第四話 「海の王」 第十幕
学院に辿り着いたリーユン=ルルディヴァイサーとタキ=ヤンフゥは、担任であるカイリ=ドールの身をケイに任せ、ルゥの私室へ入り込む。部屋の中央に置かれた木箱の中から顔を出し、物珍しそうに室内を見回していた海竜の子が、二人に気が付いて振り返った。
「キュィ」
セルパン・ディウーと名付けられた海竜の子は嬉しそうに眼を細める。タキは木箱に近付き、少し寂しそうに笑った。
「タキ……」
リーユンに心配そうに声を掛けられ、タキは笑みを深めてみせる。
「すごく遠い所から心配して来てくれる親がいるんだもの。帰してあげなくちゃいけないわよね」
「うん」
タキは木箱の傍らに座り込むと、真ん丸な目で不思議そうに見詰めてくる海竜に視線を合わせた。
「ウーちゃん、移動するわよ。ちょっと窮屈かも知れないけど、すぐに広い海に帰してあげるからね。少しだけ我慢しててね」
タキは指先で優しくセルパン・ディウーの頭部を水槽の中へ押し込むと、木箱の蓋を閉める。それからリーユンを振り向いて頷いて見せた。
「親は、子供の事を心配するものなんだよ」
リーユンがぽつりと呟いた言葉は海竜の事を言っているのだろう。そう思ったタキは頷きかけたが、リーユンの視線が自分に向けられている事に気付いて動きを止める。少しの間、黙って口を閉ざしてから、タキは小さく笑った。
「そうね。夏休みに一度帰ってみるわ」
リーユンも笑顔を浮かべて頷くと、二人で木箱を持ち上げる。娯楽室のソファで横たわるカイリと、カイリを看病しているケイに「行ってきます」と告げて、リーユンとタキの二人は港を目指す。
玄関先まで二人を見送ったケイは、娯楽室へ戻ろうとしていた足を止めて食堂へ向かった。カイリに何か体の温まる飲み物を持って行った方が良いかも知れない。湯を沸かし、鎮静作用のあるハーブティをポットへ入れて沸いたばかりの湯を注ぐ。ふわりと漂うハーブの香りを吸い込んで、ケイは深く溜息を吐いた。この香りで落ち着くと言う事は、自分は今まで緊張していたのだろうと言う考えに至る。ケイは微かに自嘲めいた笑みを零し、気を取り直す様に温めたカップにハーブティを注いでトレイに乗せた。持ち上げたトレイは酷く震え、カップがカチャカチャと派手に音を立ててトレイから床へ落下する。
「え?」
ケイが驚いて自分の手を見詰める。激しく痙攣する手を強く握り締め、ケイはもう一度ハーブティを淹れ直すと慎重に娯楽室へ運んだ。
「先生、大丈夫ですか?」
控え目に声を掛けながらケイが娯楽室へ入ると、カイリは静かに寝息を立てていた。酷く消耗していた様子だったから、恐らくは疲れが出たのだろう。
ケイはトレイをテーブルに置き、ソファの前に膝をついて心配そうにカイリの様子を窺う。覗き込んだカイリの寝顔は思いの外穏やかで、ケイは安堵の呼気を漏らして視線をカイリの顔から全身へ移す。
カイリの周囲には、常に多種多様な精霊達が当たり前のように集っている。中には相性の悪い精霊が居るにも関わらず、カイリに惹かれて集まる精霊達はいつも穏やかで、調和を保っていた。それは酷く不自然だったが、逆にとても自然に見えた。
「私も貴方達の様に穏やかであれたら良かったのに」
紡ぐケイの脳裏には、自信に満ち溢れた黒魔術師の姿が浮かぶ。彼女はカイリ=ドールに信頼されている。ケイにはそれが酷く羨ましく思えたのだった。
リーユンとタキは何とか木箱を港まで運ぶと、すぐさま名を呼ばれて声の聞こえた方を振り仰ぐ。濃緑色の髪をした大男が二人に近付き、労う様にポンポンと二人の肩を叩いた。
「メムから連絡は入ってる。その木箱の中に海竜の子供が居るんだな?」
西棟責任者であり黒魔術師であり巨竜族でもあるラキ=ア=ジャッキの事は知っていたが、実際目の前で見るとその雄々しい巨体に圧倒される。リーユンはラキの視線の先を追い、慌てて頷きを返した。
「あ、はい。そうです」
肯定の言葉を聞くや否や、ラキは二人が苦労して運んだ木箱を軽々と肩に担ぎ上げ、リーユンを見下ろす。
「ご苦労だったな。後は俺達に任せて戻って良いぞ」
勿論、タキはラキの言葉に異議を唱えた。
「いやよ。私も船に乗せて」
「何だって?」
まさか連れて行けと言われるとは思わなかったのだろう。ラキが怪訝そうな表情を浮かべる。
「その子を拾って保護したのは私よ。生き物を拾ったら最後まで面倒を見なさいって、言われなかった?」
黒位の教師相手に喧嘩腰なタキを止めたいリーユンだったが、タキの気持ちも良く理解出来るのでどうするべきかと悩んだ。悩んだ結果、やっぱり気持ちはタキと同じだった。
「あの、足手纏いだとは分かってます。でも、ちゃんと親の元へ帰る所を見届けたいんです。ほんの少しの時間しか一緒に居なかったけど、セルーは飼い主のタキに懐いてるみたいだったし、僕も名付け親ですから」
必死な様子で言い募るリーユンの言葉を聞いて、ラキは野太い声で盛大に笑い出した。ラキは愉快で堪らないと言う風に一頻り笑い終えると、改めて二人の姿を見やる。
「飼い主に名付け親か! そりゃ失礼した」
ついて来いと目で合図され、リーユンとタキは顔を見合わせて笑顔を浮かべた。歩幅の大きなラキに置いて行かれない様に、小走りでその背を追い掛ける。ラキはそんな二人を可笑しそうに一瞥してから、視線を空へ向けて小さく一人ごちる。
「海の王の飼い主と名付け親、か。……カイリの教え子は大物だな」
ラキを先頭に、三人は院長の船へ乗り込んで甲板で木箱を下す。その蓋を開けた所で、上級教室主任のアレッシオ=デ=ガスペリが複雑な表情を浮かべてやって来た。
「ジャッキ、一体どう言う誤解の解き方を」
したんだ、と続ける筈の言葉を飲み込み、アレッシオの予想よりも人口密度の多い甲板を見て眉間に皺を刻む。
「部外者は立ち入り禁止の筈だが」
険しい表情のアレッシオを宥める様に、ジャッキが「まあまあ」と手を振った。
「この二人はクォレウスの飼い主と名付け親だそうだ。無事親元へ戻る所を見たいんだと」
「これだからカイリの教え子は……」
アレッシオは額に手を当てて小さく舌打ち混じりに呟いてから、船長へ向けて声を掛ける。
「船を出してくれ」
「了解しました」
船長の返答を受けたアレッシオはそのまま三人を無視して船首へ移動する。リーユンはアレッシオを怒らせてしまったのだろうかと心配してラキを見上げるが、巨竜族の大男は笑うだけで何も言わない。
「何よあの態度! 良い歳した大人が格好悪い」
タキが内心の不快を隠す事無くアレッシオの背中を睨みながら憤るのを、リーユンが慌てて宥めに掛かる。そんな二人の遣り取りを見てラキがまた笑った。
「リーユンは苦労性だな」
「え、そうですか?」
当のリーユンは不思議そうに首を傾げている。全く心当たりの無い様子に、ラキは堪らず声を立てて笑い、身を揺する。
「成程、キリからの推薦話を聞いてカイリが喜んでいた訳だ」
ラキの言葉にリーユンは驚いて声の主を見上げた。
カイリ先生が自分のドール教室編入を喜んでいた?
その言葉を頭の中で反芻し、リーユンは小さく微笑んだ。ドール教室の皆とは上手くやっていると思うし、クラスメートから学ぶ事は非常に多くて感謝もしている。リーユンがドール教室に編入して受けた恩恵は数えれば幾つでも挙げられるが、はたして自分は彼らに何かを返せているのだろうかと、リーユンは少し不安に思っていたのだ。特にカイリに対しては迷惑ばかり掛けていると反省していた。けれど、そのカイリがリーユンの編入を喜んでいたと言うのは、リーユンにとって嬉しい情報だった。
「キュイッ」
甲高い鳴き声に振り返ると、セルパン・ディウーが首を伸ばしてリーユンをジッと見詰めていた。
「どうしたの?」
リーユンがしゃがみ込んで顔を近付けると、海竜の子はペロリとリーユンの頬を舐めて何事か、鳴き声とは別の音を口にする。
「え? 今、喋った?」
言語っぽい響きであった事に驚いて、リーユンは背後の二人を振り返る。しかしリーユンの問いに答えたのは、リーユンの前方、船首に立つ男だった。
「嬉しいと言ったんだ」
リーユンが視線を向けると、アレッシオは視線を避ける様に前方の海へ向き直る。
「……本当に懐いているのか」
アレッシオは背に注がれる複数の視線を無視しながら、溜息混じりに口中で呟いた。
気持の良い潮風が吹き抜け、アレッシオの髪を揺らす。船は順調に航行を続け、海の王と遭遇した付近で錨を降ろして船を止めた。
「落ちないように掴まっとけよ」
ラキの忠告通りに、リーユンとタキは片手で木箱を、もう片方の手でマストから伸びる太いロープをしっかりと握り締める。その次の瞬間には船が大きく傾いで、タキが小さな悲鳴を上げた。
揺れは徐々に酷くなり、船首が空を指すほどに傾いた時、船の前方に巨大な水柱が伸び上がる。吹き上げられた海水が滝の様に降り注ぐ中、全身ずぶ濡れになりながらもリーユンとタキはその水柱から目を逸らす事が出来なかった。
「綺麗……」
真珠色の滑らかな鱗は所々傷付いては居たが、光を乱反射する様は例え様も無く美しいものだった。
その強大で美しい生き物に、小さな海竜の子がキューキューと声を上げて水槽の中から首を伸ばす。
「帰りたいのね」
タキが優しく微笑み掛けると、セルパン・ディウーはタキを振り返って答える様に一声鳴いた。大きく揺れる足場に苦労しながら、タキは何とかバランスを保って立ち上がると、木箱を引き摺りながら船首へ移動する。
リーユンもタキを手伝って船首まで辿り着くと、せーので木箱を持ち上げて船の縁へ乗せた。
「元気でね、ウーちゃん」
タキは海竜の白く艶やかな鱗を撫でながら別れを告げる。
「家族を大切にね」
リーユンも小さな頭部を撫でて言葉を紡ぐ。セルパン・ディウーは二人に向かって一言告げると、勢い良く海へ飛び込んだ。波音に紛れてしまって殆ど聞こえ無い位の小さな水音と共に、細い体が海中に沈む。
暫くしてキラキラと煌めく波間から時折見える白い姿が、大きな海竜へ近付いて行くのを確認出来た。近付く我が子を見守っていた海の王が、舳先に立つアレッシオに向けて上位古代語で語り掛ける。アレッシオが応じて答えると、更に二言三言、言葉を交わしてから海竜は満足そうに海底へ姿を消した。セルパン・ディウーは一度船を振り返ってから、親の後を追って海の中へ潜っていった。
「……行っちゃったね」
「えぇ。でも、これで良いのよ。家族は仲良く、でしょ?」
振り返ったタキの笑顔はとても綺麗で、リーユンは思わず息を飲んだ。そんな様子には気付かずに、タキはすぐにアレッシオを見上げて質問を投げ掛ける。
「さっき、別れ際にウーちゃんは何て言ったのかしら」
「ありがとう、と」
「そっか……」
笑顔を浮かべてはいるが、やはりどことなく寂しそうな娘にどう接して良いのか分からず、アレッシオは困った表情を滲ませて海水で濡れた額を押さえた。それからラキの肩を叩いて「任せた」と小さく告げると、船員達へ支持を出す為に船首を離れる。ラキはアレッシオを見送った後、遠ざかる背には聞こえない程度の声量でリーユンとタキに話し掛けた。
「お前らは飼い主と名付け親なんだろ? だったらいつでも好きな時に会いに行けば良いじゃねぇか。西方の海はちょいと遠いが、繋がってないわけじゃねぇ」
リーユンとタキは困惑した表情でラキを見上げた。例え西方の海まで行けたとしても、海竜と出会える確率なんて無いに等しい。運良く出会えたとしても、それがセルパン・ディウーである確率となると更に低いだろう。そんな二人の心の内を見透かしたかの様にラキは続ける。
「そんな心配そうな顔をするな。アレッシオがちゃんと約束を取り付けてくれてたから、大丈夫だ」
「約束?」
二人は異口同音に口に出し、顔を見合わせる。何事か上位古代語で会話をしているのは見ていたが、二人にはアレッシオと海竜が何を話していたのか理解出来なかったのだ。
「もしも西方でお前らを見掛ける様な事があれば、あの子に伝えてくれるように、ってな」
「え!?」
リーユンもタキも驚きを隠せず、思わず声を上げて背後のアレッシオを振り返った。アレッシオは視線に気が付いていないのか、気付いていても気付かない振りをしているのかは分からないが、船長と会話を交わしながら通信機で連絡を取ったりと忙しそうにしている。
「ま、会いに行って意思疎通が出来る程度には上位古代語を勉強しとけよ」
ラキはそう言って二人の頭をわしわしと豪快に撫でて、アレッシオの手伝いをするべく歩き出す。船首に残された二人は暫く呆然と黒位の魔術師達を眺めていたが、どちらからともなくふと笑い出した。
「やっぱりまだまだ敵わないなぁ」
「やっぱりまだまだ敵わないわね」
リーユンとタキは視線を合わせ、楽しげな笑い声を上げた。
~ 海の王 終 ~