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(十三)

 その日、仕事が終わるとすぐに美希と連絡を取った。夜十時過ぎ、美希は職場にいた。時々笑い声のするにぎやかな職場で、美希は小声で電話に応じた。どうやら彩乃はまた学校に行かなかったらしい。いつもと変わらず元気なことは確かで、一日中絵をいて過ごしているという。登校拒否の児童は無理に登校させないというのが一般的な対処法だと担任が電話で言っていたので行きたくなるまで待つしかない、というのが結論だった。

「担任の先生は、登校拒否の理由を知ってるのかな?」

 顕也は一番気になっている部分を率直に聞いてみた。

「ここじゃ話せないわ。また連絡してもいい?」

 一方的に切れた電話が再び鳴ったのは、翌日の早朝だった。顕也が大学の最寄もより駅で電車を降りて改札に向かって歩いている時に美希からの着信があった。美希は、出勤前の忙しい時にごめんなさいと前置きして、彩乃が来週は学校に行くと言っていること、担任は口唇裂こうしんれつのことを知っているけど今回の登校拒否の理由については伝えていないことを告げた。

「何か力になれたらいいんだけど。」

 以前はこんな気持ちをストレートに言えなかったが、美希に向かってこんな言葉をかけるようになった今の自分に満足しながら、顕也が言う。

「ありがとう。いつも優しいのね。じゃあ、今度はうちに泊まりに来て愚痴ぐちでも聞いてよ。」

「いいよ。彩乃ちゃんに、お世話になりますって言っといてね。」

 そうやって、顕也と美希は毎週末のようにお互いの自宅を行き来するようになった。彩乃も宣言通り翌週から普通に学校に行くようになった。四年生になる前の彩乃は出会った頃の彩乃よりもずいぶん成長していて、美希が言っていたとおり身の回りのことをすべて自分でこなすばかりか、週末やってくる顕也のコートをハンガーにかけたり、頼まれなくてもお茶を出したりするようにまでなっていた。顕也と美希に気をつかってのことかどうか、パジャマパーティーと称して友達の家に泊まりに出かけたり、小遣こづかい稼ぎとばかりに近所に住む祖父の家に泊まりに行ったりすることも多く、美希と二人で過ごす時間が少しはあった。

 とはいえ、顕也は仕事上で大学病院特有の大きな悩みを抱えていた。教授に新年度から大学院に進学するよう突然申し渡されたのである。その口調はこちらの意見や希望が入り込む余地のない高圧的なものであった。教授の言う通り、大学院進学が自分のキャリアとしてはマイナスにならないというのは理解できる。しかし、顕也は基礎研究の厳しさを少しは知っているつもりでいた。一人で黙々と組織検体や細胞と向き合う日々、けものの臭いがみ付いた動物実験センター、誰もいない夜中の研究室、余程よほどの変人はともかく、多くの医師がそれらを将来の出世のための一時いっとき辛抱しんぼうとしてとらえていることは明らかだった。何より、あわよく研究内容に興味を持つことができてそれに打ち込んだ時には、数年単位で手術や外来といった臨床から遠ざかってしまうことになるのは周囲を見れば確実であった。今の自分が臨床から離れれば中途半端の他に何が残るであろう。

 まだ十分若いはずの自分が、がつがつするところを何一つ見せることなく美希のような美人との付き合いをゆるやかに進めることができているのは、そんな仕事上の心配事が重なったからかもしれない。美希と彩乃と三人で過ごす時間が美希と二人で過ごす時間よりも自然な自分でいられる素敵な時間だと感じることが少なくなかった。彩乃は美希にも増して顕也の仕事の悩みの良き相談相手であった。美希が顕也の仕事について何かを言うことはなかったが、彩乃は美希とは少し違った。

「できるところまでやればいいじゃん。」

 真剣に悩みを打ち明ける顕也に向かって、冗談半分でニコニコしながらそんな風にいつも彩乃は言った。どこまで分かって言っているのかよくわからなかったが、とにかく一点の曇りもないぐな言葉だった。仕事のことだけではない。美希とのことでも、彩乃に今までどれだけの勇気をもらってきたであろう。彩乃の笑顔がなかったら、今自分は美希と彩乃といっしょにここにいなかったに違いない。そんな彩乃に背中を押されて、顕也は大学院への進学を決めた。


 大学院と言っても毎日研究するわけではない。前年度よりも少なくなってしまったが、大学院生の顕也が手術や外来を手伝うという曜日が設定された。外来は週に半日、手術は週に一日という短いわくで、しかもどちらも外来と手術だけをやればよいという業務内容だった。

 入院や手術は、医師がそれを決定すれば後のことは看護師を始めとする医師以外のスタッフが段取りを進めてくれるというものではない。入院が決まれば各部署にオーダーを出したり患者さんに渡す書類を用意したりという事務作業が待っており、手術が決まれば申し込み伝票を作って手術前の検査や輸血のオーダーを出して業者に連絡して必要な器械を手配してもらったりした上で、若い外科医ならカンファランスでプレゼンテーションする準備をして尚且なおかつ、手術の教科書を読みあさらないと執刀医にはなれないのである。ところが新年度からは、それらの手術に至るまでにやっつけるべき果てしない雑用のたぐいは、研修医の期間を終えて新しく形成外科に入局してきた若手医師たちが引きいでやってくれることになった。顕也は週に一日は手術だけを、半日は外来だけをやればよい立場になったのである。皮肉にも以前よりも教科書を読む時間が増えて理解を深めた上で手術を執刀できるようになり、時々研究室の顕也のところに新入局員の彼らや研修医たちがカンファランスで出すスライドの内容について相談に来ることもあった。それはそれで悪い気はしなかった。一見いっけんすればポジションが格上げされているように見えたからだ。

 しかし、現実は収入の大部分を当直のアルバイトに頼っている上に学費まで払うという点で、間違いなく学生の立場に逆戻りだった。何よりも全身麻酔のそれなりに大きな手術の第一執刀医になる機会が今までの半分以下になってしまったことは、外科医として早く一人前になりたいとあせる顕也には予想以上に大きな将来への不安材料になった。とにかく現状を切り抜ける以外に前に進む道はない、そう信じて多くの時間を研究室で過ごす日が続いた。

 幸い、教授が研究テーマは何でもよいと言ってくれたので、こども病院の後藤に口唇口蓋裂こうしんこうがいれつを研究テーマにしたいと相談したところ、こども病院に勤務していた頃に後藤の研究の手伝いをしていた内容の一部を扱うということになり、月に二、三回はこども病院に組織検体を受け取りに行くという生活サイクルが出来上がった。口唇裂こうしんれつに研究のモチベーションを求めようとしたことは悪い選択ではなかった。こども病院は美希と彩乃に出逢った場所でもあり、出向くこと自体が気分転換になった。口唇裂こうしんれつの治療に役立つ可能性のある何かしらの成果を出せれば、きっと美希と彩乃も喜んでくれるはずだと信じて前に進むしかない。そう自分に言い聞かせる日が続いた。

 とはいえ、教授自身にたいした基礎研究の実績がなく、頼みのつなである後藤自身もまた、実際の研究テクニックを一切持ち合わせてはいない。論文にできるようなデータを取得するためには、それなりの実験器具や研究手法を用いることが不可欠で、教授の口()きで解剖学教室や生理学教室に出入りして基本的な手法から学ぶ必要があった。しかし、実際に指導してくれる基礎研究を本職とする先生たちに自分の研究テーマについて相談しても、少し興味を持って話だけでも聞いてくれるのはまだいい方であった。ギラついた目をしている基礎研究一筋(ひとすじ)の先生方には、いつも決まって、何の意味があるのか、やる価値のある研究なのか、などと問われた。意地悪でそう言っているのではないことは、畑違いの顕也にもよくわかった。基礎研究に没頭する猛者もさ達が集まる研究室には、常に明確な目標がなければその研究は無駄だというストイックな空気が流れているのである。壮大な研究に取り組む先生方からほぼ素人の顕也が初歩的な手法を学ぶことがいかに申し訳ないことであるかを嫌というほど知らされた。いきおいのある内はまだよかったが、数か月もするとわずかな外来診療と手術と非常勤のアルバイトが心のり所になっていった。大学院生という立場での自分の居場所が、ほこりまみれのラジカセが打ち捨てられている共同利用機器の部屋か、創刊当初から開く者がいたかどうかも怪しい無造作にひもで縛られて黄ばんだ医学雑誌の山くらいしかない形成外科の研究室の二か所くらいしかなくなっていった。

 その鬱蒼うっそうとした形成外科の研究室に、一応自分のデスクがあった。そこに他の医局員のデスクはない。自分が一人で使ってもよいが、肝心かんじんの研究機器や材料がこれと言って何もない研究室に、自分のデスクが一つだけあった。手術室で使わなくなって運び込まれた古い手術用顕微鏡はラットの解剖くらいなら役に立つかもしれないが、そもそもラットを飼育する研究費がない。その顕微鏡も光源の電球が製造中止になっており、電球が切れればその時点でただの粗大ゴミと化してしまう。

 デスクの上には、細々と作りめたプレパラートの山が築かれている。何もない形成外科の研究室で研究ができないことは想像通りでとくに驚くことでもなかったが、どこからも出るはずのない研究費を自分で調達しなければならない大学院生がここに誕生しそうになっている現実に我ながら驚いていた。研究費がなければまったく何の研究もできないことぐらい想像できたはずなのに、この形成外科で基礎研究をやってみようという試みはあまりにも楽観的だった。研究中心の生活を始めて半年ほどで、お金をかけずにできる検証はやり尽くして何のデータも得られないばかりか、完全に目標を見失ってしまっていた。自分は何がしたいのか? どこに行こうとしているのか? 気が付けば出口が見えないどころか、入口に戻ることも到底とうていかなわない状況におちいってしまっていた。美希と出会ってから三年が過ぎようとしていた。

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