第四話 「海の王」 第四幕
リーユン=ルルディヴァイサー、タキ=ヤンフゥ、クゥ=ラ=ルゥ達三人が美味しく朝食を食べている頃、海の上では黒の位を冠する教師達が緊張の面持ちで海面を注視していた。……一人を除いて。
「うぅ……」
船の縁にしがみ付き、カイリ=ドールは青白い顔で唸っている。時々口元を押さえてこみ上げそうになる何かを必死に堪えている様子が分かった。
「いい加減にしろ、カイリ=ドール」
周囲を警戒していたアレッシオ=デ=ガスペリが額を押さえながら、呻くような低い声を押し出す。これが同じ黒位の魔術師だと思うと頭も痛くなろうと言うものだ。
「孤島であるウィズムントの移動手段として、船は極一般的な物だろう。時化てもいない海で船酔いする奴があるか。いつもの振りなら今すぐ止めろ」
「彼はいつもこうですよ、アレッシオ」
見かねたらしいメム=シャウレインドッティが、風で乱れる髪を押さえながら声を挟む。アレッシオは聞き間違いかと一瞬怪訝な表情を浮かべ、片方の眉を跳ね上げた。
「何だと?」
「ですから、彼は船での移動の度に具合を悪くしています」
アレッシオは聞きたくなかったと言わんばかりに深い溜息を吐いてカイリを一瞥すると、其の侭何事も無かったかの様に海面へ視線を戻した。賢明な判断だとメムは心の中でアレッシオの切り替えの速さを称賛する。
「あー、そうだ。カイリにこれを渡そうと思って忘れてた~」
カイリの話題で思い出したらしいフェイ=マオシーが唐突に声を上げ、上衣のポケットから手袋のような物を取り出した。指先の無いタイプの黒い革手袋には無数の魔石が取り付けられており、その台座同士が細いコードで繋がれている。フェイはぐったりとして碌に抵抗出来ないカイリの両手に素早く手袋を嵌め、手首のベルトをカチッと金属音を立てて留める。
「……カチッ?」
耳触りな音に、カイリは億劫そうな様子で自らの両手に視線を落とす。革手袋の手首部分、装飾品にしては無駄に丈夫そうなベルトの留め具に鍵穴らしき物が付いているのが見えた。
「おい」
「じゃ、さっくり説明するね~」
カイリの抗議を遮る形で、フェイが嬉々として説明を開始する。
「これは魔術支援型魔導器でね。良く使う術式パターンを幾つか組み込んであるんだ。まあ見て貰えば分かるから、どの魔石にどんな式が入ってるかの説明は省略するね。使い方は魔石に触れながら普段通り術を使えば良いだけだよ。わ~、すっごく簡単!」
両手をぽんと叩いて笑顔を振り撒くフェイに、カイリは深呼吸を繰り返しながら何とか抗議の声を再開する。
「使い方は、ぶっちゃけどうでもいい。俺が、知りたいのは、何故、鍵を掛ける必要が、あるのか、と、言う事だ」
三半規管をやられて具合のよろしくない現状、声を出すのも正直辛いカイリだったが、流石に一言位は言わねばなるまいと声を振り絞る。そんなカイリに対してフェイは変わらぬ笑顔のままで答えた。
「だって、外されるとテストにならないでしょ~?」
フェイの台詞を聞いて、周囲に居た人間が密かに二人から距離を取る。
「試作品だと言うのは、分かった。分かったが、動作テストくらいはしてある、よな?」
「昨日完成したばかりだよ~? そんなのしてる訳ないじゃない」
フェイはカイリの祈りにも似た問い掛けを平然とした面持ちで打ち砕いた。周囲と二人との距離が更に広がる。船の舳先で黙々と海上警戒にあたっていたラキ=ア=ジャッキが、流石に気まずくなった空気を見かねたらしく、カイリに声を掛ける。
「まあ、黒位がこれだけ揃ってるんだ。お前さんの出番は無いだろ」
ラキは軽い調子で言ってのけ、豪快な笑い声を船上に響かせた。
「どうせ船酔いで使い物にはならないだろうしな」
とは、メムの台詞だ。庇われているのか馬鹿にされているのか判断の付き難い言葉に、何とも複雑な表情でメムに視線を送るカイリだったが、余程具合が悪いのか、ずるずるとその場に座り込んだ。
「じゃ、後は任せた」
後を任された黒魔術師の三人は溜息やら苦笑やらを零しつつ、穏やかな海の警戒に戻る。フェイは不服そうに暫くカイリを揺さ振って遊んでいたが、冗談抜きでカイリが吐きそうになったので慌てて退散する。隣にやって来たフェイに、アレッシオが小声で尋ねた。
「何故、カイリ=ドールにテストを?」
フェイは船の縁に肘を付き、右掌で頬を支える様にして凭れ掛かる。
「ん~、何があっても死なない感じがするから、かなぁ~」
「確かに防御の魔術に関しては、我々の誰よりも優れているのは認めるが」
「それもあるけど、それだけじゃなくて~」
フェイは言葉を探すようにして黙り込んだ。アレッシオは一瞬だけフェイに視線を向け、軽く溜息を吐く。
「言いたい事は、何となくだが理解出来る。私もアレに関しては気に掛かる事も多い」
「あ~、やっぱり気になるよねぇ。まあ、それもあってカイリに頼んでるんだよ。咄嗟の時ってさ、その人の本当の姿が見えたりするじゃない?」
フェイが悪びれずに笑いながら体を起こすのと同時、今まで穏やかだった海面が大きく波打った。アレッシオはバランスを崩して倒れそうになるフェイを支え、もう片手で縁に掴まって自らの転倒を防ぐ。空は相変わらずの晴天で、青々としたまばゆい色彩に真っ白な雲が長閑に浮かび、遠く空との境界を描く水平線もなだらかな緩いカーブを描いている。ただ、彼らの乗る船の周囲のみが、嵐の日の様に荒れ狂っていたのだ。
「来たか!」
「ああ、でかいのがかかったぜ」
ラキが深緑色の比翼を大きく広げ、好戦的な笑みで海面を眺めている。その視線の先では、不気味な黒々とした巨大な影が船を取り囲んでいるのを確認出来た。メムは素早く術式を編み上げて船全体を覆う対魔術防御を強化すると、甲板で力なく座り込むカイリの傍らへ駆け寄る。
「ホントに海竜っぽいね~。僕、戦闘は専門外なんだけどなぁ~」
アレッシオの支えを断り、フェイは体勢を立て直しながらホルスターに納めていた魔導器を引っ張り出す。右手には剣型魔導器『ヴラギ』、左手に携えるのは銃型魔導器『ザ・ザ』だ。
「やるしか、ないかな~」
「あぁ、どうやらその様だ」
フェイの声に答えるアレッシオは苦々しい様子で頷くと、鳥人族と呼ばれる所以である翼を解放した。細身の体に似合わぬ大きな茶色の翼がバサリと羽音を立てる。鋭い視線を甲板へ向け、声を張り上げて狼狽する船員達の避難を済ませると、眼下に広がる黒影を睨み付けた。船が一段と大きく揺らぎ、巨大な水柱が噴き上がる。宙へ投げ出された海水が塊となって皆の頭上に降り注ぐ様は、局地的な台風に見舞われたかのようだ。何とか転覆は免れたが、依然として船の揺れは収まらず、甲板は海水で塗れ濡って足場は最悪だった。やがて海水の豪雨が止むと、四人は濡れた目元を拭い、陽を反射して光る巨大な生物を見上げて唖然とする。
「冗談キツイぜ」
ジャッキが低く唸った。フェイもアレッシオもメムも、生まれて初めて目の当たりにする海竜に言葉も無い。眩しいくらいに輝く乳白色の鱗は虹色のグラデーションを見せ、長く透き通った鰭も、黒く煌めく瞳も、全てがこの世の物とは思えない美しさだった。噂や伝承で知ってはいたが、実物は想像以上だ。
言葉を失った四人に向けて、海竜がゆるりと身を揺らし、視線を下ろす。ゾクリ、と四人の背筋に震えが走った。未知なる生物への恐怖か、神の造形物に対する畏怖かは分からないが、四人がその瞬間海竜に視線を奪われていたのは確かだ。海竜はそんな四人の様子に構う事無く、殊更ゆっくりと優美に体を揺すり、そして、吼えた。
「――――――――!?」
人間の可聴音域を遥かに超える高音の咆吼。空気がビリビリと震えて悲鳴を上げるのが分かる。頭が割れそうな痛みに両手で耳を塞いでみても、効果は無かった。
「何だ? 喉が……」
最初に異変に気付いたのはアレッシオだ。やけに喉が渇くのは緊張の為かと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。海面に視線を向けると、微かながら海水が揮発しているのが確認できる。
「これが噂に聞く消失の咆吼か!」
「アレッシオ!」
ラキがアレッシオの名を叫びながら、術式を構築し始める。その式を見て、アレッシオとメムも素早く同じ魔術の構成に取り掛かった。
「ホワイトミスト!」
三人はほぼ同時に魔術を完成させる。濃厚な魔力を帯びた白い霧が辺り一面を覆い尽くした。この霧が遮蔽物となり、空気の振動伝播を幾分か和らげる事に成功し、頭痛や渇きは緩和される。
「ただの咆吼を防ぐのに、黒位が三人掛かりか」
アレッシオが忌々しげに呟く。海竜は咆吼が効かないと悟ると、その巨大な口を大きく開いて襲い掛かって来た。濃霧が邪魔をして狙いが定まらない上、風や重力を操る魔術で軌道を逸らされ、海竜の攻撃はなかなか船を直撃する事が出来ない。しかしそうしてかわせたのも初めの数度のみで、徐々に海竜の鋭い牙が船を掠め始めた。二度、三度と大きな衝撃が走る。魔術の壁で持ち堪えてはいるが、海竜の攻撃は執拗で止める気配は見えなかった。
「諦めて帰ってくれる、と言う事はなさそうですね」
メムが四度目の防壁を張りながら言う。
「出来れば無傷で追い返したい所だったが、やむを得まい」
「反撃開始といくか!」
苦々しいアレッシオの言葉とは対照的に、ジャッキが嬉々として応じる。
「だから、戦闘は専門外なんだけど……。やられっ放しっていうのはもっと性に合わないよね~」
フェイは両手に携えた魔導器に魔力を流し込んだ。低い軌道音が響き、魔導器が使用可能である事を示すランプが点灯する。
「ヴラギ、久し振りの出番だよ~」
右手の剣型魔導器が駆動音を響かせ、細かなライトが刀身に走る。フェイの右手が剣を高く掲げると、海竜に向けて勢いよく振り下ろした。剣先から巨大な三本の真空派が発生し、空を切って海竜へ襲い掛かる。
「刻め~っ!」
「っておい、そりゃちょっとやり過ぎじゃねぇか?」
ラキが驚いてフェイを諌めるが、もう遅い。鋭い真空の刃は海竜の真っ白な胴を切り裂いた……と、誰もがそう思った。しかし魔術の霧と水飛沫とが薄れてクリアとなった視界の先には、攻撃前と何ら変わらない、傷一つ無い海竜の姿があった。真空の刃は海竜の胴体とぶつかり、霧散してしまったようだ。
「すげぇな。裂傷じゃなくて打撲かよ」
ラキが感心しきった様子で呻く。
「むっ。……『ヴラギ』最大出力で補助モードに移行。『ザ・ザ』リミッター解除。壱、弐、……参。オールコンプリート。最大口径。目標補足」
魔導器が効かなかった事が余程ショックだったのだろう。フェイは手加減無しの一撃を放つべく海竜に狙いを定める。剣型魔導器は不気味に低く唸って明滅を繰り返し、銃型魔導器は大きく開いた銃口にエネルギーを溜め込み、充填が完了するのを今か今かと待っている。その濃密な魔力の強さを感じ、ラキは慌ててフェイの背後へ回り、アレッシオとメムも衝撃に備えるべく魔術の防壁を展開した。
「消し飛べ~っ!」
「だから、やり過ぎだっての!」
射出の勢いに堪え切れず、フェイの小柄な体が後ろへ飛ばされる。それを受け止めたラキが流石に声を荒げて諫めに掛かった。フェイの魔導器により猛烈な勢いでエネルギーの収縮と放射とが行われ、周囲を暴風が襲う。マストが軋んだ悲鳴を上げ、船が大きく傾いだ。銃型魔導器『ザ・ザ』から放たれた眩い光は直線を描きながら空を切り裂き、海竜の白く滑らかな体を掠める。長い鰭が半円状に削れ、乳白色の鱗が弾け飛ぶ。其処から真っ赤な鮮血が飛沫を上げて滴り落ち、鱗と血液とが海面を叩いて盛大に水を跳ね上げた。
「お~! 海竜に傷付けちゃったよ~。これってすごい宣伝になるよね~」
フェイが物凄く嬉しそうな声でのんきな事を口にする。ラキは思わずと言った態でフェイの頭部を殴った。
「馬鹿か。追い返さにゃならんのに怒らせてどうする!」
「だって~、僕のヴラギで打撲なんてバカにしてるよ~」
「はぁ? 誰を馬鹿にしてるって?」
「僕と魔導器を、だよ! 屈辱だよ。僕に対する挑戦だよ!」
「言い争いをしている場合か!」
延々と続きそうだったフェイとラキの遣り取りを、苛々を隠さぬアレッシオの声が遮った。アレッシオは二人を一瞥し、次にメムを振り返る。
「カイリを起こせ。防御に専念する」
メムは頷き、甲板に転がるカイリ=ドールの元へ慌てて駆け寄る。横たわるカイリの傍らに膝をつき、カイリの上半身を支えるように抱き上げて軽く揺すった。
「おいカイリ、いつまでもへばってないで少しは働け」
しかし、カイリはぐったりと瞼を閉ざしたままでメムの呼び掛けに応えない。もしや先ほどのフェイの攻撃でどこかぶつけたかとメムが心配し始めた時、
「……ぐぅ」
と、何とも心地良さそうないびきがカイリの口から漏れた。
「な、寝……。……ッ、この、大莫迦者ッ!」
予想外過ぎる反応に絶句してしまったメムであったが、衝撃から立ち直るや否や耳元で怒鳴り声を上げる。そうこうしている間に、痛みの為に大きく体を揺すっていた海竜が、ふいにその動きを止めた。黒い瞳には怒りも顕わ、鋭い眼差しが小さな船と、その船に乗っている小さな小さな生き物を捉える。
「来るぞ!」