9恐怖
イオに別れの挨拶を済ませ廊下へと出る。
チャイムが鳴る前に学校から離れなければ。
長くて静かな廊下を駆け足で進んでいると、背後から男の先生の声。
呆れたような声色で「廊下を走るな」と言われてしまった。
ちらりと先生を見て「すみませーん」と愛想笑いを浮かべた後、少し速度を緩めた。だが、立ち止まることはしない。
――やっとの思いで到着した自分の部屋。
念のため鍵をかけて、今朝引き出しにしまいこんだネックレスを首にかける。
レンに見つからずなんとか情報を手に入れた。
今日は始まったばかりだ。レンは一限終わるたびに帰ってはこないはず。まだ一限すら終わっていないのだから、大丈夫だろう。
お昼はいつも帰ってきて、買ってきた弁当を食べるが、それだけだ。
……? いつ弁当なんて食べた?
"いつも"なんて言ったが、私はまだここに来て間もないはず。
死に戻る前に、私が経験した記憶だろうか。
「私もせめて記憶を保てたらよかったのに。そうすれば、レンが隠していることもきっとわかっただろうし……何より、彼の力になれたかもしれないのに」
レンのレポートと、山羊にもらったレポートをテーブルに広げ、私はため息を吐いた。
「元の世界に帰った方がいいよね。そもそもこの世界から、拒まれてるみたいだし」
レンの書いた『異世界との繋ぎ方』と私と同じ世界の人が書いただろう『元の世界に帰る方法』を並べて置き、中身も開かずじっと眺めた。
「せめて、誰がなんのために私を呼んだのかは知りたいけど……調べるとなると、死んじゃうかもしれないしなぁ」
あまり動いていないのに、なんだか疲れてしまった。ベッドへと寝転がり、うとうと。
きっとレンがお昼を食べに帰ってくる頃には目が覚めるだろう。
私はそう思い眠気に抗うことなく瞼を閉じたのだった――
「ハヅキ。ハヅキ、起きて」
「うわあ!」
すぐ側で推しの優しくて心地の良い声が聞こえてきて、私は思わず飛び起きた。
ベッドの側にはレンが微笑んでおり、片手には私が今日もらってきたレポートを抱えていた。
その瞬間、私の全身から血の気が失せた。
「ハヅキのこと、信用して自由にさせてたんだけど……あまり自由にさせたらよくないのかな?」
私が約束を破り学校に行っていたことももちろんだが、レポートの内容が内容なだけ、言葉を失ってしまう。
いつもなら部屋に入って来ないのに、どうして今日に限って――?
「ハヅキは、帰りたいのかい?」
今はただ、レンの顔を見るのが怖い。
怒っているのか、悲しんでいるのか、自身の心音のせいで感情の起伏がわからなかった。
私は俯いたまま言う。
「……ここにいたい気持ちはあります」
私の素直な気持ちはそうだ。だが、同時に思うことがある。
この世界に拒まれているのなら、帰った方がいいのではないか、と。
「でも――」
「じゃあこれはいらないね」
私が続けて言葉を発する前に、レンは安堵した声色を発し、目の前でレポートをすべて燃やしてしまった。
紙束は一瞬で燃え尽き、灰になった。それをレンは握り、灰さえも消してしまった。
「レンさん!? なんで」
あまりにも唐突のことで理解が追いつかない。
レポートには元の世界に帰る方法以外にもあったというのに……。
やっぱりレンは私に何かを隠している。うっすらと嫌な予感は浮かび上がるが、私はどうも認めたくないようだ。
「いらないから消しただけだよ。……大丈夫、君が知りたいと言うなら、僕が口頭で説明してあげるから」
目を細める表情に病みの片鱗を感じ、私は背筋が寒くなった。ヒロインに向けられている時は感じなかった感覚だ。
実際に自身に向けられると、こんな感じなのかと変に正気を保っている。恐怖はしているのだけれど。
でも、本当に私が好きなのか? 記憶がないだけで、一度でも私に好意を寄せる瞬間がレンに訪れていたのか?
どうも実感が湧かず、夢の中なのではと錯覚してしまう。
「これは夢?」
不意に出た言葉。レンは目を見開いたが、笑顔を作り頷く。
「そうだね。これは夢だ。だから……もう一度ゆっくりおやすみ」
レンの大きな手が私の目を覆う。その瞬間、全身の力が抜けるように気絶したのだった。
◇
九月二十六日
衝撃的な夢を見ていたのだろうか、私の心臓は早鐘を打っていた。
だが、どのような夢を見ていたのか、覚えていない。覚えているのは、ただ恐怖だけ。
夢だと分かっているのに、なぜか全身が硬直してしまう。安心していいのか、怖がるべきなのか、自分でも判断がつかない。
そんな私の心とは真逆で、陽の光が心地よく、隣では耳触りの良いトントンと机を指で叩く音やページをめくる音がする。
目が覚めてすぐに視界に入ったのは、大きな本を読んでいたイオ。
「おはよう。大丈夫か?」
私の顔を覗き込み、じっと見つめてきた。私は何をしていたんだっけ。
靄がかかっているようで、過去を思い出せない。図書室にいつ来たのか、いつイオと知り合ったのかも覚えていない。
「なあ」
イオは言いにくそうに顔を歪め、私から視線を外した。
ゲームでのイオはいつもまっすぐで、言いたいことは臆さず言うタイプだった。
そんなイオが躊躇う内容なんて、告白か誰かを否定する時くらいだろう。
「……レンはやめて、俺にしないか?」
今告白するところだった? と動揺しつつイオを見た。
それに甘い感情がないことは、すぐにわかった。
顔は赤くなるどころか青い。何かに恐怖しているその瞳は、私を想ってのことであることは理解できた。
だが、なぜイオからそのようなセリフが浮かび上がってきたのか、私にはわからない。
「……唐突ですね」
イオの哀れみや同情のような表情に、私はただ疑問だけが浮かんだ。
イオは目を伏し目がちに言葉を紡ぐ。
「俺さ、断片的だけどレンが何をしているのか知ってる。ハヅキちゃんをこの世界に呼んだのが誰かも知って――」
その瞬間ネックレスが光を放った。その光にイオは「あっ」と声を漏らしたかと思えば咽せ、息遣いを荒くした。
「イオさん! ……大丈夫ですか?」
唐突のことでわからなかったが、ネックレスの力だろうか。すでに光は消えており、何事もなかったかのように私の胸元あたりで揺れるだけ。
「悪い。俺と会う時はそれ、つけて来ないでほしい」
ネックレスを指差して、まだ息苦しそうな声でイオは言う。
「でもこれ、レンさんに肌身離さずつけてほしいって言われてて……それで」
「お願い。……聞いてくれたら、俺の知ってることは全部話せるはずだから」
その言葉に、私は思わず頷いてしまった。
察しはついているのに、確証が欲しかったのかもしれない。




