第三話 「秘薬」 第五幕
「ロン=セファン教師がなぜ?」
リーユンは人影を見失わないように前を見ながら、隣を並走するタキへ問い掛けた。
「なぜ? そんなの決まってるじゃない。不老不死が欲しいからよ」
乱れる呼吸の間にタキが吐き捨てる。
「秘薬……」
リーユンは自らが口にしたその響きの恐ろしさに、胸の内を冷たい手で撫でられた様な寒気を感じて小さく身を震わせる。
今よりも少し前の時代。小竜族は不老不死の秘薬の材料として狩られ、その数を激減させた事があった。しかしそれはもう五十年以上も昔の話である。今現在は不老不死の秘薬など迷信だと知れ渡り、小竜族を狩る者はいないはずだ。
しかし、タキはリーユンの反論をきつい口調で一蹴した。
「本当にそう思ってるの? 世の中には禁忌を破る人間なんて大勢いるわ」
鋭い視線を前方の逃亡者へ据えながら、タキは続ける。
「カイリ先生には口止めされてたけど、セファンは以前からしつこくルゥを狙っていたの。いい加減頭に来たから力一杯のしてやったのに、まだ懲りてないみたいね。やっぱりあの時止めを刺しておくんだったわ」
不意に、リーユンは三の月に起こった格闘訓練道場半壊事件を思い出した。あの時暴走したタキとルゥを止めようとして怪我をした教師が居たが、その教師の名前はロン=セファンではなかったか?
「あの格闘訓練道場半壊事件って、もしかして……?」
リーユンの言葉にタキが頷く。
「そうよ。ルゥを狙って卑怯な手を使って来たから、反撃したのよ。本当なら半年は立ち上がれないくらいの重傷だったのに、カイリ先生が院長に頼み込んで治癒の術を使ってもらったの。そのおかげで一週間なんて短い時間で仕事に復帰できたのに、まったく、恩知らずにも程があるわ」
リーユンは今の会話で一つ疑問が解けたと思った。隔離教室の絶対に守らなければならないルールの中に「騒動を起こさない」という項目が無いのは、身を守る際の魔術の行使を制限しない為なのだ。しかしそこでまた新たな疑問が浮かぶ。何故真実を公表しないのか。迷信に踊らされて私欲の為に生徒を襲った人物を治療までして庇うのは何故か。再犯の可能性は十分に予見出来る筈だ。
リーユンの疑問に気付いているのかいないのか、タキは静かにリーユンの横顔を眺めていたが、唐突に立ち止まると瞬時に紅の術式を纏い、勢いよく前方へ火球の魔術を放った。静かな港の倉庫街に炎の燃え盛る音が響き、一刹那周囲を赤く染め上げた火の玉は石畳を黒く焦がして弾けて消える。人影は足を止め、足元で炸裂した魔術を一度眺めてから、背後をゆっくりと振り返った。逃亡者と追跡者達は、視線の先に互いに見知った姿を確かめる。
「鬼ごっこは終わりよ、セファン」
タキの鋭く睨みつける眼差しを受けても、ロン=セファンは焦った素振りすら見せない。日に焼けない青白い顔を嗤いの形に歪め、呆れの色を眼差しに乗せてタキとリーユンに対峙する。
「やれやれ。また私の邪魔をするのですか」
セファンの小馬鹿にしたような口調に、案の定タキが食ってかかる。
「当たり前でしょ! そっちこそ、いい加減に諦めなさいよ!」
タキの全身から赤い魔力がゆらりと陽炎の様に立ち上った。リーユンはタキの脇に控え、二人の様子を静かに観察する。
「今日という今日は、引導を渡してあげるわ!!」
言うなり駆け出したタキに続いて、リーユンもセファンへ向かって走った。タキの編む術式を追う様にリーユンも同じ式を構築し、二人ほぼ同時にファイアーボールを放つ。セファンは薄い笑いを崩す事無くアクアヴェールを発動させると、襲い来る二つの火球を水の膜で防ぎ、難なく消滅させる。炎が消えるのを確認すると直ぐに魔術を解除して攻撃の為の術式構成に移った。氷の属性を帯びた魔力が青白く輝く文字列となり、空間を書き換えていく。セファンの編み上げる術を見て取ったリーユンは駆ける足を止め、炎の壁を作るべく術式を編み始める。タキは全身に魔力を満たしながら、突進を止める気配はない。
「アイスニードル」
術式を描き終えたセファンの静かな言葉に呼応して、突如石畳から生えた無数の棘がタキを押し包み、貫こうと襲いかかる。
「ファイアーウォール!」
鋭い氷の切っ先がタキに届く前、リーユンの放った炎の壁が氷の棘を包み込む。高温の炎は瞬時に氷を溶かして水へ変え、炎の壁もまた役目を終えて空気に溶けるように消え失せた。氷と炎とが目まぐるしく変わる視界の中、タキの靴底が溶けた水を跳ね上げ、力強く地面を蹴りつけてセファンに肉薄する。
「……セファン!」
タキの右手に魔力が籠もる。右拳にありったけの力を集中し、勢い良く振り下ろす僅かな時間の間に、セファンは次の魔術を完成させる。タキの眼前に右手の平を広げ、セファンは勝ち誇ったかの様に口端を持ち上げた。
「セイントアロー」
タキの眼前でセファンの掌中に光が収束する。光の球が育ち、レーザーの様に打ち出される様子がスローモーションの様にタキの目に映る。反射的に逃げようと身体が動くよりも先に、光の矢がタキを貫くだろう事はタキ自身良く分かっていた。死を間近に感じて覚える恐怖。本能的な部分で両腕を交差させて防御の態勢を取るが、零距離に近い至近距離で頭部にセイントアローを食らえば無事では済まない。間違いなく、セファンは何の躊躇いも無しにタキを殺すつもりだった。
タキはギュッときつく目を瞑って光の矢が放たれる瞬間を待ったが、訪れたのは身を貫く痛みではなく、激しいスパークと衝撃波だった。後方に飛ばされたタキを、リーユンがしっかりと受け止める。
「マジックシールドか……」
セファンは傷を負って血に濡れた右手の平を眺めながら呟いた。
「なるほど……。リーユン=ルルディヴァイサー。なかなか楽しませてくれる」
痛みを感じていないかのように、セファンの表情は変わらず笑みを形作っている。リーユンは視線をセファンから外さないまま、腕の中のタキに囁き掛けた。
「タキ、立てる?」
タキは血の気の引いた白い顔をしていたが、唇を引き結んで頷くと、リーユンに預けていた体重を自分の両足で支える。
「平気よ」
短い返答はタキの強がりである事は明白だった。それでもタキを守りながらリーユン一人でどうにかできる相手ではないので、今は気付かない振りをするしかない。リーユンはタキより一歩セファンに近い位置で構え、重心を落として身体中に魔力を巡らせる。セファンはそんな臨戦態勢のリーユンを観察しながらニヤッと笑った。
「私を見逃す気はないか」
リーユンはセファンの一挙手一投足に注視しながら、澱みのない声で言い放つ。
「大人しく投降してください」
「残念。交渉は決裂のようだ」
セファンは答えると同時に術式を編み始めた。冷たく蒼白い輝きを放つ式が宙に浮かび上がる。複雑で緻密なその文字列はリーユンにも見覚えがあった。直ぐさまリーユンも術式を展開する。全身に満たした魔力を細く縒り上げ、空中に文字を描き出す。薄蒼と淡い橙の光が周囲を染め上げる。
先に術式を完成させたのはセファンだ。
「アイスコフィン!」
セファンが魔術を発動させる為の下位古代語を唱えると、リーユンの足元からビシビシと音を立てながら氷が這い上がってくる。しかしリーユンは落ち着いた様子で術式を編み続けた。両者共高度な魔術を展開していて、タキの技術では術への介入が難しい。下手に手を出せば魔術の暴走を引き起こしてしまうだろう。足元から次第に凍っていくリーユンを前にして、それでも短気なタキが手を出さずに済んだのは、リーユンが首元まで凍らされながらもタキに向けて大丈夫だと笑みを見せたからだ。
リーユンは大丈夫だ。
そう理解出来れば思考も回るようになる。リーユンが構築していた魔術、あれは短時間ながらも物質を其のまま保存出来るという新しく生み出されたばかりの試作的魔術だ。リーユンが昼頃読んでいた魔術書が、確かそんな類のものだった様に覚えている。
「シャウレインドッティの再来と言う割には、大した事はないな」
セファンの笑い声が倉庫街に響く。魔術の発動に間に合わず、頭の先まで氷漬けになったリーユンを笑いながら、ゆっくりと距離を詰めていく。氷の棺で身の内まで凍ったリーユンを完全に破壊しようと、セファンは拳に魔力を込める。
「リーユンから離れなさいよ! ファイアーボール!!」
タキの手の平から放たれた火球は、あっさりとセファンにかわされた。それでもタキは次々とセファンへ向けて火球を撃ち出す。炎の球は周囲を赤々と照らし、石畳を焦がし、熱風を作る。しかし怒りに任せて撃っているのだろうタキの攻撃は狙いも甘く、セファンは呆れた様子でタキを眺め、溜息を吐いた。
「何度やっても無駄だ。君こそいい加減に諦めたらどうだ。大人しくしているのなら、リーユン共々ひと思いに殺してやろう」
「誰があんたなんかに殺されるもんですか!」
休む事無くファイアーボールを撃ち続けるタキに、セファンが舌打ちする。あまり騒ぎすぎると人が来てしまう。セファンは幾度目かの火球をかわすと、強力な魔術で一気に二人とも片付けてしまおうと術式を編み上げる。コントロールの甘いファイアーボール程度ならかわしながらでも術を展開出来るだろうと思っての行動だったが、セファンが術の構築を始めるのを待っていたかのように、タキもまた別の式を展開し始めた。複雑な魔術でない分、タキの方が発動は早い。
「ファイアーランス!」
伸ばされたタキの右腕に絡み付いた炎は、螺旋を描いて二本の槍を形成する。燃え盛る火槍が解き放たれ、空を裂きながらセファンへ向けて突き進む。
「小賢しい」
セファンは吐き捨てると構築途中の術式を書き換え、素早くアクアヴェールを発動させた。身を守る為の水の膜は二本の槍を飲み込み、炎の勢いを殺し、消火していく。火槍が中程まで消えた所で、リーユンの声が響いた。
「アイスニードル!」
セファンを守る為の水の膜が凍り付き、今度は術者自身を攻撃する為に鋭い棘を幾本も伸ばして襲いかかる。セファンは素早く後方に飛び退くが、至近からの不意打ちは流石に避け切れず、両の腕に傷を負った。紺の衣服に血が滲み、ジワジワと黒く染まっていく。熱された空気の中、焦げた匂いに混ざる鉄錆のような生々しい血の匂い。リーユンは刹那息を止め、タキと並んでセファンを窺いながらゆっくりと息を吐き出した。一人と二人は十分に距離を取り、向かい合う。
「そうか。あのファイアーボールは氷を溶かす為だったか……」
セファンは不健康な色の顔を僅かに歪め、タキとリーユンを睨み付ける。セファンが何か行動を起こす前に、リーユンは容赦なく魔術を浴びせかけた。それに合わせるようにタキも魔術を発動させる。
「ウィンドカッター」
「ファイアーランス!」
真空の刃が炎を孕んでセファンに襲い掛かる。火槍は風に煽られ、更に勢いを増して燃え盛りながら目標に向かう。セファンは痛みを堪えて意識を集中させ、魔術を構築しながら鎌鼬を数個かわすと、アイスブレイズの魔術を発動させた。地面から大きな鎌状の氷の刃が幾本も伸び上がり、鎌鼬と火槍を粉砕していく。
「白の色冠は、伊達じゃないってわけね……」
立て続けに魔術を放った所為で乱れる呼吸をどうにか落ち着け、タキが忌々しそうに呟く。
「でも、そろそろ打ち止めのはずだよ」
リーユンの言葉通り、セファンはかなり疲労が激しいようで肩を上下させて荒い息を吐いていた。リーユンは威嚇の為に殊更魔力を放出させながら、今一度セファンへ降伏を促す。
「もう一度訊きます。投降する気はありますか?」
セファンの返答は術式を編む事で返された。リーユンもありったけの魔力を込めて上位魔術を創り上げる。セファンが声を張り上げ、魔術を放った。
「ブリザード!」
広げられた両手から氷雪の嵐が巻き起こる。雹が暴風に乗り、猛烈なスピードでリーユンとタキに襲い掛かった。身を切るような冷たい風と、実際に皮膚を切り裂く雹の中で、リーユンはタキを腕の中に庇いながら魔術を完成させる。
「イグニション!」
氷嵐に負け無い様に、半ば叫ぶ様に声を張り上げ、リーユンが右腕で周囲を薙ぎ払うと、一瞬倉庫街一帯が明るく照らし出された。雹の一粒一粒が発火して炎に包まれ、瞬時に蒸発したのだ。
「……驚いた。まさか赤魔術師如きがこれ程高度な魔術を扱えるとは……」
セファンは笑みを消し、真摯な眼差しでリーユンを見る。
「リーユン=ルルディヴァイサー。私と一緒に来る気はないか」
唐突に雰囲気の変わったセファンと告げられるその言葉に、リーユンは怪訝な表情を浮かべた。そう言われて「はい行きます」と大人しくついて行くとでも思っているのだろうか。リーユンの心情に答える様に、セファンは言葉を続ける。
「リーユン。君はこの世界をどう思う。ウィズムントが平和な国だという事は私も認めるが、一歩外へ出ればどうだ。ローズル大陸出身の君なら分かるだろう。世界は争いに満ちている。罪のない人々が間近に存在する死に怯えて暮らしている。私の仕える御方はその争いを無くそうとしているのだ。だがそれには多くの時間と、優秀な人材が必要だ」
セファンはそこで一度言葉を区切り、ジッとリーユンの青い双眸を見つめながら先程と同じ意味合いの言葉を口にする。
「私と来なさい、リーユン」
その有無を言わせぬ強い語調と迫力に、リーユンは恐怖を覚えて一歩後退った。この人は危険だ。脳が警告を発している。けれど、セファンの手を取れと囁く声も聞こえるのだ。彼の言葉に嘘は無い。平和なウィズムントで暮らしていても、時々悪夢を見て飛び起きる事がある。決して忘れる事の出来ない幼い日の情景。それは今まさにこの瞬間も、昔と変わらず繰り広げられているのだろう。セファンはそれを無くそうと言うのだ。
「綺麗事ばかり言ってるんじゃないわよ! あんた達だって結局やることは一緒でしょ!!」
セファンの言い分に憤慨した様子でタキが吼える。
「不老不死を得る為にルゥを、多くの小竜族を犠牲にして、争いを起こす国を力でねじ伏せる。それで永遠にセフィラを支配するの? 他のどの国よりも、あんた達の方がよっぽど性質が悪いわよ!」
「出しゃばるな、小娘」
セファンは傷付いた左手を持ち上げ、タキへ向けて魔術を発動させた。
「ウォータースウォーム」
青い術式が発光し、中空に巨大な水の塊が出現すると同時、それらはタキ目掛けて襲い掛かる。あっという間にタキの身は水の中に捕らわれ、水圧が容赦なくその細い身体を締め上げる。肺が圧迫され、堪らずタキの口から空気が漏れた。
「タキ!」
リーユンが呼ぶ声を遠くに聞きながら、タキは身体の力が抜けていくのを感じていた。息が苦しい。耳の奥がガンガンうるさい。手足が言う事を利かない。術を発動させようにも、落ち着いて魔力を練る事すら出来ない有様だった。
「セファン、交渉は決裂です。タキを解放しておとなしく投降してください」
リーユンは一瞬でもセファンの言葉に惑わされた事を恥じる。その所為でタキを危険な目に遭わせてしまった。高度な魔術を使用した疲労はあるものの、今は泣き言を言っている場合ではないと、リーユンは魔力を振り絞ってセファンに対峙する。セファンはリーユンが抗戦すると見て取り、僅かに眼差しを細めて溜息を吐いた。
「残念だ」
セファンに降伏する気が無いらしい事が分かると、リーユンはすかさず魔術を編み上げる。
「ストーンブラスト!」
リーユンの周囲を取り囲むように無数の石飛礫が現れ、次々とセファン目掛けて飛んでいく。セファンはそれを紙一重でかわしながら、次の魔術を発動させる為にタキを拘束していた水の魔術を解除した。生き物の様に蠢いていた大量の水が浮力を失い、盛大な水音を立てて石畳に叩き付けられる。地面に投げ出されたタキは激しく咳き込んではいるものの何とか無事の様だ。タキの様子を横目で確認したリーユンは急いでスネークバインドの魔術を構築する。敷き詰められた石畳を割って、太い蔦がセファンを絡め取ろうと踊り掛かる。だがセファンは迫り来る蔦を避ける素振りも見せず、ただ真っ直ぐにタキの方へと右腕を伸ばした。その意図を理解したリーユンはスネークバインドの標的をセファンからタキへ変え、自らもタキへ向けて駆け出した。セファンの周囲が淡い紫紺に輝き、魔術が完成する。
「ライトニングバインド」
セファンの足元から網の目状に雷電が迸る。先のウォータースウォームによって濡れた地面を紫電が勢い良く走り抜け、タキに迫る。リーユンはタキに駆け寄って濡れたその身体をきつく抱き締めると、蔦で二人の身を包み込む。蔦は幾重にも絡み合い、電流から二人を守る絶縁体の役割を果たす。暫くして雷網が消え去ったのを確認すると、リーユンは蔦を消し、水浸しになった地面に降り立った。其処にはもうセファンの姿は無い。二人は港から遠ざかる小型の船を黙ってみている事しか出来なかった。
「逃がしちゃったね……」
リーユンが申し訳なさそうに小さな声で呟く。タキは視線をもう見えぬ船へ向けたまま首を左右へ振り、珍しく力の無い声で言った。
「私が足手まといになったからだわ」
タキは視線を足元へ落として唇を噛む。悔しい思いをしているのはリーユンも一緒だった。リーユンは無言でタキの冷えた手を握り、顔を上げて暗い海に臨む。タキもまたリーユンの手を握り返してキッと視線を起こした。セファンがウィズムントの地を踏む事はもう二度と無いだろう。今回はこれで良しとしよう。けれど、もしまた出会う事があればその時は……。
二人はユエに声を掛けられるまで、船影の消えた水平線を見続けた。