第二話 「黒き書」 第四幕
カイリ=ドール教師から生徒達に一冊ずつ渡された黒い本には魔術による錠が施されていた。よくよく見れば魔力を編み上げて作られた術式が確認出来るのだが、一見してそれと分からないような創りになっている。細く細く縒り上げられた魔力が様々な属性を帯び、緻密で複雑な文様を描いていた。リーユン=ルルディヴァイサーは知り得る限りの解術を試してみたが、どれも手応えすら無く、空しく消えていく。やはり広く一般的に普及している既存の術式ではなく、オリジナルの施錠魔術であるらしい。
「うーん」
リーユンは小さく唸って、眼前に近付けて眺めていた黒い本を机の上へ戻した。空けた両手を頭上へ持ち上げ、椅子の背凭れに寄り掛かる様にして大きく伸びをし、そのままの姿勢で視線だけ横へ流して寝心地の良いベッドを占領している人物をジトーッと胡乱な眼差しで眺めた。当の本人は見られている等と思わずに、いや、見られていてもきっと気にはしないのだろうが、水色の尻尾をゆらゆらと一定のリズムで揺らしながら黒い本を枕にしてだれている。
「ルゥ、どうして僕の部屋でくつろいでるの」
リーユンの呆れた声音に反応し、小竜族のクゥ=ラ=ルゥはまるで小動物のような俊敏さでガバッと上体を起こし、キラキラと期待に輝く眼差しでリーユンを見つめる。余程暇だったらしい。リーユンは呆れて小さく溜息を吐くと、持ち上げていた腕を下ろして椅子から立ち上がり、ベッドへ向かう。ベッドの傍らに辿り着けばクルリと後ろを向いて縁に腰を下ろし、リーユンが小さく振動するマットの感触を受け止めて居る僅かな間に、ルゥもリーユンの隣に移動して改めて彼の顔を覗き込む。
「で、何かわかったか?」
ルゥの期待に満ちた双眸と声音とに、リーユンは先程よりも大き目の吐息を零すと額に手の平を当てて隣に座るルゥを視界に収める。
「人に聞いてたら、課題にも競争にもならないと思うんだけど」
「こんなの元々俺に不利じゃねぇか。ヒントくらい教えてくれても罰は当たらねぇと思うぞ。なぁなぁリーユン、良いだろそんくらいー」
ルゥは幼い容姿に似つかわしい仕草と口調でリーユンの服の袖を掴んでぐいぐいと引っ張る。小さな子供のお強請りを無碍にも出来ず、リーユンは「仕方がないなぁ」と吐息混じりに呟いて、つい先刻までルゥの枕になっていた黒い本を手に取った。
「うん、やっぱり僕の本とは違った魔術が掛けられてるね。ほら、よく見て。この術式、所々不自然に欠けてる所がある」
リーユンは黒い本の表紙をルゥの眼前へ差し出し、逆の手で該当箇所を指差しながら説明する。
「おお、言われて見ればそうだな」
ジッと術式を追っていたルゥが納得したのを確認すると、リーユンは本をルゥへ返却しながら話を続けた。
「多分だけど、皆がそれぞれ苦手だと思う事が鍵になってるんじゃないかなぁ」
「苦手っつーと、俺は水属性の魔術だな。あれ、でもこの本、水属性の魔術が使われてねぇぞ? う――ん」
「そう、ルゥは水が苦手だよね、だから、水属性が使われてないのには意味があると思うんだ」
ルゥはリーユンの言葉を聞きながら、黒い本を眼前に近付けて隅々までじっくりと観察し始めた。僅かな糸口を見付けた途端、真剣に取り組み始めたルゥの様子が可愛らしくて、リーユンはふと表情を和らげて笑みを浮かべ、ルゥの邪魔にならない様に静かに机へ戻った。リーユンも机上に投げ出していた黒い本の解術に再び取り組もうとして、やわらかいクッションの椅子に腰掛ける。
リーユンに手渡された黒い本はルゥの物とは逆にびっしりと術式に覆われている。通常、解術と言うと魔力で描かれた術式の綻びや合わせ目を見付け、其処から式を逆に編んでいく感覚で魔術を無効化していくのだが、この施錠魔術はそう言った繋ぎ目や隙間、綻びが一切見当たらなかった。一見して、かなり高レベルの魔術師が術を施したのだろうと解る。
「これ、カイリ先生が掛けたのかな」
暫くあれこれと調べてみるが、やはり取っ掛かりになる様な場所が見付からない。試しに無理矢理こじ開けようと力任せに魔力を術式に流し込んでもみたが、綻ぶどころか歪みすらせず、面白いくらいに手応えが無い。がちがちに編み込まれた術式はビクともせず、緻密で美しい模様を描き続けている。
「わかったあっ!!」
術式の解読に集中しきっていたリーユンは、突然のルゥの叫び声に驚いて振り返る。
「リーユン、俺わかったぞ! パズルだ、パズル。欠けた部分に水を補ってやりゃいいんだ!」
ルゥは正解らしきに辿り着けた事で興奮も露わに早口で捲くし立てると、ベッドから飛び降りて早速術式を編み始めた。
「え、ちょっと、ルゥッ!?」
リーユンは自室で魔術を使用されては困ると慌てて止めようとしたのだが、ルゥの作り上げた術式を見て、術に介入してまで発動を阻止する危険を冒すまでも無いと、傍観する事にした。速さだけは一人前のかなり大雑把な術式は式として成り立つには不完全で、案の定魔術は発動せず、何の反応も示さない。リーユンは心底ホッとした後、やや厳しい顔つきでルゥに詰め寄った。
「ルゥ、所構わず魔術を乱用しちゃだめだよ。ちょっとしたミスでも魔術は失敗するんだから、苦手な魔術なら尚更慎重に場所を考えて使わなくちゃ」
ルゥは不貞腐れた様なしかめっ面を作り、優等生らしい尤もな言葉を聞いていたが、リーユンの台詞が途切れた所でポツリと呟いた。
「でも、手応えはあったんだ」
「え?」
思わず聞き返してしまったリーユンだったが、ルゥの小さな呟きの意味を一瞬遅れてはっきりと理解した瞬間、本能的に身構えると同時、ザッバアァァァ―――ンと盛大な水音が室内を満たす。
「……………………………………………………」
リーユンは無言でがっくりと肩を落とし、頭を垂れて立ち尽くした。ぽたぽたと前髪から、衣服から、雫が零れ落ちて絨毯の上に滴り落ちるのを何となく眺めてみる。リーユンの前には彼と同じように全身ずぶ濡れとなったルゥが勢いよく頭部を左右に振って、犬猫の様に水を払いながら何やら喚いている。
「うっわ、最低! 何だよこれ、全身びしょ濡れじゃねぇかっ! しかもこの水生温いし……って、しょっぺぇ!! これ水じゃねぇや、海水だ! あー、何かそうわかると急にベタベタしてきた気がするぅ。なあ、リーユン、風呂借りて良いか?」
ただの水なら自然乾燥させる気満々だったルゥだが、塩まみれになるのは流石に頂けないと思ったか、リーユンに視線を転じて問い掛ける。その瞬間、ジッと床の一点を見つめて動かないリーユンの姿を捉え、ルゥは顔を引き攣らせて凍り付いた。
「あ……あの、リーユン?」
腰が引き気味になるルゥ。その場から逃げ出したくなるのを無理矢理堪えて、恐る恐るといった様子でリーユンに声を掛ける。ぼんやりと一点を見詰めていたリーユンはふっと顔を起こしてルゥを見ると、「あぁ……」と反応を示した。
「お風呂……お風呂ね。うん、どうぞ、自由に使ってくれて良いよ」
「お、おぅ。ありがと。あの、わざとじゃないんだ。マジで。反省してる。悪かった。謝る。今度から魔術使う時は気ぃ付けるから。うん。えと、じゃぁ、風呂、借りるな?」
どこか茫洋とした様子のリーユンに得体の知れない不安を覚え、ルゥはしどろもどろになりながら謝罪を繰り返して、そそくさと逃げる様にバスルームに飛び込んだ。
一人びしょ濡れの室内に取り残されたリーユンは大きく息を吸い込んでから、殊更ゆっくりと吐き出し、深呼吸をする事で少しだけ平静を取り戻す。落ち着いて自室を見回せば、ふかふかのベッドと絨毯、クッション、ドアの側に掛けてあった真紅のローブ、机の上に出してあったレポート類が駄目になってしまっているのが分かるが、普段から整理整頓をしていたのでその他には特に被害はなさそうだった。リーユンはもう一度だけ溜息を吐いて、水浸しになった机の上の書籍の中から黒い本を手に取った。表紙に残っていた塩水が流れ落ち、水を吸ってふやけたレポート用紙の上で弾ける。万国共通の常識として、書籍に水は厳禁である。今回の課題はリタイアせざるを得ないと思うと、リーユンは盛大に溜息を吐きたい心持ちになる。取り敢えずこのままにしておくのも忍びないので、クローゼットからタオルを取り出して黒い本を包み、丁寧に水分を取り除いていく。
「……あれ?」
黒い本から水気を綺麗に拭き取ると、タオルの中からは表紙も中のページもふやける事無く濡れる前と変わらない綺麗な姿が現れた。
「防水加工、かぁ」
今回の様なトラブルを見越していたのか、本一つに高度な技術を施すカイリ=ドール教師に呆れとも尊敬ともつかない溜息を零し、リーユンは改めて黒い本に見入る。先程まで手も足も出ない程に綺麗に編み上げられていた術式が、今は微かに綻んでいる。
(これって、もしかして……?)
リーユンは一つの結論を導き出すと、急いでバスルームに駆け込んだ。洗面台の排水溝へ栓をし、蛇口を目一杯捻って勢い良く水を飛び出させ、洗面台に透明な液体が満ちていくのを黙って待つ。そのリーユンの様子をシャワーを使っていたルゥが、カーテンを少し開いて窺っていた。ルゥはリーユンが怒っている訳ではない事を知ると、少し躊躇いつつも好奇心に負けて声を掛ける。
「リーユン、何やってんだ?」
リーユンは視線を伏せて洗面台を見下ろし、水が溜まった事を確認して蛇口を締めながら言葉のみを返す。
「分かったんだ、解術の方法が。……見てて」
そう言うとリーユンは洗面台の中で揺ら揺らと波打つ水に、黒い本を静かに浸した。ルゥも身を乗り出し、興味津々の態で洗面台を覗き込む。水の中で黒い本の影が揺れ動くのを暫く眺めていると、徐々に黒い装丁が青い光を帯びていき、やがて光が最大にまで満ちたのだろう、パンッと軽やかな音を立てて術式が弾けた。
「おお!?」
ルゥが驚きの声を上げるのを聞きながら、リーユンは水の中に沈む黒い本を注視する。本は何事も無かったかの様に元の黒い装丁のまま、澄んだ真水の中に沈んで涼しげに揺らいでいる。リーユンはそっと黒い本を水の中から取り出すと、手早くタオルで拭って施錠の魔術を確認した。
「なあ、早く開けてみろよ」
ルゥがじれったそうに声を掛けるが、リーユンはゆっくりと首を左右へ振って本を開こうとはしなかった。怪訝そうな表情を浮かべるルゥに視線を移し、手にした本を示してリーユンが答える。
「僕に渡された本は魔術が何重にも掛けられているみたい」
「げえ、めんどくせぇ」
ルゥが心底嫌そうな顔でぼやき、我が物顔でリーユンのバスタオルを拝借し、大雑把に身体を拭いた。そのままバスタオルを頭から被ってすっぽりと身体を包み込む。
「んじゃ、着替えてから先生に部屋の事伝えて来る。その間にリーユンもシャワー浴びといた方がいいぞ」
「うん、そうさせてもらうよ。でも、ちょっと待って」
リーユンは黒い本を洗面台備え付けの棚に置くと、盛大に水を滴らせているルゥの髪の毛を拭きにかかる。
「いいよ、別に。ちょっとくらい濡れててもへーきだって」
「駄目だよ。ちょっとどころか、全然拭けてなかったし、風邪引いちゃうよ」
「むう」
リーユンの部屋びしょ濡れ事件の事もあってあまり逆らうのもまずいと思ったのか、ルゥは大人しくリーユンに頭部を差し出し、髪を拭いてもらう事にする。時々角にタオルが引っ掛かって拭きにくそうにしながらも何とか拭き終えると、リーユンはルゥの肩にバスタオルを掛ける。これでよしと視線を起こした先、薄水色の髪の中から覗く二本の角が視界に飛び込み、リーユンは思わず惚けた様子でルゥの頭部に視線を奪われる。
「……」
ルゥが視線に気付いてリーユンを見上げ、その動きで角が僅かに遠ざかり、リーユンは我に返って視線を黄金色の双眸へ落とす。
「あ、ごめん。間近で竜族の角を見たのなんて初めてで、つい」
「……リーユンにだったら幾らでも見せてやるよ」
リーユンの率直な謝罪の言葉を受け、ルゥはニッと笑って言葉を返し、素早い動きで踵を返してバスルームを出て行く。
「じゃ、先生に言っとくから」
「うん、よろしく」
元気良く去って行くルゥの背を見送りながら、リーユンは先程のルゥの態度を思い出していた。自分を見上げた時に見せたルゥらしからぬ冷めた眼差しと表情。
「ルゥに嫌な思いさせちゃったな」
きっと今までに何度も興味本位の不躾な視線を浴びせられて来たのだろう。人里では滅多に見かける事の無い珍しい小竜族だと分かっていたのだから、もう少し気を付けて接して然るべきだった。ルゥは直ぐにいつも通りの笑顔を見せてくれたけれど、
「次から気を付けよう」
リーユンは声に出して自分を戒めると、ルゥのアドバイスに従って何はともあれ海水を洗い流す事にした。ルゥが魔術を失敗したおかげで黒い本の解術の方向性も分かった事だし、水浸しの部屋に関してはカイリ先生が取り計らってくれるだろうし、当面リーユンがすべき事と言ったら身なりを整えて担任なり清掃業者なりを迎える準備をする事しかない。つまり、入浴だ。冷たく濡れた衣服を脱ぎ、暖かなシャワーに打たれる時間はリーユンに与えられた数少ない穏やかな時間の一つだ。
リーユンは一日で数えるほどしかない安らぎの時に感謝しつつ、思う存分満喫した。