第三話 「秘薬」 第二幕
暫く空を見上げて呆けていたリーユンだったが、そうして立ち止まって居ては何時まで経っても教室には辿り着けないと自らに言い聞かせ、荷物を抱え直すと狭い路地から広い商店街へ移動する。風が強い所為か普段よりは人通りが少ない事に感謝しながら、リーユンは一歩一歩慎重に歩を進めた。四、五分も歩いただろうか。商店街の半ばを過ぎた辺りでリーユンを呼び止める声がある。
「リーユン=ルルディヴァイサー君?」
自信の無さそうな語尾上がりになるのは、リーユンの顔が箱に隠されて確認し辛いからだろう。自分の名を耳にして、リーユンはその場で足を止める。何とか声の主を捜そうと首を巡らせるが、二つ重ねた荷物の所為で視界が遮られていて思うように相手を見付けられないで居た。オロオロと立ち往生しているリーユンを見かねたのであろう呼び声の主は、二段に重ねられていた箱の一つを取り上げ、互いの姿が確認出来る状況を作り出す
「こんにちは、リーユン君」
先程の語尾上がりとは違い、はっきりとリーユンだと知っての言葉。リーユンは開けた視界の向こうに声の主を確認すると、あっと小さく驚きの声を上げた。
「ウォフリー先生」
人の良さそうな微笑を湛えていたその青年は、リーユンに名を呼ばれた事に少し嬉しそうに笑みを深くした。赤茶けた髪は清潔に短く整えられており、幾分目尻の垂れ下った焦げ茶色の瞳はいつも微笑んでいるように見える。口元も柔らかく笑みを滲ませていて彼の人懐こい性格を良く表していたが、それに加えて両頬の辺りにあるそばかすが彼の表情に幼い愛敬を添えていた。
ウォフリー教師。正確にはレイルズ=フェリオット=ウォフリーと言う名のこの青年は、ウィズムント魔術学院一般基礎学年を受け持つ青魔術師である。一般基礎学年とは言え、青魔術師がクラスを任されるのは異例の事だ。通常は白以上の色冠を持つ魔術師や魔導師に師事し、白の位を戴いて初めて教壇に立つ事が出来るのだ。つまり青魔術師の身でありながら教鞭を振るう事が出来るウォフリーは、大変優秀な魔術師である。単純に考えればただ其れだけの話なのだが、なまじ彼の実家がルドレイド大陸の砂漠を牛耳る貴族である為に、言われない誹謗中傷を受ける事もしばしばあるようだった。けれど青年はそんな様子を微塵も見せる事無く、いつも微笑みを絶やす事が無い。それは今現在も変わらずリーユンに向けられていた。
目の前の人物が何者であるかを知ってリーユンは少なからず緊張を覚えたが、ウォフリーは全く気にした様子も無く少しおどけた口調で話し掛ける。
「君に名前を覚えて貰えているなんて、光栄だね」
それからウォフリーはリーユンの隣に並ぶように立ち位置を変え、箱を一つ抱えたまま商店街を学院へ向けて歩き出す。
「私も丁度学院へ帰る所だから、運ぶのを手伝うよ」
顔と名前が一致するのはお互いある程度学院内で名が知れ渡っているからと言うだけで、決して親しいとは言えない相手からの突然の申し出に驚いたリーユンであったが、それも一瞬の事で、有り難く彼の申し出を受け取る事にした。「ありがとうございます」と礼の言葉と笑みを返し、リーユンは半分の重さになった荷物を抱え直すと、先に歩き出したウォフリーの後を追う。隣に並んで歩きながら、来た時同様周囲を気にしながら歩くリーユンに、ウォフリーが怪訝そうに尋ねた。
「まだ何か買い足りない物でも?」
既に一人では運びきれない量の荷物を抱え、更に何かを探していれば怪訝に思って当然だろう。リーユンは気恥ずかしさに幾分視線を伏せて答える。
「いえ、昼に出掛けたきり、ルゥが戻って来ないものですから」
「あぁ、あの元気な小竜族の少年か。まだ明るいし、どこかで遊んでいるんじゃないかな?」
視線を周囲へ巡らせ、夕日に染まる商店街を眺めるウォフリーは極々一般的な意見を述べる。青砂の所為で普段より人通りは少ないとは言え、夕飯の買い出しや飲食店の夜の営業準備等でまだまだ活気のある時間帯である。リーユンは何とも言えない曖昧な表情で小さく笑みを浮かべるだけだ。普通ならウォフリーの意見は正しい。元気の良過ぎる子供――実際にはリーユンよりも年上であるが――そんな遊びたい盛りの少年が、昼に出掛けて夕方前に帰って来ないからと言って心配する方がどうかしている。しかし、ことクゥ=ラ=ルゥに関してはそう楽観的に考えるわけにはいかないのである。何せトラブルメーカーである。それも筋金入りの。ルゥは行く先々で面倒事に首を突っ込んでは騒動を大きくするのを生き甲斐にしているような節がある。そんなルゥが出掛けてかれこれ四時間が経とうとしていた。それなのにウィズムントは平和なのだ。普段なら多かれ少なかれもう何事か騒動が起きていても可笑しくは無い。否、起きていなければ可笑しい時間であるのに、喧噪のけの字も聞こえて来ない。本当に何かしらの偶然が重なり、その上聖なる五神の御加護があったのならば今のこの平和も頷けるのだろうが、生憎とそういった奇跡の様な可能性を素直に信じる事は出来なかった。となれば残る答えは限られてくる。誰かがルゥをきちんと監視指導しているか、ルゥの身に何かあったか、だ。この二つもそうそう考えられる事柄ではないが、ルゥが出掛けていてウィズムントが平和である事を説明するには、他に良い理由が思い浮かばなかった。
(その二つでより可能性が高いのは、ルゥの身に何かが起こった、なんだけど)
リーユンは小さく溜息を吐いた。どこかの黒魔術師のようにただどこかで寝こけている、という落ちである事を切に願う。
暗く沈んだように見えるリーユンを、ウォフリーは微笑を浮かべた優しい眼差しで見つめる。
「友達が心配なんだね。荷物を事務室に預けたら私も一緒に捜そう」
ウォフリーの申し出に驚いたのはリーユンだ。思わずその場に足を止め、蒼い眼を大きくしてウォフリーの姿を眺める。
「あ、いえ、僕の思い過ごしかも知れませんし、先生にそこまでしていただく訳には」
荷物を持って貰った上に人捜しまで手伝わせるのは流石に躊躇われた。リーユンは本当に申し訳なさそうな表情を浮かべ、謝罪の言葉を続ける。
「せっかくのご厚意なのに、すみません」
リーユンを困らせたい訳では無かったのだろう。ウォフリーも立ち止まり、慌てて首を横に振り、
「とんでもない、謝るのはこちらの方だ。友人を心配するのは当然の事なのに、無責任な事を言ってしまった。だから、私の事は気にしなくていいから、手伝わせて貰えないかな。人捜しなら人手は多い方が良いだろう?」
謝罪の言葉と、優しく言い聞かせる様に続く言葉とに、リーユンは幾分表情を緩ませた。小さな島国とは言え、ウィズムント国内を一人で探索するのは無謀だ。ウォフリーの申し出は非常にありがたい物だった。
「すみません」
リーユンは先程とは違った意味での謝罪を口にする。それを聞いたウォフリーは満足そうに頷いて、「少し急ごうか」と歩を速めた。
二人はウィズムント魔術学院に到着するや否や、直ぐに南棟の事務室へ向かう。受付の女性に荷物の宅配と伝言を頼むと、早々に来た道を戻った。門に辿り着いた頃には辺りは紫に染め上げられ、夜の色彩に変わろうとしている。
「彼の行きそうな場所に心当たりは?」
ウォフリーの質問を受け、リーユンは一瞬言葉に詰まる。それからチラリとウォフリーを見上げると、言い難そうに答えた。
「騒ぎの起きそうな所、です」
「成程」
リーユンの返答にきょとんとした表情を見せたウォフリーであったが、彼もクゥ=ラ=ルゥの噂ぐらいは知っている。尾ひれや背びれ、ついでに胸びれや腹びれまで付いていたと仮定しても、ルゥの起こしてきた数々の騒動は決して小さく無い。
「取り敢えず人通りの多そうな場所を捜そう。私はもう一度商店街をあたってみる」
リーユンはウォフリーの言葉に頷き、
「僕は港の方へ行ってみます」
と伝えてウィズムントの中央通りを右方向へ曲がった。港の方面、ウィズムントの南西には、旅行者や漁師たちを対象にしている宿を兼ねた酒場が数件ある。多少いかがわしい店も建ち並ぶその界隈は、徐々に賑わいを見せ始める時間帯となっていた。太陽はその姿を海の向こうへ隠し、残照が水平線を赤々と燃え上がらせている。七色のグラデーションは濃紺が優位を示し、街には明かりが灯り始めていた。厳めしい漁師たちや華やかに着飾った女性が歩くその通りでは、小柄な少年であるリーユンはかなり浮いて見える。その上学院支給の赤いローブに防砂用のケープをきっちりと着込んだ姿はいかにも優等生で、既に少なくない数の視線を集めている。
「真っ暗になる前に見付けて帰ろう」
リーユンは小さく口の中でつぶやくと、喧噪を抜けて更に港へ向かって走った。賑やかな界隈を抜けて暫く行くと潮の香りが漂って来る。船で運ばれて来た、またはこれから運び出す積み荷を一時保管する倉庫が立ち並ぶ一画まで来ると、リーユンは不意に足を止めた。
――カラ……カラカラ…………。
風が吹くのに合わせて何かが転がる音が聞こえる。リーユンは息を殺して音が聞こえる方角へ慎重に歩を進めた。倉庫と倉庫の間、行き止まりとなっている細い道の入り口付近に、それは転がっていた。手の平サイズの大きさの透明な瓶。蓋が開いていて、風に吹かれて転がる度に中に入っていた青い砂が少しずつ零れ落ちていた。その小瓶には見覚えがあった。ルゥが青い砂を集めては詰め込んでいた瓶だ。もうすぐ瓶が一杯になるからと言って昼間に出かけて行ったのだが、今は半分程に量が減っている。周囲には既にクゥ=ラ=ルゥの気配は無い。リーユンは転がる瓶を拾い上げ、零れてしまった砂を可能な限り元に戻すと、瓶にしっかりと蓋をしてローブのポケットへ仕舞い込んだ。
ここでルゥの身に何かが起きたのは確かなのだが、誰かから話を聞こうにも、今この倉庫街にはリーユン以外に人が居ない。リーユンはこれからどうすれば良いのか分からずその場に立ち尽くし、すっかり日が沈んでしまった倉庫街が街燈で淡く照らし出されていく様子を刹那の時間眺めていた。しかしながら茫然とした意識は近付く人の気配を知ってすぐに働き出し、物音を立てない様に素早く倉庫と倉庫の間の細い路地に身を隠す。やがて単調なリズムの足音と共に現れた人物を確認すると、リーユンはホッと肩の力を抜いて、知らずに詰めていた息を吐き出した。
「ウォフリー先生」
「あぁ、リーユン君、此処に居たか」
ウォフリーも声音に幾分安堵の色を滲ませるが、その表情は緊張感を隠せずに居た。互い早足で距離を削り、手短に報告を交わす。
「残念ながら、ルゥ君を見付ける事は出来なかったよ。けれど、目撃証言は得られた」
リーユンはそこで一度言葉を区切るウォフリーを急かすように視線を重ねる。嫌な予感を感じているのだろうと言う事はその表情からも分かり、ウォフリーは沈痛な面持ちで先の言葉を口にする。
「商店街を誰かと一緒に歩いている所を見ていた人が居たんだ」
「誰かって誰ですか!」
リーユンは堪らず声を上げた。その何者かがルゥを何処かへ連れ去ったに違いないのだ。倉庫街近辺には魔術を使用した形跡は無かった。ろくに抵抗も出来ないままルゥが連れ去られるなんて、相手は余程魔術に精通した者なのだろう。そんな人物は魔国ウィズムントにおいてもそうそう居るものではない。リーユンは険しい顔つきでウォフリーの言葉を待った。
「リーユン君、落ち着いて聞いてくれ」
ウォフリーはそう前置きしてから、静かに続ける。
「商店街での目撃者は数名居てね。その皆が同じ事を言っていたよ。小竜族の少年と並んで歩いていたのは、黒髪の、ウィズムント人の少年。たぶん君がよく知る人物だ」
やけに唇が乾いて仕方がないのは、青い砂や潮風の所為だけではないのだろう。リーユンはウォフリーの言葉をすぐに理解する事が出来ず、震える唇を舐めて少し湿らせてから、漸く小さな声で呟いた。
「まさか」
笑い飛ばしたい気持ちを、掠れた声が裏切る。ルゥを連れ去れる程の実力の持ち主で、街の人に名前や顔を覚えられる程には有名で、ウィズムント人の少年で、リーユンのよく知る人物と言えば、心当たりは一人しか居ない。正義感の強い生真面目な少年の姿がリーユンの脳裏に浮かぶ。俄かには信じ難い事ではあるが、目的や理由の如何は兎も角、彼にならば犯行は可能なのだ。
「嘘、ですよね、ウォフリー先生」
リーユンはその客観的な事実を認めたくなくて、縋る様にウォフリーを見上げる。
「だって、そんな事して、彼に何の意味があるんですか?」
ウォフリーは宥める手付きでリーユンの肩に触れ、静かに、けれどリーユンが聞きたくないと思っているだろう言葉をゆっくりと口に出した。
「彼が何を思って行動したかは私には解らないけれど、ルゥ君と歩いていたのはジュン=エンシェンだったと、皆が言っていたよ」