第四話 「海の王」 第五幕
アレッシオ=デ=ガスペリの叫びと共に、海竜が巨大な口を開けて船に襲い掛かる。メム=シャウレインドッティは必死に同僚を揺り起こそうとするが、元々今までの激しい揺れの中でも熟睡していた男だ、そう簡単に目覚めるとは思えなかった。アレッシオは大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせ、素早く上位魔術の構築に入る。黒魔導師フェイ=マオシーは自慢の剣と銃とを手に、黒魔術師ラキ=ア=ジャッキはその巨躯で守る様にして、アレッシオの前に立った。近付こうとする海竜へ向けてフェイが先程よりも遥かに出力を抑えた光線を放ち、海竜が怯んだ処へタイミング良くラキが風の魔術を用いて海水を盛大に巻き上げ、押し退けて距離を稼ぐ。フェイとラキの攻撃に苛立ったのか、海竜は鋭い威嚇の咆吼を上げると尾を激しく海面へ打ち付ける。巨大な水柱と飛沫が上がり、船が木端の様に翻弄された。バランスを崩した二人が攻撃の手を緩めた瞬間を狙い、海竜が再度乗員諸共船を噛み砕こうと真っ赤な口を開く。慌てて攻撃態勢を取るフェイとラキよりも早く、アレッシオが魔術を完成させた。
「グラビティ」
静かに発された声に呼応して、ドンッと巨大な物質が落下した音と衝撃とが辺りに響き渡る。それと同時に海竜が白い喉を晒して天を向き、首の辺りを押さえ付けられた様な不自然な姿勢のままで暴れだす。首を捉える目に見えぬ重圧から逃れようと、海竜は激しく頭部や尾をくねらせた。海竜の抵抗は凄まじく、術を仕掛けたアレッシオの額から頬へ汗が幾筋も滑り落ちる。ヒト相手に術を仕掛けるのとは訳が違う。海竜の動きを封じる術を維持しようと精神を集中するが、いかんせん足場が悪過ぎた。大きく傾ぐ甲板でバランスを保ちつつ難易度の高い上位魔術を海竜の動きに合わせて臨機応変に書き換え、そうして激しく暴れ回る海の王に抵抗出来るだけの魔力を使い続けるのだ。足場の良い陸上であったとしても至難の業である。アレッシオが海竜を抑えている間に、ラキも術式を展開し始める。
「ちっと、無理矢理にでも大人しくなって貰おうか」
焼けた鉄の様に赤い術式がラキの周囲に構築されていくのに合わせ、フェイは無防備なアレッシオやメムを保護する為の防御魔術を編み上げた。透明な防御壁が出現するのを確認し、ラキが吼える。
「エクスプロージョン!」
爆炎が海竜を包み込んだ。炎と熱風が半球状に海面を抉り、押しやられた海水が海竜を中心とした円を描くように盛り上がる。その数瞬後には重力に従って戻る海水が大きな波を作り出し、カイリ=ドールでなくとも船酔いしてしまいそうな激しい揺れが船を襲った。
「や、やりすぎはどっちだよ~」
と言うフェイのぼやきはもっともである。白く美しかった海竜の鱗は所々炭化し、剥がれ落ち、痛々しく鮮血を滴らせて酷い有様だった。海竜は力尽きたのか諦めたのか、アレッシオの魔術が作り出した重力に圧されてとうとう海面へ頭部を押し付けられる。本日幾度目かの大きな飛沫が上がった。
フェイは慎重に船の縁に近付いて、生まれて初めて間近に捉えた海竜を観察する。海竜は低く唸り声を発し、黒い双眸に憎悪を光らせていた。
「どうして、船を襲ったの~」
共通語が通じるかどうかは分からなかったが、フェイは海竜の眼を真っ直ぐに見つめながら問い掛ける。しかし返って来たのは予想通り、低い唸り声だけだった。フェイは困った様子で後ろを振り返り、小さく肩を竦めて見せる。アレッシオが少しでも術を緩めれば直ぐにでも襲って来そうな勢いだ。
さて、どうするか。
その場に一瞬沈黙が降り落ちる。頭脳担当であるアレッシオは術の維持だけで手一杯であるし、フェイは執政官と言う立場の癖にあまり碌な事を考えない。そしてラキは考えるより先に動くと言う自他共に認める体育会系である。フェイとラキは一度視線を合わせると、爆睡大王の元へ近付いた。
「いつまで寝てるの~」
「起きろ、今直ぐ起きやがれ」
言葉を発するのと同時にフェイとラキはカイリを蹴り飛ばす。遠慮無く暴力に訴える二人に呆れながらも、メムはカイリを起こす役目をあっさり放棄して立ち上がった。支えを失ったカイリの上体が倒れ、ゴンッと良い音が響く。甲板に頭部を打ち付けた所に電撃の魔術まで食らわされ、漸くカイリが眼を覚ました。
「……痛い」
たんこぶの出来た頭部をさすり、やや煤けた気のする頬を撫で、よろめきながらも起き上ったカイリは、ラキとフェイを一度睨み付けてから状況を把握しようと周囲を見回す。アレッシオが風の上級魔術を使っている。その視線の先を追って海上を見ると、何とも無残な姿となった海竜が重力の球に押さえ付けられ、暴れまくっていた。カイリは激しい揺れに込み上げる物を宥めつつ、よろよろと海竜の傍へ歩いていき、縁に掴まって体を支える。そして暫く海竜を観察してから、皆を振り返ってしかつめらしく言った。
「こりゃ、海の王だな」
「そんな事は先刻から百も承知だ!」
メムが他の三人を代表して呻く。しかしカイリは「そうじゃない」と首を横に振った。
「こいつはただの海竜じゃなくて、海の王に近い者だって事」
ラキとメムは首を傾げた。カイリが言っている違いが理解出来ない。カイリの言葉に顔を青くしたのはフェイとアレッシオだった。
「まさか、レヴィアタン?」
フェイの言葉にラキとメムが驚いて顔を見合わせる。レヴィアタンは伝説上の存在だ。この世の始まりと共に生まれ、大地を支える事を神々に命じられた巨大な生物。海を統べる者。神の御使い。
カイリが珍しく神妙な表情をして言った。
「レヴィアタンの使いか、血を継ぐ者か。……どちらにしろ、怪我をさせたのはまずいな」
今度こそ全員が青褪めた。海竜の、海の王の怒りを鎮められなければウィズムントが沈むかも知れない。いや、下手をすればウィズムントのみならず、その他の大陸をも巻き込む事になる。
「アレッシオ」
名を呼ばれ、アレッシオは視線だけをカイリに向ける。
「術を解いてくれ」
「それは危険だ」
アレッシオの代わりに答えたのはメムだ。
「術を解いた瞬間に船ごと食われてしまうぞ」
「だが、このままだと話し合いにもならんだろう」
カイリは再び海竜へ視線を向け、聞き慣れない言葉で静かに語り掛け始めた。共通語でも精霊語でも、下位古代語でもない。不思議な響きを紡ぐカイリの声が理解出来ているのか、暴れ狂っていた海竜が漸く動きを止めた。カイリがアレッシオを見て頷く。アレッシオは半信半疑ながらもゆっくりと術を解き、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。海水と汗がアレッシオの肌を滝の様に滑り落ちる。
「大丈夫か?」
ラキがアレッシオの傍に駆け寄る。
「ああ。……だが、流石にきつい」
右手で顔を拭い、荒い息を吐きながらアレッシオは答え、視線をカイリへ向けた。カイリは海竜へ向けて真剣に語り掛け続けている。
「ありゃ何語だ? 上位古代語に似てるが」
「恐らく、神聖語だろう」
ラキがアレッシオを振り返った。神聖語を理解出来る人間なんて、神殿に引き籠って聖書を読み漁っているマニアな高位僧くらいのものだ。それも読み書きが出来る程度が殆どで、流暢に話せる者などほぼ皆無だろう。
「何でカイリがそんなもん知ってるんだ?」
「私が知る訳が無いだろう」
当然と言えば当然な質問だったが、アレッシオに答えられる筈も無い。
と、その時、皆の視線を一身に集めていたカイリが、皆にも理解出来る言葉を一つ漏らした。そう、咄嗟の時に出るあの一音、「あ」である。
四人が見守る中、カイリがゆっくりと振り返った。そうして申し訳なさそうに言葉を続ける。
「余計な事言っちゃった」
「この大馬鹿者! 役立たず!」
異口同音に怒鳴られ、流石にカイリがムッとして言い返した。
「そんな事言ったって、使い慣れない言葉なんだからしょうがないだろう?」
「言い訳している暇があったら魔術壁を作れ、莫迦者」
「あんまり馬鹿馬鹿言うなよ……」
「バカにバカと言って何が悪い」
「ば、馬鹿って言った方が馬鹿なんだぞ」
「馬鹿な事を言い合っている場合か!」
「とほほ……」
軽口を叩きながらも五人は魔術壁を張る為に急ぎ魔力を練り始める。
「あ~、ちゃんと魔術支援型魔導器のテストしてよね~」
フェイがカイリの手元を見咎めて睨み付けた。カイリはグローブに取り付けられた魔石に触れない様、手を広げて術式の構築に入ろうとしていたのだ。
「分かった、分かった」
カイリは多数の魔石の内、使えそうだと思った四つの石に指を触れさせ、魔力を縒って術を編み始める。他の四人も同様の、防御の魔術式を編み上げ、ほぼ同時に魔術壁を発動させた。五人が作り出した見えない壁が幾重にも重なり、海竜の牙を阻む。攻撃の衝撃によって船は揺れるものの、流石の海竜も傷付いた体では黒の位を冠する五人の魔術を破ることは出来ない様だ。
だがその時、皆異変に気が付いた。マジックシールドは発動したはずなのに、カイリの編んだ術式は未だ安定せず、それどころか術が発動した後も止まる事無く膨らみ続けているのだ。通常であれば一重に構築される筈の式が溢れ、二重にも三重にも増殖していく。
「おい、カイリ?」
呆然と宙の一点を見つめるカイリに、アレッシオが声を掛けた。詳しく状況を理解しようにも、海竜の攻撃に耐える為に四人は魔術を解く訳にはいかない。カイリが編む式は周囲に立つ四人を包み、船全体を飲み込み、更には海竜の頭部までをも捕らえようとするかの如く膨れ上がった。フェイが取り付けた魔術支援型魔導器の魔石に罅が入る音が響く。
「カイリ、しっかりしろ!」
その尋常ではない様子に、アレッシオは声を張り上げてカイリに呼び掛ける。広がり続ける術式は既にマジックシールドの原型を留めておらず、色とりどりの不可解な式の羅列が周囲を埋め尽くしていた。複雑に絡み合い、それでも一定の法則を保ち続けている式は、とても人間の身で作り出せる物とは思えない。アレッシオを含め、黒位ですら半分も理解出来ない術式に、無尽蔵に吐き出され続ける膨大な魔力。
この突然の事態に戸惑ったのか、海竜も攻撃も止めて船上の様子を窺う。メムは海竜の攻撃が止んだのを確認するや否や魔術を中断し、カイリに駆け寄ろうとするが、増え続ける式それ自体に阻まれて近付く事が出来なかった。よく見知った術式ならいざ知らず、未知の魔術は下手に式を書き換えてしまうと何が起こるのか予想も付かない。歯痒い思いのまま、メムは必死にカイリの名を叫んだ。
「カイリ、駄目だ、それ以上はやっちゃいけない! カイリ!」
メムの言葉が届いたのか、何も映していなかったカイリの視線が揺らぎ、ゆっくりとメムを振り返る。
「……メム?」
その瞬間、整然と並んでいた巨大な術式がぐにゃりと歪み始めた。カイリの意識が術以外の事へ向けられたからだろう、魔術の制御が崩れたのだ。
「カイリ、魔術を解除するんだ! 早く!」
周囲の、と言うよりも、己の異変に気付いたカイリは慌てて式を解こうと試みるが、魔力はカイリの意思に反して不安定な術式を構築し続ける。両手に嵌めた魔術支援型魔導器が明滅を繰り返し、魔力を術へ変換していく。カイリの周囲は、カイリの姿が見えなくなる程にぎっしりと魔力による文字で埋め尽くされた。
「だめだ、制御出来ない! 引き摺り出される……、メム、助けてくれ、メム!」
切羽詰まったカイリの声が助けを求めた瞬間、極彩色だった術式は一瞬の内に眩いばかりに輝く白色へと変化した。カイリの絶叫が響く。
「カイリ!」
白く輝く式は繭の様にカイリの姿を覆い隠し、その安否を確認する事は出来ない。メムは堪らず術式が密集した光の中へ踏み込んだ。が、それはフェイの手によって阻まれる。
「放せ、フェイ。カイリが……、カイリが!」
フェイは暴れるメムの腕をしっかりと掴んで、観察者の視線でジッとカイリの様子を眺めている。冷静と言うよりは冷酷とも取れるその眼差しを見やり、メムは蒼褪めて愕然とした面持ちで問い掛けた。
「フェイ。お前、まさか……!」
「あの魔導器に何か仕掛けたのか」
アレッシオもラキも、厳しい表情を浮かべてフェイを見据えるが、フェイは堪えた様子も無く軽く肩を竦めて見せる。
「特別な事なんて何もしてないよ~。多少魔力を増幅させる機能は付けてるけど、それだけ。他は説明通りの物だよ。誓ってもいい」
右手を挙げて宣誓のポーズを取ったフェイは直ぐに視線をメムへ向け、普段の緩い調子とは違い、真剣な様子で一気に捲し立てた。
「多少の魔力増幅と、素早い術式の構築を手助けする為にあらかじめ幾つかのパターンが組み込まれただけの魔導器。それを使っただけで、どうしてこうなるのかな。ねえ、メム。院長の命令でカイリをウィズムントへ連れて来たのはメムだったよね。捜索中の功績とカイリを探し出した功績とで、メムは白位から黒位になった。優秀な魔術師を見付けて黒位になった人は他にもいるけど、院長直々の命令って言うのが、ずっと引っ掛かってたんだよ。ねえ、カイリは……」
フェイは其処で一度言葉を切り、泣きそうなのを我慢した様な、笑おうとして失敗した様な表情で言った。
カイリは、何?
「それは……」
メムはフェイの視線から顔を背け、光の向こう、今は見えないカイリの姿を見つめる。再びカイリの悲痛な叫びが鼓膜を震わせ、メムはフェイの腕を振り払って光の繭に向けて駆け出した。濃密な魔力と術式が、感じない筈の物理的な抵抗感をメムへ伝えてくる。踏み出す一歩が重い。崩れそうで崩れない不安定な式に、慎重に指を触れさせ、書き換え、隙間を作り出す。
「危険だ、止めろ」
皆の制止の声には耳も傾けず、メムはひたすら奇妙な文字列の解読に意識を向ける。縮まらない距離に焦りだけが募って行くのを感じながら、一本、二本、と式を広げて空間を作り、掻き分ける様にして進んで行く。幾重にも重なる式の隙間からカイリの纏う黒衣が見えた気がした刹那、カイリは彼を覆う術式ごと海竜の巨大な口中へと飲み込まれてしまった。