(十二)
大学病院の激務は予想どおりであった。形成外科医として大人を診る経験がほとんどなかったことが、顕也の業務時間を一層膨大なものにした。カンファランスで受け持ち患者についてプレゼンテーションするのはこども病院でも大学病院でも同じだったが、形成外科が当たり前のように扱う疾患が顕也にとってはことごとく初めてなので、日々その準備に追われて徒に時間が過ぎた。それなりに病状の重い症例が多い上に、他の施設では用いない試験的な要素を伴う独自の手術方法を用いることが少なくないので、カンファランスの準備は複雑を極めた。もちろん自分が第一執刀者になるケースはほとんどないので、働き始めて一か月も経たないうちに、こども病院でそれなりの手術を任されていた頃がいかに充実していたか思い知った。
それでも、部分的にでも手術を執刀していれば自分のスキルが上がっているのだと信じる他になかった。見たことのない疾患やその手術をまずは見ることから始めないと、やがて自分が執刀する日は来ない。こども病院時代を懐かしがっている時間はない、前に進むしかない、そう信じた。
「村沢先生、明日の脂肪腫のケースのプレゼン見てもらっていいですか?」
その日の業務が終わった後、顕也自身が医局のデスクに向かって翌週に控えた大きな手術の勉強を始めようという時、研修医の女医がノートパソコンを持って近づいてきた。
「脂肪腫って、術中迅速病理は見ないものですか?」
「迅速病理?」
まったく思いもよらない研修医の質問に、顕也が面食らった。午後十時頃、顕也はもちろんこの研修医もまだ夕食を食べていないに違いない。
「迅速は聞いたことないね。悪性腫瘍を疑わなければやらないと思うよ。」
「それが半年前に気付いてから二倍くらいの大きさになっていて、今は直径十五センチくらいあるんですけど、教科書とか文献には急に大きくなるものは脂肪肉腫を疑え、って書いてあるんです。半年で二倍って急なのかどうか、私には判断できないです。」
「カルテに何て書いてあるの?」
「何も書いてないです。半年前に気付いたって書いてあるだけだったんで、さっき夕回診の後に病棟で患者さん本人に聞いてみたら、気付いたときは半分くらいの大きさだったって言ってました。」
「何も書いてないなら、プレゼンでは言わなくていいと思うよ。」
正直なところ、顕也は脂肪腫を切除したことがなかった。形成外科で扱う頻度がすごく多い良性腫瘍であることは知っていたが、先日、一度だけ上級医が切除しているのを見ただけである。まして悪性腫瘍であること以外に脂肪肉腫が何なのか知る由もない。決してそんなことを研修医に悟られてはいけない。
「さすがに悪性を疑うならカルテに書いてあると思うけど。」
納得いかなそうに、まだ学生のような女医が首を捻っている。
「カルテには書いてないんですけど、触ったら何か硬くて脂肪っぽくないんですよ。学生時代に皮膚科の実習で触ったときの脂肪腫って、お腹の脂肪みたいな触り心地だった記憶があるんです。この患者さん、押したらちょっと痛いとか言ってますし、私的には悪性を疑ってもいいと思ったりしてるんです。教科書的には、悪性を疑ったら、まずは部分生検術だけにするか、部位によっては迅速病理をみて悪性ならそのまま拡大切除もあり、と書いてあります。全身麻酔でやるわけだし、部位が背中だから迅速病理をみて悪性ならそのまま拡大切除でいいと思うのですが、どうでしょうか?」
女医は明らかに自分より優秀だった。先日、外来でその患者さんを診た上級医が、俺が前立ちするから村沢先生が手術をやればいいよ、と言っていた脂肪腫である。カンファランスのプレゼンテーションは、難しい症例は専門医取得前の医局員に回って来るのに対して、脂肪腫のように簡単な症例は研修医が受け持つというシステムになっていた。この脂肪腫は上級医の言われるままに切除するだけだと思っていたので、患者さんの診察すらしていない。女医の鋭い観察と手術の計画を聞いて、何だか嫌な予感がし始める間もなく、それが的中した。教授室でずっと話し込んでいた上級医が疲れた顔で医局に戻って来て、顕也と女医を見つけるなりこう言った。
「やあ、村沢先生、遅くまでお疲れ様。明日の脂肪腫だけど、単純に切除するだけだから、先生がやってね。確か脂肪腫はあんまり見たことないって言ってたよね。典型的じゃないけど、やることは同じだから。」
典型的でない? 二人がそこに引っかかったのを上級医はすぐに察知した。
「紹介先のクリニックで脂肪腫だって決め付けられてたから、外来ではあんまり詳しい話はしないで、まずは切除して調べましょうとしか言ってないけど、あれは脂肪腫じゃないかもね。患者さん、診た?」
「すみません。診てないです。」
顕也が正直に答える。
「まあ、忙しいからそれは仕方ない。でもやっぱりちょっと気になるから、明日は迅速病理を出していいかもな。悪性だったらそのまま拡大切除して、縫縮できなくても植皮すればいいんだから。明日の朝、本人にもう一度話しておくよ。急で申し訳ないんだけど、明日でいいから病理部に連絡して迅速を申し込んでおいてもらっていい?」
女医が嬉しそうに上級医の言葉に頷いている。
「わかりました。私が電話しておきます。」
顕也に気遣ってトーンを落としながらも少し声を弾ませて指示に応じる女医の方を、顕也は見ることができない。本来こんな行き当たりばったりの治療があってはならない、と少しでも思うことができるようになれば顕也の仕事はもう少し楽になるのかもしれない。しかし、ここで働き始めて一か月足らずで、そんな批判的精神が湧くような心の余裕はまだない。ただただ研修医の言ったとおりの方針になったことを恥じた。デスクに開きっ放しになった医学雑誌に目を落としたまま、上級医と女医のやり取りが続くのを黙って聞くことしかできなかった。恥ずかしくて仕方がなかった。
「ごめんね。分かったと思うけど、手術のこと、自分も全然分かってないんだ。」
開き直って女医にそう言えるまで、上級医が医局を出て行ってから五分はかかったかもしれない。気にしないでください、と研修医に優しい言葉をかけてもらうのがさらに痛々しかった。
こんな出来事はその日だけではなかった。延々と毎日が綱渡りのような仕事の連続であった。いつまで続ければもう少し充実した毎日だと思えるようになるだろうかと思いながら、あっという間に夏が終わって秋になった。美希と知り合ってからもう二年が経とうとしていた。
美希との関係に進展はないまま、時々週末いっしょに食事をするという関係が続いていた。少しだけ進展があったとすれば、大学の仕事が忙しいことに気を遣ってくれた美希が、土曜日の朝に度々顕也を車で迎えに来てくれるようになっていた。もちろん彩乃もいっしょである。だから、美希の自宅に戻って食事をする他にも、そのまま海沿いの公園にピクニックに行ったり横浜の市街地にショッピングに行ったりすることもあった。一見すれば家族に見えるだろうと顕也も薄々感じてはいたが、お店で食事すればそのような扱いを受けて顕也が照れ臭がるのを見る度に二人が大笑いした。
実際に、大学の仕事は少しでも時間があれば寝ていたいと思えるくらい多忙だった。だから、美希と彩乃の方からこうやって会いに来てくれていっしょに過ごすことは、顕也にとって何よりも幸せな時間だった。忙しいからなのか、美希との関係において一つだけ残された不満は以前より暈けて、会っていても美希が遠くに感じられる瞬間が増えていたかもしれない。諦めでも辛抱でもなく、今のままでよいと思えるくらいの幸せを、二人からは十分もらっていると本気で思い始めていた。きっと今の自分がこれ以上を望むことは許されない。
ただ、そんな関係にまったく変化がないわけではなかった。週半ばのウィークデイの夜中に突然美希が顕也のアパートに現れたのは、出会ってちょうど二年目の十一月のことである。
「今から行ってもいい?」
明らかに不機嫌な声色で短い電話をかけてくると、美希は五分ほどで顕也の部屋の呼び鈴を鳴らした。
「ちょっと早かったかしら。」
ドアの外で美希の声がする。深夜二時を過ぎていた。顕也は熟睡から目覚めてようやく部屋の明かりに目が慣れてきたところである。ドアを開けると、明らかに酔っているドレス姿の美希がいた。
「遅くにごめんなさい。今日は泊めてもらうわ。」
「どうしたの? 何かあった?」
酔って質の悪くなる美希をしばらく見ていなかったが、ここまで節度のない美希は初めてだった。
「どうってことはないのよ。ちょっと飲み過ぎただけ。お水ある? ビールでもいいわ。」
「お水にしな。何があったか話してくれたらお水を汲むよ。」
上がり框に脱ぎ捨てられた毛皮のコートを拾い上げてハンガーにかけながら、顕也が確信をもってもう一度尋ねる。夜中の緊急手術よりもばっちり目が覚めていた。
「だからちょっと飲み過ぎただけ。」
「それはウソ。そもそも彩乃は今どうしてるの?」
「彩乃? そんなやつ知らねー。」
顕也にはこれでもうわかった。今となってはそれぐらい気心が知れた間柄であることに、顕也は少しまた幸せな気分になった。
「喧嘩したんでしょ? 姉妹みたいだね。」
「そうかしら。あいつはほんとに頑固で一回言ったら絶対聞かないから、頭にきて家出してきたの。」
「喧嘩の理由は何?」
こたつの上のコップに水を注ぎながら顕也が聞いた。
「聞きたい?」
「うん、聞きたい。」
「こんなこと、あんまり話したくもないんだけど、先生だからいいよね。」
美希の顔が突然真面目になった。あの顔だ。そう、母親の顔だった。
「彩乃がね。学校に行きたくないっていうのよ。」
「学校に行きたくない?」
まったく予想もしなかった喧嘩の発端に、顕也は美希の言葉をオウム返しに言うしかない。
「何で? いじめられたとか?」
「いじめとはちょっと違うかもしれないんだけど、そんな感じかな。最初はずっと言わなかったんだけど、どうやら口唇裂のことでからかわれたみたいなの。鼻の形が変、みたいなことを言われたらしいのよ。今まで面と向かって言われたことがなかったから、自分でもあんまり気にしないようになってたし、きっと周りの子も気付いてないんじゃないかって勝手に思い込んでいたんだと思うの。いじめられたとかじゃないらしいけど、ああ、やっぱりみんな気付いてたんだ、って感じでショックを受けたみたい。そんなの気にすんなって言うんだけど、気にならないはずはないとも思うのよね。学校に行きたくないっていうほどのもんじゃないとは思うんだけど・・・」
またしても顕也は、美希の離婚の理由を聞いた時と同じように、後頭部を棒で殴られたような衝撃を覚えた。言葉を失って固まっている顕也に、美希が何かを感じたのであろうか?
「こんなの先生じゃないと言ってもよくわかんないでしょ? だからってこんな遅くに突然来るなって感じよね。バッカでしょー。ごめんね、顕也先生。」
辛気臭くなるのを避けるために美希が明るく振る舞っているのか、単に酔っ払っているのか、もはや顕也にはどちらでもよい。
「申し訳ないから、今日はいっしょに寝てあげる。」
もう陽気でちょっと意地悪な酔っ払いのいつもの美希であったが、ほんの二分前には彩乃のことを話しながら目に涙を浮かべていたのを顕也は見逃してはいなかった。
何と自分は傲慢だったのであろう。本人の記憶には残り得ない生後数カ月で手術をして、傷痕や変形が少しくらい残っても、学校に行きたくなくなってしまうようなエピソードの発端にはなりえない程度のことだと勝手に信じ込んでいた。お友達に何か言われたりしないようにきれいに縫ってくださいね、という両親の切実な要望に、そんなことにはなりませんからと、何度自信満々に言い返したであろうか。彩乃の口唇裂は軽症である。もっと強い鼻の変形が残ってしまう口唇口蓋裂患者の方が圧倒的多数である。みんなこんな苦難に直面しているのかと思うと、気が遠くなった。
「洗面所借りていい? メイクを落としたいわ。」
「ほんとに泊まっていくの?」
美希の心遣いに応じないわけにはいかない顕也は、動揺を隠しながらちょっと嬉しそうな表情を取り繕った。
「ええ。ほんとよ。彩乃ならもうとっくに一人で寝る歳になってるし、朝はいつも勝手に起きて学校に行ってるわ。まあ、昨日も行かなかったから今日も行かないだろうけど。困ったもんよね。どうでもいいけど、三分後に明かりを消してくれる? 寝巻はいらないから。」
あっけらかんとベッドの布団に潜り込んだ美希と、遠慮がちに美希に従う顕也は、沈黙のまま抱き合って眠りに落ちた。均整のとれた美希の体が肌着越しに顕也の体に密着したが、どちらからともなくそれ以上前に進むことはなかった。酔っ払いにしては静かな美希の寝息が乱れることなく、二人は朝を迎えた。
大学病院の朝は早い。顕也が部屋の鍵をこたつの上にガチャリと置くのを聞いて、布団に入ったままの美希が言う。
「鍵閉めたらポストに入れとくね。」
「うん、ありがとう。」
「合鍵作ったら怒る?」
「ありがとう。」
「何でありがとうなの?」
「何でだろうね、はははは。」
本当は合鍵の一つでも用意しておいて、さりげなくもらってほしいとでも言えば格好がいいことくらいは理解している。でも格好悪く自分に近付いてきてくれた美希にもっと格好悪い自分を見せる必要があるような気もしている。お互いによくわからない会話を交わしてそれでも何だか通じ合っている、そんな美希を部屋に残して出て行くことがただ誇らしい。この誇らしさに飾りを添えることの方が、むしろ不格好を晒すことになるのだろう。
美希が好きだ。ここまで誰かを愛おしいと感じられることが、身震いするくらい新鮮だった。美希を、美希と彩乃を幸せにしたい、そう心に誓っていつもと変わらない足取りで慌ただしく仕事に向かった。




