第二話 「黒き書」 第三幕
程なくして、コンコンと軽く扉を叩く音がケイの自室内に響き、部屋の主人は身体を沈めていたソファから立ち上がる。足音は絨毯に吸収されて殆ど何の物音も無いままに扉まで近付き、ケイは相手を確認せずに扉を開いた。誰何の声を掛けずとも、先程の騒音と大声とで誰が訪れるかは容易く想像出来たし、それが無くとも彼が部屋を訪れるだろう事は今までの経験上予想が出来ていた。そして、扉を開いた先には案の定、黒いローブを纏ったカイリ=ドールの長身が佇んでいる。
「お帰りになられたんですね」
早朝から所用で校舎を出ていた教師に対し、ケイは常であれば労いの響きを纏う台詞を、今回ばかりは抑揚の無い声音で紡ぎ出す。平静を装おうとしての硬い所作である事は長い付き合いであれば其れと知れ、カイリは右手を持ち上げて軽くケイの頭部を叩く。
「痛いです」
何もかもを見透かされていると解っては居ても、ケイは平気な振りで非難の声を紡ぎ、翠の双眸を呆れ顔のカイリへ真っ直ぐ注ぐ。カイリはケイの頑なな様子にこれ見よがしな溜息を零し、ケイの頭に乗せた手を僅かにずらして額に触れ、
「体温が上がってるぞ」
と、手指や掌に伝わる彼女の体温が通常よりも高い事を指摘する。
「平気です」
ケイは右足を引いてカイリの掌から逃れ、硬い声音で尚も自身の無事を訴える。空中に取り残された右手を所在無さ気に引き戻し、カイリはがしがしと自らの黒髪を掻き乱した。
「ケイ、火蜥蜴の影響を受けてるのは見りゃ解るんだ。精霊力を調整しないと身体が弱って行くだけだぞ」
「調整なら自分で出来ます」
「だが時間が掛かり過ぎる」
言い募るケイを、カイリはぴしゃりと切って捨てる。ケイは事実を指摘する教師の声に咄嗟に言い返すべき言葉が見付けられず、睨み付けるかの如く視線を強める。折れる様子は全く無い。カイリは落ち着いた黒い双眸を逸らさずにケイを見やって言葉を続けた。
「確かに、ルゥに怪我をさせたのはお前だ」
ケイは思わず眼差しを揺るがせ、そっと瞼を伏せてカイリの胸元へ視線を落とす。手加減が出来ずに内臓を損傷させてしまう程に蹴り付けた事など初めてで、ケイは激しい自責の念に駆られていたのだ。
「其処で責任を感じるのは良いんだがな。お前が苦しんだところで喜ぶのはちょっとアブナイ趣味の奴等だけ……」
全てを言い終えるよりも先、鋭く空を切る音がしてケイの右足踵がカイリの眼前に迫る。寸止めされた蹴りに言葉を止め、カイリは洒落にならんと乾いた笑いを発しながらケイを宥めに掛かる。
「あ~……ははは、……ま、まぁ、なんだ。上手くやれる奴がやった方が効率が良いだろう。そう言う訳だから大人しく治させろ」
双眸据わらせたままではあったが、ケイがゆっくりと足を下ろしたのを確認し、カイリはホッとした様子でケイに一歩近付いた。しかしあくまでケイは教師の手出しを拒み、カイリが近付いた分だけ背後に下がって距離を置く。
「誰にも気付かせなければ良いのでしょう? 自分で治します」
「あーそうですか。はいはい解った、解りました。好きにしろ」
ケイの頑なな態度にはカイリもお手上げの様子で、拗ねたとも呆れたとも取れる口調と態度とで右手を投げ遣りに左右に振る。ケイはカイリの仕草に少々ムッとしながらも、諦めてくれた事に安堵していた。
「食事は部屋へ運ぶようにタキに言っておくから、さっさとベッドに横になれ」
「……、…はい」
明らかに子供扱いされていると分かるカイリの言葉は癇に障るが、これ以上反発する方が余程子供っぽい気がして、ケイは大人しく言われるままにクローゼットへ向かう。戸を開いて薄手の寝間着を取り出し、体型の隠れる丈の長い上着を脱ぎ落とす。淡く薄青い色彩の布地が柔らかく揺らいでケイの腕に収まり、左腕に上衣を引っ掛けたまま、ケイは中に着ていた着衣に手を掛ける。そこで不意に背後を振り返り、突き刺さる様な冷めた眼差しで、未だ室内に佇む人物を見やった。
「何時まで其処に居るつもりですか」
声を掛けられたカイリは「え?」と一瞬驚いた表情を浮かべ、質問の意図に思い至って誤魔化す様な笑みを浮かべ、
「あ、いや、出て行くよ、うん。あははは」
と、わざとらしく笑いながらポンポンとケイの肩を叩き、一目散に部屋を出て行った。扉を開けて逃げるカイリを追う様にして、ケイの周囲で暴れていた火蜥蜴が離れて行くのが解る。ケイは思わず呆気に取られた様子で担任を見送り、「やられた」と悔しげな、諦めにも似た声音で呟いた。
その頃、娯楽室に一人取り残されたリーユンは少し温くなり始めた珈琲を一口含んでは溜息を吐く行為を繰り返していた。隔離教室担任カイリ=ドールはもちろんの事、其処に集う生徒達ですらリーユン=ルルディヴァイサーの理解の範疇を軽く超えている。新学期初日から生徒に無断で外出する教師。怪しげな魔法生物を創造しては愛でている少女。頼れる大人かと思えば怪我人を冷たく放置する男。全く捉え所の無いエルフ族の女性。やる事が万事滅茶苦茶な小竜族の少年。彼らを正しく理解するには一体どれ程の時間が掛かる事だろうか。いや、そもそも理解できる日など来るのだろうか。
リーユンは何度目かの溜息を吐いた。それから、自分を鼓舞する様に小さな声で呟く。
「キリ先生の期待に応えなくちゃ」
出来るのだろうかと結果を気にする暇があるなら、出来るように努力する。リーユンは中級教室在籍時の担任であるキリ=メイシャーの教えを心の中で繰り返し、「よし」と気合を入れて立ち上がると、使用した食器類を手に持って食堂へ移動した。手際よく珈琲カップやポットを洗って片付け、何時の間にかキッチンボードに貼り付けられているレシピに目を通す。メモの一番最初には使用する調理器具や食材、調味料が分量と共に書かれていて、まずはそれを一通り準備する。次にメニューを確認して出来上がりを予想すると、後はレシピに書かれている手順通りに動き、最後に味を見れば料理は完成である。
リーユンの几帳面な性格がよく表れた、丁寧に盛り付けられた料理。ダイニングテーブルへ運んで、普段皆が座る位置に合わせてそれぞれの料理を並べていく。
季節の野菜と新鮮な魚介類のサラダ。鶏肉を柔らかく煮込んだクリームシチュー。香草を添えた白身魚のムニエル。ケイ用には季節の野菜のシーザーサラダ。数種類の豆を使ったスープ。特製スパイスで程よく焼きあがった根菜のソテー。ルゥ用はと言うと、何とも形容し辛い料理ばかりなのだが、しいて説明しようとすると次の通りだ。ニガヨモギとマンドレイクっぽい茄子科の植物を混ぜ込んだハンバーグ。ペヨーテやセレウス・ペルビアヌス・モンストロサス、カランコエ等に似た数種類のサボテンらしき植物のシチュー。後は何だかよく分からないハート型をした穀物で作ったオムライスに煮詰めた蜂蜜を掛けた物。使用した調味料も匂いのきつい物が多く、食べる気を削ぐようなものばかりだった。
「……ルゥを理解出来る日は来るのかな」
そんな不安を胸に抱きつつ、リーユンが手際良くテーブルを飾り、最後にふっくらと焼き上がったパンをバスケットに入れて運ぶ頃には、クラスメイトと教師は各々定められた席に着いていた。その顔触れの中には先程娯楽室で見た苦しそうな顔とは打って変わった元気そうな様子のルゥの姿もあったので、リーユンは小竜族の治癒力の高さに目を丸くしつつも無事である事に深く安堵の吐息を零す。それと同時に小竜族の事をよく知りもしないのに偉そうにケイとユエを非難してしまった自分を情けなく思う気持ちも沸いて来て、少々複雑な面持ちを浮かべたまま静かに席に着く。しかしながらそんなリーユンの気持ちを知ってか知らずか、当の本人たちは全く気にした様子も無く、至って普段通りの態度だったのでリーユンはほんの少しだけ気が楽になった。
一つのテーブルを囲んで皆で手作りの料理を食べる行為、所謂食卓を囲むというこの風景も少しは見慣れてきた気のするリーユンだったが、やはり団欒めいた時間には未だ多少の気恥ずかしさが残る。自分が食事当番の時は尚更だ。リーユンは知らず知らずの内に、料理を口へ運ぼうとしていたカイリをジッと視線で追っていた。フォークに刺された瑞々しい香草と、温かな湯気を立てる白身魚とが今まさにカイリの口に放り込まれようとした刹那、食事の為に開かれていたその唇が動いた。
「いくら俺の唇が魅惑的だからといって、そんなに凝視するもんじゃないぞ?」
リーユンがぎょっとして視線を上げると、真っ直ぐにリーユンを見つめながら意地の悪い微笑を湛えるカイリと目が合い、リーユンの顔にさっと朱の色が滲む。
「……、…」
担任のあまりの発言に返す言葉も思い浮かばず絶句してしまったリーユンを、ルゥとユエがにやにやと笑いながら眺めている。その傍らでケイは黙々と食事を進め、タキは呆れ顔でからかわれたリーユンから意地悪な師へと視線を移し、
「食事が美味しいなら美味しいって、ちゃんと素直に言ったらどう?」
そう言ってタキはスプーンでホワイトシチューを掬い、口中で軟らかく解ける野菜を味わってから言葉を続けた。
「うん、美味しい。きっちりレシピ通りに作るのなんて、リーユンくらいよね」
「うんうん。俺、ユエが当番の時は安心して食えねぇもん」
ルゥが口の周りを良く判らない食べ物でベタベタに汚しながら、満面の笑みを浮かべて美味しそうに謎な料理を頬張っている。テーブルに点々とスープやタレが落ちていたりとかなり行儀が悪いのだが、あまりにも幸せそうに食べるので皆注意する気力が殺がれてしまうのだ。悪びれる事無く至福の一時と言った具合に食べ続けるルゥをじっと睨み付け、ユエが唸る様に問い質す。
「それはどういう意味だ」
「記憶に無い、とか言ったら怒るわよ?」
すかさずタキがルゥの援護に入る。
「ユエが食事に変な薬を盛った所為で、ケイがあんな事になっちゃったんじゃない」
「その話はもう止めて下さい」
一人会話に混ざらず食事に専念していたケイだったが、自分の話題となった所でガックリと項垂れて額に手を当てた。リーユンは眼前で繰り広げられる会話について行けずに、取り敢えず食事を取る事に意識を向ける。ケイの身に一体何が遭ったのかを訊ねてみたい衝動に駆られはしたが、ケイの様子を見る限りでは教えて貰えそうに無いだろうと思われた。
三人の言い合いは止まる所を知らず、ヒートアップして次々と信じられない話題が上る。タキが作成したカレーを食べる筈が逆にカレーに食べられそうになって大惨事だっただとか、ユエが作成したデザートを食べたら全身が甘ったるくなって虫やら動物やらに追い掛け回されただとか、ルゥの作成したロールキャベツを食べたら原因不明の高熱が続いて生死の狭間を彷徨っただとか……。リーユンは今の所、彼らの料理を口にして無事で済んでいる事を心の底から神に感謝した。
「ケイは勝手に肉を抜いたりするし、味付けが薄過ぎるし、て言うか調味料使ってないし、タキは調味料間違い分量間違い当たり前だし、たまに訳の判らない素材と合成して魔法生物出て来るし、ユエは全部大雑把で適当過ぎるし、何時一服盛られるかわかんねぇし」
ルゥが不満を一気に打ち撒けると、ユエが負けじと反論を入れる。
「ちょっと待て。ルゥは他人の事言えないだろう。俺達の食事にモンスターの肉とか毒草なんか入れるんじゃない」
「何でだよ。美味しいんだから良いじゃねぇか」
「美味しくない。硬い、臭い、えぐい!」
「んだとー!? やんのか、ユエ!」
「ほほぅ、俺様に喧嘩を売るとは良い度胸だねぇ。教育してやろうじゃないの」
視線を絡ませて火花を散らし、睨み合う事暫し。ルゥとユエの二人は物凄い勢いで食事を口の中へ掻き込み始めた。租借もおざなりに、ガツガツと音がしそうな勢いで食べ続ける二人にひたすら圧倒されるだけのリーユンだったが、カイリとケイ、タキの三人が落ち着いて食事を取り続けているのを確認すると、自分もそれに倣う事にした。先達の真似をする事がこの教室に慣れる一番の近道である。三人が慌てないと言う事は、きっと大した事にはならないのだろうと、リーユンは自分に言い聞かせる。
「ごちそうさま!」
ルゥとユエは同時にガチャンと食器を鳴らして勢い良く椅子から立ち上がると、競う様にして自分で使用した食器を重ねてキッチンへ運んで行く。その様子を終始楽しげに眺めながら食事をしていたカイリは、食器を片付け終わってキッチンから急ぎ食堂へ戻ってきた二人に声を掛けた。
「二人とも、どうやって決着をつけるつもりなんだ?」
「そんなの決まってんだろ?」
ルゥがカイリを振り返ってびしっと指を突き付ける。
「肉・弾・戦!」
「そんな野蛮な事はしない。カードゲームで勝負だ」
ルゥの高らかな宣言に、すかさずユエが訂正を入れた。ルゥは不服そうにユエを睨み上げ、ユエは余裕の笑みを浮かべてルゥを見下ろす。そんな教え子二人の遣り取りを、カイリは心底上機嫌な笑顔で眺めていて、カイリの異様に楽しそうな様子に気付いてしまったケイとタキはとてつもなく嫌な予感を感じてお互いに目配せをし合う。カイリがこんな風に嬉しそうな顔をする時は決まって良からぬ事を企んでいるのだと言う事を、ケイとタキは過去の経験から知っている。
睨み合いを続けていた男二人も、はた、とカイリの様子に気が付いた。引き攣った表情を浮かべながら自分を見つめてくる教え子達に、より一層、輝かしいばかりの笑顔を向けてカイリ=ドール教師が言う。
「決着をつけるのに、良い方法があるんだがな」
「な……何デスカ……?」
本心では聞きたくないのだが、聞かなければ聞かないで後が怖いという心境から、ユエが皆を代表して引き攣った表情のまま尋ねると、カイリはテーブルの上にドサリと五冊の本を放り出した。本はどれもしっかりとした黒い装丁で、タイトルも何も書かれてはいない。カイリは然程大きくは無いB5サイズ程度のその本を一冊手に取ると、軽く掌で弾ませたりして弄びながら教え子達の顔を殊更ゆっくりと見回す。
「どうせ競うなら五人でやれ。その方が絶対面白い。優勝者には俺からビッグなプレゼントも進呈しよう」
ルゥ、ユエ、タキはあからさまに嫌そうな顔をカイリへ向け、ケイは自分には無関係だと言わんばかりの無表情を作っている。リーユンはと言うと、唐突過ぎる展開について行けずに戸惑うしか出来ない。ルゥとユエの言い争いから何をどうすれば五人で競い合うという話になるのか、そもそもそんな事より今期の授業カリキュラムはどうなっているのか。止まる思考の中、カイリの言葉だけがあまりにも解り易くて容易に意識に浸透する。
「なぁに、ルールは簡単だ。この本を誰よりも早く読めば良い」
宙に放り投げた本を掌に受け止め、カイリ=ドールは口端を引き上げて邪悪に笑った。拒否の言葉は誰の口からも発されず、五人は何故か担任の思い付きらしい競技で競い合う事となったのである。