第四話 「海の王」 第六幕
四人は呆然と目の前の海竜を見つめた。
あまりの出来事に沈黙が降り落ちるが、それも一瞬の事で、メム=シャウレインドッティは直ぐさま愛用の煙管を投げ捨てて鋭い牙と黒いローブの端が覗く海竜の口へ手を伸ばす。海竜の口をこじ開けようとする彼女を止めたのはラキ=ア=ジャッキだ。ラキの大きな手がメムの腕を掴んで乱暴に引き戻すと、ラキはメムの耳元で怒鳴り付けた。
「バカか! なに考えてやがる!」
「莫迦はどっちだ、放してくれ! 早く助けないと……ッ!」
泣きそうな声音で喚きながら暴れるメムを、ラキは難なく取り押さえ続ける。
「落ち着け。素手でどうにか出来る相手か」
「じゃあ何もせずにカイリが喰われる所を見ていろと言うのか!」
「カイリなら大丈夫だ。死んではいない」
メムとラキの諍い合う声に、アレッシオ=デ=ガスペリの冷静な声が割って入った。アレッシオはジッと海竜の様子を観察している。そんなアレッシオに興味深そうな視線を送り、フェイ=マオシーが疑問を口にする。
「どうしてわかるの?」
「精霊力だ。生命の精霊が動いている。それに、海竜はカイリを殺すつもりではない様だしな」
精霊など見えないメムとフェイは半信半疑だ。それでもアレッシオがこんな時に冗談を言う様な男で無い事は分かる。メムは渋々と言った様子ではあったが、ひとまずは暴れるのを止めて海竜へ視線を戻す。少しでも海竜がおかしな動きを見せよう物なら直ぐにでも飛び掛かりそうな様子のメムに、溜息にも似た呼気を漏らしてアレッシオが言葉を付け足した。
「メム、気が付かないか? 落ち着いて良く観察するんだ」
普段のメムならば容易く気が付いている事だろうに、ことカイリが絡むと冷静さを失うのがアレッシオには理解出来ない。メムは案の定、アレッシオに言われて初めて気が付いた様子で目を瞠った。つい先程まで恐ろしい位に渦巻いていた魔力が薄れている。海竜は、暴走し、必要以上に溢れた魔力を喰らっていたのだ。
やがて、海竜がゆっくりと四人を振り向いて大きく口を開き、意識を失って力無く横たわるカイリを差し出した。メムは慌てて駆け寄り、両手を広げて強くカイリを抱き締め、受け止めると、その場に力無く座り込む。海水で濡れた衣服越しに暖かな体温と鼓動、規則正しい呼吸とを感じて、メムはやっと安堵の息を吐く事が出来た。
カイリの事はメムに任せれば大丈夫だろうと判断し、アレッシオは海竜に真っ直ぐ視線を注いだまま対峙している。海竜もカイリをメムへ預けた後、その黒く大きな双眸をアレッシオへ移して口を開く。太く低い、言葉らしき音が皆の鼓膜を震わせる。しかし、唯一神聖語を理解出来る人物は意識を失って目覚める気配が無く、アレッシオ、ラキ、フェイの三人は困った様子で視線を合わせた。その三人の仕草で海竜も察したのだろう、言葉を止めて思案気に沈黙を保つ。そうして刹那の静けさが降り落ちる中、アレッシオが海竜を見上げて上位古代語で話し掛けた。
「我々には神聖語が理解出来ない。上位古代語は話せるか?」
上位古代語は神聖語に次ぐ古い言語だ。黒位の魔術師や魔導師ならば下位古代語の基となった上位古代語の学習は必須であるし、上位古代語は神聖語と形態が似通っている。それで、もしや、と思ったのだが、はたしてアレッシオの予想通り、海竜はたどたどしいながらも上位古代語で話し出した。黒位の中で一番上位古代語に精通しているフェイがそれを通訳する。
「なぜ、Wd’vallt? が、力を貸す……わからない。しかし、……Yierf、猶予、かな。を、与える。えー、陽が、沈むまでに……Khrewz? を、持って来い。じゃないと、SiePhyre’Duvex……」
フェイの語尾が途絶える。翻訳を頼まずとも、最後の言葉はアレッシオとラキにも理解出来た。
「大陸が沈む?」
言葉の意味を確かめるかの様にラキが呟く。海竜は要件を全て伝えたとばかりに、それ以上の言葉を発する事無く海の中へ姿を消した。海面が晴れ渡った青空に似合いの穏やかさを取り戻した時、漸くアレッシオが口を開く。
「クォレウスとはどう言う意味だ」
言葉と視線を受け止めたフェイは軽く肩を竦め、溜息混じりに返答を返す。
「分かってたら、初めから訳して言ってるよ~」
「……」
アレッシオは「それもそうだ」と言う言葉を飲み込んで、代りに肺の中に溜まった空気を全て押し出した。
「兎に角、一度学院へ戻って院長に報告しよう。院長ならば『クォレウス』の意味を知っているかもしれん」
ラキはアレッシオの言葉に頷きを返し、船をウィズムントへ戻すべく、船員達を呼びに船室へ姿を消した。メムは変わらずカイリを抱き締めたまま動かない。そんなメムを見下ろしながら、フェイはアレッシオの傍らへ近付き、彼にだけ聞こえる小さな声で囁いた。
「ねえ、ウィドヴァルトってどういう意味だと思う?」
「何故ウィドヴァルトが力を貸すのか分からない、か。あの話の流れからするとカイリの事を指しているのだろうが……」
ラキが船員を連れて再び甲板へ姿を見せ、アレッシオは口を閉ざす。船員達は多少の荒事には慣れているのだろう、傷んでしまったマストを手際よく修繕し、ウィズムントへ向けて船を動かし始めた。一通り船の具合を確認したラキが、海水を含んだローブを脱いで絞りながら皆の元へ戻ってくる。
「カイリはまだ起きないのか」
勢いよく広げた黒いローブがパンと小気味の良い音を立てるのを聞きながら、フェイはカイリへ視線を落とす。青白かった顔には僅かながら赤みが差し、呼吸も規則正しく落ち着いている様だ。しかし、未だ目覚める様子は無い。
「かなり消耗してるみたいだね~。まあ、流石にあれは、ね……」
空間を埋め尽くす程の術式を思い出し、アレッシオもラキも険しい表情を浮かべる。だがそれもほんの一瞬の事で、二人は直ぐさま思考を切り替えた。
「それよりも、問題は海竜が提示して来た条件だ」
日没までに『クォレウス』を持って来なければ大陸が沈む。
「『クォレル』なら意味が分かるんだけどね~」
フェイが顎に右手を当ててぼやいた。それを受けてアレッシオも乱れた髪を掻き上げながら、独り言のように呟く。
「宝、か……」
「案外それに近い意味なのかも知れないぞ。わざわざ西方の海から出向いて来るんだからな」
「や、発音が似てるからって意味まで似てるとは限らないよ~」
「何はともあれ、院長の指示を仰がねばならんな」
フェイとラキも特に案がある訳で無く、アレッシオの言葉に同意を示した。いくら黒の位を冠しているとは言え、上位古代語を日常会話レベルで扱えるわけではない。下位古代語であれば共通語に近い程度には話せても、失われた前文明時代の言語である上位古代語は学ぶ事からして容易ではないのだ。参考書や辞書等は存在せず、数少ない古文書を自力で読み解き、遺された史跡や装置を解析して学ぶしかない。未だ解明されていない単語も少なくはなかった。
「ま、船の上にいる間は、なんら打開策はないね~」
考える事をあっさりと放棄したフェイは、のほほんとした面持ちで甲板に座り込み、魔導器の手入れをし始めた。ラキも変身を解き、大きなローブを乾かす為に船に渡されたロープの一つへ干しに向かう。アレッシオも漸く緊張を緩め、一度翼を大きく羽ばたかせて飛沫を飛ばしてから、翼を消した。そして、動かないメムとカイリを見下ろす。
「カイリの様子はどうだ?」
問われたと理解するのに少々の時間を要し、メムがのろのろと顔を上げる。常では見る事の無い弱々しい表情を見て、アレッシオが僅かに眉根を寄せた。
「大丈夫だと思う。呼吸も穏やかだし、顔色も大分戻ってきた」
「そうか。ならば良い」
アレッシオはカイリを一瞥してから、メムの眼を真っ直ぐに見据える。
「分かっているとは思うが、全てが片付いた際には詳しい説明を求めるぞ」
「私の口からは、言えない」
思いの外はっきりとした強い口調でのメムの拒絶に、アレッシオは片方の眉を跳ね上げた。
「では、誰の口からならば聞く事が出来るんだ」
「……分からない」
「何だそれは」
アレッシオの声音が呆れとも苛立ちともつかない響きを帯びる。メムはアレッシオから視線を逸らしてカイリを見つめたまま、力なく首を横に振った。これ以上は何も言う気が無いとの意思表示なのだろう。興味深そうにアレッシオとメムの会話を聞いていたフェイも、思わず脱力した様子で言葉を挟む。
「これもまた、院長に聞いてみるしかないのかな」
「俺は、なんとなくだが、わかったかもしれない」
ラキが皆に背を向けたまま、水平線に薄く見え始めたウィズムントの街並みを眺めながらぽつりと呟いた。三人が驚いて振り返る。
「分かった~……って、カイリの正体が?」
確認するようなフェイの問いかけに、ラキは一度大きく頷いてから腰に手を宛がい、困った様子で視線を彷徨わせた。
「まぁ、かもしれないってだけだがな。だが、もし俺の予想が正しければ、メムの言うとおり誰に尋ねれば答えてもらえるのかわからないだろう」
「で、その予想っていうのも、教えてもらえないのかな~?」
フェイの興味深そうな問いかけに、ラキは肩を竦めて見せ、
「俺の答えが正しかった時の事を考えると、死んでも言えんな」
「ラキ、喋り過ぎだ」
ラキの言葉を遮る様に、メムが制止の声を挟む。メムは静かに皆を眺めてから視線を膝上のカイリへ落とした。
「私はカイリにウィズムントに居て欲しいんだ。だから、カイリの正体を明かす事は出来ないし、詮索もして欲しくない」
「……解った。この話はもうしないと約束しよう」
長い溜息の後にアレッシオが言葉を返すものの、フェイはすかさず不満の声を上げる。
「え~、勝手に約束しないでよ。要するに、カイリの正体がばれても、カイリがウィズムントを離れないで済むような方法を考えればいいんでしょ~」
「そりゃ、そうなんだがな。何もわからんのに簡単に言うなよ」
ラキが呆れを隠そうともせずフェイを見下ろした。
「それは秘密にしてるラキとメムの都合。僕は諦めないからね~」
「フェイ、お前な……」
ラキがなおも言い募ろうとした時、船員の一人が近付いて来る気配と足音に気付いて口を噤む。まだ年若いその船員は、幾分緊張した面持ちで黒魔術師達と対峙する。
「もうじきウィズムント第一ポートへ帰港します。そちらの魔術師さんは大丈夫ですか?」
「ああ、気にする必要はない。我々で運ぶ」
フェイは素っ気無いアレッシオの返答に笑い、船員へ笑みを向けて言葉を付け足した。
「心配しなくても大丈夫だよ。怪我も無いし、眠ってるだけだから~」
「そうですか。わかりました」
船員は安堵の様子を表情に滲ませ、はにかんだ様な小さな笑みを浮かべてから「それでは、失礼します」とだけ言い残し、慌てて乗降口へ駆けていく。それと同時にウィズムント港へ到着したと知らせる声が聞こえ、船員達は皆それぞれの持ち場で作業に就いた。帆を操り、畳み、ロープを渡して船を固定する様子を眺めながら、アレッシオは院長へどのように報告すれば良いのかと悩んでいた。
「メム、カイリは俺が運ぼう」
一番体格に恵まれているラキが、メムからカイリを預かり受けて軽々と肩に担ぐ。港と船を繋ぐ橋が渡され、五人は数時間ぶりに固い地面へ降り立った。
「やれやれ、何日も漂流してた気分だ」
ラキが揺れない足元を満足そうに見下ろし、カイリを抱え直しながらぼやく。それにはフェイも幾度も頷いて同意を示した。
「のんびりしている暇は無いぞ。学院へ戻ろう」
一足先に船を下りていたアレッシオが背後を振り返った丁度その時、激しい爆音と共に地面が揺れる。
「何だ!?」
意識の無いカイリを除く四人が慌てて視線をウィズムントの街へ向けると、もうもうと立ち昇る煙が視界に入る。方角からするとどうやら工房区の辺りの様だった。
「メムとフェイは直ぐに工房区へ向かってくれ。ラキはカイリを医務室へ運んでから二人と合流。私は院長へ報告が済み次第向かう」
「いや、工房区には俺が行く」
ラキの肩の上、意識を取り戻したらしいカイリが身を起こし、右手で頭部を押さえながらアレッシオの指示を遮った。船上での魔力の暴走を目の当たりにした後では、流石に直ぐ非常事態に当たらせるのは気が咎める。
「大丈夫なのか」
「アレッシオが俺を心配するなんて珍しいな。もしや惚れたか?」
「解った。さっさと死んで来い」
いつもと変わらぬカイリの様子に、アレッシオは呆れた表情となって追い払う様な仕草を見せた。カイリはラキの肩から下りると、大げさに目元を擦りながら駆け出す。
「アレッシオの馬鹿! 俺との事は遊びだったのね、ひどいわあぁぁあぁぁぁ!」
「誤解を招く発言を置いて行くな!」
思わず怒鳴り返してしまった後、アレッシオはその場で頭を抱えた。黒魔術師として元々名と顔が売れているとは言え、怒鳴ってしまってはアレッシオが自分であるとわざわざ周囲へ教える様なものだ。頭痛でも起こしそうな様子のアレッシオへ同情の視線を送りながらも、メムとフェイの二人もカイリの後を追って走り出す。ラキがアレッシオを慰めるかの如く大きな右手を肩へ乗せ、
「取り敢えず、お前は院長へ報告して来い。此処に居る奴らの誤解は解いておくから、な?」
言葉と共にポンと肩で弾む手が離れ、アレッシオは視線をラキから周囲へ移す。出港出来ずに港に集って抗議していた船乗り達や、港を規制している魔術師団と兵士団の団員数名、その他大勢の野次馬達、皆の好奇心に満ちた視線を一身に集めながら、アレッシオは空を仰いで嘆いた。
「いっそ殺してくれ」