(十)
この日以来、顕也の仕事に対する姿勢が徐々に変わっていった。もちろん何かを決意して変えようとしたわけではない。以前とはまったく違う目ですべての患児の母親を見るようになったのである。診療中は常に、すべての母親に対して、美希と同じような思いがどこかにあるのかもしれないという勘繰りから片時も逃れることができなくなった。数分の診療で家庭背景などわかるはずのないところが、よりいっそう勝手な憶測を助長した。
身が引き締まるという立派なものでもない。ある種の開き直りだと顕也は感じていた。そもそも、手術によって跡形なく治したところで患者の心の傷は大して取り除くことができていないのである。形成外科の手術は体の表面の形を変えるだけであって、根本的に患者をその疾患でなくすることはできていないのだ。普通に考えたらまったく当たり前のことであるが、案外そのような患者意識に踏み込むことは形成外科に限らず医療者の中ではタブーである。患者側から見ればそんな簡単で重大な事実を避けるように患者とその家族に関わってきた今までの自分が、かなり若かったと思えるようになっていた。
そう考えると、手術が大したことではないと思えてくる反面、その大したことのない領域にひた向きに技術の向上を求める姿勢がちょっと格好いいのではないかという妄想に取り憑かれるようになった。不思議なことに、そんなどこか気の抜けた感覚は、顕也の手術技術の向上を目に見えて後押しした。それだけで治療が完結しえないと思えば手術で上手く決めないといけないというプレッシャーが減ったのかもしれない。いちいち深く考えずに後藤の手術をただよく見てその手術記事を丁寧に書き留めて、自分の出番がくればそれを書き写したデザインのシェーマを手術室に持ち込んで忠実に再現しようとする顕也の姿勢を後藤が評価してくれるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
顕也にしてみれば、数多と溢れる医学書を読み込むのが面倒臭いわけではなかった。診療科を問わず、駆け出しの外科医が手術手技のうん蓄に多くの紙面を割く教科書や雑誌を読み込むのは当然のことである。しかし、もはやある程度の結果が出せるのなら、手術の方法なんてある意味何でもよいのではないかという、幾分偏った考えから逃れられなくなっていた。まずは後藤の手術と同じことができるようになること以外に今は何も考えなくてよい、という偽りない本音をそのまま行動に移したわけである。この姿勢が後藤にとってはかなり好印象のようだった。シャーカステンに掛けられた手書きのデザインのシェーマをニヤニヤと黙って眺める後藤の姿は、不思議と顕也の方にも満足感を与えていた。
新田が三月いっぱいで異動になることが決まったことも重なり、形成外科に入局した翌年に、顕也は簡単な口唇裂や口蓋裂をコンスタントに執刀するまでになっていた。これは過去の手術記事で第一執刀者の名前を振り返ってみても異例のことであった。横浜こども病院に赴任してから二年が経とうとしていた。
美希もまた、そんな顕也の充実感を感じとっていた。以前にも増して時間がなくなってきた顕也を、ある時は本当の彼氏のように、ある時は本当の家族のようにそっと見守った。美希から顕也を誘うことは少なくなったが、顕也が時間のある時に美希の自宅にお邪魔して三人でいっしょに食事をする機会は逆に増えた。相変わらず美希の手料理が美味しいことに変わりはなく、彩乃といっしょに絵をたくさん描いて美希とどうでもいい話で盛り上がることが心地よかった。気付けば、多忙な日常業務の中で美希の自宅で過ごす時間が何よりの癒しになっていた。
美希の自分に対する気持ちなどあえて聞く必要はないと感じていた。特別な存在として受け入れてもらっているのは確かだし、今の自分は形成外科医としての仕事が大切である。どちらかを取るわけにはいかず、どちらも大切なのである。仕事はまだまだ半人前だけど駆け出しだから仕方のないことで、このまま突き進めばやがて色んな手術を執刀して一人前になっていくという将来が何となく思い描けるところまでは来ている。美希との関係こそ、自分はまだまだ若いし焦る理由などない。これ以上を求めて今の関係を失うことの方が考えられない。成り行きに任せて時間をかけた方が、きっと彼女の信頼が築けるはずである。
「結婚しちゃえばいいのに。」
唐突にそんなことを言う彩乃に、気付かれたらどうしようと思うくらい赤面するのを自覚する顕也とは対照的に、何一つ変わらない美希の表情もまた、顕也が現状維持を選択せざるをえない理由の一つだったのかもしれない。
「バカなこと言ってんじゃねえよ。」
彩乃を蹴飛ばすふりをして笑いながら言う美希の目は、正直なところあまり笑っているようには見えない。やはり、美希もこれ以上を望んでいないのだろうか? 多くの男が求めるような、形振り構わず仕事を優先する男を温かく見守ることを良しとする女の如才なさだったりはしないだろうか? それとも、恋愛経験のない自分にバツイチ娘付きでは申し訳ないとでも思ってくれているなどということはないのであろうか?
そんな冗談の後、いつまでもケラケラと笑う彩乃は、顕也の様々な憶測や妄想までをも見透かしているのではないかと錯覚するほど頼もしく見えた。彼女が屈託なく笑うほど、その笑顔の中にいつか自分は彩乃に重大な相談をして重大な決断をしなければならない日が来ることを予感させた。
彩乃は人の絵を描くことを好んだ。顕也が虫や魚の絵ばかり描いていた少年時代を過ごしたことを思えば、これは典型的な男と女の違いとも言えるかもしれない。
しかし、同級生の女の子が全身可愛く着飾った女の子の絵ばかり描いていたことを思い出して、彩乃の絵に大きな特徴があることは明らかだった。彩乃の描く人物は、首から下の服装には色の違い意外に大したバリエーションを持たないのに対して圧倒的に顔が様々なのである。目、鼻、口、髪の毛、それぞれの形はもちろん、笑ったり泣いたり怒ったりという表情を驚くほど様々に描き分けていた。逆三角の顔にまん丸の目とにっこりの口、四角の顔に釣り上がった直線の目とへの字に怒った口、というように二つと同じ顔は描きたくないとでも言いたいかのようであった。
「何だこれは!」
年度が変わった春の土曜日、美希の自宅で昼食をとった後、どうだと見せられた作品に、顕也が心底驚いて声を上げた。二年生の時に学校の授業でクレヨンと水彩絵の具で仕上げた作品らしい。三年生になる前の春休みに二年生の時の作品を持ち帰って来たのだ。彩乃は嬉しそうに図画工作の時間にクラスみんなの前で先生に褒められたことを自慢した。
顕也が思わず声を出すくらい驚いたのは、その顔の数だった。百人くらいはいるだろうか。やはり一つとして同じ顔はない。左上から描き始めたのか、その辺りだけ整列して描かれているが、途中からは大小様々、色、形、表情、全て違う顔が画用紙一面に描かれている。一人一人でも魅力的な顔が並ぶが、その数が多いことと色鉛筆よりも色彩が豊かなことで、さらに圧倒的で素敵な絵になっている。
ただ感心して後の言葉が見つからないでいるところに、職場から突然電話が鳴った。
「はい。村沢です。」
職場から、とくに病棟から電話をもらうのは、二十四時間いつでもよくあることだったのでこの時もそうだろうと思ったが、電話の相手は思いがけず後藤であった。後藤が休日に電話をしてくることはほとんど初めてであった。大事な話だというので、顕也は手だけで彩乃にごめんねと合図しながら小走りに玄関から外に出た。ここが横浜とは思えないような立派な畑の向こうに、葉桜になりつつある桜並木から白い花びらが次々と舞い落ちるのが見える。
「すみません。話していただいて大丈夫です。」
「タイミングがどうかと思うんだけど、人事のことなんだよ。」
「はあ。」
あまりにも唐突で、自分のことを言っているということに気付くのに少し時間がかかった。
「村沢先生は二年間こども病院にいたわけだけど、専門医試験とかもあるから大人を診る病院も回っといた方がいいでしょ。」
実は、いつか必ずその時が来ることはわかっていたのであるが、異動は四月の年度初めに行われるのが基本で、それが言い渡されるのは新年が明けた頃というのがどの科でも慣例になっている。こんな時期に異動があり得ることにまずは驚き、それも自分の話だというから言葉も出ない。黙って携帯電話を耳に押し当てて説明を聞くしかなかった。
「大学の形成外科に、この春から卒後五年目くらいの口腔外科の先生が二、三年くらいの期限で勉強に来てるみたいなんだけど、もともといた相模歯科大で口唇口蓋裂チームにいたんだって。こっちの口唇口蓋裂治療に興味があるらしいから、せっかくだったら形成外科の専門医試験のために大人の症例を経験する必要がある村沢先生とトレードしようということになったらしい。新田先生が三月いっぱいで異動になったばかりだから、村沢先生にはもっと色々手術を任せてやってもらいたいのに、正直こっちは迷惑なんだけど・・・まあ教授の言うように、専門医のためにはずっとこども病院ってわけにはいかないからね。六月一日付けで異動することが決まりみたいなんだけど、遅くても来年四月には確実に異動だっただろうし、それが少し早まったと思えばいいんじゃないかな。昨日の医局の集まりで教授にそう言われて、急な話だから早く伝えた方がいいかな、と思って電話したんだ。休み中に唐突な話でほんとに申し訳ないね。自分だってこの手の話に振り回されるのは勘弁してほしいんだよ。」
仕方ない、と顕也は思った。仕方ないし、言っても無駄だし、死ぬわけじゃないし、と思った。
「あとね、正式には教授から連絡が来ると思うけど、向こうに行ったら今の研究をもうちょっとやってほしい。」
この最後の言葉だけが気になったが、実は顕也はこの春で異動になるのを覚悟していたから、前向きな気持ちではないにせよ、唐突な連絡に怒りを覚えることも動揺することもなかった。むしろ、専門医試験のためにはずっと横浜こども病院にいるわけにもいかないという後藤の言葉が、他人事のようにすんなり耳に入って来た。大学の医局に属する限り、どんな診療科であっても、専門医という各学会が認める資格の取得は避けて通れない道なのである。小児疾患だけの臨床経験で形成外科専門医の資格を取ったという前例はない。タイミングはともかく、この異動を受け入れない方が圧倒的に先の見通しはない。
「わかりました。お休み中にわざわざ連絡いただいてありがとうございます。」
電話を切って居間に戻ってきた顕也を待っていたのは、ニコニコ顔の美希と彩乃だった。この二人の状況判断の良さにはいつも感心する。電話のやり取りをドアの隙間から聞いている気配がしていたのであるが、すでにその内容を把握しているらしい。
「こども病院、やめちゃうの?」
六月以降のことで頭がいっぱいになっている顕也が心配そうに見えたのか、彩乃がちょっと真顔になって顕也に尋ねた。
「そうらしい。」
「ねっ、やっぱりそうでしょ。」
淡々と返事をする顕也をよそに、美希が賭け事に勝ったかのような喜び方で彩乃に向き直って言う。
「彩乃、たいへんよ。先生、遠くに行っちゃうんじゃない?」
「えーっ。そうなの? 遠くに行くのはいやだって前に言ってたじゃん。いやだったら行かなければいいのに。」
「そんなわけにいかないのよ。お医者さんの世界は厳しいんだから。勉強のために何年か外国に行くのも珍しくないのよ。」
顕也が遠くに行くのをやめさせようとする彩乃を、美希がからかった。泣きそうになっている彩乃を見て、顕也は急に自分の異動などどうでもよくなってきた。
「大丈夫だよ。彩乃ちゃん。今までも時々行ってた大学で働くことになっただけだよ。遠くじゃないよ。六月からだけど、今までと全然変わらないよ。」
「だいがくってどこ?」
彩乃が美希に詳しい説明を求めて自分の異動を一生懸命理解しようとしてくれる姿を見て、顕也はますます自分の異動がどうでもよくなった。実際に遠くに行くわけでもないし、何よりも今の美希との関係に進展をもたらすような期待感があった。単に春という季節のせいかもしれないと思えるほど頼りない期待感はであったが、少なくとも目の前の美希と彩乃が自分の異動を後ろ向きに捉えてはいない。こんな二人に後押ししてもらって仕事に打ち込める自分はたぶん幸せなのであろう。
美希の説明に安心した彩乃が、再び自慢の絵を手に取って嬉しそうに顕也の顔の前に差し出した。その絵をもう一度まじまじと眺めながら、顕也は考えた。形成外科医として早く一人前になること、そのためには多少の困難があっても踏ん張り続けること、そうすればたぶん美希の自分に対する男としての評価が上がるであろうということ、今はただ粛々とこの道を突き進むしかないということ。こんな考えがあくまでも男目線で男らしさを演じようとする極めて古い体質の男が抱く妄想かもしれない、と少しでも疑うことができるほど、まだ顕也は歳をとっていなかった。




