日常編(一)
診察台の上に脱ぎ捨てられた白衣のポケットの中で再び院内PHSが鳴る。白衣の横には年季の入ったスチールのデスクに向かって黙々と診断書を書く顕也の背中があった。顕也の他に誰もいなくなった形成外科外来の午後八時半を過ぎた頃である。白衣のポケットにはボールペンやメモ書き、舌圧子やサージカルテープなどがねじ込まれていて、PHSをなかなか取り出せない。
「あー、また電源切っとくの忘れた。はい、もしもし。」
そもそも当直の時間帯なのに、いくら主治医であろうと日勤の医師に電話をかけてくるのはおかしい、という思いを返事の声色に込める。
「村沢です。何でしょうか?」
相手は四階東病棟の看護師、それも人使いが荒くて後輩たちからもっとも恐れられている丸山さんだった。当直医は自分よりも三学年先輩の新田先生だからあまり強気に出られない。より立場の弱い自分が院内に残っていれば、彼女にとってはしめたものである。当然のことながら、この手の電話で下っ端の顕也が彼女の優しい声を聞けたことは、この横浜こども病院に赴任以来半年間ただの一度もなかった。四十間近のこの独身看護師を、誰か幸せにしてあげられないのだろうか?
「えっ、まだやってるんですか? だって、もうすぐ消灯の時間ですよね。」
二日前に手術をした川原彩乃の経管栄養についての電話であった。口の中の手術の後、傷を清潔に保つためにしばらく行われるのが、手術中に鼻から胃に通しておいたチューブで直接流動食を投与する経管栄養である。それが気持ち悪くて、どうやら自分で調節コックを回してストップしてしまっていたらしい。六才にしては素晴らしい自己主張だと感心する。
「もっとゆっくり落としてあげればいいじゃないですか? 消灯時間が過ぎても他の子に迷惑がかかるわけでもないし、形成外科の立場から言わせてもらえば何時までかかってもいいですよ。あとでそういう指示を書いておきますから・・・」
顕也がすべて言い終わらないうちから、PHSの向こうでもの凄い勢いで反論が始まる。そういう問題ではなく昼の分が夕方までかかったからお腹が減ってないし術後はお通じが出てなくてお腹が張って仕方がないみたいでそもそも経管栄養はゆっくりやり過ぎたら詰まってしまうし詰まって一番困るのは先生方じゃないんですか、といった内容であったが、もちろん顕也も最後まで聞いていない。電話越しなのに外来の外にまで聞こえそうな金切り声がまだ続いている。
「うかがいます。」
いったん耳から離れていたPHSを再び口元に運んで返答すると同時に、顕也は足元の何十年使われているのか見当もつかない電気ストーブのスイッチを切った。もちろんPHSの電源を切るのも忘れない。白衣の袖を通しながら立てつけの悪い外来の扉を開けて、晩秋の寒々しく薄暗い病院一階廊下を足早に歩きだす。
顕也が出て行った外来の静けさからは、昼間の病院の騒々しさをとても想像できない。開設以来三十五年間、横浜こども病院は建物もシステムも職員の意識も患者さんの利用スタイルもおそらく何も変わりなく、外来では朝から夕方までわんさと押しかける患児とその家族に対して医師はただひたすら病状や治療の説明を続けてきた。子供専門の病院は、大人の病院と違って、込み入った診察や検査、痛みを伴う処置などが少ない。検査のために移動することが少ない子供専門病院では、遊園地のアトラクションさながらに、診察待ちの家族が廊下に溢れ返るのである。おまけに患児は少々の疾病を患っていても、驚くほど元気で陽気で馬鹿げているくらい子供染みている。廊下で走り回ったり物を投げたりして受付スタッフや守衛さんからしつこく注意を受けているような患児が診察室で大人しく話を聞いているはずはなく、手術の傷痕だらけの小さな手で担当医の白衣のポケットから抜き取られたPHSは、度々患児を大人しくさせる重要なアイテムになる。この逞しさが、独身で身近に子供を感じたことのない二十七才の顕也には、純粋に爽快であった。最近では、それこそが非効率的な前近代的システムの中でがむしゃらに働くことができる唯一確かなモチベーションなのかもしれない、とまで感じ始めていた。
しかし、夏冬を問わず夜八時には外来の空調がストップしたり、勤務時間に関係なく院内にいれば頼まれた仕事を受けることが当たり前だったりすると、やはりストレスは溜まってしまう。そのうち後輩が増えればこんなストレスも減るだろうから今はただ正真正銘の医療現場の最前線を楽しむようにしよう、こんな電話のときに顕也はいつもそう考えるようにしていた。階段を駆け上がる顕也の足音が四階に吸い込まれていく。
誰もいなくなって静まり返った外来のデスクの上には、電源が切られた顕也のPHSが残された。その横に、記入途中の診断書がある。患者は十八才女性、診断名の欄には「左口唇口蓋裂」、入院までの経過の欄には「三カ月、口唇形成術。一才五カ月、口蓋形成術。七才、顎裂部骨移植術。今回は鼻変形修正術を施行予定となった。」と手書きで書き殴られている。入院後の経過の欄以降はまだ白紙で、カルテをペラペラと捲って外来通院の日数を数えて記入するという、恐ろしく原始的で手間のかかる作業に取りかかろうという時にこの電話が鳴ったのであった。
四階東病棟もすでに静まり返っていた。他の診療科で今日手術を受けた子の両親であろうか。自分と同じような年齢の両親と廊下ですれ違っただけである。物心付くような年齢に達した子供たちは、外来での様子とは打って変わって、入院してみれば例外なく手術や処置の後の痛みなどに耐える仲間への気遣いを見せるようになる。話声がうるさく続くようなこともなければ、イヤホンを使ってテレビやゲームの画面に集中する子供たちの目線がいちいち廊下を歩く顕也を追うこともない。大人の患者よりも余程聞き分けがよい。
顕也は、まずナースステーションに顔を出す。電話の主の丸山さんは、顕也に一瞥もくれずに熱心に後輩看護師を指導している。ウエストがもっとも細く見えるように調整された腰のベルトと若干丈を詰めて膝上まで短くなったワンピースの白衣に派手な飾り付きのシニヨンという後ろ姿だけで、年季の入り方は歴然である。病院が配給する膝下までの中途半端な丈に仕立てられた白衣姿の新米看護師の小谷さんが、直立不動で看護記録の書き方についてのありがたいお言葉に相槌を繰り返していた。目線を逸らすのにも勇気がいるような状況に置かれた彼女がコンマ一秒ほど自分の方をちらりと見たのを透かさず察知した丸山さんが、自分の方に振り返って言う。
「彩乃ちゃん、見てきたの?」
顕也は咄嗟にしまったと思った。
「今から見てきます。」
「ここに来ても仕方がないと思いますけど。電話で言ったとおりで経管栄養を嫌がってるんだから、今から残りの分も落とす必要があるんだったら、ちゃんと説明してあげて下さいね。」
百パーセント彼女の言うとおりであることを、頭では理解できた。外来と手術にほとんどの業務時間を割かれてしまう自分たちよりも圧倒的に患者に近い彼女たちに、今の自分が何か意見を述べる権利などあるだろうか? 手術を手伝って技術的に病状を改善しているとはいえ、手術を受ける患児やその家族に心から寄り添っているとは到底言えない。病棟に張り付いて子供たちの世話をしたり家族の相談に乗ったりしている彼女たちが、自分たち医師よりずっと子供たちに近い場所にいることは間違いなかった。そんな仕事を二十年近く続けてきた丸山さんに、大学卒後二年ちょっとの自分が何か言えば言うほど、また見下されてしまうに違いない。しかし顕也は、目線をくれた小谷さんの勇気にどうしても敬意を払いたかったのである。
「今日一日に投与した経管栄養の量と、朝からの尿量を教えてもらえますか?」
「朝と昼の分は全部落とし切れて、夕方の分はまだ半分以上残ってる感じかな。おしっこは、ふつうに出てるって言ってました。」
的確な患者の把握も、正直なところ脱帽ものである。看護師三人の準夜勤で三十人以上の患者を相手にしながら、さっき手術が終わったばかりの他の科の患児から、自分で経管栄養のコックを捻って滴下をストップしてしまう問題児にも対応しているのである。しかし、顕也にもプライドがあった。新人の小谷さんが自分のことを丸山さんに頭が上がらない若い新米医師というイメージをもってしまうことは、何とかして避けたかった。
「ふつうに出てるって言っても尿量がわからないと判断が難しいので、検温表を見せてもらっていいですか?」
顕也が尿量と言った瞬間に勝敗が決まった。
「尿量なんて見てるの、術後一日だけよ。形成外科で手術する子たちはみんなそう。先生たちが毎日自分で出してる指示よ。そんなこともわかってないんだったら、毎回最初から指示に入れないでくれる? 子供たちって尿器にうまく出せなくて、チェックするのけっこう大変なんだから!」
顕也が自滅したのが明らかだったので、逆に丸山さんは優しくなった。
「じゃあ、行くわよ、先生。何言うかわかんないから、私が付いてってあげる。小谷さん、さっき言ったのわかった? ちょっと行ってくるから、書き直しててね。」
照れ笑いするしかない状況になった顕也を気遣ってクスクスと笑う小谷さんの優しい眼差しから、丸山さんがただ怖いだけではなく頼りになる世話焼きの先輩看護師として尊敬されている一面があることを、顕也はその時初めて知った。
顕也は、丸山さんと肩を並べて彩乃の部屋に向かう。確かに自分はまだまだペーペーで、当直帯の時間に電話をしないでほしいなどと言っている場合ではないのかもしれない。丸山さんがどんな思いで新米の自分にこの用件で電話したのか知る由もなかったが、自分の成長を願ってくれているような気もしてきた。どんなに偉い教授たちだって、きっとこんな新米時代があったに違いない。
「すみません。彩乃ちゃんのこと、あんまり見てなくて。」
顕也が素直に謝る。
「そうね。今日は添い寝でもしてあげて。」
冗談にしては語気が強く、かといって怒るようでもなく丸山さんが言い放つ。彩乃の部屋では、他の三人の子供たちは案の定ゲームに夢中になっていた。
彩乃は、間仕切りカーテンを閉めた窓際のベッドに腰掛けて、静かに泣いていた。その静かな節度のある泣き方が、とても六才とは思えなかった。彼女が嫌だと言うならよほど嫌に違いないと確信するのに余りある六才であった。丸山さんが、腰を低く屈めてそっと声をかける。
「彩乃ちゃん、先生が来たよ。お鼻の管は大事だから勝手に触らないでね。ママに怒られて泣いてるんだよね。」
彩乃の母親は、窓を背にして腕を組んで仁王立ちしていた。顕也と同じか少し年上くらいであろうか。スラリとした体形とくっきりした目鼻立ちが印象的である。不謹慎にも、外来で初めて見かけた時から、顕也の頭には美人の母親をもつ口唇裂の川原彩乃とインプットされていた。しかし、今はこの美人の剣幕が、大層迫力があってそれどころではない。
「おメエがやるって言ったからやってもらった手術だろぉ? ふざけるんじゃないよ。がんばんなくてどうすんだよ。」
彩乃のことを引っ叩きそうな母親の形相に怯んで呆然と突っ立っている顕也と対照的に、ベッド脇に腰を落とした丸山さんは彩乃の手をしっかり握ってただ微笑んでいた。
「先生に聞いてごらん。『晩ごはん食べなくてもいい?』って。」
晩ごはんという丸山さんの意外な言葉に、母親の目線が点滴棒に吊り下げられた栄養剤の袋に移る。怒りの表情が消えた母と黙って俯く娘に、丸山さんの誘導に従った顕也が自然に尋ねた。
「彩乃ちゃんは、ふだん食べ物は何が好きなの?」
外来で見たクールな美人に戻った母親が答える。
「お魚だね。ふだんから食は細い方で、お肉とかはあんまり食べないかな。」
「じゃあ、お腹いっぱいかもね。ふだんみたいに昼間たくさん体を動かすわけじゃないし、残りの分は止めておきましょう。お母さんのいうとおり、ごはんの量ってみんな違いますから。年齢だけで決められた一定の量を一律に落とすのは、おかしいといえばおかしいんですよ。栄養が不足したら手術の傷の治りは悪くなってしまうかもしれませんが、無理に投与して嘔吐でもしたら口の中の傷が汚くなってしまうから、それはそれでよくないです。」
顕也がプロトコールを無視して経管栄養を中止する正当性を母親に説明し、本人にも優しく声をかけた。
「彩乃ちゃん、大丈夫だよ。今日はもうやんないから。」
泣き腫らした目で顕也を軽く見上げた彩乃が横に佇む母親に目配せして微笑んだのを見て、顕也は少し誇らしい気持ちになった。自分の適切な判断とその説明がこの母娘の窮地を救ったことが、ただ純粋に嬉しかった。
しかし、なぜか丸山さんは不満げであった。
「朝の分からあんなに頑張ってたのに、そんなに簡単に中止にしてもいいようなものだったら、いつもどんな具合か聞いて最初から調節してあげてもいいんじゃない? 傷を治すために必要だってことは彩乃ちゃんが一番よくわかってるんだから、これで傷が治らなかったら彩乃ちゃんはもっとつらいよね。」
せっかく丸く収まりそうなところにそれはないんじゃないの、と思いながら、母娘の前ということもあって顕也が緩やかに反論する。
「でも、受け入れられないものは受け入れられないんだから、できる限りベストを尽くすってことしかないと思いますよ。今はもう限界みたいだから、明日また様子をみて頑張ってもらいましょう。」
患者には優しい丸山さんが見せる主治医への厳しい姿勢を呆然と見守る母娘を前に、彼女は尚も顕也の仕事の杜撰さを追及し続けた。
「ちゃんと中止理由をカルテに書いておいてくださいね。指示も書いてください。」
「いいですよ。自分が責任をとるから、とにかく今日は中止にしてください。」
立ち去ろうとする丸山さんの背中に向かって発することになってしまった感情的な顕也の一言は、母娘と顕也の間に少し険悪なムードを引き出した。幸い、この美人で口数の少ない母親の表情に怒りは感じ取れなかったが、明らかに自分が何かを話さないとこの場を立ち去ることが許されない状況になった。
「すみません。自分がもう少し彩乃ちゃんの具合を伺うようにするべきでした。とにかく今日は中止で大丈夫ですから、心配しなくて大丈夫です。」
自分でもびっくりするぐらい、顕也はこの二人に丁寧に頭を下げた。
「わかりました。」
母親の無機的な返事と消灯が重なった。枕元のライトが逆光になって、顕也から母娘の表情はよく見えなかった。




