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魔術学院騒動記  作者: いさ
第五話 『森の民』
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第五話 「森の民」 第一幕

 ケイの身に起きる異変。途方に暮れる彼女の前に現れたのはケイの良く知る人物で……。

 気が付けばそこは深い森の中だった。深いとは言っても、生い茂る木々が広げた枝葉の向こうからは柔らかく温かな日差しが降り注ぎ、長い年月を掛けて落ち葉が降り積もって出来た腐葉土は優しく足を包み込む。可愛らしい鳥の鳴き声に、枝を渡る小動物や地を駆ける動物達。植物の精霊木人(ドライアード)が楽しげに歌を歌い、風の精霊風蟲(シルフ)が音楽に合わせて宙を舞う。

 平和その物であるその森が、人々からは『迷いの森』や『惑いの森』、『帰らずの森』と呼ばれている事を知ったのは随分後になってからだった。自分だけでなく、この森に住む民にとってはこの森が世界の全てだった。だから名称など必要なかったのだ、と。そんな事に気付いたのも森を出てからの話で、当時はゆっくりと流れる時間に身を任せ、大人達と同じ様に、ただ朽ちて行くだけの長く退屈な日々を過ごすのだと、漠然とそう考えていた。


 そう、あの日、あの男と出会うまでは。


 眩しい朝の光に目を眇め、ケイは寝台からゆっくりと起き上がる。窓硝子越しに注がれる日差しは温かく、すっかり青い風の季節も終わり、初夏の訪れを感じさせた。ケイは寝台の上に上体を起こした姿勢のまま、窓の外に見える新緑の木々を眺める。植物の精霊である木人が心地良さそうに日の光を浴びていた。ケイは寝台から降り、大きく窓を開け放ち、吹き込む爽やかな風を感じ取る。やはり、緑の薫が濃い。

「懐かしい夢を見たのは、この空気の所為でしょうか」

 小さな呟きを零し、ケイは夢の続きに思いを馳せる。

 無気力は長く生きる種族特有の心の病なのだろう。静かに、大きな喜びも深い悲しみも無く、気の合う者と、あるいは周囲の勧めに従いつがいとなって子を成し、自然と共に生きて死ぬ。若いケイにはそれが酷くもどかしく、同時に得体の知れない恐怖を覚えたものだった。大人達はケイや、他の年若いエルフのその思考こそが、若年特有の病だと言う。

 ケイは静か過ぎる村の空気が嫌でよく散策に出かけた。その日も例外無く集落を離れて一人で森を彷徨っていた。代わり映えのしない景色ではあったが、精霊達の楽しげな声や動物達の鳴き声が幼いケイの慰めとなっていたのは確かだ。

「あの日は確か、何か嫌な事が」

 ケイは記憶を辿る。確か、そう。長老に言われたのだ。ケイもそろそろつがいを定めて大人となれ、と。ケイは無気力な大人になど成りたくはなかった。だから逃げ出したのだ。

 いつもの散策範囲よりも遠くまで足を伸ばした。もしかしたら無謀にも森を出ようと考えていたのかも知れない。知らない木々。知らない空気。知らない精霊。新しい場所の新鮮さに感動出来たのも始めの内だけで、森の外が近付くにつれて変わり果てる空気に気付いて足が震えた。人の生活圏が近付いているのだと分かった。穏やかな森には雑音が混ざり、澱んだ空気が混ざり、精霊はその姿を減らす。

 ケイが帰ろうかと考えたその時、前方でガサガサと葉擦れの音が聞こえた。風の悪戯にしては大きく、足音にしては不規則だ。ケイが音の聞こえた方角を見れば、木人や風蟲、土顎(ノーム)等の精霊達がそちらへ向かって行くのが見えた。属性の異なる精霊達がこぞって一つの物事に興味を示すのは珍しい事だった。ケイは好奇心に駆られるまま精霊達の後を追い、そして出会ったのだ。

 男は木の根元へ寄り掛かるようにして力尽きていた。噎せ返るような不快な金属の匂いが辺りに充満している。初めて目の当たりにする黒髪の異種族。真っ赤に染まった服。ボロボロの姿。心配そうに男の周囲に集う精霊達。それら全てをケイの脳が正しく処理するのに僅かばかり時間が掛かった。ケイは鉄の匂いが男の流す血であると理解すると、恐怖心も忘れて男の元へ駆け寄り、自らの衣服を裂いて男の血に染まった体をそっと拭う。男は全身傷だらけであったが、中でも腹の傷が一際酷かった。丸く黒く穿たれた穴からは、真っ赤な鮮血が止まる事無く流れている。ケイは血で染まった布切れを四角く畳んで腹の傷へ宛がい、そこに男の手を乗せて立ち上がると、素早く視線を周囲へ走らせて精霊達へ呼び掛けた。

 清い湧水のある場所を知りたい。

 精霊達はケイの言葉にすぐさま応じ、一番近場の湖まで案内してくれたのだ。そこでまた新たに衣服を裂いて幾つも布切れを作り、たっぷりと水に浸してから男の元へ戻った。幸いな事に男はまだ生きていた。ケイは濡らした布で改めて男の傷を清め、水の精霊水乙女(ウンディーネ)の力を借りて止血を施した。村の誰かを呼びに戻ろうかとも考えたが、排他的なエルフ族が異種族の男を手厚く看病する事は考え難く、また、男を動かすのも目を離すのも危険だと判断して、一通りの応急手当を済ませてその場で様子を見る事にした。

 苦し気に呻く男の黒髪を、今よりも幼く細いケイの指が梳き上げる。寄せられた眉根。転がり落ちる玉のような汗。けれど顔は青白くて、血が足りていない事が分かる。男の顔は、カイリ=ドールに良く似ていた。いや、この場合はカイリが男に似ていると言う方が正しい表現だろうか。それとも男と良く似た雰囲気を持つカイリの印象に記憶が引き摺られているだけで、本当は全然似ていなかったのかも知れない。

 古く曖昧な記憶を手繰りながら、ケイは小さく溜息を吐いた。

「もう、六十年は経ったでしょうか」

 ケイはその後一晩寝ずに男を看病し、その甲斐あってか翌日の昼過ぎには男が意識を取り戻した。薄っすらと開いた双眸は黒く、優しげな眼差しはやはりカイリと似ていた様に思う。男はケイに礼を伝え、森に密漁者が逃げ込んでいるので危険だから早く森の奥へ帰る様に説得した。勿論ケイは聞き入れなかった。『密漁者』と言うのがどういった物なのか正しく理解していなかったのもあるが、何となく男の傍を離れるのが嫌だったのだ。それは彼の周囲に集う精霊達と同じ様な気持ちだったのかも知れない。

 結局密漁者との諍いでケイは散々男に迷惑を掛けた。非力で足手まといでしかない自分をどうにかしたくて、男が扱う不思議な術に興味を持った。精霊術しか知らなかったケイが魔術と出会ったのもその時だ。彼との出会いが今のケイを形作ったと言っても良い。ケイは村に戻ると自分のつがいと目されていた相手に、村を出て行く事を告げた。村を出て魔術を学び、強くなりたい。外の世界を見てみたい。

 男との出会いが無ければケイの伴侶となっていたであろう相手がその時何と答えたのか、ケイにはもう思い出せなかった。村の事なんてどうでも良くなっていたのだろう。恐らく二度と会うことも無い。ケイは周囲の反対を押し切り、成人の儀だけ済ませて外の世界へ飛び出したのだ。

 ケイは再度溜息を吐いた。どうにも感傷めいている。ケイは自分が現在酷く不安定である自覚があった。原因も分かっている。彼女だ。

「黒魔術師メム=シャウレインドッティ。ウィズムント魔術学院上級教室担任、通称『幻想の魔女』……、カイリ先生に信頼されている人」

 嫉妬も羨望も、森の中に居れば無縁の感情だったのだろう。森を出た事自体を後悔している訳では無いが、ケイは自らの感情を持て余していた。この鬱々とした気分がどうすれば晴れるのか、さっぱり分からないのだ。

 ケイはまた溜息を吐いた。あの日からずっとこんな調子だ。力強く生い茂る緑の木々にも心が晴れない。海竜事件の後、事後処理等で暫くカイリとメムが共に行動していた事も、ケイの気鬱に拍車を掛けた。

 どうにももやもやとする気分を洗い流そうと、洗面所へ赴いて冷たい水で顔を洗う。

「こうしていても仕方がないのは分かっているのですけれどね」

 自嘲の混ざる呟きを落とし、ケイは手早く身支度を済ませて部屋へ戻ると、窓枠に寄り掛かってドール教室を囲う様に群生している木々を見下ろした。深く息を吸い込んで、豊かな緑の芳香を感じ取る。

「そろそろ朝食の時間ですね。タキに怒鳴られる前に……」

 噂をすればなんとやら。ケイが呟く声はドアがノックされる音と、ケイを呼ぶタキの声で遮られた。

「ケイ、起きてる?」

「えぇ、丁度食堂へ向かおうと思っていた所です」

 扉へ向けて返答を返しつつ、ケイは窓に手を掛けて開け放っていた其れを静かに閉ざす。タキは勝手知ったる他人の部屋とばかり、招き入れる声を待たずにいつもの如く扉を開けてケイの私室へ入り込んだ。

「ねぇ聞いてよ、ケイ。今日の朝食はユエがやたらと張り切ってて何だか嫌な……」

 予感がする、との台詞を最後まで紡ぐ事無く、タキは唐突に魔術を編み始める。魔術を扱う者の目に捉える事の出来る、色鮮やかな紅の術式。もちろんそれはケイの目にもはっきりと見える訳で、細く縒られた魔力が作り上げる式を読み取り、ケイはそれが攻撃の為の魔術である事を知る。

「……ッ!」

 タキの暴挙には慣れている筈のケイも、流石に今回ばかりは驚きのあまり声も出ない。

 タキが構築中の魔術はファイアーランス。可燃性の気体と熱量への干渉、その出現位置と射出方向とを式より割り出し、ケイは少しばかり強引な方法で魔術を阻止する事を選んだ。常であれば防御の魔術で対応する所だが、部屋の中で魔術を使用されると大惨事になる事は間違い無かったからだ。幸い、タキが構築するファイアーランスは何度も目にしてよく知っている。ケイは素早く少量の魔力を練り上げ、タキが編み上げた術式の一部分、可燃性の気体に作用する箇所を書き換えた。

「ファイアーランス!」

 タキが魔術発動の為の呪を口にするが、ケイに向けて差し伸ばされた右手から火焔の槍が迸る事は無く、ほんの刹那、小さな火種が弾けただけでそれも直ぐに消え失せる。

 構築中の魔術式に手を加えられたと知ったタキは先程までよりも警戒を強めてケイを睨み付けた。魔術が不発に終わってホッと胸を撫で下ろしたケイだったが、今回ばかりはタキの所業を笑って許す気にはなれない。

「いきなり人に向けて魔術を撃とうとするなんて、どう言うつもりですか」

 自然、ケイの声は厳しさを増すが、タキから返された返答はケイの予想を超える物だった。

「盗人猛々しいとはこの事ね。あなたこそ、何処から忍び込んだのよ。この変質者!」

「……はい?」

 ケイにはタキの言っている事の意味がさっぱり分からない。思わず間の抜けた声を零し、ケイの隙を窺っているらしいタキを凝視する。彼女たちのクラスメイトであり、今日の朝食当番でもあるユエ=ルイェンに一服盛られでもしたのかと考えるものの、ケイを呼びに来たくらいなのだから朝食にはまだ手を付けていないはずだった。

「変質者よりも変態って言った方が良かったかしら? 大人しく投降するなら官憲に突き出すだけで許してあげる。もし抵抗するなら……」

 言葉と共に、タキの身体に陽炎の様な魔力が揺らぐ。タキが何を言いたいのかは、途切れた言葉の先を聞くまでも無く明らかだった。タキが右足を軽く引き、重心を落として魔術を構築する。先程よりも練られた魔力は少なく、威力が抑えられていたが、それはスピードを重視した結果だろう。

 黄色と赤のグラデーションを描く術式がタキの足元より編み上げられ、室内の空間が式に合わせて書き換えられていくのが分かる。タキが手加減する気が無いと知ったケイは柳眉を寄せ、慎重に魔術式の仕上がりを読んでいく。恐らくタキは再度ケイが魔術式に介入してくるだろうと考えている。わざと複雑な術式を編んでいるのはその為だろう。

 魔術式は改良に改良を重ねられ、現在ではかなり簡略化・最適化されている。現代の式に慣れた者の目には、無駄の多い過去の術式は馴染みが薄く、構築始めではどの術式であるのかを判断する事が難しい。しかしそれでも、タキが炎系の魔術を扱おうとしている事は分かる。ならば必ず何処かで着火を指示する公式が描かれる筈だ。

 ケイは素早く思考を巡らせて術式へ意識を集中する。瞬く間にタキの身を包み込む様にして、紅蓮の式が広がっていく。その最後の一節、発火を命じる術式が描き出されると同時、ケイの魔力が上書きにかかる。

「フレイムバースト!」

 タキの声に応じてその両手に表れる筈の手応えは感じられなかった。危うい所で魔術の発動は免れるものの、ケイはすぐさま淡い緑の式を編み上げて室内に緩やかな風を巻き起こす。威力を極小に抑えた風の魔術は空気を掻き乱し、可燃性の気体収集の術式の難易度を上げた。それと見て取ったタキが今度は電撃系統の魔術構築に入ると、ケイは急ぎ床を蹴り、タキとの距離を削って肉薄する。

 魔術を扱う技術面に関してはケイに一日の長があるものの、こと威力に関してはタキの右に出る者は居ない。魔術で遣り合うとなるとタキ相手に手加減をする余裕がケイに有る筈も無くて、自分のペースで事を運ぶには接近戦闘に持ち込むしかなかった。

 ケイの全身に魔力が満ちる。身体性能を向上させる為に魔力を蓄え、まずは牽制の意味を込めて握り込んだ右拳をタキの顔に向け、紙一重の距離で止める。

 いや、止めた筈だったのだが、繰り出した拳はケイの予想に反してタキの左頬を捉える距離にまで伸びた。ケイと同じく魔力を纏ったタキだからこそ、その拳を避ける事が出来たのだろう。タキの上半身は右へ傾ぎ、すんでの所で直撃を避けたものの、黒い髪はケイの拳に掠り、数本がハラリと床に落ちた。

 タキが言うところの変質者であるケイが想像以上の手練である事に、タキは驚くと同時に闘志を燃やした様だった。軽く斜めになった不安定な体勢から、左膝蹴りをケイの腹部へ向けて放つ。ケイはケイで自分が目測を誤った事に衝撃を受けていたのだが、視界端を過ぎった影と迫る気配とに、本能的に半歩身を下げて膝を避け、右掌で軽くタキの膝をいなした。しかし、軽く当てただけのつもりだった掌は、またしても想像以上にタキの膝を強く打ち、タキはバランスを崩して咄嗟にドアに右肩をぶつける事で転倒を免れる。

「タ……ッ!」

 タキ、と咄嗟に名を呼んで駆け寄ろうとしたケイの動きをどう勘違いしたのか、タキが大きく扉を開け放って叫んだ。

「いやああ! 変態! 痴漢! サイエスくん助けて!!」

「な…!?」

 サイエスくんとは正式名称をサイエスくん六号と言う、タキが創り出した魔法生物(マジッククリーチャー)だ。白くて丸い、つるんとした金属的なフォルムを持つ四足の生物で、体内に銃身を隠し持っている。実弾は装填されていないが、ゴム弾とは言え当たると物凄く痛いわけで、ケイは右手でタキの口を塞ぎ、左手で急いで扉を閉めた後、そのままタキの身を左手で拘束した。

 そこで再びケイは違和感を覚える。タキはケイに比べると確かに小柄ではあるが、はたして頭部の位置はこんなに低かっただろうか。違和感の正体を見極めようと見下ろすケイの視線の先で、タキが必死に暴れて逃れようとしている。口を塞いでいるので何を言っているのか定かではないが、恐らく先程叫んだ台詞の数倍は聞くに堪えない悪口雑言の類だろう。タキの口がもごもごと動く感触を捉えるケイの右手。ケイはそれにも奇妙さを感じていた。タキの顔は片手ですっぽりと覆ってしまえる程に小さかっただろうか。タキの体を抱き込むケイの左腕も、タキの小ささを訴えていた。タキが縮んだ。……訳ではなかった。起きて直ぐは夢うつつの為か気が付かなかったが、ドアノブの位置、棚の高さ、扉横のポールスタンドのサイズから、ケイは普段見慣れている筈の室内を眺める視点がいつもと違う事を知る。

(まさか……)

 ケイはタキを捕えたまま僅かに体をずらし、扉横の壁に掛けている鏡に自らの姿を映し込んだ。黒髪の美少女を捕えているのは見慣れた長い金の髪を持つ、見慣れない赤い眼をした男の姿だった。

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