第三話 「秘薬」 第三幕
ウィズムント魔術学院北側に位置するドール教室、通称隔離教室と呼ばれる木造校舎のエントランスで、つい先程事務員に届けられたばかりの荷物を見下ろしながら、タキ=ヤンフゥは仁王立ちしていた。
「どう思う、ケイ?」
タキは荷物をジッと凝視したまま、背後に佇むエルフ族の女性に声を掛ける。ケイは口元に指を宛がい、少しの間思案してから慎重に口を開いた。
「本格的にルゥの身を案じた方が良さそうですね」
事務員に言付けられたリーユン=ルルディヴァイサーの伝言は、ルゥが見付からないのでもう暫くレイルズ=フェリオット=ウォフリー教師と一緒に捜索すると言うものだった。
「まったく、こんな大変な時に限って居ないんだから、あのぐうたら教師は!」
今日も今日とて飯時以外に姿を見せない担当教師に対し、タキはここぞとばかりにぶちぶち暴言を吐き続ける。ケイはそんなタキを困った様子で眺め、
「上級教室担任と黒魔術師と言う二つの立場があるのですから、何かと忙しいんですよ」
「どうせシャウレインドッティ教師とデートでもしてるんでしょ。あの二人、事ある毎に一緒に居るじゃない」
タキはケイの諌める口調の語尾に言葉を被せて勢いよく振り返り、ズイッとケイに詰め寄った。
「あんな卑怯でだらしのない男のどこが良いのよ」
長命のエルフ族から見ればタキの様な少女は赤子にも近い年齢であるが、こと男女間の恋愛となると人や獣人の方が積極的で、盛んである様に思える。教師と生徒という立場であろうと、今の良好な関係を続けていたいと願うケイにとっては、カイリ=ドールとメム=シャウレインドッティの交友は考えたくない類の事だ。ストレートなタキの問いを受け、ケイは少々ウンザリした面持ちで吐息を零した。
「彼は卑怯でも何でもありません。それに、私が誰をどの様に好きになろうとタキには関係がないでしょう」
ケイはタキの視線から逃れるように顔を背けると、抑揚のない冷たい声音で不毛な会話を打ち切る。
「そんな事より、私達もルゥを捜しましょう。タキはユエを呼んで来てください。その間に私は火蜥蜴を召喚してルゥを追跡する準備をします」
まだ何か言いたげな表情でケイを見ていたタキであったが、「わかったわ」と力無く呟くと一度自室へ戻り、薄手の外套を羽織ってから玄関の扉を開いた。其のまま無言で出て行こうとするタキを見つめていたケイだったが、慌ててその背中へ声を掛ける。
「タキ」
名を呼ばれ、ノロノロと振り返ったタキの視界に、寂しげな微笑を浮かべるケイの姿が映る。ケイが時々見せるその表情が、タキには堪らなく辛かった。そんな切ない表情を浮かべるのはカイリ=ドールに関する事だけだと、タキだけが知っている。知っていてどうにも出来ない自分が歯痒く、タキはキュッと下唇を噛んだ。
「タキ、心配を掛けて、申し訳ありません」
こんな時にタキは自分とケイとの差を思い知らされる。元々感情の起伏が少ないエルフ族はどんな時でも対応が理知的で大人で、タキはそれを羨ましく思いながらも同時にとてももどかしく感じていた。ケイとは対照的に、タキは唐突に沸き起こる激しい感情を抑える事が出来ない。説明のしようが無い激情に任せて行動するのも、タキがタキたる所以である。謝罪の言葉を紡ぐケイに向き直り、タキは大きく息を吸い込んだ。
「バカ!!!」
肺に取り込んだ酸素を全て使ったかの様な大声でケイを怒鳴り付けると、タキは一気に捲し立てる。
「ケイってホントにおバカさんだわ。なんでそこで謝れるのよ。バカじゃないの。大バカじゃないの。そんなだから心配なんじゃない。……ねぇ、ケイお願いよ。絶対に一人で泣かないで。泣く時は私が傍に居るから。頼り無いかも知れないけど、それでもケイの事が心配なの。だから、約束して。絶対よ?」
勢いに任せて放たれたタキの言葉は次第に真摯な色を帯び、驚きに瞠られていたケイの双眸がゆっくりと細められ、笑みの形を取る。ケイは右手を伸ばしてタキの髪を撫で、
「タキの事を頼り無いと思った事は一度もありません。ありがとう、約束します」
「うん。ありがとう。それから、ごめんなさい」
柔らかく髪を梳くケイの手に、タキは漸くホッとした様子で笑みを見せる。謝罪の言葉を素直に伝えるタキへ、ケイも緩く首を振って答えた。
「お互い様です。気にしないで下さい」
二人は笑みを交わし合い、元気を取り戻したタキは勢いを付けて身を翻す。
「それじゃ、ユエを呼んで来るわね」
一度肩越しに振り返り、タキは軽やかな足取りで隔離教室を出て行った。木製の扉が小さく軋んだ音を立てながら閉ざされ、タキの姿が完全に見えなくなると、ケイは階段を足早に上って自室へ急ぐ。階段を登りきって右手へ続く廊下。タキ=ヤンフゥの部屋、空き部屋、ユエ=ルイェンの部屋と順に通り過ぎ、一番奥の自室の扉を開く。女性の部屋にしては細々とした雑貨が置かれていない、すっきりと整えられた部屋だ。ケイは机の引き出しから緻密な銀細工のネックレスを一つ取り出して、チェーン部分を指に絡ませる。チェーンから下がるペンダントトップは炎を象った物で、火蜥蜴を使役する事があまり得意ではないエルフ族が彼らを従える為、あるいは自らの身を火蜥蜴から護る為に身につける物だった。ケイは手の平に乗せたペンダントトップを握り締め、戸口に掛けていたローブを手早く羽織って再びエントランスへ舞い戻る。玄関の扉を開け、もう夜と呼んで差支えない暗さを纏う屋外へ出ると、近くに落ちていた枯れ枝を拾い上げた。ケイは魔力を練り上げ、手元を覆う程度の小さな術式を編み上げる。魔力で描かれた式に力が充実するのを見計らい、ケイは魔術を発動させるキーワードを口に出す。
「ティンダー」
ケイの呟きに呼応して赤い球状の式が光を帯びる。一瞬後には術式は跡形もなく消え去り、代わりに枯れ枝の先端に小さな灯火が現れた。ケイは右腕を真っ直ぐに伸ばして小枝を掲げ、体温を移して幾分温かさを感じる左手の銀細工を炎に翳し、精霊語を紡ぐ。
「汝、猛々しき破壊の化身よ。荒れ狂う御魂を収め、その卑しき姿を我が前に示せ」
枯れ枝の先端で小さく揺らいでいた炎が枝からはがれる様に空中へ舞い上がる。炎はくるりと一度円を描いて回転すると、そのままケイの眼前で静止した。その炎は燃え盛る蜥蜴のような爬虫類の姿をしているのだが、一般人の眼では捉える事は出来ない。ケイは用を終えた木切れを捨て、目の前に浮かぶ火蜥蜴を険しい表情で見据えながら精霊語で話しかけた。
「小竜族の少年は何処ですか」
炎の精霊は身に纏う火炎を一度噴き上げると、低く静かな声を発する。
「我に尋ねておるのか?」
「他に誰が居ますか?」
ケイはとぼけた様な火蜥蜴の返答に業を煮やし、元より険しかった眼差しをより冷やかに細めて問いを返す。普段のケイらしからぬ物言いはエルフ族が森林を焼き払う破壊の象徴である火蜥蜴を毛嫌いしているからなのだが、それは火蜥蜴にしても同様である。
「ふん、エルフというのは礼儀知らずが多いと見える」
口から炎をちろちろと吐きながら、火蜥蜴が言う。赤々と燃え盛る炎の奥で、鋭い眼差しが油断無くケイとケイの手元で鈍く光る銀細工に注がれていた。ケイは強い炎の力に眩暈を覚えながらも、毅然とした態度で言い放つ。
「貴方を召喚したのは私です。命令に従いなさい」
精霊使いらしく威厳のある声音。それでも火蜥蜴は不遜な態度を崩す事は無い。
「断る、と言ったら?」
低い声音に滲むのは明らかな嘲笑。鋭い牙が並ぶ口にニタァと下品な笑みを浮かべる火蜥蜴に、ケイは蔑む様な眼差しを送り、左手に持ったペンダントトップを胸元へ宛がい、魔力を全身へ満たし始めた。
「あくまでも反抗すると言うのならば、力尽くで従わせるまでです」
「面白い」
言葉と同時、火蜥蜴も一際盛大に炎を吹き上げると、今にもケイに飛び掛らんばかりに身構えた。丁度その瞬間、
「ケイさん!」
小道を曲がってドール教室へ戻って来たリーユンが、ケイに声を掛けた。突然の乱入者に驚いたケイと火蜥蜴は思わず身を強張らせて勢い良くリーユンを振り返る。その尋常ではない様子に目を瞬かせたのはリーユンだ。
「な、何ですか?」
リーユンの視界には一人緊張した面持ちで佇むケイの姿しか映っていない。驚かせてしまっただろうかと申し訳なさに眉尻を下げるリーユンに、ケイはバツの悪そうな様子で「いえ」とだけ小さく紡ぐ。咄嗟に口を突いて出た否定に続く言葉を探すものの、適当な言葉が思い浮かばず、ついチラと火蜥蜴に一瞥を送る。火蜥蜴は先程までとは打って変わり、白けた表情でリーユンを観察している。リーユンはケイが何もない中空を見ている事に気が付くと、ケイに尋ねた。
「もしかして、そこに精霊が居るんですか?」
精霊を感じる事の出来ない人間にとって、その存在は御伽噺の世界だ。リーユンは思わず目を凝らして暗闇の中に浮かぶ精霊を見付けようと試みる。ケイはそんなリーユンの姿に小さく笑み、微かに頷いて口を開く。
「炎の精霊、火蜥蜴です。小竜族は炎の精霊力を強く帯びる種族ですから、彼の気配を探すには火蜥蜴が最適でしょう」
それを聞いたリーユンはパッと表情を明るくすると、火蜥蜴が居るのであろう場所へ視線を向け、頭を下げる。
「ルゥの場所まで案内してもらえるんですね。ありがとうございます」
リーユンの素直な言葉と態度に、ケイは自分の好悪よりもルゥの身を優先させるべきだと自らに言い聞かせ、一度深く呼吸をしてから火蜥蜴へ向き直る。精霊への命令は精霊語で行うのが常であり、ケイはリーユンには理解出来ない不可思議な響きの言葉で火蜥蜴に告げた。
「案内をお願いします」
火蜥蜴は暫し無言のままリーユンを見つめ続けていたが、小さな笑いを零し、「よかろう」と一言紡いで小道を勢い良く進み始める。ケイが急ぎ後を追って走るのをリーユンも慌てて追いかけ、横に並んだ時に初めてケイの顔色が悪い事に気付いた。始めは夜闇か青白い月明かりか、もしくは青い風の所為かと考えていたリーユンだが、普段は体重を感じさせない軽やかなケイの足取りが、今はやや重い様にも見受けられる。
「ケイさん。大丈夫ですか?」
心配げに掛けられたリーユンの声に、ケイは微笑を浮かべて応える。ケイの視線は先導する火蜥蜴に注がれたままであったが、リーユンはその横顔に微かな拒絶を感じてそれ以上何も言えずに押し黙ってしまった。ケイはと言うと、そんなリーユンの様子に気付いてはいたのだが、軽い自己嫌悪と酷くなりつつある眩暈の為にリーユンを気遣う余裕が無い。
二人はただ黙々と火蜥蜴の後を追って走り、途中タキ達と合流してウィズムント魔術学院を抜ける。もうすっかりと日の落ちた時間帯であるのに、隔離教室の生徒が慌てた様子で出掛けて行くのを見て、守衛が嫌な予感を覚えたのは言うまでも無い。四人は学院を出た後、ウィズムントを縦断する大通りへ抜けてひたすら南方向へ走った。大通りとは言え店終いの店舗も多く、周囲の様子は比較的静かで、何事か騒動が起きた様子は無い。
「俺の貴重な休憩時間が……」
ユエが最後尾で大げさに嘆きながら走るのを、タキが振り返って冷たい視線で見やる。
「もう、うるさいわね。ユエはルゥが心配じゃないの?」
タキの台詞に剣呑な響きを感じ取ったユエはわざとらしく辺りを見回し始め、真面目ぶって眉間に皺を寄せて見せた。
「あーあー、心配だなぁ」
ユエの空々しい台詞にタキの機嫌はますます悪くなるのだが、ユエは然程気にしていないようだ。二人がそんな遣り取りをしている間にも、火蜥蜴はどんどん大通りを進み、途中横道に入り込んだりしながらも一定の方角へ向かって居るらしい事が解かる。
「このまま行くと、砂浜に出るわね」
タキの言葉通り、四人は住宅街を抜けて砂浜へ続く道を走る。波の音が聞こえ始めたところで、不意にケイが足を止めた。火蜥蜴がこれ以上水の気配が強い場所には進めないと告げたからなのだが、ケイ以外の他の三名に精霊の言葉が聞こえる筈も無く、急に立ち止まったケイにぶつかりそうになる。危うい所でドミノ倒しになるのを免れた三人は、各々心配や疑問や非難を込めた視線でケイを見た。説明を求める視線には流石に気が付き、走った事で乱れた長い金の髪を片手で軽く整え、ケイが手短に説明を伝える。
「火蜥蜴はこれ以上海へ近付く事が出来ません」
それから火蜥蜴に向き直り、三人には理解出来ない言語で何事かを呟くと、火蜥蜴は現れた時と同じ様に宙を一回転して夜空へ溶けるようにして消え去った。
「この先に、ルゥが居ます」
ケイは大きく息を吐いてから言葉を吐き出した。本人は普段通りの調子で出したつもりなのだろうが、そのあまりに辛そうな声音を聞いてユエとタキも漸くケイの体調が思わしくない事に気が付く。
「おい、また熱が出てるんじゃないのか」
ユエがケイの背に右手を添えて支えながら尋ねた。ケイは「平気です」とだけ答えてユエの腕から離れると、砂浜へ向けて歩き出す。残された三人はどうしたものかと顔を見合わせるものの、結局は何も出来ずに黙ってケイの後に続いた。
砂浜と道路を区切る防波堤を下りると、四人は砂浜の異常さにギョッとして前方を注視した。砂浜と、海の浅い部分の一部を覆う形で半端ではなく大きな魔術壁が構築されていたのだ。その魔術壁は通常の術と異なり、周囲からの視線を避けるような細工が施されていた。魔術壁へ入り込む光を屈折させているのだろう。外からでは内部の様子がはっきりとは分からない様になっている。昼間なら多少ぼやける程度であまり効果は無いのだろうが、陽が沈んだ夜、周囲に明かりの乏しい浜辺ならば内部の様子を窺い知る事はなかなかに難しい。四人は慎重に巨大な壁に歩み寄ると、中を見ようと黒々とした魔術壁の曲面に顔を近付けた。刹那、
ベチャ……。
と、実際にはそんな音は聞こえなかったのだが、壁の内側にベッタリと張り付いた顔を見て、四人の脳裏にはそんな擬音が過ぎる。ガラスに押し付けられた時の様に歪んだ顔は見慣れた物では無かったが、その水色の髪と金色の瞳、髪の隙間からちょこんと覗いた二本の角には見覚えがあった。
「ルゥ!?」
四人はほぼ同時に叫びながら、壁の内側に激突したままの姿でずるずると滑り落ちるルゥを追いかけてその場にしゃがみ込む。
「ルゥ、一体何があったの?」
リーユンが魔術壁を叩いて呼び掛けるが、壁の中には声が届かないらしく、ルゥはすばやく立ち上がると壁から離れて中央へ向かって駆けて行く。その小さな背に竜族特有の羽が現れているのを見て、ユエが眉を顰めた。ルゥの姿はすぐに黒くくすんで見えなくなる。
「変身してるな」
ユエの呟きに、三人は視線を凝らしてルゥと対峙しているであろう相手の姿を捜す。外からではシルエットのようにしか見えないのだが、ルゥが変身して戦わねばならない様な強敵だとは思えない少年の様な体躯の持ち主だった。ユエ、ケイ、タキが分かったのはそこまでだったが、リーユンには相手が誰であるのか分かった様で、サッと顔色を変える。術式を編む時の立ち姿や走り出す瞬間の重心の落とし方。それらはリーユンにとってとてもよく見知った物だった。
「……ジュン」
リーユンはウォフリーから聞かされた事柄が真実であると知り、喉の奥で唸る様に親友の名を呼ぶと、魔術壁に押し付けた右手をギュッと固く握り締めた。