第三話 「秘薬」 第一幕
ドール教室で1、2を争う問題児、クゥ=ラ=ルゥが出掛けているのに街が静かすぎる? と言う事で、リーユンがおつかいついでに捜しに出る事に。
六の月に入り、麗らかだった陽気は日差しを強め、晴れ渡った日の昼間は薄っすらと汗ばむ程の気温となり始めた。大陸では梅雨が訪れ、湿度の高い蒸し暑い日々が続いていると聞くけれど、ここウィズムントでは長雨の気配も無く、乾いた空気の中で青の色を深めた空と薄く水色に染まる雲、街中もどこかほんのりと青く染まっているのが確認出来る。原因はこの時期にウィズムントを吹き抜ける青い風だ。一際風の強い日に何処からか運ばれてくる粒子の細かい青い砂が青風の正体なのだが、その砂が何処から飛んで来るのかは誰にも分かっていない。言い伝えによると遥か昔、竜族が住んでいたと言われる浮遊島から運ばれて来ていると言われているが、其れを確かめたという話も聞かず、あくまでも伝承の域を出ない話である。
リーユン=ルルディヴァイサーは手にしていた魔術書から視線を上げると、風に叩かれて微かに音を立てる娯楽室の窓を見た。窓枠と硝子を支える為に十字に渡された木枠の隅に、僅かに青い砂が溜まっている。リーユンの生まれた北方のローズル大陸は年間を通して雪に覆われ、白銀の世界に慣れていたリーユンには初めて訪れたウィズムントの桜も五月の陽気も、六月の青風も夏の日差しも、全てが物珍しいものとして映っていたのを思い出す。八年目の今となってはもう毎年の見慣れた風物詩として感じられるようになっては居るものの、伝説の島から運ばれるという青い砂も、其れによって薄青く染まる街並みも、何処か神秘的な雰囲気を纏っている様に思える。
じっと窓の外に視線を注ぐリーユンに気付いたのか、クラスメイトの一人、タキ=ヤンフゥも読んでいた魔導書から視線を外し、リーユンの眺めている先を辿って外の景色を視界に映す。
「嫌な季節が来ちゃったわね」
青く染まる風景に気付いた途端、タキは眉間に皺を寄せ、あからさまに不機嫌な表情を浮かべて忌々しそうに呟いた。リーユンはタキの所感に驚き、数度瞬いて彼女の横顔を見る。先にも述べたとおり、リーユンは薄青く染まる街並みを美しいとは思えども嫌いだと感じたことは一度も無い。実際この時期は観光客の姿がちらほらと目に留まる事も多いくらいで、否定的な意見と言うものを今までに聞いたことがない。何故嫌な季節だと思うのか理由を考えてみるものの、全く見当が付かないので大人しくタキに訊ねてみる事にした。
「この季節の何が嫌なの?」
「そんなの決まってるじゃない」
問いかけられたタキは外に向けていた視線をちらりとリーユンへ移し、手元の魔導書に戻す。決まっていると言いつつも続きを語る気配は無く、ページを繰る音を響かせて「ケイだって嫌なはずよ、ねえ?」とケイに話を振る。魔導書に集中しだしたタキに代わり、同じく読書に勤しんでいたケイがふと視線を起こし、タキを、続いてリーユンを見つめる。
「そうですね。この季節は外を歩くと髪や衣服が砂に塗れてしまいますから」
ケイの言葉を受けて、リーユンは昨日の外出時の事を思い出した。砂避けの為にフードを被っていたとは言え、細かな青い砂は容易く髪に絡んで柔らかな筈の髪はごわごわになり、衣服も砂っぽくなってざらついた肌触りを伝える。けれどもそれはこの季節ならば当たり前の事であるし、リーユンはそう言う物だと思って別段に気にした事は無かった。しかし女性は、特にタキやケイは髪が長いし、衣服もドレープが豊かでふわふわと柔らかな物が多いし、砂塗れになると手入れが大変そうである。大いに納得出来る理由を受けて、リーユンは「なるほど」と紡ぐと共に、改めて女性の大変さを実感する。疑問が解決した所でケイもリーユンも魔術書の読解に意識を戻し、娯楽室には二度目の沈黙が訪れ、風が硝子戸を叩く音だけが響く。
暫く黙々と魔術書や魔導書を読み耽っていた三人だったが、いち早く読了したケイがパタンと小さな音を立てて本を閉ざし、独白めいた小さな呟きを漏らした。
「遅いですね」
ケイは既に読み終えていた一冊目の魔術書の上に、読んだばかりの書物を丁寧に乗せる。タキもケイに倣って本を閉じるとテーブルの上へ放り投げる。こちらは読み終わった訳ではなく、ただ単に飽きただけの様だった。タキは形良く整えられた薄桃の爪が飾る指先で魔導書の縁を撫で、ピンと弾く。
「そうね。遅いのはいつもの事と言えばいつもの事なんだけど」
ケイの話題に乗りかかる声音には明らかに面白がっている響きが混ざっており、タキが退屈な読書に飽き飽きしていたのが良く判る。リーユンも娯楽室の壁に掛けられた幻陽計(注:日時計を模した魔導器)を見て、少しだけ眉根を寄せる。幻陽計の円盤の中心に立つ柱。そこから伸びる影は間も無く午後5時を示そうとしている。確かに、少し遅すぎるかも知れない。
「僕、ちょっと探してくる」
リーユンは読みかけの魔術書に栞を挟み、テーブルの上に置いて立ち上がると、直ぐに扉へ向かって歩き出す。その背中にタキが慌てて声を掛けた。娯楽室からエントランスへ続くドアのノブに手を掛けた体勢でリーユンが何事かと振り返る。
「どうしたの?」
「街まで出るなら、買って来て欲しい物があるの」
タキは両手を胸の前で組み合わせ、小首を傾がせてとびきりの笑顔を見せる。軽くアップにした髪が柔らかく肩の辺りで揺れ、「駄目?」と上目で見つめられて一瞬ドキッとしたリーユンだ。
「駄目……って言うか」
内容が内容だけに即答はし辛く、リーユンは軽く咳払いをして間を置き、
「無理だよ、タキ。タキが必要な物って僕にはさっぱり分からない物ばかりだ」
魔導は専門外のリーユンである。魔導に用いる実験器具や材料などが分かる筈も無いし、ましてや女の子の衣類や装飾品となれば完全にお手上げである。そんなリーユンに更に笑みを振り撒きながらタキが言葉を重ねる。
「大丈夫よ。注文している物を買ってきてくれるだけでいいから」
タキのその台詞を受けて、傍観を決め込んでいたケイが反応を示した。ぼんやりと窓の外を眺めていた翠の眼差しをタキへ送り、緩く首を傾げさせ、
「それは、私が以前頼んでいた物ですか?」
ケイの問い掛けに、タキはこくこくと二度程頷いて答える。
「もちろん。まぁ、それだけじゃないけどね」
タキの返答にケイは浅く眉根を寄せて少し困った表情を作ると、窓の外をもう一度眺めてからリーユンに向かって頭を下げた。
「私からもお願いします。買って来ていただけないでしょうか」
丁寧に頭を下げられてしまっては無下に断る事などリーユンに出来る筈も無く、注文した品が書かれた二枚にわたるメモと大量の紙幣をタキから手渡され、送り出される運びとなった。
「いってらっしゃ~い」
「お気を付けて」
「……行って来ます」
一応玄関まで付いて来てくれた二人に見送られ、リーユンは防砂用に羽織った薄手のケープを口許まで引き上げると、玄関のドアを押し開いて隔離教室を後にした。
外はと言うと、相変わらず風は止む気配を見せず、周囲の景色をうっすらと青く染め上げている。
「綺麗だと、思うんだけどな……」
ドール教室の古びた校舎と周囲を取り囲む森林が、薄青い膜を通して見える様はどこか神秘的な趣がある。リーユンは双眸を細めて呟きを零し、校舎に背を向けて歩き始めた。青に煙る小道を眺めながら歩いていると、いつも白一色だった故郷の風景がリーユンの脳裏を過ぎる。一年中雪に覆われ、寒くて、食べ物もろくに無い、そんな国だった。そのくせ、と言うよりも、その所為だろうかと今では考える様になったのだが、内戦が絶え無い国でもあった。いつも広い国の何処かで争いがあり、家族で身を寄せ合って怯えて暮らしていた。
リーユンは頭を数度振り、思考を止めた。いつもこの時期になると故郷を思い出すのは、この青い風が今は無き竜達の故郷から来る物だからだろうかと、リーユンは取り留めの無い思考を漂わせながら学園の敷地を進む。実際に青い風の正体が解明された訳ではないが、リーユンはその言い伝えを信じていた。
遥か昔、その卓越した知能と身体能力とで栄華を極めた竜族達。彼らは人々が見上げる高み、神々の領域である天に竜達が住まう為の島を創造した。実際の処、天空は神々の住まいなどではなく、竜族は神と出会う事無く空を我が物顔で駆け、誰憚る事無く天空を支配した。時が経つにつれて彼らは空を制しただけでは飽き足らず、自らが神であるかの如く振る舞い始めた。地に住まう人々や獣人を征服し、神々ではなく竜族を崇める様にと強要していった。それが神々の逆鱗に触れた。怒り狂った神々は竜族の住まい、浮遊島から色彩を奪い、色鮮やかで煌びやかだった彼らの国は一瞬にして灰色の暗い世界へ変貌した。竜達は恐れおののいて島からの脱出を試みるも、穏やかだった空は神々の怒りの如く雷雨で荒れ狂い、最早脱出は不可能だった。無理に島を出ようとした竜はたちまちの内に嵐に呑まれて一人残らず行方不明となった。そして、完全に閉じ込められた竜達は次々と病に倒れた。竜熱病。火蜥蜴の力が強く作用する場所に長時間居るとかかる病であるが、竜族と特別親しく接した人間が極稀にかかる程度の珍しいもので、元々火蜥蜴と相性の良い竜族がかかる事など皆無と言っても良い。非常に珍しい病であるが故に竜達の間にも対処法は知られておらず、半年の短い期間の間に竜達はその数を激減させた。
やがて、一人の若い竜が神々に祈りを捧げた。
罪は私が一人で背負いましょう。ですから、どうか、一族への天罰をお収め下さい。
若い竜の嘆願を聞き入れた神々は浮遊島の色彩を戻し、荒れ狂う空を鎮めると、彼以外の竜達を地上へ送り届けた。そして、一人残った若い竜の色彩を奪った。火竜族の特徴である緋色の美しい髪と比翼は白く変貌し、竜族の証である金色の瞳は夜の海を思わせる黒曜に染まった。それから神々は誰にも見つからないように、誰も訪れる者の無いように、浮遊島を空と同じ青色に染め上げた。その浮遊島が風化して青い風となっている、と言うのが伝説の詳細である。
一族の罪を一身に受けた若い火竜がどうなったかと言うと、彼はその後神々の使いとして働くようになった。その献身的な働きに、神々は五十年に一度だけ一族の元へ訪れることを若い竜に許した。若い竜はやがて皆から白竜と呼ばれる存在になる。
現在も五十年に一度の白竜の飛来は続いており、竜族の住まう西方の山、ギムリギムル山脈では盛大な祭りが行われているそうだ。そう言えば、今年の夏にも白竜祭があるとルゥが騒いでいたのをリーユンは思い出す。
学院の広すぎる敷地を抜け、リーユン=ルルディヴァイサーは西門から続く道を進んで真っ直ぐ商店街へ向かう。途中、辺りを見回しながらクゥ=ラ=ルゥの姿を探すが、それらしい人影は見当たらない。
「いったい何所まで出掛けたんだろう」
商店街に着いてからもルゥの立ち寄りそうな店を覗きながら歩いてみたが、平和その物な商店街の姿が見られただけで、結局ルゥを見付ける事が出来ないままタキに頼まれた目的の店まで来てしまった。商店街の路地を入った所にあるこの店は、絶版になったような古い書物や魔導の実験器具から怪しい薬まで何でも揃うとの事で、タキ=ヤンフゥお気に入りの一店である。
リーユンは店の扉に下げられているモンスターの一部らしき干物の存在に怯えながら、そっと扉を開いて中を覗いてみた。店内もリーユンには理解し難いモノ達で溢れ返っていたが、それなりに秩序立てて整頓はされているらしかった。一見乱雑に見えるのは所狭しと商品が並べられている所為だろう。
「あそこのエントランスに比べれば、どこもマシかも知れない」
リーユンは少し情けない様な気持ちになりながら店内へ足を踏み入れた。漢方薬に似た独特の匂いが鼻につく。
「どなたかいらっしゃいませんか?」
雑然とした店内はとても静かで、人の気配が感じられない。静寂を破るのが何となく躊躇われて、リーユンは抑えた声量で店主、または店員が居ないかと尋ねてみる。すると、突然何の気配も無かった後頭部の辺りから声を掛けられて、リーユンは驚きのあまり文字通り飛び上がった。
「そんなに驚く事無いにゃー」
天井に空いた穴から逆さまに顔を覗かせる眼鏡の青年が大げさに悲しんでいる。青年は四角い穴の縁を両手で掴み、おそらくは倉庫として使っているのだろう天井裏から逆上がりの逆再生の要領で音もなく地面に降り立った。背を向けていた姿勢からくるりとリーユンに向き直り、青年は小首を傾がせる。
「さて、今日は何の御用かにゃー」
青年は軽く折り曲げた人差し指の関節でずれた眼鏡を押し上げながらリーユンに尋ねる。青灰の柔らかそうな猫毛からは、髪と同色の獣毛に覆われた三角の耳が覗いている。背後にはゆらゆらと細長い尾が揺れ動いていて、青年が虎人族である事を如実に物語っていた。リーユンは自分よりも少しだけ空に近い位置にある青年の顔を見上げながら、タキに頼まれてやって来た事を告げる。
「タキ=ヤンフゥの名義で注文していた商品を受け取りに来ました」
「タキちゃんのお遣いなんだにゃー。大変にゃー」
店主と思しき青年は言葉とは裏腹に、大して大変そうではないのんびりとした口調で話しながら、店の奥へ進んで扉の向こうへ消える。暫くガタガタと物音がしたかと思うと、青年は両腕に大きな箱を二つ抱えて戻って来た。
「中を確認して欲しいにゃー」
恐らくはこれも売り物なのだろうアンティーク調のテーブルの上に、青年は荷物を乗せ、上の箱を横にずらして並べ置く。それから箱の蓋を開け、中に納められていた麻の薬袋を一つ手に取って、袋に書かれた文字が確認出来る様にリーユンへ示す。リーユンは慌ててローブのポケットからタキに預かったメモを取り出し、示される商品とメモに書かれた商品とを照会していく。リーユンが魔導に不慣れだろう事を見越して、虎人族の青年は一つ一つ商品名を教えてくれるのだが、リーユンは正直な所、示された商品と商品名が合っているかどうかすら分らない有様だった。リーユンはメモをテーブルに広げ、青年にも手伝って貰いながらどうにか全ての商品が揃っている事を確認すると、青年と二人で商品を箱の中に戻し、代金を支払う。厚みのあった紙幣は数枚のコインに化けてしまったが、かなり貴重な物もあった様なのでこんな物なのだろう。リーユンはタキの金銭感覚を心配したが、実際の所今一番心を占める心配事はこの大量の荷物を持って帰る自分の身の事であった。
「気を付けて帰るにゃー」
のほほんとした青年に見送られ、リーユンは箱を抱え上げてふらふらと店を抜ける。開いた状態で扉を抑えてくれる青年へ「ありがとうございました」と礼を伝え、夕闇に染まりつつある通りへ向かう。商店街に出る直前の路地で足を止めて壁に凭れ掛かり、箱の底を右腿で揺すり上げ、少しだけ休息を取る。
「あの人が持ってる時はもう少し軽そうに見えたのになぁ」
スマートに見えてもやはり獣人は獣人であるらしい。人間よりは力が強いようだ。
「ルゥがまだ見つかってないけど、一度教室まで戻らないとダメかな」
リーユンは抱えた荷物に視線を落とす。流石にこれを抱えて人を探し歩く自信は無い。かと言ってここから教室までの道程が容易いかと言われるとそんな筈も無くて、リーユンは思わず溜息を吐いて途方に暮れた様子で空を見上げるのであった。