(十四)
一方、思うような研究ができずに悶々と毎日を過ごす顕也を、美希と彩乃は変わらず支え続けた。時間のある週末にいっしょに過ごすことは当たり前になっていたし、簡単にではあったが近所に一人で暮らす美希の父にも紹介され、三人は家族のようにいつもいっしょにいた。研究などお金がなければやることもない。以前とは比べ物にならないくらい、三人は同じ時間を過ごすようになっていた。
そんなある日、顕也は形成外科入局一年目の若手の一人から飲み会に誘われた。
「村沢先生、飲み会のメンバーが足りないから参加してもらえませんか?」
いわゆる合コンのようである。
「CAなんですけど、向こうも先輩を連れて来るって言ってたから、村沢先生に来てもらった方が助かります。」
入局当初から将来は美容外科医を目指すと宣言していた彼の仕事ぶりは、チャラチャラした外見に反して、むしろ今では顕也のこなしてきた雑用を顕也がやっていた時よりも卒なくこなしているようであった。そればかりか、顕也の研究を面白そうだからと度々手伝ってくれようとする医局員は、教授を含めて彼だけであった。顕也にとっても何かと使える彼の頼みを聞かないわけにはいかない。聞けば同期で第一外科の渡辺も参加するというではないか。二人はこの湘南医科大学サッカー部の先輩、後輩どうしであった。彼らも然り、普通の若い独身男性医師であれば相手がCAというところに魅かれる飲み会なのであろうが、正直なところ顕也にはそこはどうでもよかった。研究が行き詰まっていたこともあった。無性に渡辺と話がしたくなって、金曜日の夕方突然誘われた合コンに参加することにした。
飲み会の場所は馬車道にある落ち着いた小料理屋だった。いっしょに病院を出て来た若手医局員と二人で先に席に着く。
「製薬会社の人に聞いたら教えてくれたんです。CAだから、さすがにチェーン店の居酒屋というわけにもいかないですよね。」
クラブのネオンが連なる雑居ビルの一角にこんな品の良い小料理屋があることを、今の顕也には知りようがない。何しろ合コンに参加するのも学生時代以来である。渡辺もすぐに店にやって来た。
「あー、来た来た。久しぶり。」
三年ぶりくらいに会った渡辺もまた忙しいのか、いかにも仕事帰りの普段着でこんな気の利いた店に入ってきても大丈夫なのかとでも言いたそうに、少しおどおどしながら顕也たちの座敷に向かって来た。
「村沢先生、久しぶり。大学院で頑張ってるらしいじゃん。誰かから聞いたよ。」
体格がよく一見してスポーツマンで人懐っこい渡辺は、確かにこんな飲み会には誘いやすいのであろう。席に座りながら早速内容の濃い話を振って来た。渡辺が自分の進学のことを気にしてくれていたのだと思うと、顕也は少し嬉しかった。
「俺はさ、結局しばらく小田原に行かされてこの春から横浜に戻って来たんだけど、いまいちなんだよ、今の病院。給料は安いしオペはないし、スタッフも患者も老人だらけで毎日胃瘻ばっかり造ってるよ。大学はいいよな。オペもいっぱいあるし、看護師もみんな若いし。」
「いやあ、それが大学院生は形だけの臨床だから、手術なんてほとんどできていないよ。それで研究が順調だったらまだいいんだけど。」
同じ年代で同じように手術ができていないという話を聞いて、顕也はちょっとホッとした。大学院に行かず手術もできていないのであれば自分の方が少しリードしているのではないかとさえ感じた。
「研究? そうか、大学院生だから、がっつり研究やってんだ。」
何かに感心したように、渡辺が大きく頷きながら言う。
「研究と言えばさ。佐伯のことは聞いてる?」
「佐伯って、あの留学した佐伯だよね?」
「そう。それがまだ向こうにいるんだよ。」
「へー。ずいぶん長いよね。」
彼の大学時代を知る顕也からみても大凡ガツガツと勉強するようなタイプではなかった佐伯が海外でそれほど長く研究に打ち込んでいることが、二人には意外だった。
「それがさ、すっごい優秀らしいぜ。ゲノム関連の論文なんだけど、一年くらいで一本書いちゃって、その後も二本くらい書いてたかな。今は向こうでグラントを取って帰れなくなっているらしい。こっちの教授に帰って来いって言われても、今はきりが悪いからって突っぱねるんだってさ。」
佐伯の近況は、顕也には俄かには信じがたい内容だった。同じ研究生活を送る者どうしでも、立場が違い過ぎて感想が湧かない。凄いのかもしれないが、羨ましくもない。もはや想像の及ばない世界であった。
佐伯の話で盛り上がった後、サッカー部OB二人で盛り上がっているところに、いかにも華やかな女性三人が、いかにも慣れた感じで暖簾を分けて顕也たちの座敷に近付いて来た。
「あ、カレンさん、今日はありがとうございます。お店、すぐにわかりました?」
若手医局員が、直接の知り合いらしいカレンさんといっしょに後の二人を座敷に誘導しながら男性陣の紹介を始める。
「こちらが形成外科の先輩の村沢先生。奥の大きい人が大学時代のサッカー部の先輩の渡辺先生。渡辺先生は一般外科医です。」
「初めまして。」
二人とも立ち上がって座敷に上がって来た三人と名刺を交換しながら挨拶する。名刺など持っていないと断る顕也は、大手航空会社の見慣れたロゴが入った人数分の名刺を一方的に受け取った。「客室乗務員」という聞き慣れているようで見慣れない肩書きに、妙なありがたさを感じ取ったのは顕也だけではない。名刺をまじまじと見つめる渡辺からは、只ならぬ気合いを感じることができた。渡辺の名刺にある「一般外科 医師」という肩書きを見つめる女性陣三人にも同じような気配が漂っていることに、顕也が気付くはずもない。合コンなど誘われることもなかったし、この場に臨んでもまったく興味がないというのが本音である。彼女たちがいい男を見つけるのにどれくらい本気でこの会に参加しているのか、自分が彼女たちにどう見られているのか、そんなことはどうでも良かった。小ぶりの洒落たグラスで生ビールが運ばれてきて乾杯という時にも、顕也は佐伯の話をもう少し聞きたいと思っていた。
ところが、職場でも仲がよいという三人のCAは、話を盛り上げるのが極めて上手だった。スラリと背の高い上品な三人は、三人ともそれぞれ個性的な魅力があった。有名私立大学の経済学部卒という経歴のある一人は、商社の総合職を辞めてCAになったという。別の一人は父が開業医で兄も姉も医者だが、地味で努力家の姉が大好きで、その姉を立てるために自分は敢えて医療関係から離れた職を選んだという。若手医局員の直接の知り合いのカレンさんこそは、横浜出身で湘南医科大学医学部看護学科を卒業と同時にCAになったらしく、さっそく男性陣二人の共通の知人の話で盛り上がっていた。興味がなかったはずの顕也でも、一見して大いに華のある知性溢れる女性たちとのお酒の時間を楽しめないはずはなかった。お酒も進んで、気が付けば三人ともメールアドレスを交換していた。
抜かりない若手医局員の絶妙なセッティングだったのであろう。上品な小料理屋のコース料理は少なめだったので、近くのショットバーで飲み直そうという流れになり、全員ほろ酔いでネオンが輝く夜の馬車道の路上に整列する。十月半ばの金曜日の夜の馬車道は、ふだん試薬や実験動物の臭いが立ち込める薄暗い研究室にいることが多い顕也にはまさに別世界であった。着飾って行き交う女たち、店外で一服しながら盛り上がる男たち、中心人物に挨拶を求めて万歳をしているスーツとドレス姿の同年代。異様なほど楽しそうに見える。きっと彼らもまたそれぞれに悩みを抱えているのであろうが、この場所でこんな楽しげな瞬間が毎晩繰り返されているのは紛れもない事実だ。
酔った頭でもう少し楽な生き方があるのではないかと自問自答する顕也の目に、次の瞬間、信じがたい光景が飛び込んできた。向かいの雑居ビルのエレベーターの前で、いかにも羽振りのよさそうな小太りの中年男とその取り巻きを見送る水商売のお姉さんたちの向こう側にその光景があった。
「み・・・き。」
言葉になりそうでならない声が出たのが自分でもわかった。ドレス姿の四、五人のお姉さんが、代わる代わるその中年男にハグの後バイバイをしていたが、一人だけ顕也の方を見てすぐにエレベーターに戻って行った女がいた。その整った顔立ち、背格好、ドレスの後ろ姿の腰元、それは確かに美希だった。ほんの一秒もなかったが、その瞬間が永遠であるかのように顕也の記憶のフレームに切り取られた。美希のはずがないよな、こんなところで仕事してるはずがないよな、さっきまでの余裕のない日々に対する自問自答が、一瞬にしてすっかりその光景に対する自問自答に置き換わり、上の空で同行したショットバーで、顕也はそのまま酔い潰れた。
翌朝目覚めたのは、自室のユニットバスの前だった。若手医局員が運んでくれたのであろう。気が利くんだか利かないんだか、エアコンが最高温度に設定してあり、暑くて目が覚めたのだった。出かけた時のままの格好で、汚れた上着が洗濯機に引っ掛かっていた。頭のそばには洗面器が置いてあり、相当迷惑をかけたことがわかった。
酷い二日酔いの頭にもすぐにあの光景が蘇った。そもそも美希のはずがない。美希が自分を裏切ることなんてありえない。きっとすごく似た女がいるに違いない。一瞬目が合ったように思ったし、もし美希だったら向こうだって気付いたはず。気付いたら確認の連絡くらいくれるであろう。連絡がないということは美希じゃなかったということだ。しばらくそんなふうに顕也は動揺する自分の心を繕っていた。
すると、昼過ぎになって美希からいつものように連絡があった。当直のアルバイトや実験がなければ週末いっしょに過ごすことは当たり前になっていたからだ。美希は普段と変わりない口調で、用事があって車で迎えに行けないから電車で自宅まで来てほしい、と言った。よかった。きっと美希ではなかったのだ。あまりにも似ていたので話のネタとしては面白いけど、自分がなぜそこにいたのか説明することに後ろめたさもあるので、この出来事を話すことはできない。そんなことを思いながら、電車で美希の自宅に向かった。
自宅で待っていたのは美希だけだった。彩乃は祖父の家にいるという。顕也の中で昨夜の出来事は解決していたので、いつもより落ち着いた調子の美希に違和感はなかった。
しかし、居間に入るなりテーブルの椅子を引きながら「ここに座って。」という美希の一言ですべてを悟った。感情を露わにする美希を見ることはあっても、ここまで神妙な顔付きの美希を見たことがなかった。
「飲み会、楽しかった?」
「・・・」
「かわいい子ばっかりで楽しくないはずないよね。」
「・・・」
「あたし、バツにコブまで付いてるから、どうこう言う権利もないし、ほんとは黙っておこうと思ったの。でもね、信じてたの。顕也は優しいからあんな飲み会とか行かないんだろうな、って。」
「・・・」
「もっとブスばっかりだったら黙っててあげられたのかもしれないけど。医者ってさ、いつもあんなきれいで賢そうな子たちと飲み会ばっかりやってるんでしょ。」
「・・・」
「あたしのこと、バカにしてる?」
「・・・」
「何か言って。お願いだから何か言って・・・」
そう言って、美希は静かに泣き始めた。肩を落として泣く美希を見ながら、顕也は、何だか話がぶれていると感じていた。あれが美希だったのが間違いないなら、美希は水商売を続けてきたことを自分に黙っていたということになる。黙っててごめんと言うならまだしも、自分のことは棚に上げて、大学を卒業して初めて合コンに参加したことを非難されるのはちょっと心外だ。ここは自分の立場を主張してもよいのではないだろうか。
「ごめんね。後輩に言われて渋々参加した飲み会だったんだ。行きたくて行ったわけじゃない。ああいう飲み会に参加したのは大学時代以来だよ。」
美希が俯いたまま聞いている。
「それに、こちらも聞きたいことがある。」
美希が、そっと泣き腫らした顔を上げてこちらを見る。
「美希はずっとああいう仕事をして来たの?」
「・・・」
「自分は知らなかった。いつからやってるの?」
「ずっとよ。」
「何で隠してたの?」
「隠すつもりなんかなかった。言ったらきっと・・・」
美希が天井を見上げた。頬を伝った涙がどこかに落ちるのを待っているように見えた。
「言ったらきっと、顕也が自分たちの前からいなくなってしまうから。結果的には隠してたことになるね。ごめんね。そんなつもりじゃなかったの。でも、言えてほっとした。」
顕也は不思議な感覚を味わっていた。昨夜美希を見た時にあんなにも動揺していたのに、ずっと水商売をやって来たという美希の告白を他人事のように受け入れていたのである。水商売をやっているから何だというのだ。きっと色んな事情でそうせざるを得なかっただけのことである。この事実がわかった今、美希が嫌いになってしまったであろうか? 全然そんなことはなかった。美希の言うとおり、自分との関係を大切にしてくれていたから言えなかったのであろう。自分が合コンに参加したことへの怒りも、自分のことを好きでいてくれている嫉妬の裏返しではないか。美希もまたあんな飲み会くらいで自分を嫌いになったりすることはないはずである。
「ありがとう。正直に言ってくれて。でも大丈夫。いなくなんてならないよ。それを聞いてもぜんぜん変わらないよ。」
本心を言ったつもりだった。
「何が? 何が変わらないの?」
「美希が好きってこと。美希と彩乃が好きだってこと。何にも変わらないよ。」
これほど素直に本心を言えたことは今までないと感じるほどだった。誰が何と言おうとその言葉に嘘はなかった。
しかし、美希の反応は違った。
「あたしも顕也のこと好きよ。大好き過ぎて何も言えなかった。いつかこうなることがわかってたけど、ちょっとでも長くいっしょにいたかったから、言うのが怖かった。」
顕也は嬉しかった。美希が自分のことを好きだと言ってくれることよりも、真実を知っても自分の美希への気持ちが変わらないことが嬉しかった。きっとちゃんと話せば分かってもらえる。今日何かが終わったわけではない。これはきっと次のステップに進むための通過点に違いない。
「頭のいい男はみんな言うのよ。お前が夜の女でも気持ちは変わらない、って。何でだろうね。みんな最初はそう言ってくれるのに、あたしの気持ちなんて誰一人わかってくれなかった。気が付いたらスーっといなくなって、また一人になって。」
「そんなことはないよ。今日みたいな日が来ても自分の気持ちが変わらないかどうか、今まではそれもよくわからなかったけど、今日全部わかった。何にも変わらないってことが。」
「ありがとう。顕也はあたしのこと裏切らないと思う。それは信じてる。でもたぶん頭を冷やせば、あたしのこと、だんだん嫌いになると思う。あたしにはわかるの。」
美希が顕也の理解を超える話をしていることは明らかだった。顕也にはピンと来ない。
「これでも大事にしてきたつもりなの。顕也のこと。今でも顕也のことがすごく大事。だからせめて、あたしみたいなのに振り回されて不幸にならないでほしい。」
美希が何を言っているのか、顕也にはまったく理解できない。昨日の出来事がこれまでの関係を解消するほどの出来事だったのであろうか? 美希の話がなぜか顕也の思わぬ方向に向かっている雰囲気だけは感じ取れる。
「顕也みたいにいい人がずっとあたしの方を向いていてくれるはずがないのよ。」
「どういうこと? よくわからない。」
「期待させないで。」
「もう少し話がしたいんだけど。」
「今までありがとう。幸せになってね。」
彩乃が帰ってくるからと、顕也は玄関から押し出されるように美希の自宅を後にした。最後に閉まりかけたドアから玄関脇の壁にセロハンテープで貼られた彩乃の絵が見えた。絵の中の三人が家族のように三人ともニッコリ笑っている。その絵を見て、時間を置けばきっとまたすぐにこの絵のとおり三人いっしょに過ごすようになることを、顕也は信じて疑わなかった。




