11逃走
次の授業が始まるからとイオは図書室を出て行った。
私もそろそろ部屋に戻ろう。レンの名義で、小説を数冊借りた。
恋愛だったり、この世界の現代ラブコメだったりを。
校門を出て、レンと私だけの寮へ向かう。グラウンドを横切ると、その先に薄暗い森が広がっていた。木々の間から差し込む光は弱く、風が葉を揺らす音だけが耳に届く。
寮に到着して、1つのランプを灯す。そうすると全ての部屋のランプに火が灯る。
面白い仕様だ。
静かなリビングで水を飲みながら、ふと先ほどイオに話してもらった内容が頭をよぎった。
「イオが嘘をつくとは思えないし、本当にレンが私をこの世界に連れてきたのかな」
好きだという言葉をかけられたことはない。あからさまに束縛する様子もない。
レンは好きになったらそれらをすべて表に出し、独りにしないでとすがるタイプだ。それがない時点で脈なしだと思うのは、的外れだったのだろうか。
「ゲームの設定と違うこともあるのかな」
コップを洗い、水切りラックへと置いて振り向くと、私の目の前にレンが立っていた。
「えっ、な、なんで、いるんですか……?」
授業を受けているはずの時間。それなのにレンがいる。
水を扱っていたせいで冷たい私の手を、両手で包み込みじっと見つめるレン。
「イオと会ってたの?」
低く響く声が鼓膜を揺らす。心音がうるさくて、でもそれは、ときめきではなく恐怖だった。
レンは一体どこから聞いていたのだろう。言葉を間違えたら、どうなってしまうのだろう。
「図書室に、本を借りに行った時、偶然……偶然会ったんです」
「じゃあ、なんでネックレスを外して行ったの? イオと密会としか考えられないよね?」
包み込まれた両手に力が入る。レンの手は暖かいはずだが、私の手は恐怖で冷え切っていた。
「……不安にさせたのなら、ごめんなさい。でも――」
「言い訳はいらない。過去の君が僕のこの重い気持ちに耐えられなくなったから、我慢してた。けど……」
レンは苦しそうに何度も呼吸を繰り返し、杖を取り出した。
杖から黒いモヤが立ち上り、空気が針で刺されたように冷たくなる。
その瞬間、私は引き摺り込まれた時と同じ、底知れぬ不安を思い出した。
「ハヅキが裏切るのなら、俺を押さえ込む必要もない」
レンの左手の指節に、薄く白い瘢痕が幾つも刻まれているのが、ふと目に入った。
詠唱を始めるために杖を掲げた――それが始まる前に、体が勝手に動いていた。
「ごめんなさい、レンさん!」
私は叫びながら、傍から抜け出す。
呪文の言葉は風に消え、レンの瞳はいつもより赤く光ったように見えた。
私は寮を飛び出し、ひたすら前へ走る。
どこに行けばいいのか、わからない。
グラウンドを抜け、森へと足を踏み入れた。
木々が空を覆い、光はほとんど届かない。葉のざわめき、かすかな風の匂い。
静寂が、私の心をさらに沈ませる。
走り疲れ、私は木に背中を預け座り込む。
「私は、ヒロインとレンの恋愛を見るのが好きだったのかな」
それなら納得するかもしれない。本当にそうだったのであれば、ヤンデレを受け入れる覚悟がなくても不思議はない。
――その時、ふと走馬灯のように浮かぶ、私が危険な目に遭っていた時の過去。
何度も生死を彷徨うような体験をし、"世界に拒まれている"と泣いていた時。
レンは私の姿を見て、そっと耳元で「大丈夫」と囁いた記憶だった。
他にも私を気遣う言葉の数々。
記憶が消されているのだから、覚えていないのは当然。
だが、それらを忘れていることに、罪悪感を覚えた。
私は深呼吸をして、両手で頬を叩いた。
「ハヅキ、本当にこのまま逃げちゃっていいの?」
レンはいつも独りでいたが、別に孤独が好きなわけではない。
自分だけを見てくれる存在を探し続け、一途に愛するタイプ。だからこそ一途に自分を見てくれたヒロインに恋をする。
どれだけメインヒーローたちを攻略していても、レンの言葉に耳を傾け丁寧に"正解"の言葉をかけてやっと結ばれる存在――。
「……やっぱり帰ろう」
逃げる瞬間に見た、レンの絶望を顔を思い出して私は立ち上がる。
汗で冷えた体をさすりながら、森を抜けようと歩き出す。
私は最悪な人間だ。一時的な感情で推しを傷つけてしまった。
私は乙女ゲームをプレイしている最中、「ヒロインは勝手な行動をするな」「推しの邪魔をするな、迷惑をかけるな」と、よく思っていた。
だが、今私がやっていることは、まさにそれとリンクしてしまっている。
もし私がキャラクターとして操作される側だったら、きっと今頃、同じ言葉をかけられていたことだろう。
「なんて言おう。自分勝手でごめん? 驚いて逃げちゃった?」
いい言葉は見つからず、ただ歩く。
いつの間にか道を見失い、森の奥深くに迷い込んでいた。
大きくため息を吐き、その場に座り込む。見上げると厚い雲に覆われ、すぐにでも雨が降りそうだった。
憂鬱な気持ちが、静かに全身を包む。
――ポツポツと降ってくる雨。木々は密集しているくせに、的確に私に雨を降らせてきている気がしてならない。それだけ今は何に対しても敏感になっている。
ネックレスがあればレンは私を探してくれただろうか。それとも逃げてネックレスさえもつけていない私をこのまま見放すだろうか。
でもレンなら、あの場で私のこと想って、気に病んでいるかもしれない。
……なんて、ちょっと自意識過剰だろうか。
「まだ会うのはちょっと怖いなぁ」
震える手を握り、レンの表情や声を思い出す。ぞわぞわとする恐怖に、私は本格的に降り出した雨のせいにした。
鬱陶しく顔に張り付く髪をかきあげて、視界の悪い雨の中を歩いた。
次第に重くなっていく制服、眠く重くなる瞼。
「いっそ、ここで私が死んで何もかも忘れてしまえば、いいのかな」
私は力無く生い茂った雑草に倒れ込む。このまま寝てしまおう。体の力を抜いて、瞼を閉じて。
意識がぼやける直前、どこか遠くで、嗚咽にも似た詠唱の断片が聞こえてきた。
それは聞き覚えがあるような、しかし決して私のものではない声だった。