第二話 「黒き書」 第七幕
リーユン=ルルディヴァイサー、タキ=ヤンフゥ、ケイ、ジュン=エンシェンの四人は必死に風蠱の攻撃から逃げ惑いつつ、新たに現れた二人の人物を見て驚きの声を上げる。
「ルゥに、フェイ=マオシー!?」
何故こんな所に、しかも隔離教室で一、二を争う問題児クゥ=ラ=ルゥと共に居るのか。不思議な取り合わせに戸惑う四人を尻目に、当の本人は至って自然な様子でそこに存在し、笑顔を浮かべていた。
黒魔導師フェイ=マオシー。魔国フィズムントのみならず、国外でもその名を轟かせる有名人である。彼の発明した魔導器は生活に密着した便利な物が多く、彼の功績によってウィズムントの生活水準は大幅にアップしたと言われている。その為ウィズムント国民からの人気は高く、ウィズムントの政治を執り行う六人の執政官の一人に選出されていた。
そんな雲の上の人物には決して見えない年若い小柄な青年は、自分の名前を言い当てられた事に満足そうな頷きを返し、傍らに佇む小竜族のクゥ=ラ=ルゥの肩に手を置いて言葉を促す。ルゥはフェイの顔を見上げて一つ首肯を見せてから、クラスメイトに向き直る。
「これ、カイリ先生が持ってけってさ」
そう言ってルゥが逃げ惑う四人に投げて寄越したのは、騒動の元凶である例の黒い本だった。立派な装丁の黒い本は綺麗な放物線を描いて四人の元へと届き、風蠱の攻撃を避けざま、リーユンがその手に受け止める。しかしながら今現在これを渡される意図がさっぱり分からず、四人は、特に黒い本が何であるかを知らないジュンは不思議そうに首を捻る。黒い本に施された術式を見るに、どうやらリーユンに与えられた物である事は分かるものの、タキは皆を代表して率直な疑問をルゥへ投げ掛ける。
「で、これをどうしろって言うのよっ!」
狂った風蠱の暴走は止まらず、タキは突進を避ける為に慌てて倒壊したテーブルを飛び越える。木製の机や椅子がバラバラと砕け落ちる音と、暴風の音、四人の慌しい足音が周辺に響く中、タキの声に言葉を返したのはルゥではなくフェイだった。
「それを考えるのが、君たち生徒の勉強じゃないのかな?」
フェイは穏やかな口調でそれだけを答えると、近くに転がっていた無傷の椅子を引き起こし、長いローブの裾を払ってゆったりと座面に腰を降ろす。タキは完全に傍観の体勢に入ったフェイを一度睨み付けたが、意味がないと悟ったか、ただ単に余所見をしている余裕がなかったからか、直ぐにフェイの存在を意識から追い出して風蠱に集中する。縦横無尽に吹き荒れる風は捕らえ所が無く、捕獲はもとより視認するのも困難な精霊を相手にするにはケイの指示だけが頼りだった。
そんな中、リーユンがふいにケイの傍に駆け寄り、暴走中の風蠱に関しての説明を求める。ケイは風蠱の動きを皆に教えながら、その合間に手短にリーユンへ現状を伝えた。曰く、
風蠱は狂ってしまっている事。
狂った精霊は消滅させなければならない事。
「もし、何か強い衝撃を与える事が出来たら、精霊が正気に返ったりはしませんか?」
重ねられるリーユンの問い掛けを受け、ケイは風蠱の軌道を指示し、荒れ狂う突風に長い髪を靡かせながら、正直に答える。
「分かりません。可能性は無いとは言えませんが」
「なら、やってみる価値はありますよね」
力強いその声にケイが何事かを言う前に、リーユンは軽やかに踵を返してタキの元へ移る。リーユンが何か閃いたらしいと知り、タキは避ける動きを最小限に抑えて彼の言葉を聞く為に耳を傾けた。
「タキ、僕と風蠱を包み込める位の大きなシールドを張れる? かなり強度が必要なんだけど」
「それでこの状況をどうにか出来るって言うなら、やるわよ」
他に方法が思い付く訳でもなし、タキはリーユンと視線を交わして深く頷く。リーユンは「ありがとう」とタキに礼と笑みとを返し、次に傍観を決め込んでいたルゥに対して声を張り上げる。
「ルゥ! タキがシールドを張ったら、その中を水で一杯に満たして欲しいんだ。頼める?」
仲間外れめいた寂しさを感じていたルゥは二つ返事で快諾し、リーユンに向けて右手の親指をピッと立て、偉そうな態度と不遜な笑みにて首肯を見せる。リーユンはそれを確認すると、ケイへ視線を戻した。
「精霊が見えるケイさんには、僕をガードして欲しいんです」
ケイはリーユンがやろうとしている事が分かったのか、リーユンが大事そうに抱えている黒い本を一瞥してから少々険しい表情でリーユンの蒼い瞳を覗き込む。リーユンの瞳に迷いは無い。タキもルゥもケイも、それぞれの役割を果たしてくれると信じきっているのだろう。ケイは険しい表情を崩さないままではあったが、黙ってリーユンの指示に従う事を了承した。しかし、そんな遣り取りに不服を露にしたのはジュン=エンシェンだ。
「隔離教室のお前らだけに任せておくのは不安だ」
歯に衣着せぬ率直な意見はいかにもジュンらしく、リーユンは思わず懐かしさに笑みが込み上げる。ちょっとした擦れ違いがあっても、魔術の腕が上がって置いて行かれたとしても、彼が彼である事に変わりは無い。ましてや一月やそこら離れただけで別人になんてなり様筈も無い。ならばきっとまた、以前の様な関係に戻れる筈だ。その為にリーユンがすべき事はただ一つ。再びジュン=エンシェンに友と認めて貰える様な立派な人物になれば良い。
「ジュン。あまり隔離教室を侮らない方がいいよ」
宣戦布告めいた台詞はその第一歩。リーユンの言葉にルゥが面白いとでも言いたげに囃し立てる様な口笛を鳴らし、タキとケイも視線を交して頷き合った。
「それじゃあいくわよ。みんな、下がって!」
タキの言葉と共に、ケイとルゥ、ジュンの三人はタキの立つ位置よりも後ろへ一斉に飛び退く。リーユンのみが皆とは反対に、風蠱の移動と共に舞い上がる白い木片に向かって走り出した。
タキはリーユンと風蠱の動きを追いながら、慎重に魔力を練り上げていく。白く強烈な光を纏う術式が、左右に広げたタキの両手を軸にして空中に展開される。タキは最後の一文字を宙に書き記し、両手を前方へ向けて高らかな声音で魔術を発動した。
「プロテクト・シールド!」
キイィンと空気が裂け、分断される音と共に、リーユンと風蠱を中心にオープンテラスの半ばを覆う直径十メートル程の巨大なドーム型防壁が出現する。基本的に無色透明であるその壁は、物質化された魔力の揺らぎによってシャボン玉の様な虹色の遊色を見せている。タキは細心の注意を払いながら魔力をコントロールし、揺らぎを最小限に抑えて防壁を保ち続ける。防壁が大きければ大きいほど、それに比例して壁の強度を均一に保つのは困難を極める。薄っすらと額に汗を滲ませながら最終的な調整を済ませ、タキはルゥへと視線を向けた。
「ルゥ!」
力強く鋭い声は、タキに余裕が無い事を如実に表している。ルゥはそんな彼女にニヤリと笑みを見せながら「おうよ」と気安い調子で請け負い、右手を高々と頭上へ掲げる。足元から勢い良く吹き上がるのは彼が編み上げる淡い水色の術式だ。
「ウォーター・スウォーム!」
魔術発動の為のキーワードが響き渡ると同時、タキが作り上げたドーム状の防壁の内側に大量の水が出現する。巨大な半球は瞬く間に水に満たされ、内部に居たリーユンと風蠱を飲み込んだ。身体に纏わりつく液体が多少生温かった事にはこの際目を瞑る事にして、リーユンは呼吸を止め、体内へ魔力を蓄えて運動能力の向上を図る。隙間無く水で満たされた防壁内の空間では風蠱が動く度にコポコポと細かい気泡が軌跡を作るので、位置と行動の予測を立てるのが容易となる。動きも空気中を駆ける時とは比べ物にならない程に遅くなっている。しかしながらそれはリーユンにも当て嵌まる事で、運動能力が増したとは言え、水中を魚の様に泳ぐとはいかない。
「汝、清らなる乙女よ。溢るる恵みの一滴を我が友へと与え給え」
ケイは水の精霊、水乙女に呼び掛け、リーユンの呼吸を助ける精霊術を行使する。水中に居ながらも肺呼吸が出来る様になった事に始めは戸惑うものの、ケイの術のお陰だと気付いたリーユンは心の内で礼を述べ、小さな気泡の発生源へと意識を向ける。風蠱は相変わらず狂った様に無秩序な動きを繰り返してリーユンを翻弄するが、彼は水中という悪条件にも関わらず小規模な魔術を巧みに扱い、次第に風蠱を防壁の傍まで追い詰めていく。
「そこだっ!」
地面近くにまで移動した風蠱の頭上と左右に向け、気体を操作して作り出した真空の刃を放つ。水中を突き進む鎌鼬と地面、防壁によって、風蠱は上下左右、後方の逃げ場を失い、残された前方へ逃れるしかなかった。風蠱が居た空間を掠める様に放たれた風の刃の一部は地面に、一部はタキが支える魔術の壁に打ち当たって火花を散らす。硬い防壁を削り取る耳障りな音と共に、術師であるタキにも衝撃が伝わる。タキは何事か文句を言ったようであるが、防壁と大量の水とで外界から阻まれたリーユンには届かない。例え聞こえたとしても反応している余裕は無かっただろう。水中特有のぼやけた様な音に注意深く耳を傾けながら、やっとの事で己の真下へ誘導した風蠱へ向けて黒い本を力一杯投げつけた。風蠱と黒い本が水中を動く度、泡が弾けるこぽこぽと言う音が耳に届く。黒い本は狙いを過たず、見事風蠱に命中したらしい。眩い緑の閃光が水に満たされたドーム内のみならず、オープンカフェ全体を包み込む。その衝撃たるや凄まじく、リーユンが黒い本を水や火に投じた時とは比べ物にならない程で、ケイはありったけの魔力を込めてリーユンを守る為の防壁を編み上げた。激しい圧力がリーユンを襲う。ケイが展開したシールドで守られているとは言え、息が詰まるほどの圧迫感だ。無論それは大量の水を支えていた壁にも襲い掛かる。タキは歯を食いしばり、顎先から汗を滴らせて何とか防壁を保持しようとするが、魔術の壁は次第に罅割れていき、最早崩壊寸前だった。
「だめっ、壁が持たないわ!」
タキはこれ以上防壁を保つ事が不可能だと判断すると、自ら魔術を解く。壁が砕け散った箇所の一点から一気に圧力が放出するよりは、崩壊をコントロールして衝撃を緩和させる方が安全だ。タキが防壁を消した瞬間、ドーム状に留まっていた水が怒涛の勢いで四方八方へと流れ出す。ドームの中央に居たリーユンも、水の流れと共に地面へ落下する。瞬く間に近付く地面に激突しそうになり、リーユンは思わず硬く目を閉ざした。
「…………」
が、いつまで経っても叩き付けられる衝撃は訪れず、何かに支えられている感触を知って恐る恐る目を開ける。足元では一メートル程の高さを保って水浸しになった土が見えている。風蠱によって散々破壊されたテーブルや椅子は押し流され、泥水に浸っている。周囲を一望したリーユンはゆっくりと視線を巡らせ、規則的に肌を撫でる力強い風と羽音を確認しようとして頭上を見上げた。リーユンの金髪と同じく水に濡れた水色の髪と角、金色の瞳、勝ち気な表情が視界に入る。
「お疲れさん」
ニヤリとした笑みで労いの言葉を掛けてくれるのは小竜族のクゥ=ラ=ルゥだ。
「ありがとう、助かったよ」
リーユンも表情を和らげると、笑顔でルゥへ礼を述べる。ルゥに支えられながらゆっくりと地面に降り立ち、水を滴らせる前髪を掻き上げる。振り返ればルゥが背中から生えた薄水色の比翼を仕舞っている所だ。翼の痕跡は跡形も無く、常人と変わらない肩甲骨が布地の隙間から覗いている。
「それって、ホントに出し入れ自由なんだね」
生まれて初めて竜族の一部変身を見て、リーユンは感心したように吐息を零す。ルゥが「もち」と悪戯が成功した子供の様な笑みでリーユンを見上げた所で、水害から避難していたタキとケイが二人の下へ駆け付ける。
「リーユン! 無事で良かった」
タキは気軽な様子で会話を交わす二人を見やり、リーユンに怪我が無い事を確認すると、ホッと胸を撫で下ろした。ケイもタキと同様安堵の表情を浮かべたが、直ぐに表情を改めて少しばかり諌める口調となってリーユンに向き直る。
「本当に、貴方は無茶をしますね」
リーユンはケイの口調の中に落胆の響きが無い事を感じ取り、視線を真っ直ぐにケイの翠の双眸へ注いで問い掛けた。
「ケイさん。風蠱はどうなりました?」
「正気を取り戻して精霊界へ帰って行きました」
ケイは一度視線を伏せて息を吐き出すと、厳しかった表情を崩して微笑を浮かべ、濡れて冷たくなったリーユンの両手を取る。
「普通なら狂ってしまった精霊は消滅させるしか手が無いのですが、リーユンは風蠱を正気に戻してくれました。森の民を代表してお礼を言わせてください。ありがとうございます、リーユン」
無茶をしでかした事に対する心配や小言は早々に切り上げ、ケイは心底感謝している旨をリーユンに伝える。戸惑ったのはリーユンだ。
「え、いえ、あの、僕は、そんな、大した事はしてないです」
しっかりと握り込まれた両手からケイの暖かな体温が伝わってくる。温かった水はすっかりと冷えてリーユンの体温を奪っていたが、みるみる体温が上昇して行くのが解る。リーユンは北方に住まうシュネーヴ人特有の白い肌を朱色に染め、しどろもどろになりながら首を左右に振って恐縮する。そんな二人の様子をタキがじとーっと眺めていたが、リーユンもケイも気が付く気配は無い。
「やれやれ、今年のドール教室は今まで以上に楽しい事になりそうだね~」
無事を喜び合う生徒と半壊したカフェテリアと、水浸しとなった周辺を眺めてしみじみと呟いたのは傍観に徹していたフェイ=マオシーだ。彼は水の被害に遭うことも無く、僅かな水音を伴う足音を立てながら歩み、茶色い泥水に浸っていた黒い本を拾い上げる。黒い装丁は淡いブラウンの優しい光に包まれ、ポンと軽やかに弾ける音を立てて元の黒い姿を取り戻す。
「リーユン君、忘れ物だよ」
フェイの言葉に振り向いたリーユンは、こちらに向けて放り投げられた黒い本を両手で受け止める。カイリ=ドール教師から手渡された当初はびっしりと緻密な術式で覆われていた黒い本。今は全ての術式が解かれていて、黒い本を戒める力は何も無い。リーユンは水で濡れた上着の裾を固く絞り、黒い本に付着した泥を丁寧に拭い取った。
「なぁ、早く開けろよ」
施錠の魔術が消滅している事に気付いたルゥが興味津々にリーユンの手元を覗き込む。タキは乱れてしまった髪と衣服を整え、大きく伸びをしながら大して残念そうには見えない様子でぼやく。
「あ~あ、今回はリーユンの一人勝ちね」
「偶然だよ」
リーユンはタキに困った様に眉尻を下げる笑みで言葉を返す。実際、黒い本を直接水に浸したり火にくべたり、風をぶつけたりなんて、ルゥの魔術が失敗する事故が無ければ気付けたかどうかすら疑わしい。
「運も実力の内という言葉もあるよ」
フェイが四人から少し離れた位置に立ってやんわりと言い聞かせる口調でリーユンに告げる。その目はもっと自信を持てとでも言っているように思えて、リーユンははにかみながらも頷きを返す。それから改めてルゥ、タキ、ケイの三人に向き直り、黒い本に手を掛けた。
「それじゃあ、開けるね」
ルゥがゴクリと喉を鳴らして黒い本とリーユンの手元を注視する。タキもリーユンの隣に立って黒い本の表紙が捲られるのを今か今かと待ち侘びる。ケイも身を乗り出す様な事はしなかったが、やはり気にはなるらしくて翠の視線を皆と同じ様に注いでいた。リーユンも緊張した面持ちの中に好奇を覗かせ、ドキドキしながら右手でそっと黒い本の表紙を開こうとして、急に「あ」と声を上げた。動きを止めたリーユンにお預けを食らった形となったルゥは不満を露にぶーぶーと文句を言うが、リーユンは周囲を見回して気になる事柄を誰にとも無く問い掛ける。
「ジュンは?」
風蠱との応酬やらルゥの変身やら、黒い本の解術やらが重なった所為で、ジュンが居なくなった事に気が付かなかった。リーユンはしきりに辺りを見回すものの、既に見える範囲にはジュンの姿は見つけられない。
「彼なら、不機嫌そうな顔をしながら帰ったよ」
リーユンの疑問に答えるフェイは、クスクスと楽しげな笑いを零しながらジュンが立ち去ったらしい方角へ視線を向ける。リーユンも通い慣れた東棟の方角に顔を向け、前年度、中級教室でのクラスメイトであり親友と呼べる相手でもあったジュン=エンシェンの事を考えた。いつか、以前の様に親しく話せる日が来るのだろうか。問題児の代名詞でもある隔離教室、カイリ=ドール教室に編入させられた自分と、押しも押されもせぬ黒魔術師、幻想の魔女メム=シャウレインドッティ教室に編入出来た彼とでは友として釣り合いが取れないと言われれば其れまでだが、それがジュンのわだかまりの原因ではない事くらい、リーユンにだって分かる。リーユンは早く黒い本を開けるようにせがむルゥや、自分の事を心配そうに気遣ってくれるタキとケイへ視線を戻した。ドール教室の生徒は確かに変わっているし、やる事なす事滅茶苦茶ではある。けれど実力も有るし、それを悪用する様な悪い人間ではない。彼らのことを良く知れば、きっとジュンだけでなく学院の皆も彼らの事を好きになってくれるんじゃないだろうか。
リーユンは物思いに耽っていた思考を切り替え、皆に笑みを見せて改めて黒い本に手を掛ける。
「開けるよ」
皆が息を呑む気配がする。リーユンも手元に意識を向け、慎重に黒い本を開いていった。
「…………」
リーユンの手によって厚く丈夫な黒い装丁の表紙が持ち上げられ、閉ざされていた内側のページが露となる。中を見たカイリ=ドールの生徒たちは興味津々だった表情を凍りつかせて一様に押し黙り、動きを止めた。フェイはそんな彼らの様子を一歩離れた場所から観察していたが、必死に堪えていた笑いを抑えきれずにとうとう盛大に噴き出し、大笑いを始めてしまった。
「あっははははは! 白紙のまま本を渡すなんて、カイリらしいよねぇ」
そうなのである。フェイの言葉通り、満を持して開かれた黒い本は全くの白紙だったのだ。リーユン、ルゥ、タキ、ケイの四人はショックから立ち直れていない様子でのろのろとフェイへ視線を送る。
「その本……て言うか、ノートはとても高価な物でね、軽く二百年は風化する事無く保管できるんだ。しっかりとコンディションに気をつけていれば四百年は大丈夫って言う代物さ。カイリの論文用にって僕があげた物なんだけど、白紙のまま君たちに託したって事は、後世に残せる物を書けって言う事なんじゃないかな~」
未だ笑いの気配が治まらないらしいフェイの声は揺れて聞き取りにくいものだったが、四人の耳はしっかりその意味合いを捉え、笑い続けるフェイから手元にある黒い本へ視線を戻し、それから四人顔を見合わせる。
「先生はこれを『読め』って言ったわよね?」
タキの発言を受けて、三人は無言のまましっかりと頷きを見せる。それを確認したタキは難しそうに眉間に皺を寄せ、
「つまり、私たちにカイリ先生と同等かそれ以上の論文を書けっていう事なのかしら」
と、独り言の様に言葉を続ける。それを受けてケイが吐息混じりに答えた。
「論文でなくてもあの人が楽しめる物なら何でも良いのではないでしょうか」
「んなの、先生に直接聞きに行くっきゃねぇだろ」
中身が分かってしまえば何と言う事はない。興味が失せたらしいルゥが投げやりな口調で会話に混ざる。リーユンは「そうだね」と答えながらも、意識は腕に抱えた真っ白なノートに向けられている。
これから先、二百年以上も残せる物。
リーユンはもう各々が好きな事を話し出している三人と、今此処には居ないユエ=ルイェンとカイリ=ドール教師の顔を思い浮かべた。中級教室までのそれなりに忙しく充実してはいたけれども平穏と呼べた日常。そんな生活とは全然違った毎日を送らせてくれている人々。彼らの事を、彼らとの生活で気付けた事を、彼らと触れ合う事で変わっていく自分の事を、書き綴っていくのも良いかも知れない。
リーユンは本を閉じて大切に抱きかかえると、にっこりと微笑んで言った。
「帰ろう、ドール教室に」
~ 黒き書 終 ~