいい働き手を、大多数の忙しい大学病院の医師たちが放っておくはずはなかった。診療科の枠を超えて、顕也は当直のアルバイトに頻繁に借り出されることになっていった。当直のアルバイトは救急車を積極的に受け入れる病院ほど給料が高いが、そんな病院の当直はほとんど眠ることができない。大学病院の医師は、平日の夜に眠れない当直のアルバイトに行ったとしても、翌朝は大学に戻って夜まで通常の業務を行うのが当たり前である。自分の担当患者が急変したり、大事な研究を抱えていたりする医師にとっては、上級医から毎週行くように命じられている当直のアルバイト先が夜中に仮眠すらままならないような忙しい病院だと、すぐに顕也のような立場の医師に交代を打診して来るのである。
こんな当直のアルバイトは基本的にまずは何でも診なければならない。大きく外科か内科に分かれているのはまだいい方である。来る患者は何でも診るという救急病院がほとんどで、風邪、腹痛、骨折、挫創、蕁麻疹、過呼吸発作、急性アルコール中毒、こんなものを一人の医師が一晩で二、三十人も診るのである。顕也の専門が形成外科であることなど一切考慮されない。冷や冷やしながら微妙なレントゲン画像を見たり、聞いたこともない薬を処方したり、手に負えない心筋梗塞疑いの患者を転送したりすることが日常茶飯事であった。しかし、今の顕也にとってはそれすらもありがたかった。それくらい、一人でいると美希のことをあれこれ考えてしまうのである。
そうやってクリスマスも正月も当直先の病院で過ごすことになったが、リハビリテーション科の先生に頼まれて初めて行くことになった当直先の病院が、美希の自宅の最寄り駅を通る路線沿いにあった。美希と会わなくなって二か月ほどしか経っていないのに、その駅が妙に懐かしく思えた。初めて電車でここに来たのはちょうど三年前のクリスマスだった。その頃の彩乃はまだ小さくて、自分と美希が話している横でいつも黙って楽しそうに絵を描いていた。その彩乃がもう四年生になり、時には美希よりも心強いアドバイスを自分にくれるような存在になっていた。顕也は美希ではなく無性に彩乃に会いたくなった。彩乃なら自分の話を聞いてくれて、今のこの状況をいい方向に導いてくれるに違いない。
当直先の病院の勤務体系が、顕也のそんな思い付きに拍車をかけた。選りにも選って、その病院は夜間の救急外来をやっておらず病棟業務だけの当直だったのである。しかもリハビリテーション専門病院なので、高齢者ばかり入院しているような病院と違って、基本的に急変に対応したり最期を看取ったりするという業務がなかった。朝まで一度もコールを受けない当直室の長い夜は、帰りに最寄り駅で途中下車して彩乃に会いに行こうという顕也の決心を揺るぎないものにした。
彩乃の登校は、まず同じ地域の子供たちが集まる集会所の前に一人で向かうところから始まる。いつからともなくそれを知っていた顕也は、この集会所の少し手前で彩乃を待ち伏せして話を聞いてもらおうと考えた。しかし、二月初旬の平日の早朝に何もない住宅街でただ突っ立って待っているのもかなり気が引けた。通勤や通学の通行人がもれなく自分をじろじろと眺めながら通り過ぎていくのがわかる。行ったり来たりしても尚更怪しい。携帯電話をいじるふりをしながら誰かと待ち合わせしているような演出がしっくり来るまで、十分はかかったであろうか。
ところが、彩乃はいっこうに現れなかった。八時を過ぎてさすがに遅いと思って集会所のところに行ってみると、もう集会所を出た七、八人の小学生が学校に向かって歩き始めている。その中に彩乃の姿はなかった。風邪でも引いたのであろうか? 何かの当番で早く登校したのだろうか?
(仕方がない。ここまで来たら直接見に行くしかない。)
顕也は、何のために彩乃に会いたいと思っていたのかも忘れて、衝動的に美希の自宅に向かった。
美希の自宅は明かりが消えていた。窓のカーテンが引かれ、一見して留守にしていることがわかった。留守ならこのまま諦めて帰ろうと一瞬思ったが、何か虫の予感とでも言える収まり切らない衝動によって、気が付くと顕也は玄関ドアの前まで来ていた。予感は当たっていた。玄関ドアのポストに入り切らないチラシやダイレクトメールが、ドアに立てかけられた紙袋に無造作に突っ込まれている。表札は掛かったままなので、引っ越してはなさそうだ。呼び鈴を鳴らすが当然応答はない。
そこに、レザーのキャップを被った浅黒い初老の男が現れてまっすぐ顕也に近付いてきた。
「兄さん、ここの川原さんと連絡取れる?」
朝っぱらから随分唐突で馴れ馴れしい振舞い方だった。
「自分も連絡取りたいんです。すみませんがどなたですか?」
「いやあ、挨拶もなしにすみませんね。このアパートを管理してる不動産屋の使いです。おたくは兄弟かね。」
「いいえ。ただの知人です。もう二か月くらい連絡を取っていませんが。郵便物の感じだとあまり帰って来ていないように見えるんですが、何かご存知ですか? 自分もどうなっているか知りたいんです。」
不動産屋の男が、煙草に火を付けながら一瞬ニヤリと下世話な笑みを浮かべた。
「知ってるよ。おたくは集金とかには見えないけど、そんなことはどうだっていい。困っているのはお互い様。大したことは知っちゃいないが聞きたいなら何でも教えてあげるよ。」
むしろ話してやるのだから黙って聞け、とでも言いたそうな横柄な口振りに、顕也は首を横に振ることはできなかった。
「ここは母親が水商売やってんだけど、何でもどこかの社長のお気に入りらしくて最初は社長が持ってる桜木町の高級マンションに住んでたんだと。でもほら、ちっちゃい娘がいるからさあ。ちゃんとふつうに育ってほしいと思ったんじゃないの? 母親がどうしてもこの辺がいいって言って、このアパートを社長名義でずっと借りてんだよ。しばらくはてっきり夫婦だと思ってたんだけど、ずいぶん歳も離れてるし何か様子がおかしいな、と思って契約書をよく見たら、住んでる母娘は借主の社長とは赤の他人。最初に担当した奴から聞いた話だから本当かどうかよくわかんねえけどよ。愛人だったら近くに置いときたいだろうに、社長も器がでかいというか、甲斐性のある男はやることが違うんだよな。」
社長。愛人。この二つの言葉が顕也の胸をえぐった。初対面の自分が誰かもよくわからないまま、アパートの前の立ち話でこんな内容の話をする下品極まりない不動産屋に怒りを覚えたが、それ以上に社長と愛人が顕也の心を打ちのめした。そんな顕也に不動産屋が本題を突きつけた。
「年末に社長がいったん契約を解除するって言ってきたんだけど、住んでる本人にちゃんとその話が行ってるかどうか、おたくは知らんかのう? その話が出た直後に一回だけ母親が直接店に来て、『家賃は自分で払うから。』って言ってそのままそれっきり連絡が取れんのよ。そんなこと言っても社長は他の従業員に住んでもらうことになってるって言うし、どうなってるんだか・・・」
顕也は、あまりの動揺に、その後その立ち話をどう切り上げてどうやって大学に戻ってきたのかも思い出せなかった。ただ、美希がどこかの胡散臭い金持ちの爺さんの愛人だった、その爺さんが所有する桜木町のマンションで暮らしていた、そして、自分とあんなにも同じ時間を過ごした自宅のアパートもまたその爺さんに借りてもらっていた、その事実が本当だとして美希とその相手との間に繰り返されたであろう男女の日常という妄想が他のすべての思考を排除して顕也の心を支配した。恋愛経験の少ない顕也にはあまりにも強烈な一撃だった。彼女にフラれて落ち込んでいる友人は山ほど見て来たが、そんな単純なものではない。そもそも喪失感はないし裏切られたと悲しい気持ちになるわけでもない。整理がつかないまま心に大きく占拠して居座る複雑な感情に押し潰されそうになりながら、どうにかこうにか目の前の日常を裁いた。幸い患者を相手に忙しい日常があればその時間は美希のことを忘れていられるという精神状態に変化はなかった。ただ、大学では臨床も研究も忙しいという自分の立ち位置を確保しづらいこともあって、必然的に顕也は以前にも増して積極的に当直のアルバイトを詰め込むようになっていった。




