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(十一)

 大学病院に寮はなかった。大学は横浜の最南端で東京湾を望む海沿いの埋め立て地にあったが、たいして家に帰れないような勤務形態であることはうわさに聞いていたので車を持たない顕也は少しだけ離れた駅の近くにアパートを借りた。東北で学生として過ごした六年間はキャンプやスキーの道具などが増えて置き場に困っていたが、今ではたいした生活用品がない。こども病院でもほとんど寮の自室で食事をしたことはなかったし、風呂なんて病院の手術室にあるシャワーの方が使い勝手が良くて寮の浴室は数えるほどしか使わなかった。だから引っ越しも軽トラックに半分くらいの荷物を業者に運んでもらえばお仕舞しまいである。

「いやあ、僕もそんなもんでしたよ。」

 五月末にそんな引っ越しを終えていよいよこども病院勤務の最終日を迎えると、後藤が送別会と称して近くの焼鳥屋に誘ってくれた席にたまたま居合わせた遺伝科の古谷部長が、顕也の引っ越しの話を聞いてそう言った。古谷は後藤よりもずっと年上で五十代半ばといった感じである。こども病院という特殊性もあって院内でお世話にならない診療科はなく、患者家族の遺伝相談を一手に引き受けるという臨床業務をこなす一方、遺伝性疾患の分類についてあちこちの医学書に登場する全国的に名の知れた人物であった。その古谷にえらそうな雰囲気は微塵みじんもなく、三十才近くとしの離れた顕也にいつも敬語でにこやかに接してくれるのである。

「僕も今の村沢先生くらいの頃には都内で病院の寮に住んでましたよ。ほとんど家に帰らないものだから、結婚して初めて冷蔵庫を買いました。電気ストーブと扇風機だけは必需品でしたね。僕らの頃は下宿にエアコンなんてないのが当たり前でしたから、暑かったり寒かったりすると病院に行きたくなるんですよ。」

 頭頂部が少し寂しい風貌ふうぼうも手伝って、単なる赤ら顔の酔っ払いおやじと化した古谷がなつかしそうに自分の昔話を続けた。

「そうですよね、古谷先生。」

 脇目わきめも振らずに我が道を突っ走ってきたという自負があるに違いない後藤も話に加わる。

「俺なんて知り合いの先生のクリニックの二階の物置みたいな部屋に荷物だけ置かせてもらって、基本的には大学病院の医局に住んでたことがありますよ。そのクリニックの看護婦さんが優しくて、部屋の前に、残り物ですがどうぞと書き置きといっしょに握りめしが置いてあったりするんですよ。でもあんまりクリニックに寄り付かないもんだから、食べ物が腐っちゃったりすることもあって申し訳なかったなあ。あの頃は楽しかったですよ。家に帰れないことが苦にならなかったですよね。今だって似たようなもんですけど。」

「後藤先生はやっぱり昔から並外れたパッションだったんですね。でもまあ、今の若い先生方には無駄な苦労はしてほしくないですよね。」

 この手の昔話を後輩として聞く方はあまり心地よくないことをよくわかっている古谷が、気をかせてくれる。

「村沢先生は明日から大学に行かれるんでしたよね。」

「そうなんです。研修医のときに少しだけ働いたことはあるんですけど、研修医とは違う動きなので、どうなるのか正直不安です。」

 顕也は率直な気持ちを言った。

「まあ大丈夫ですよ。後藤先生のおすみ付きですからね。後藤先生は本当に正直な人で、できない部下のことはできないやつだといつも全然違う科の僕にまで愚痴ぐちを言ってますから。村沢先生のことは、医局でいつもめてましたよ。素直で伸びしろがあるって。確かに、今の若い先生の中には何か言えば次には、けど、でも、って言うことがちょっと多いのが難点という先生が少なからずいますよね。村沢先生だってたぶん後藤先生になにくそと思っておられたこともあったんでしょうけど、けど、でも、って言わないのが賢いやり方ですよ。」

 普段から遺伝というデリケートな範疇はんちゅうを扱うからであろうか? 周囲を嫌な気にさせない、というのは古谷の傑出けっしゅつした人間性であった。多少の誇張があったとしても、後藤が自分のことを出来の悪い部下だとは思っていなかったようである、という古谷の言葉が顕也にはうれしかった。

「ありがとうございます。自分ができる人間だと思ってません。自分が意見できると思っていないだけです。できない自分は言われたことを黙々とやるしかないなって。」

謙遜けんそんぶりも素晴らしい! ねっ、後藤先生。将来楽しみじゃないですか。」

 完全に酔っ払った古谷が、右手にお猪口ちょこ、左手に顕也の肩を揺すりながら、ガハハハと笑って後藤と顔を見合わせた。

「ところで。大学って言ったらやっぱり研究ですか?」

 急に古谷がおそらく冗談半分に真顔まがおで顕也に尋ねる。若かりし頃の古谷が研究の鬼であったことは、誰もが知る事実であった。論文の数は大抵たいていの大学教授を軽く上回るのに、政治に興味はない、の一点張りで、今までどこの大学の教授選きょうじゅせんにも出ていないという。かと言ってそんな研究に対する思いをみずから周囲に話すことはほとんどないらしく、古谷を交えて研究の話になりそうな雰囲気に、後藤が少し身を乗り出して興味を示している。

「研究なんてとんでもないです。臨床でも半人前なのに、大学に研究しに行こうとは思ってないです。」

「そうですか。外科は手術ができて一人前という雰囲気がありますからね。外科の先生は若い頃から研究したいなんて思わないのがふつうですよね。」

 古谷は何もかもお見通しなのだ、それを知っていて自分を少しからかっているのだ、と顕也は思った。

「いや、実はこいつは少し研究もやってるんですよ。基礎研究音痴の自分に比べればたいしたもので、日常業務の合間に彼に作ってもらった組織切片(せっぺん)のデータを学会発表で何度か使わせてもらってます。けっこうきれいな画像データをもって来るんです。」

 後藤が鼻息荒く顕也の研究について説明し出した。やっぱりそう来たか。話の流れ上余計なことを言ってくれるのは仕方ないにしても、あんなものは毎日研究だけやっている研究者から見れば吹けば飛ぶような仕事なのに、よりによって古谷先生の前でそれを言うであろうか? 恥ずかしいと思わないのであろうか? どうやら本当に研究をやったことがなさそうな後藤のことを、顕也はいまさらながら残念に思った。

「そうなんですか。」

 案の定、研究の話になると古谷先生が食い付いて来た。

「何の組織を見ているんですか?」

 かなり真剣に、古谷が後藤に聞く。

口唇裂こうしんれつ患者の皮膚です。口唇裂こうしんれつの手術のときに切除して捨ててしまう皮膚を見てます。体表の傷痕がなくなるという現象に興味があるんです。怪我けがをしたとき、皮膚全層に及ぶ深い傷の場合は縫っても必ず傷痕が残るんですが、胎児期にできた傷は全層に及ぶ傷でも傷痕を残さず治るという現象が起こるみたいなんです。口唇裂こうしんれつは、発生学的には胎児期の最初の頃に必ずある唇の切れ込みがくっ付き損ねて口唇裂こうしんれつになるわけですけど、正常にくっ付いてしまえばそこは傷痕みたいなものは残らないですよね。じゃあ、くっ付き損ねたけれども完全に離れたままになっているわけじゃなくて、少しだけつながっているとか、ほとんどつながっているけれどもちょっと形が正常ではない、という口唇裂こうしんれつもあるわけです。自分は、そこの連続する組織は傷痕の組織でも正常な組織でもないと思っています。言ってみれば傷痕がなくなって正常な組織になり損ねた組織ですから、くわしく観察すれば、傷痕がなくなってしまう現象そのもの、あるいは傷痕をいかにきれいに治すかという治療法のヒントが隠されているように思えてならないんです。」

 後藤が熱く語り始めたが、意外にも古谷にはこれが難しかったらしい。

「何だかすごいことをやってますね。」

 古谷は酔いがめたような顔付きになって心底驚いているようだった。

「確かに傷痕が確実に跡形あとかたなく治るんだったら、自分もすぐに胆石をとってほしいですね。おなかの脂肪だって切り取ってほしいかな。」

 ぽっこりと出た典型的な中年のおなかさすりながら、古谷が素人のようなコメントを吐いた。明らかに後藤の研究に興味がなさそうである。そんな古谷に、後藤がここぞとばかりに質問する。

「ところで古谷先生は、今どんな研究をされてるんですか? いっぱいあるんでしょうけど、一番の興味は何ですか?」

「僕ですか? いいこと聞いてくれますね。興味なんてただひとつ、きれいな女性に決まってるじゃないですか。」

 酔っ払いおやじに戻った古谷は、さっきと同じように顕也の肩を揺すりながらにこにこ笑って残りのお酒を一気に飲み干した。

「そういえば後藤先生。きれいな女性で思い出しましたが、口唇口蓋裂こうしんこうがいれつの子供のお母さんたちはなぜかみんなきれいだと感じるのは僕だけですかね。」

 唐突に出た古谷の質問に顕也は仰天した。焼き鳥がのどまりそうになって残りの焼酎を多めに流し込む。顕也の動揺に気付かないまま、後藤が身を乗り出して答える。

「そうですか! やっぱり古谷先生もそう思いますか! 確かにそうなんです。自分も以前から薄々そう感じていました。ちょっとほりが深くて目鼻立ちのしっかりしたお母さんが多いように思いますね。古谷先生も同じことを思っていたんですか。これは面白いですね。」

 美希が確実にそのうちの一人だと顕也は思ったが、驚きを隠す必要はなさそうだった。こども病院に二年ちょっとしかいなかった顕也にわかるはずもないという判断が二人にあったのかもしれない。顕也に話が振られることもなく、古谷と後藤の二人だけでしばらくこの話題で盛り上がった。

「体表先天異常なんて、何が異常だかよくわからないところもありますよね。2SDよりちょっと外れて目が大きければその子は可愛らしいとされますけど、2SDよりも大きく外れて鼻が低ければ症候群かもしれないから全身精査してくれませんか、なんて遺伝科の外来に紹介されてくるわけです。もちろん精査してもただ鼻が低いだけなんていう子供たちが大勢おおぜいいますから、体表の形態が他と違って異常に感じるかどうかは親とか小児科クリニックの先生の主観によるところがかなりあるんじゃないかなあ、と思うわけです。価値観が違えば整った顔立ちの男前や美人なんて体表先天異常みたいなものじゃないか、と感じることもあるのですが、それは完全にもてない男のねたみですね、はっはっはっ。」

 最後にそうめた古谷の言葉は、いつまでも顕也の耳に残った。すべて美希を重ねて聞いていたことは言うまでもない。


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